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終戦 8歳で人生一変戦争が激しくなり、大阪市西成区に住んでいたころ、友だちから時々いじめられました。母が台湾出身だからです。 通っていた津守小学校の近くに神社があり、よく遊びました。普段は仲良しですが、けんかをすると「中国人」と言われます。くやし泣きして帰り、父に「俺、何で中国人や」と文句を言うと、父は困っていましたが、しまいに「泣かされて帰ってくるな」とどなりました。 それで私は腹をくくって友だちをやり返すと、皆が迫力に恐れをなして逃げました。やがてガキ大将になりましたが、小さいころ、いじめられたので、いじめられる人の気持ちが分かります。だから人の悪口、陰口は言わない。何か意見や反論があるなら、その人の前で直接、言えばいい。逆に「陰ほめ」する。これは今も守っています。 1945年8月15日の終戦の日、8歳だった私の人生がごろっと変わりました。台湾が戦勝国側になり、私たちは特権を享受できたのです。丸っこい直径2センチ弱の中華民国(当時)マークのバッジを胸につけていれば、終戦後しばらくは国鉄と地下鉄、映画館もフリーパスでした。 両親は11月、今のJR大阪駅南側に「中華料理 龍潭(りゅうたん)」を開きました。店の2階が住まいで、トタン屋根なので雨音がやかましかった。母は、ネギ、ニンニク、ショウガをいため、しょうゆを焼けた鍋肌に注ぎ、湯を入れて、たちどころにスープを作った。台湾料理の技術ですが、ほんま、上手やった。 当時、龍潭でたばこをバラ売りしており、私はこっそり持ち出しては、阪急百貨店前で道行く人に売って小遣いにしていた。 ある日、いつものように「おっちゃん、たばこいらんか」と道行く人に差し出すと、なんと父でした。 「何しとる」。父は私の腕をつかんで地下鉄に乗り、どこかへ連れて行こうとしました。ちょうど電車のドアのガラスが割れていて私が手にけがをしたので、病院に行くことになり、何とか騒ぎは収まった次第です。 父には、よくしかられました。父のけんまくが最高潮に達し、私が「もう、あかん」と思う絶妙のタイミングで、母が「堪忍してやり」と父に言うのです。 今思うと、あれは悪ガキの私を懲らしめるための両親の芝居やったのかも知れません。 (聞き手・山畑洋二) (2008年10月21日 読売新聞)
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