東京大学基金 [The University of Tokyo Foundation] 知と人と、そして未来へ
寄付者インタビュー
第五回 : 姜 裕文様
- 寄付者紹介
- 賃貸住宅を対象とした滞納家賃保証システムの提供を行なう賃貸保証事業と不動産ファンドの運用・管理を行なうアセットマネジメント事業が主業務の株式会社リプラスを30歳で設立し、わずか2年で上場企業に育て上げた姜裕文氏。大学時代の4年間はずっと、駒場に住み暮らし、芝居に明け暮れたという。今般、留学生を支援する奨学基金へ姜氏個人から寄付をいただいた。今回はそんな姜氏に、学生時代の思い出や、東大への期待をうかがった。
- プロフィール
- 姜 裕文(かん・ひろふみ)
株式会社リプラス 代表取締役社長
1971年(昭和46年)7月12日生
兵庫県出身。36歳。灘高校から、東京大学経済学部進学。1995年(平成7年)卒業。(株)ボストンコンサルティンググループ入社。98年、家業の取締役に就任。2000年、ドリームインキュベータ執行役員。02年9月、(株)リプラスを創業し、代表取締役社長に就任。同社は急成長を遂げて、2004年12月、東証マザーズ市場に上場を果たしている。
灘高から一浪して東京大学へ。
芝居と共に生きる4年間の始まり
「文三劇場」会場の多目的ホール
昔は、物書きになりたいと思っていた時期もあったので、本をよく読みました。特にジャン・コクトーの詩集が好きでしたね。私は灘高でしたので、自然の流れで東京大学を受けたのですが、本当は教養学科には行きたかったですね。コクトーの原書をフランス語で読みたいと思っていたのですが、志に反して、フランス語の授業にはほとんど出ず。興味の向くまま面白そうな授業を探しては、潜り込んで。結局、必修授業にはほとんど出ていなかったと思います。
でも、駒場は私にとって、とても刺激的な場所でした。学生会館に入り浸って、同級生や、ずっと駒場に滞留している猛者など、色々なタイプの人たちと、本当に様々な議論を交わしました。高校までテニス部でしたので、いくつかのテニスサークルに入ってみましたが、これはすぐに行かなくなりました。
「文三劇場」という駒場祭の一イベントがあります。これは、演劇をしたい人たちが集まって、協力して、それぞれの公演を打つというイベントです。私は一浪していたので、1年先に高校の同級生が入学していました。その友人から、「文三劇場に出たいので、脚本を書いてほしい」と頼まれ、じゃあと引き受けて書いてみた。
結局、演出もしたんですよね。1年目の駒場祭です。簡単な小説はこれまでも書いていたのですが、芝居って、自分が頭の中で創造したストーリーとは違うものが生まれるわけです。これがすごく面白かった。それからの私は、芝居漬けの日々を送るようになりました。大学時代、下北沢にはよく芝居を観に通いましたし、実は今年も富山の旧・利賀村(とがむら、現在の南砺市)で開催される国際演劇祭「利賀フェスティバル2007」も観に行きます。
芝居人が陥りがちな貧乏生活が、
就職へのきっかけをつくった
その後、演出・脚本家として自分の劇団を立ち上げて、卒業までに十数公演は開催したと思います。俳優や照明スタッフなど総勢15人くらい。東大生もいましたが、学外の人間も多く、上は40歳を超える人まで。主な演目は小難しい現代舞踊。お客さんですか? ほとんど入らなかったですよ(笑)。
今でもあるのでしょうか? 教養学部学友会の議長を1年半続けました。サークルを束ねる組織で、予算の配分とか。あとは駒場寮の廃寮反対運動をやったり。 3年から本郷にいくようになっても、駒場周辺に住んでいました。友人たち5、6人で一軒家を借りて住んでいた時期もありましたね。楽しかったのですが、掃除をしない人とか、家賃を滞留する人とかが出て大変だったこともありました。この時の嫌な思いが、リプラスのビジネス誕生につながっているか?
いえ、そんなことはありません(笑)。
本郷では、単位の取れるゼミをひとつ、それ以外にもうひとつ別のゼミに参加させていただいていました。大学院に進もうかと考えたこともあるのですが、生活の中心にはやはり芝居があった。先ほども言いましたとおり、お客さんが入りませんでしたから、公演をするためのバイトはしていました。劇団四季で短期の力仕事とか。ですから、実生活はどんどん貧乏になるんですね。そんな時、友人から「1週間で10万円のバイトがある」と聞き、「やる!」と即答しました。それが、ボストンコンサルティンググループ(BCG)のインターンシップだったのですが、採用につながっているとは知りませんでした。
結局、そのインターンシップで内定をもらい、BCGへの入社を決断しました。確かに芝居は面白かったのですが、「こいつにはどうしても勝てないな」という同世代の脚本家に出会ったことも、就職を決めた理由ですね。
コンサルタント、事業会社、
コンサルタント、そして起業
コンサルタントは経営指導をする仕事ですが、クライアントのほうが業界や仕事のことを熟知しているのは当然です。そこを乗り越えるために、BCG時代の私はとにかく、遊ぶことも忘れ、ひたすら仕事に専念しました。どこまでもクライアントのことを考え抜いたからこそ身についた、ある種の迫力があったと思います。
大手化粧品メーカーが新発売するシャンプーのプライシング、大手トイレタリー機器メーカーの役員会運営方法の改革など、様々な大型プロジェクトを担当しました。BCGでは社員の評価項目に「カリスマ」というのがあります。要は、「納得性、説得力の有無」への評価ですね。ここを最も高く評価してもらっていたと思います。
どんどん私への評価は高まり、昇進したのですが、ここで私は大きな勘違いをしてしまった。「簡単にできる仕事は、つまらない」と。自分自身、当時は本当に傲慢になっていたと思います。そして私はBCGを退職し、家業を手伝うことに。
取締役となり、正しい戦略を企画し、正しい戦術を立て、とここまでは良かった。でも、私は間違ったコミュニケーション方法とスピードでその事業を進めてしまった。目も当てられない大失敗です。約2年間在籍した後、創業者である祖父から、私はその会社を追い出されることになりました。
その後、「ドリームインキュベータという会社を立ち上げるので来ないか?」と、BCGの先輩たちから声をかけられ、私は同社の創業に参加しました。執行役員として2年間再びコンサルティングの仕事をする中で、他社を支援するのではなく、自分で腹をくくってビジネスを立ち上げたいと思うように。そして、リプラスのビジネスモデルを思いついたのです。「これは、確実に化ける! 近い将来、賃貸住宅業界のなくてはならないインフラとなる!」そう確信しました。
そして2002年9月、賃貸住宅を対象とした滞納家賃保証システムを提供する賃貸保証事業と、不動産ファンドのアセットマネジメントを行なうアセットマネジメント事業とを行う、株式会社リプラスを30歳で創業しました。創業から現在まで、売り上げ、利益ともに毎年約200%の成長を続け、2004年には、東証マザーズへの上場も果たしました。過去には当然大変なこともありましたが、それはここにたどり着くまでに、最低限必要だったハードル。リプラスの成長はまだまだこれから。幸せな話は、これまでよりもさらにサイズが大きくなり、種類も増えていくことは間違いない。自分自身、リプラスの行く末が楽しみでなりません。
日本が失地を取り戻すために、
東大の国際的活躍が強く期待されている
正直、東大渉外本部の方からお話をお聞きするまで、私は国立大学法人についての認識があまりなく、東大が基金をつくるなど財務基盤が変化していることなどを知りませんでした。しかし、BCGに勤務しているときに痛感したのは、「どこ出身?」と聞かれて、東大がハーバード、ウォートン、スタンフォードなどと同列と思われていない、という厳然たる事実。また、中国の清華大学出身者の中国内部での戦略的な散らばり方や、韓国のソウル大学の圧倒的な存在感などと比較すると、東大には何かが足りない。ですから、東大の価値を高める必要があるのではと感じていました。
国の最高学府である大学の価値を高めることは、国の競争力アップにつながるのではないでしょうか。そして、様々な研究活動が自由に行われるよう、資金配分を大学自らで決められることが大切だと思います。また、アメリカが9.11以降国外の人材流入を抑えているうちに、日本はアジアの優秀な人材を呼び込む努力をすべき。海外のビジネスマンは、マーケットとしての日本をパスする傾向にあります。東京は世界有数の物価が安い街。裏返せば世界の中で東京が劣化し始めています。そんな日本の失地を回復するためにも、東大という教育機関に頑張ってほしい。そのために、留学生支援奨学基金への寄付を決めたのです。
東大の学生には、もっと自負心を持ってほしいですね。やはり日本で入るのが一番難しい大学なのですから。規模も充分に大きく、本当に面白い人材がそろっています。できるだけたくさんの才能と出会って、コミュニケーションをとって、自分の土壌を強くすることを心がけてほしいですね。先生方もそれぞれ最先端の研究を極めている方が多い。そんな一流の先生との出会いも大切にしてほしい。あと、私にとっての芝居のように、ご飯は食べられなくてもひとつのことに夢中になって集中してみる。大学時代の4年間とは、それができる唯一の貴重な時期であると思います。
取材文:菊池徳行