■月のはじめに考える■
「私には、用意があります。覚悟ができています。日本と日本国民の、安寧を求める決意です」
「私には、自信があります。日本と日本国民がもつ、危機を好機に転ずる不屈の能力に対する、信頼であり、自信です」
こう宣言して自民党総裁選に臨んだ麻生太郎首相の覚悟と自信がいま、揺らいでいるようにみえます。
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米国の公民権運動指導者、故キング牧師が40年前に行った歴史的な演説「私には夢がある」を思わせる、麻生流の立候補宣言です。
直ちに衆院解散・総選挙に打って出る決意を表明したものではないかもしれません。しかし、多くの人たちは早期解散・総選挙に臨む麻生さんの意気込みを感じ取ったはずです。
自民党総裁に選ばれた日の言葉が、それに拍車をかけました。「民主党との戦いに勝って初めて『天命』を果たしたことになる」。これはもう、総選挙をはっきり意識した発言です。
文芸春秋への寄稿で「強い政治を取り戻す発射台として、まず国民の審判を仰ぐのが最初の使命だと思う」と書いたのも、このころです。
「日本のかじ取りを任される」。その高揚感が言わせたのかもしれませんが、麻生さんが当時、11月総選挙を決意していたのは、本人がいま、いかに否定しようと確かでしょう。
それがここにきて「解散先送り」と受け取られる発言が目立ちます。「政局より政策。国際的役割もある」。報道も「年内総選挙見送り」といった断定調のものがほとんどです。
事実そうなるのかもしれません。しかし、首相が年内総選挙を完全に断念したとみるのは早計でしょう。まだ解散のタイミングを計っている、そんな見方は捨て切れません。
「解散と公定歩合(の変動)は(実施するまで)ウソを言っていい」。永田町と兜町ではまことしやかに、そう語り伝えられてきました。直前まで「ない」と思われていた解散があった前例はいくつもあります。
●要は「首相の決断力」
典型的な例は22年前(1986年)の中曽根内閣による解散です。「寝たふり解散」とも呼ばれています。その3年前の選挙で過半数割れした中曽根政権が自民単独過半数を目指して衆参同日選に打って出た解散劇です。
首相は沈黙を通しましたが、首相の腹心だった当時の藤波孝生国対委員長の「(解散は)無理、首相は憔悴(しょうすい)しきって寝ている」のひと言で「同日選断念」の観測が一気に広がりました。
ところが一週間もたたぬうちに解散です。結果は自民党の歴史的大勝。結党以来初の300議席でした。
もうひとつは、記憶に新しい3年前(2005年)夏の小泉内閣の「郵政解散」です。郵政改革をめぐり党内が割れ、内閣支持率も40%台に落ち込んでいました。おまけに前年の参院選で岡田民主党に敗北しています。常識的には自民党不利で、解散のタイミングではありませんでした。
首相自身は郵政改革法案が成立しなければ「解散も辞さぬ」と叫んでいましたが、与野党ともに「まさか」と高をくくっていました。強引な解散・総選挙の結果がいまの300議席です。
両政権の総選挙の結果は首相の決断がもたらしたものです。その意味で「解散の時期は私が判断する」と言い切る麻生さんの姿勢は首相として当然でしょう。要は首相の決断力です。
●信なくば展望開けず
米国発の金融危機、世界的な景気後退への対応は焦眉(しょうび)の急だ。株安と円高は国内の実体経済にも打撃を与えている。だから、いまは総選挙より景気・経済対策を優先させるときだ、という首相の理屈は分かります。
しかし、麻生さんの決断を鈍らせているのは、それだけではなさそうです。「天命」と宣言した「民主党に勝つ」ことが確信できない。それが最大の理由とみた方がいいでしょう。
自民党の総裁として「必ず議席が減る総選挙」に挑戦するのは、相当の覚悟が要ります。
同じような状況の先例を思い出します。18年前の海部俊樹首相です。
中曽根政権が獲得した300議席の下で竹下登、宇野宗佑両首相の中途退陣で首相に就きました。国民の信を問うていない3人目の首相です。前年、参院選で惨敗していたことも、麻生さんが置かれた立場と同じです。
海部さんは解散を渋りました。それでも党の圧力に押されて就任半年後の通常国会冒頭に解散させられました。結果は議席を減らしたものの、安定多数の275議席。海部さんの政権運営はそれで一応安定しました。
実は、この解散を決めたのは時の自民党幹事長・小沢一郎氏です。その小沢さんがいま自民政権に解散を迫る。皮肉な巡り合わせです。
麻生さん自身が言うように「強い政治」は「国民の審判を仰ぐ」ことによって生まれるものです。「信なくば立たず」。これが政治の要諦(ようてい)であることは時代を問いません。
=2008/11/02付 西日本新聞朝刊=