仕事の達人
「住宅流通の構造を本質的に変える」
2006年9月に新オフィスに移転したリプラス。「住宅流通の構造を本質的に変える」という姜氏の夢は、ここから実現に向かう
実家の事業失敗を糧にリプラスを創業
しかし、将来の成功を約束されたも同然だったコンサルタントとしての道を、姜氏はあっさりと捨ててしまう。
「自分の評価が良すぎるのは、上司に評価する力がないからだ」と、勘違いしながら、BCGを退社。97年、神戸で祖父が創業したゴム事業を手伝うこととなり、メーカー部門の経営を任された。だが、姜氏はここで手痛い失敗を喫することとなる。
あるべき事業の方向性は見出したものの、原料投入・加工生産・在庫管理といった一連のもの作りのプロセスをスムーズに動かすためには、様々な要因が絡んでくる。自社工場のみならず、取引先まで含めて業務を効率化することは予想以上に困難を極めた。そこで「現場のテンポ感との間にギャップが生じ」、生産から納品までの流れが崩壊。姜氏は取締役辞任を余儀なくされ、失意に打ちひしがれた。
だが、今の自分のベースを作ったのは間違いなくこの2年間だった、と姜氏は振り返る。
「なぜなら、『我々が作る部品の競争力次第でお客様の競争力が変わる』『百数十人もの社員が勤勉に動くことで、初めてそれが可能になる』という真実の重みを感じることができたからです。『勤勉であること』――。つまり、ごまかしや手抜きをせず、自分の仕事に対してモラルを高く持つことの大切をあらためて感じましたね」
BCG時代の上司から声が掛かったのは、そんな頃のことだった。折しも設立準備を進めていたドリームインキュベータの創業メンバーとして誘われたのだ。そして00年、同社の執行役員に就任。大企業向けコンサルティングとベンチャー・インキュベーションを事業領域とするこの会社で、姜氏は再びコンサルティングへの勘と自信を取り戻していく。
とはいうものの、事業経営という「生み」の苦しみと醍醐味を味わった姜氏にとって、コンサルティングはもはや生涯を託するに足る仕事ではなかった。仕事を通じてベンチャー経営者たちの熱い思いに触れるうちに、姜氏の内にも事業への情熱が芽生えていく。
自分自身も何か腹をくくってやれることはないか――。そう考えていた矢先、あるヘッジファンド関係者から「今後は年金基金を中心としたオルタナティブ運用が広がる」という話を聞いた。さらに建築家や保証人代行業者、賃貸住宅仲介業者などと出会い話を聞くうちに、姜氏の脳裏にあるイメージがひらめいた。
「保証人代行の仕事の枠組みを変えれば、賃貸住宅の家賃回収のインフラができるのではないかと思ったのです。それと不動産ファンドの運用とを組み合わせれば、これまで日本に存在しなかったような面白い会社ができるのではないか、と。バックグラウンドの異なる人々との出会いを通じて事業を定義し、全く新しい大きな枠組みを見切ることができた。それがリプラス創業のきっかけです」
世の中のデータの流れを根本から変えていく
02年9月にリプラスを創業し、アセットマネジメント事業をスタート。03年4月には賃貸保証事業営業も開始。以来、事業は毎年倍々ゲームで成長し、リプラスが提供するサービスの普及曲線は着実に上昇しつつある。
「現在、それなりの合理性を持って成立している枠組みを変えていくのは、並大抵の仕事ではありません。そのためには仕組みやサービス、働く人々のモチベーションまでも枠組みとして作り育てない限り、変革することはできない。我々がやろうとしているのは、住宅流通の構造を本質的に変える試みなのです」
そう語る姜氏の視線の先には、シスコシステムズの会長兼CEO、ジョン・チェンバースがいる。チェンバースはルータというネットワーク機器によって巨大な市場を生み出し、CEO就任当初は売上高約12億ドルにしかすぎなかった企業を、248億ドルという巨大企業にまで育て上げた。
「私も彼のようなマネジメント技術のプロとして、世の中のデータの流れを根本的に変えるような仕事をしていきたい。そういう意味では、変化はまだはじまったばかりだといえます」
紆余曲折を経て人生のターゲットを見出した姜氏。厳しい局面も数多く経験したが、時には理不尽ともいえる状況に打ちのめされることもあったという。
「人間、本当にボロボロになったときは、支えにできるものなど何もない。そんなときは打ちひしがれてトボトボと歩くしかないんです。打ちひしがれるほどの状況とは天変地異のようなもの。大きなものを失ったときは、たまたま生命力の強い人が生き残るというだけのことにすぎない。生き残れるかどうかは、それまでに蓄積した生命力の差で決まる。だから若い人たちには、とにかく『勤勉になれ』と言いたい。誠実に、勤勉に仕事をし続ける以外に方法はないのです」