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自分で何とかせな、あかん鹿児島県・徳之島出身の父と、台湾出身の母。この異なる二つの文化を持つ両親に育てられたことが、私の誇りです。物事を一つではなく、別の見方もしてみる。両親の教えを今も大切にしています。 母は、日本統治下の台湾電力で電話交換手をしていました。当時、日本語も中国語も話せる女性交換手は、3人しかいなかったそうです。父は、直径3〜4メートルもある水力発電所の送水管を溶接する技師。母は、発電所建設で台湾に来ていた21歳の父と知り合い、国際結婚しました。18歳で私を身ごもったまま船で神戸港に着き、大阪に来ました。異国で何もわからない母と、中学から大阪で一人苦学した父は、ずいぶんと苦労したと思います。 私が生まれた1937年、両親は大阪の港区で、下駄屋さんの2階を間借りしていました。狭い部屋にちゃぶ台はなく、ミカンかリンゴの木箱をひっくり返したのが食卓でした。 家計が苦しく、母は古新聞をためて売り、月1回、すき焼きをしてくれました。当時、すごいごちそうです。3歳ごろのことですが、よく覚えています。 父は独立して、仕事を下請けするようになりました。家族で建設現場を転々としました。中国大陸北東部の満州や宮崎県、福井県、福島県の磐梯山などにも行きました。 小1の時、秋田県・田沢湖の現場でした。冬、雪が深く一晩で子どもの身長よりも高く積もります。朝、学校に行こうと玄関の戸を開けたら、ドバーと雪が入ってきます。 地元の子は竹を割って火であぶって曲げた竹スキーで通学していました。父は私に立派なスキー板を買ってくれましたが、うまく滑れません。家族で初参りの時のこと。スキーで父を追いかけたが転んでばかり。置いて行かれそうになり、「待って、待って」と懇願しましたが、振り向いてはくれません。「親に頼れん。自分で何とかせな、あかん」。そう身に染みました。 後日、父は「獅子は我が子を谷底に突き落とす。はい上がってくれば本物や」と真顔で言いました。「ごっついこと言うなあ」と驚きましたが、それを地でゆく厳しさでした。 (聞き手・山畑洋二) (2008年10月7日 読売新聞)
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