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  • 04/16/2007 (4:18 am)

    魚住昭「官僚とメディア」

    Filed under: government, book, media ::

    著者の作を読むのは「野中広務 差別と権力」に次いで2冊目なのですが、「野中広務」を読んだときに思ったとおり、著者は優秀なジャーナリストなのだな、と実感させる一冊です。検察に食い込んでいった様の描写など、プロとはかくあるべしと感心してしまいます。

    しかしながら、本書の醍醐味は、そこにはありません‐あるいは、優秀なるがゆえに著者の狙いとは違った問題をも図らずも抉り出してしまった、というべきでしょうか。つまりは、優秀である著者であっても逃れられないということから、今のマスメディアの抱える問題の深刻さがあぶりだされてくるのです。

    歴史は繰り返す

    今なおメディアの世界においては、昭和初期の全体主義体制の確立に当たって、被害者意識のみを持つ人も多いように見受けられますが。

    私がまだ共同通信の記者をやめる直前の『沈黙のファイル』の取材で、同僚と一緒に太平洋戦争開戦前夜の参謀本部作戦課の内情を調べたことがある。作戦課は陸軍大学校出身の超エリート参謀二十数人からなる陸軍の中枢機関で、国防方針に基づいて作戦計画を立案し、約四百万人の軍隊を意のままに動かした。

    その作戦課の元参謀たちに「勝ち目がないと分かっていながら、なぜ対米戦争を始めたのか」と聞いて回ったら、ある元参謀がこう答えた。

    「あなた方は我々の戦争責任を言うけれど、新聞の責任はどうなんだ。あのとき新聞の論調は我々が弱腰になることを許さなかった。我々だって新聞にたたかれたくないから強気に出る。すると新聞はさらに強気になって戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」

    この言葉は私にとってかなり衝撃的だった。というのも、私はそれまで新聞は軍部の圧力に屈して戦争に協力させられたのだと思い込んでいたからだ。それが事実でなかったとしたら、私たちが教えられた日本のジャーナリズム史は虚構だったということになる。

    p126

    参謀に聞く前に気づけよ、という気がしないといえば嘘になりますが(笑。ついでに言えば、参謀本部作戦課が「約四百万人の軍隊を意のままに動かした」とは言いがたいことは、取材を通じて理解してほしかったような)、過ちては則ち改むるに憚ることなかれ、戦前を鑑として著者は自らの職歴を振り返ります。

    佐々木によれば、新聞の親軍的記事はすべてが強制ないし暗黙の強制によるものではなかった。誘導の効果はいくらかあったかもしれないが、もともと親軍的な記者、軍にシンパシーを抱く記者、誘導を受け容れる素地のある記者はいくらもいた。それは軍に批判的な記者や記事が存在したことと同様にまぎれもない事実だった。

    彼ら新聞記者たちは政官界の随所に濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞い、時としては政治ブローカーのごとき役割をも果たしていたという。

    まったくその通りだったろうと私はかなりの確信を持って言うことができる。なぜかというと、戦後の記者である私自身が検察庁に「濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞」っていたからだ。

    たしかに政官財界の腐敗を摘発する検察と、日本を破局に陥れた旧陸軍は違う。しかし、それは戦後の我々が陸軍を罪悪視しているだけであって、戦前・戦中の「親軍的な記者」たちにとって陸軍は今の地検特捜部のような「正義の味方」だったのだろう。

    pp127,128

    これを読めば、きちんと歴史の教訓を活かし、今後は過ちを繰り返さないのだろうな、と考えるのが自然でしょう。

    そして、昨年末に明るみに出た裁判員制度タウンミーティングの問題は、私の問題意識があながち見当外れではなかったことを示してくれた。この数年、マスコミの論調や世論がいつのまにか変わり、一昔前だったら反発を受けたに違いない国策(たとえばイラク派兵や教育基本法の改正、そしておそらくは近い将来に実現するであろう憲法改正)がすんなりと受け入れられる現象が相次いでいるが、その裏には政府や最高裁とメディアが一体となって仕掛けたプロジェクトがあったことが次第に浮かび上がってきたのである。

    p210

    結局はわかっていないんですねぇ。自らがなしたことを含め検察報道について筆者が客観的に分析可能なのも、既に筆者が検察報道に対して批判的な立場(本書に何度となく出てきます)にあるからに過ぎなかったのだとwebmasterは思わざるを得ません。軍部や検察が陰謀を企んだからといって世論を好きなように動かせるわけではないと認識しながら、ではなぜ「政府や最高裁とメディアが一体」となればそれが可能と考えるのか、単なるご都合主義を超えるものではないでしょう。

    「一昔前だったら反発を受けたに違いない国策」が「すんなりと受け入れられる現象が相次いでいる」のは、そのような陰謀論の帰結ではなく、世論が変わってきているからに他なりません。大衆の側にあると自らを位置づけておきながら、大衆から遊離している現実を直視するのは、確かに辛いことではあるでしょう。しかし、そこから逃げていては、いつまでたっても陰謀論の虜でありつづけるだろうとwebmasterは思います。ただ、対象が異なるだけで。

    報道に貴賤なし

    先の話と半ば重なりますが、仮に著者の認識が、軍部や検察だけなら世論を動かせないけれども、それにメディアが加われば動かせるというものですと、必然的にメディアの特権的能力を認めることになります。

    と同時に、これは特に朝日新聞に顕著に見られることだが、自分たちは新聞人として特権的な地位を与えられているがゆえに普通の人間よりも高い倫理性を求められている、だから疑惑を招いたり、批判を浴びたりするような行為はしてはいけないのだという、いわばノーブレス・オブリージュ論とセットで語られることが多い。

    (略)

    そもそも報道とはそれほど神聖な仕事ではなく、情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない。そして、その商品の原料である一次情報の約七割(これはあくまでも私の実体験に基づく推測だが)は、官庁もしくはそれに準じる機構からただで提供されるものだ。そういう意味で報道に携わることを恥とするならともかく神聖視したり、特権視したりするいわれはまったくない。

    p172

    webmasterは、「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」との指摘こそ卓見だと思うのですが、どうやら筆者にとってはそうではないようです。多くの場合において官庁等からの情報を右から左に流すだけだから「売る仕事にすぎ」ず、「恥とす」べきものだと。逆に言えば、独自取材に基づき巨悪とやらを告発するような報道は、それを「神聖視」「特権視」と呼ぶかどうかはともかく、社会的に意義深いものだと考えているのでしょう。

    しかし、そうした報道を含め、すべての報道は「情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎ」ず、売れない商品は市場から退出せざるを得ません。先の例で言えば、「一昔前」の「反発」は、既にマスを対象とするものとしてはその商品価値を失ってしまっているからこそ、少数派に転落しているわけです。筆者の政治的立場には批判的なwebmasterではありますが、少なくとも筆者が現状を憂うのであれば、もう少し「商品」の売り方を考えた方がいいのでは、と老婆心ながら。

    #右から左に流す仕事を神聖視・特権視しているメディア関係者よりはましであることは否定しませんが。

    さらに付け加えるなら、現在のメディアに対して広く見られる不信感は、そうしたメディア側の姿勢がどうか以前に、メディア自身がエスタブリッシュメントの側にあると大衆が見ている(実際にそうかどうかは二の次)ことに根源があるわけで、つまりは官僚不信や政党不信と同種のエスタブリッシュメント全般に対するものの一部に過ぎません。官僚や政党は、それに有効に対処しているかどうかはさておき、少なくとも自覚はしているとは思いますが、メディアにその自覚はあるのでしょうか?

    報道の生産性

    これまた続きのような話ではありますが。

    私は読売を取材してはじめて、共同通信で起きた出来事の意味をはっきり知ることができた。もちろん共同には渡邉氏のような怪物はいない。しかし、ミニナベツネともいうべき上司なら掃いて捨てるほどいた。彼らはジャーナリズムの精神とは無縁な存在だった。彼らの害毒は一線記者たちの心を蝕み、職場の空気を荒廃させていた。

    そんな幹部連中に限って「訂正を出すな」「速報が遅い」「経費を節約しろ」と口やかましく部下たちを叱り、管理統制を強化して記者たちを萎縮させていた。おかげで社内の自由な空気は失われ、記者たちが相互に分断されて、組織全体がもの言えば唇寒しの空気に覆われるようになった。

    しかし、組織の変質を許してしまったのは他ならぬ私たちだった。私自身が上司らの理不尽な行為に遭遇したとき、彼らの責任を徹底的に追及できず、逆に泣き寝入りしてしまうことが多かった。たぶん同じようなことが他のメディアでもこの半世紀の間に何百回となく繰り返されただろう。

    そのたびに本来のジャーナリズム精神(それはとりもなおさず戦後民主主義の理念でもある)が少しずつ失われ、職場の荒廃が進み、権力の暴走をチェックする機能が衰退していったのだと思う。

    pp53,54

    辰濃の文章を読みながら、私は自分が共同通信に入社した75年当時のことを思い出した。あのころの共同通信には自由と活気があった。造反有理。部長やデスクと口論するのは当たり前だった。

    (略)

    ところが、それから20年後、私が退社するころには共同通信の空気は一変していた。もの言えば唇寒し。記者たちは一人ひとりが孤立させられて何も主張できなくなり、言いようのない虚無感と倦怠感と疲労感が職場全体を覆っていた。入社当時とはまったく別の会社になってしまったなというのが私の実感だった。

    なぜそうなったのか。自分のふがいなさを抜きにして言わせてもらえば、20年の間に2倍も3倍も仕事が忙しくなり、記者たちには考える余裕もなくなった。それと並行して「他社に抜かれるな」「訂正を出すな」「経費節減しろ」といった指令がのべつ幕なしに現場に降りてくるようになった。結局、労働強化と管理強化が組織の活力を失わせ、記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力まで奪い去ってしまったのである。

    pp174,175

    このような感慨も、筆者が本当に「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」と思っているのであれば出てくるはずもありません。マスを相手に競争市場で事業を営んでいる企業であれば、欠陥品を減らす(=訂正を出すな)、ライバル社の製品に対抗する(=他社に抜かれるな)、工期を短縮する(=速報が遅い)、経費を節減するなんてことは、当たり前のように行っていることだからです(霞が関の住人に言われたくはないでしょうけれども)。

    ここでの筆者の嘆きは、端的にはラッダイト運動にも似た、資本の論理に対して古き良き牧歌的な職場環境を追憶するものに過ぎません。いくら「情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事」といったところで、「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」などという言葉が出てくるようでは、その意味するところをわかっておらず、芸術家か何かと自らを勘違いしているのでは、と疑われて当然でしょう。

    客観的に見れば、かつての言論市場は不完全競争で、大手マスメディアはレントを享受していたがゆえに、生産性を低める要因である「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」といった無駄を抱え込んでいられたのだということになります。情報流通のさまざまな流れができてくる中で、そうしたレントが失われ、他産業なみに効率化が進行していった現場が、筆者が上記引用で描いた状況なのです。

    冷たい言い方になりますが、2ちゃんねるなどでよく言われる、余計な解説はいらない、一次ソースをなるべく歪みなく知らしめることがマスメディアの役目だ、という主張は、まったくもってそのとおりだということになります。「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」なるものに本当に価値があったのであれば、先にそれらを失った共同通信はとっくに倒産し、あるいは後になるまでそれを持ち続けた朝日新聞がもっと部数を伸ばしていてしかるべきなのですが、現実はそうなってはいません。

    それが、市場が出した答えなのです。

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    57 Responses to “魚住昭「官僚とメディア」”

    1. デジャヴ Says:

      以前コメントした者です。

      生産性が少々悪かろうと、付加価値が高いものであれば売れて経済的に帳尻があう余地はあるはずです(世の中の飲食店がすべてファーストフードになってしまうわけではないように)。

      今の世の中が「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」を無反省に蔑ろにしているわけではなく、対価に値しない質のジャーナリズム精神や感性・想像力しか発揮されていないということにも原因があるのではないでしょうか。もちろんそこまで含めての市場の判断というのがbewaadさんのご指摘なのだと思いますけど。

      「一次ソースをなるべく歪みなく知らしめることがマスメディアの役目だ、という主張」が大勢を占めるに至ったのは、マスメディアに対するニーズの変化と(外的要因)、プロの提供する付加価値の低さに素人がそっぽを向いたこと(内的要因)と、二つ原因があるのではないかと思うのですがどうでしょうか。
      もちろん内的要因と言ってみても、プロの質が下がったのではなく素人の質が上がったためと見れば、外的要因なのかもしれませんが。

    2. e-takeuchi Says:

      市場が出した答えが常に正しいとは限りません。不完全情報、不完全競争、不確実性といったなかでは、むしろ、間違っていることのほうが多いのではないですか。

    3. 「なかぎょう」生まれ Says:

       いずれにしろ、「間違っていたと思う事は間違っていた」と発言することが大事だと思います。
       これをしないと誰も信じてくれなくなるでしょう。

    4. PK Says:

      新聞のやるべきことの一つは、読者が得られない遠隔地の事件全体の「再話」性を高めることです。
      最初からフィルターを掛けて、情報量を絞ってしまってはどうしようもありません。
      再話性が高められる情報を新聞が提供できれば、それを読者や専門家が分析する質が上がり、形成されるインテリジェンスの質も上がります。
      日本の新聞は、特に朝日ですが、編集による情報の偏りが大きすぎます

    5. rijin Says:

       新聞やテレビのオーディエンスはどんな人々なのでしょうか。

       全体として新聞やテレビが地盤沈下を起こしている中では、読売が一人勝ちしているというような現象には、長期的に見てさほどの価値はないように思います。

       これまでわかったような単純化をした報道が歓迎されてきたのは事実かも知れませんが、昨今、難しいことをわかりやすく解説することこそが求められているのではないでしょうか。

       当然、わかったようなことを書かれれば、当事者や専門家はうんざりします。そんないい加減なことをされるぐらいなら、報道の仕事は一次情報を右から左ということで十分という断定も出てきて当然です。

       しかしながら、ほんとうの専門家が、他者に読まれることを意識して書いた新書やブログが数多いことを見ても分かるように、一次情報だけで自分で判断できることは幅が狭く、専門家による精確で理解しやすく開設もまた同じように必要とされているのではないでしょうか。

       この点については、新聞やテレビの対応はお粗末としか言いようがなく、これが新聞やテレビが本質的に抱えている問題であるとしたら、予想できるのは暗い未来ばかりということになるように思います。

    6. 西麻布夢彦 Says:

      > そのような陰謀論の帰結ではなく、世論が変わってきているからに他なりません。

      問題は、なぜ世論が変わったのかですね。
      「無知蒙昧で、官僚という第一級の情報源に触れることのできない大衆が、右よりになったのは、マスメディアの裏切り者が権力と結託して大衆操作を行ったからだ!そうに違いない!」というのが、魚住さんの主張なのではないでしょうか?(知らんけど)

      > 、「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」との指摘こそ卓見だと思うのですが、(中略)「恥とす」べきものだと。

      な!
      社会の木鐸様をなんと心得おる!!(きいいぃぃぃ)
      それに、金儲け等という「資本の論理」を振りかざすとは!

      と、魚住さんはいいたかろうと思います!(`・ω・´)つ

      ま、あえていうなら、職業というのは、単純に「金儲け」というか「食べるため」だけにあるのではなくて、社会における自己実現という意味もあるので、「仕事場では生産マシーンに徹して、お家に帰ったら趣味でも楽しんでね」という話では、従業員のモチベーションが上がらないのですよ。

      「君たちは、選ばれたるジャーナリストだ!知識人だ!」とプライドを慰撫してあげないと、アノミーになって、幼女のビデオを集め出すので困るのです。
      まあ、純粋な資本主義なら「結構な趣味ですね。是非、高いビデオ機材を買ってください」という話になるのでしょうけど。
      (ああ、ほんと資本主義って腐っているよ)

      ところで
      >PK様
      > 新聞のやるべきことの一つは、読者が得られない遠隔地の事件全体の「再話」性を高めることです。

      まあ、新聞は、そもそも発行人が大衆を「啓蒙」する道具であって、事実の報道はオマケですから……
      (百科事典とか歴史書も同じ)

    7. 名もなき愚人 Says:

      マスメディアというものが、インフォメーションを右から左に流しそれによって利益を得る「情報の金融業者」なのか、インフォメーションを加工してインテリジェンスを製造する「情報の宝飾店」ないしは「大衆の為の諜報機関」なのか。
      現状の仕事の内容としては前者であるのに(無論、金融業者は社会に有益な存在ですが)、後者のごとく自分の仕事を作品ないしは芸術の用に、大衆にたいして扱うよう求める姿勢が問題なんじゃないか。そして当事者の彼らにそんな意識がないことが端からみるとグロテスクな構図を作っているのではないか…
      そんなことを思ってしまいました。

    8. 通りすがり Says:

       いつも楽しく拝見しています。大変意義深いエントリーだと感じたため、元記者の立場からコメントします。

      >参謀に聞く前に気づけよ、という気がしないといえば嘘になりますが(笑。

      「優秀なジャーナリストである魚住昭」でさえ、それに気づかないのですから、ほかは推して知るべしといった状況でしょう。私はまだ解をもっていませんが、マスコミのバッシングによって霞ヶ関が「萎縮」してしまうのは生産的な行為ではないはずです。

      >「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」

       それらの結果を「スクープ」と言い換えられるのであれば、単純に「無駄」とは呼べないのではないでしょうか。各地の記者の話によれば、読売新聞は「スクープの数(質にあらず)」ではおそらく日本一です。そして、官公庁をはじめ「スクープ」を確認するために新聞を購読している人は相当数いるはずですから、販売にも影響があるように思えます。
       関係者の一人としてあまりそう思いたくありませんが、それが記者の多寡の結果だとすれば、ジャーナリズムは(さえも?)経済合理性のもとにあるのでしょう。

    9. bn2islander Says:

      マスコミに関しては、以下のような指摘が重要なのだと思っています。

      ———-
      このような「ルール感覚の欠如」が、日本のマスコミによって助長されているというのが、私の問題意識です。具体的には、既に述べた、ー由である他人の「内心」を悪と決めつけた憲法違反の主張、◆屮襦璽覦稟燭任覆す堝阿鬚垢襪海函廚筺屮襦璽襪乃遡害修気譴討い覆す堝阿鬚靴覆い海函廚魄と決めつける憲法違反の主張、などに焦点を絞って今後論評していきます。
      http://www.genron-npo.net/opinion/okamoto/001431.html
      ———

      基本的には、マスコミ批判はこの点に収斂されるように思うのです。善悪の判断を行うのであれば法律に基づいて行うべきで、マスコミが独自の判断に基づいて行うべきではなく、「世論」を背景に正当化するなどもっての他かなと。

      反面、この方は以下のように書いているのも、また面白いところではあります。
      ———-
       例えば、いわゆる「再販制度」に関する報道について「新聞報道は、新聞業界の利害に基づいた記事を書いている。ケシカラン」という批判がありますが、私はそうは思いませ。新聞社の「幸福追求権」を否定する方が憲法違反であり、すべての人々が早く「新聞社も、他のすべての会社・個人等と同様に、その『欲求』の方向に動く権利があり、また、そのようにしか動かない」ということを知るべきです。
      http://www.genron-npo.net/opinion/okamoto/001430.html
      ———-

    10. wassenaar Says:

      今回もおもしろい読みものでした。私は朝日を「ちょうにち」とよんでいる者ですが、彼らは情報を常に右から左に流すのみではなく、左はより左へ、中央も左に流し、国民を左に洗脳しようとしている「陰謀」は存在するように思います。
      ・・ある機関で広報を担当していました・・いつも尊大な記者さまへの対応にはホントに悩まされました・・当時お仕えしていたボスは記者レクを丁寧にする方でしたから・・・しかし・・・情報提供者側が丁寧・・情報入手する側が尊大って今でも納得できない思い出です

    11. ブヒブヒ Says:

      むかし作家の筒井康隆が、言葉狩りに反発して断筆宣言した事があったよね。
      表現の制約は思考の制約に直結し、新聞に限らずメディアの質が低下して言った様な気がするなあ。
      特に一流ぶった所ほど酷い。

      ところが、ネットはそんな制約を軽く無視するからね。
      強いちゃ強いわな。

      >優秀なジャーナリストである魚住昭でさえ、それに気づかないのですから

      これは、周囲から優秀なジャーナリストなんて言われて持ち上げられてるから“余計にそれに気付かない”の方が正確な気がするな。

    12. polly Says:

      本ブログの読者なら誰でも知っているであろう、その業界では「業界の良心」とされている方が、自分のblogで「自分を省みて他人を攻撃するのを躊躇するような人間は、マスメディアには向いていない」と書いているのを見て、はぁぁぁぁ、とため息をついたことがあります(個人攻撃が目的ではないので名前は書きません)。
      そう割り切れる方でないと、良心の呵責に耐えかねて離脱してしまうのだろうか?、、、そうした自己正当化能力がマスメディアで名をなす人々の条件だとしたら、なかなか怖いものがある、と思ったものです。
      私はそれ以来、マスコミで長く生き延びている方には、突き抜けてしまったごく一部の化け物クラスを除き、特殊なバイアスがかかっているのだと諦めるようになりました。

      p.s. wassenaar様
      市場経済において、買い手は売り手より強い。通常の力関係ならば。と考えればそれほど腹も立たないかと。

    13. 404 Blog Not Found Says:

      書評 - 官僚とメディア…

      官僚とメディア
      魚住昭

      官僚批判本も、メディア批判本も腐るほどある今、もうお腹いっぱいの感があるけど、本書だけは別腹を用意するだけの価値がある。
      (more…)

    14. webmaster Says:

      >デジャヴさん
      メディアの特性による違いというものもあるのでしょう。共同通信に幻滅した筆者が選んだ途が週刊誌や単行本の世界で、つまりはそうした世界では「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」が相対的に残されている、言い換えればそうした要素が収益につながりやすい産業構造になっているのだと思います。新聞業界におけるそれらのアウトプットの質が下がってきているのかどうかは私にはよくわかりませんが・・・。

    15. webmaster Says:

      >「なかぎょう」生まれさん
      その点、最近ではテレビ業界がもっとも深刻な状況にあるようですが、それこそ新規参入がないため、なかなか淘汰が及ばないようです。

    16. webmaster Says:

      >PKさん
      無味乾燥な暗記物はかえって覚えづらい、暗記するなら何らかの意味を持たせることだ、なんてことが受験業界では言われますが、解説の付加による物語化は、再話性を向上させる効果があったからこそ、これまで普及してきたのだと思います。それが最近になって環境が変わりつつある、ということなのでしょう。

    17. webmaster Says:

      >rijinさん
      そのあたり、メディアの物理的特性というものが思いのほか影響を与えているような気がします。心理学者と医学者(あるいは生物学者)のコラボレイションから、面白い研究が可能なのではないでしょうか。

    18. webmaster Says:

      >西麻布夢彦さん
      おっしゃるとおりだとは思いますが、他の業種においても同じ事で、それらにおいてはトップ層は自覚的だと思うのです。マスメディアにおいてはトップ層においても無自覚だというのは、他にはない特徴だということでしょう。あるいは、著者が嫌う現在の幹部層は自覚的だということで、そちらの証言があるとより奥深くあの業界のことがわかってくるということになるのかもしれません。

    19. webmaster Says:

      >名もなき愚人さん
      西麻布さんへのお応えにも重なりますが、著者が批判する現在の幹部はそのあたりをきちんをわきまえているのかな、という気がします。そうした人々は著者のような形でその主張をあまり明らかにはしないようですが、その本音を引っ張り出すと、さらに面白い観点が掘り起こせる気がします。

    20. webmaster Says:

      >通りすがりさん
      当事者からのコメント、大変ありがたいです。

      ジャーナリズム精神等とスクープとの関係、読売新聞において他社よりもジャーナリズム精神等が色濃く残っているということでなければ、それら両者には因果関係がないということになります。読売新聞の内部の雰囲気を知るものではありませんが、渡邉恒雄主筆への怪物との著者の評を受け入れるならば、(著者の言う)ジャーナリズム精神等がそれほど他社よりも濃いとも思えず、となると別の要素によって読売新聞はスクープを掘り起こしているということになるのではないでしょうか。

    21. webmaster Says:

      >bn2islanderさん
      その岡本さんのご主張にも、素直には頷けない点があります。憲法の私人間適用には議論が相当程度ありますし、仮に適用があるとしても、直接適用ではなく何らかの具体的法制化が必要だというのはほぼ一致した見解です。したがって、企業の何らかの行動を批判するメディアが憲法違反だという岡本さんご自身、憲法違反ならざるものを憲法違反としているわけで。

    22. webmaster Says:

      >wassenaarさん
      pollyさんのコメントとも重なりますが、それを喜んで読む読者が少なからずいるからこそのそのような論調なのだと思います。

      情報提供者の方が下手に出るのは、メディア(媒体)に価値があるからこそでしょう。現状のマスメディアがその価値を失えば、おのずと地位は逆転するでしょうし、価値を維持するなら、このままでしょうねぇ。

    23. webmaster Says:

      >ブヒブヒさん
      表現の制約が思考を制約するなら、漢詩や俳句の興隆はなかったでしょうから、表現を制約する動機の方が問題なのであって、制約そのものはニュートラルなのでしょう。

    24. webmaster Says:

      >pollyさん
      どこかで読んだ話ですが、特殊部隊で拷問をするような人間を育てるには、ひたすら残虐な映像を見させるのだそうです。最初はみな嘔吐してばかりでも、そのうちに慣れてしまうのが通例なのだそうで。人間、どんなことでもたいていは慣れることができるのだな、と思いました。

    25. ブヒブヒ Says:

      >表現の制約が思考を制約するなら、漢詩や俳句の興隆はなかったでしょうから、表現を制約する動機の方が問題なのであって、制約そのものはニュートラルなのでしょう。

      表現形式の制約と表現目的(表現の意味するもの)の制約をゴッチャにしてませんか?
      オイラの書き方が良くなかったのかも知れないけど・・・

    26. rijin Says:

      > そのあたり、メディアの物理的特性というものが思いのほか影響を与えているような気がします。

       紙面(字数)と放送時間(1チャンネル1日24時間しかない)の制約の厳しさに比べれば、週刊誌や雑誌はより緩やかだし、新書はさらに、ウエブは文字にとってはもはや無限空間に等しい…は大きいように思います。

       そこから先には、やはりS/N比の問題があるのではないでしょうか。ニッチな方がずっと有利ですね。

       ただ、朝市やデパートの楽しさというのもあります。普段は興味があるどころか存在すら知らないモノに気づかせてくれる、…つまりは効果的にノイズを供給してくれるという点にこそ、今後の総合的なメディアのヴァリューが生じてくるのかも知れません。

       積極的に紙面(字数)と放送時間の制約から逃れていくべきヴィジョンがマスメディア(の中の人)には求められているのではないでしょうか。

    27. ゲスト Says:

      個人的には軍に批判的だの肯定的だのといったキシャさんの「立場」なんてもんをよりどころにするのがバカだと思うんですけどね。彼ら勝ち馬に乗ることしか考えてないでしょ。当時政治家なり学者なりで軍国的な方針に逆らう人がいたら、治安警察にとっつかまるが早いかキシャさんにボコボコにされてたんじゃないですか。

      戦後になればまたいけしゃあしゃあと「我々は弾圧されてやっていたんだ」とか言い出すわけですけど、自分で好き好んでやってた部分が殆どだと思いますよ。

    28. 鍋象 Says:

      面白い論点ありがとうございます。

      まず、マスメディアは情報の発信者側です。原材料を情報ソースから仕入れて加工して販売しています。視聴者サイドから見ても、情報ソース側から見ても、マスメディアが取捨選択した情報しか流れないという点で、関所の役目をしています。ゆえに、マスメディアは尊大になりうるという事だと思います。

      >ではなぜ「政府や最高裁とメディアが一体」となればそれが可能と考えるのか、

      政府と最高裁を入れたのは、まだ良心がある方で、大方の関係者の方は、「メディアは情報操作が可能である」と自覚しており、更に「情報操作をして無知蒙昧なる大衆が誤った道に進まないように啓蒙するのが仕事だ」と考えている思います。実際、そのような意思が透けて見える事が多々あります。昨日の東国原知事の記者会見でのごたごた(やらせっぽかったけど)で、メディアの存在意義を主張する側は「自分たちだけが」と言いたげでした。悪用を考える人も出てくるわけで、その中には「あるある」の制作者のblogのようにうっかり本音を言ってしまう人もいるわけです。

      視聴者側に飽きられた理由は、
      1.マスメディアの反応パターンの理解が進んで飽きた
      ネット論壇で各メディアの論調が比較蓄積されて一般人にもわかりやすくなった点。更に一歩進んで、「天声人語風メーカー(http://taisa.tm.land.to/tensei.html)」のように内容が想定の範囲内である事が繰り返し確認された事で、本人たちが知らない場所で知らないうちにネタになる事で飽きられてしまった。
      2.ネットで一次ソースを簡単に入手可能な記事が増えた
      加工度合いが一目瞭然になった事で、「自分ならこういう解釈はしない」という意見を持つようになった点と、それをネットという場所でメディアという関所を回避して披露できるようになった。これが一種のオンブズマンとして機能している。
      という2点があるのかなと思います。個人的には、反応パターンが先に読めてしまう事が最大の理由かと思っています。このまま行くと水戸黄門の印籠のようにネタとしてしか存在しえなくなると。

      最後に、各メディアに対しては、二枚舌は止めろと。自分の事と取材の事のダブルスタンダードが激しすぎるのは皆が感じていると思います。
      「マスコミの公共性」というのは、視聴者たる国民が自分たちのために法・規制を通じてメディアに与えているものであって、天与のものではないはずです。権利を与えられるには義務を果たしていなければならないわけで、「国民が知りたい情報を正確に伝える」が建前になり「マスコミが選択した情報のみ都合よく伝える姿勢」が露になってきたことから、その義務を果たしているとは思えないと判断され、ダメ出しをくらっているというのが現状かなと思います。

      テレビ業界になりますが、昨年JCでフジの黒岩キャスターを呼んでセミナーをやったんですが、その際、「番組がくだらないというけど、視聴者がそれを求めていて、実際に視聴率が高いんだから仕方が無い」という事を言われてました。彼らも悩んでいるのか、それともそれを是認しているのか。視聴者側の問題というけど・・・
      飲食店にたとえると、マスを志向したらチェーン店にならざるを得ず。チェーンの飲食店は飽きも早く、実は平均寿命は5年程度で衰退が始まって看板架け替えしないと潰れるのが実態なわけです。一方、客の側は安価にそこそこの質のモノを食えて最初は喜ぶんだけど、料理店の評価としてはやっぱり高級店にはかなわないのでどこかに不満を持ち続けると。そんな感じなのかなぁと思ったりもします。

      まあ、工場のラインの監督者(編集員)や営業課長(キャスター)に、自分の業界の構造問題、会社の経営方針の批判を公の場でしろといっても無理でしょうけど。

    29. koge Says:

      「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」というのが現在どうなっているのか、他国の同業者と比べてみてほしいものですね。今までの日本みたいに、識字率がほぼ100%で新聞(というより文章メディア)が真に「マス」な社会なんてもうないんですから。

    30. T.K Says:

      現代の新聞社にとって「お客様」は読者なんですかね?
      メインは広告主のような気がするのですが・・・
      bewaadさんの解には違和感を覚えます

    31. webmaster Says:

      >ブヒブヒさん
      こちらの漢詩等の例も悪かったかもしれません。AVの性器描写禁止が生み出した多様な映像表現、といった例の方がよかったのかも(笑)。

      いずれにしても、私が動機といい、ブヒブヒさんが目的とおっしゃっているのは、同じことの別の言い方なのかな、と思いますが、いかがでしょうか。

    32. webmaster Says:

      >rijinさん
      S/N比でNが多くなると見向きされなくなりますから、バランスが難しいのかもしれません。Googleの強みもそれなりの検索結果を出す=Nの低減効果ですし。

    33. webmaster Says:

      >ゲストさん
      その両者にとって都合がよかったのが、軍の圧力で報道が歪んだ、という認識だったのでしょう。

    34. webmaster Says:

      >鍋象さん
      概ねおっしゃるとおりかなと思いつつも、ネットの話以外は昔からそうは変わっていないと思われ、ネットが(現時点で)そこまでのインパクトをもたらしているのかどうか、慎重に見た方がいいような気がしないでもありません。

    35. webmaster Says:

      >kogeさん
      確かに海外の「クオリティペイパー」は、日本で言えば新聞よりも雑誌・単行本の世界に近いような気もします。面白い結果がでてくるかもしれませんね。

    36. webmaster Says:

      >T.Kさん
      広告主は読者なり視聴者なりの数に対してお金を払うのですから、その違いは、本エントリの文脈上は、何ら問題ではないと認識しています。

    37. rijin Says:

      > S/N比でNが多くなると見向きされなくなりますから、バランスが難しいのかもしれません。

       そう、バランスは難しいですね。

       そういう意味では、新聞の見出しというのはよくできています。あくまでも整理部の判断とは言いながら、記事内容に興味の持てない場合は最低限のノイズとして、興味の持てる場合は記事へのシグナルとして機能しています。

       ポイントの大小によって、シグナルとノイズのいずれもが大きくなりますが、S/N比そのものは変わりません。

       Googleでは検索順位がそれに相当しているのでしょうが、ページを繰っていくという作業は、これに比べればやや劣るのだろうと思います。

       この辺り、紙面作成のノウハウではなく発想を、もっと活かしていく必要があるように思います。

    38. ブヒブヒ Says:

      「表現の制約」を「文脈」から切り離して、意識的に反論しておられる様に感じてしまうのですが・・・

      言葉の遊びになっちまうのも嫌なんで、最初に戻ってオイラの意図した所を書きますね。

      筒井を例に出したけど、要は、主に「差別」などを口実に「マスコミの自主規制」」(差別的表現など)に繋がって行った「表現規制」の影響を指摘したんだ。

      確かに、性のような本能に根ざしたものは、規制をエネルギーに変えて新たな表現形態を生み出すのかも知れないけど、一般の問題はそうは言えないと思う。

      表現形式の規制が表現目的の自粛に繋がったり、表現する事自体が面倒になったりして、その種の問題に対する社会的認識が矮小化されて行ったんじゃないの?

      そして、これら一連の事態は、ある特定の社会勢力に利用されて来たんだと思う。

      ネットの普及と共に、問題の本質が徐々に認知されて来た在日朝鮮人・同和・ヤクザの問題などは、そのいい例だと思いますよ。

    39. muse-A-muse 2nd Says:

      ジャーナリズムとはなにか?(1):世論と世論を形成する…

      bewaadさんのところのジャーナリズム批評が見事だったのでここをトリガーにジャーナリズムについて記しておきたくなった。当該エントリとしてはこちら bewaad (more…)

    40. blog.wytm.net Says:

      世論とメディア…

      (more…)

    41. webmaster Says:

      >rijinさん
      よくよく考えてみると、客観的な話としてはそうなりますが、読み手にとってどうかを考えると、おそらく過半の読者にとってはテレビ欄などごくごく限られた紙面のみを読み、その他は最初っから読まないのでしょうから、S/N比は極めて高いのかな、という気がしてきました。つまりは、「ページを繰っていくという作業」をしている人間がどの程度いるのか、という話ですが。

    42. webmaster Says:

      >ブヒブヒさん
      「表現形式の規制が表現目的の自粛に繋がったり、表現する事自体が面倒になったりして」の、つながる・面倒になるプロセスが問題なのであって、表現形式の規制そのものはニュートラルだと申し上げているわけですが。言語学的にいえば、シニフィアンがどうであれ、現にある姿に必然性はないわけですから、それ自体がどう置き換えられようとそれ自体には意味はなく、それをシニフィエの表出の抑制につなげる態度(以前のコメントでの言い方でいえば動機)にこそ問題があるのだと認識しています。

    43. デジャヴ Says:

      > そうした要素が収益につながりやすい産業構造になっているのだと思います。

      新聞の売り手・買い手関係は、雑誌や本のそれほど直接的ではないというか、買い続ける慣性(惰性)の影響が少なからずありますね。

      ところでpollyさんの
      >市場経済において、買い手は売り手より強い。通常の力関係ならば。と考えればそれほど腹も立たないかと。

      アパートに押し売りまがいの人がきて、売り手が買い手より強いこともあるのだと、拡販員の多数のおじさん方が社会の現実を教えてくれたことに対する感謝の気持ちを最近忘れていましたw

    44. ブヒブヒ Says:

      まず、前回コメントの「表現形式」を「表現」に訂正します。

      >「表現形式の規制が表現目的の自粛に繋がったり、表現する事自体が面倒になったりして」の、つながる・面倒になるプロセスが問題なのであって、表現形式の規制そのものはニュートラルだと申し上げているわけですが。言語学的にいえば、シニフィアンがどうであれ・・・

      段々難解な話になって来た様な・・・

      元々は、「表現規制がメディアの質の低下に繋がったのではないか?」と言う、ごく単純な問題提起だったのですが、、、
      そして、その具体的内容を前回のコメントで書きました。

      >それをシニフィエの表出の抑制につなげる態度(以前のコメントでの言い方でいえば動機)にこそ問題があるのだと認識しています。

      規制の「動機」は重要な問題だと思いますよ。
      オイラのコメントの主旨からは少し外れますが。

      この件は、この辺で終わらせて頂きたいと思います。

    45. rijin Says:

       確かに大半の読者はラテ欄(…てか、ラジオ欄なんて、いまでは誰も…)しか読んでいないのかも知れません。

       となると、それこそテレビガイド1ヵ月分とと新聞月額とどっちがお得か…という悲しい問題になってしまいますね。

       あるいは新聞紙って、いろいろ使えて便利だよ、とか。

       涙香や外骨の時代のタブロイド新聞は、発行数万部で大成功だったそうです。人口や識字率が多少は違うと言いながら、本来の新聞の経営規模は、実は今でもそれぐらいに過ぎないのかも知れません。

       ラジオ登場前、大正時代末の新聞総発行部数は700万部弱、人口9.3人に対し1部であったそうですから、現在であれば、総部数1500万部相当、公称総発行部数5000万部あまりという新聞協会の発表を考えると、3倍以上のバブル状態と言えるかも知れません。

       そうすると、3500万人はラテ欄と新聞紙を買っているに等しいことになり、S/N比はやっぱりあまり高くないということになりそうです。

       新聞って、思いの外役に立っていないのでしょうか。

    46. webmaster Says:

      >デジャヴさん
      それは脅迫の力関係であって、売り手買い手とは無関係ぢゃないですか(笑)。

    47. webmaster Says:

      >ブヒブヒさん
      うまくご説を受け止められなかったようで、申し訳ないです。

    48. webmaster Says:

      >rijinさん
      あと、折り込み広告目当てだという話もありますよね。

      あれこれ考えますと、R30で書かれていた、
      >反面このキャンペーンは、はからずも「新聞の価値はその中身ではなく“情報を半日以内に物理的な手段で全国にばらまき、人々が受容する”という、その媒体の形状」にあることも明らかにしたように思える。
      http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2006/10/sbgougai_8220...
      という指摘を、メディア論としてはもっと深めるべきなのかもしれません。販売店での各紙相乗りなんていうのは、こうした目線で見るならば、新聞業界が一体となって、自らの他メディアに対する優位性の源泉となるネットワークを共通資本として維持している、なんて解釈もできそうですし。

      なお、部数については、識字率や購買力、相対価格の変化を考えれば、あながち実体がないわけではないかもしれませんね。

    49. koge Says:

      >新聞って、思いの外役に立っていないのでしょうか
      役に立ってると思いますよ。業界紙、そしてその集合体としての日本経済新聞は。
      それ以外の新聞は…「社会」のことを知りたいと思う好奇心(悪く言えば野次馬根性)を持った人にとっては、価値ある「娯楽」かと。ただ、これまではマスメディアが「娯楽」をほぼ独占していたのが、現在ではパチンコとかビデオ・ゲームとか他の娯楽に新聞(TVの報道・ワイドショーやネット上のニュース含む)はどんどん客を取られてしまっているわけで。
      もっとも、よその国では10人に1人は字が読めないとか、TVどころかラジオさえぜいたく品なんて社会もいわゆる「先進国」の中にだってそれなりにあるわけで、江戸時代から続く日本の経済格差以上に情報格差のない社会が終り、国際標準に近づいてきているのだと考えれば…

    50. 鍋象 Says:

      新聞は紙面が厚くなればなるほど、「読んでいる時間なんてねーぞ」となる現実をちょっと理解して欲しい。

    51. webmaster Says:

      >kogeさん
      本日(4/21)のエントリで書きましたが、そもそも新聞の生活時間に占める比率は小さいものですが、これがどれだけ増減しているのか、たとえばrijinさんが言及されている涙香や外骨の時代と比べてどうかを考えますと、きちんとした研究に基づくものではなく直感ですが、それほど変わっていないのだろうなぁとは思います(行為者に限らない全人口平均で言えばむしろ増えているかと)。”Bowling Alone”などを読む限り、ご指摘のような「娯楽」がない時代には、それ以外のトラッドな人間関係でそれなりに時間を費やしていたり、ということがあるようですし。

    52. webmaster Says:

      >鍋象さん
      分冊にすれば厚くなっても検索等の便は保たれると思いますが、それではコストが増えるでしょうから、そうはならないのでしょう。でも、正月のものぐらい厚くなると、さすがに(笑)。

    53. koge Says:

      >そもそも新聞の生活時間に占める比率は小さいものですが、これがどれだけ増減しているのか、たとえばrijinさんが言及されている涙香や外骨の時代と比べてどうかを考えますと、きちんとした研究に基づくものではなく直感ですが、それほど変わっていないのだろうなぁとは思います
      たしかに、全体で見ればそうかもしれません。が、こちらも根拠のない印象ですが、読む人は新聞のほかにTVもネットも使ってどんどん多量の情報を仕入れる、読まない人は新聞はおろかTVも、漫画すら見ないと、二極化が進んでいるような気がします。

    54. webmaster Says:

      >kogeさん
      人が集めようという気になったときに集められる情報の総量は、間違いなく増えていますから、ご指摘はそのとおりだと思います。

    55. koge Says:

      今更になって思いついたのですが、日本のほぼ全世帯を覆う宅配制度というのは他国にはないものなんですよね。受動的でも飛び込んでくる活字メディアという独自のものというか。そう考えると、他国の新聞と比較するのはむしろ不適切で、比較対象はTV(ない国ではラジオ)としたほうがいいのかも。
      あと、部数についても本当は読んでいる人は同じなのに家庭と職場と喫茶店と全部でとっていて水増しされているというのはあるのかも。

    56. webmaster Says:

      >kogeさん
      ご指摘の点を考え出すと、例えばテレビとの距離感でいえば一般紙よりも近いと思われるスポーツ新聞は宅配にはそれほど載っていないことの背景など、なかなか奥深いものがありそうですね。

    57. あれのあれ Says:

      [メディア][本]魚住 昭「官僚とメディア」…

      官僚とメディア (角川oneテーマ21 A 62) 作者: 魚住昭 出版社/メーカー: 角川書店 発売日: 2007/04 メディア: 新書 長年記者として前線で働く (more…)

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