甕のぞきの色 (秋田文庫)
このエントリは先のエントリ「精神障害者保健福祉手帳の取得の勧めと、人々の善意を途中で閉ざす四角形の支配の仕組みについて」の続きです。先のエントリ内のことから始ります。
僕は、先のエントリの中で書いた東大生に面と向かって「死ね」と云われたこととか、色んな派遣先で、一番冷酷だったのが霞ヶ関や研究機関での仕事の人間関係(キャリア官僚関係・学者関係)だったり、人と人との付き合いでもネットの付き合いでも、東大生の人々と学者の人々が一番非常に根幹的に冷酷無比(平気で人を切り捨てたり裏切ったりする)だったりすることについて、日本の支配層の一角で、富裕で恵まれた環境にいる人達がなんでこんなに冷酷なんだろう。中ぐらいの生活だったり、貧しい生活だったり、そういう市井の人々達が、嫌なところもあったりするけど、それでも人間的な温かみを持っている(見知らぬ僕を無償でたすけてくれたおばさんのように)、なのにそういう人よりずっと恵まれたところにいる、エリート層、東大生、学者、キャリア官僚の人間の多くに共通する、他者に対する非常に冷え冷えとしたものは、なんだろう、どうしてそうなんだろう、みたいなことを考えていました。
例えば、若い人々に大きな影響のある高名な東大出身のポストモダンの学者さんが、「人間は家族のような親しい関係以外の人間には苦しみを共感すること、受苦することができない」と書いていた(述べていた)のを読んだとき、僕は凄く恐ろしかったです。恐ろしいと感じた人は僕だけじゃなかったと思います。その学者さんはだからシステム設計によって社会を形成することが重要だと述べているのですが、その学者さんの前段の考え方(人間は親しくないと共感できない)自体が、その学者さんの心理(自分と親しい利害関係がある人間以外への冷酷な興味のなさ)を表しているに過ぎないと思います。
僕はその学者さんの発言(人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができないという発言)を見て、山岸涼子さんの短編漫画「朱雀門」を思い出していました。芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」を主軸に据えて、何か一つを極めることだけでは生を生きられなくなること、寛容と非寛容と、愛の問題を語っているとても優れた名短編です。山岸涼子さんの倫理的諸作品群の中でも最高峰の一つだと思います。ぜひ皆様にも読んで欲しい好短編です。少し引用いたします。
僕は、先の学者さんの発言を見て、六の宮の姫君と同じだと思いました。その学者さんは六の宮の姫君とは違い、とてもご裕福で、ご結婚されて、お子さんもいらっしゃって、幸せそうに見えますが、根幹的なところで、とても冷え冷えとしている、自分の世界に篭った六の宮の姫君と同じだと思いました。
「人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができない」のではなくて、その学者さんが、自分の思い通りにならない世界の存在(人間は一人一人生きていて、その学者さんと同じように苦しんだり喜んだりして生命を生きている世界)を否定しているから「共感できない」という設定を作って、自分の思い通りの世界に入ってしまっている。それが凄く冷え冷えとした孤独の世界の中にいて哀しいなと思いました。再び、山岸涼子さんの「朱雀門」より引用いたします。
僕はこの作品を読んだとき、なぜ東大生に面と向かって「死ね」といわれたのか、わかっていなかったのが、わかりました。彼にとって、東大というのは、彼の全キャパシティだったんだなということを。それを侵すようなこと(「東大の問題について書いてある本を読んで面白かったよ」)を云ったから、彼には東大以外のキャパシティがなくて、「死ね」と云ってきたんだなということが分かりました。彼がそういう人だともっとちゃんと注意して話していれば良かった、僕は失敗したと思いました。そういう人だと分かっていたら、決して東大の話なんてしなかったです。
これはエリート層特有の非寛容なのだと思います。全キャパシティを自分の好きなこと(職務や研究)に捧げているから、そのことに対して非常に優秀(エリート)な代わりに、他のことに対して無限に非寛容、人間に対して完全に非寛容になることができる。それが人間に対するエリート層の冷たさに繋がっているのだと思います。
こういったエリートの冷たさを、「汝の隣人を愛せ」「汝の隣人の苦しみを受苦せよ」という愛の形(親しい人だけでなく人々皆に対する愛情・受苦の共感の教えという形)であるキリスト教によって西欧諸国はエリート層の無慈悲さを緩和してきましたが、日本はただ西欧の制度を外的に真似して輸入しただけなので、そういう緩和がエリート層に全く働かず、結果、「人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができない」というような非常に閉鎖した孤立の思想や、厚生労働省の生活保護を削減せよという通達、無年金障害者を放置し続ける政策などが、取られてきたのだと思います。これは戦前も戦後も変わらない日本全体のひじょうな不幸だと思います。
制度は、形であり、形は思い通りになるんですね。だから、キャリア官僚は思い通りの世界(制度の世界)に生きて、そこからはみ出した人間(貧困層、無年金障害者等)の存在を無視することができる。彼らは、「人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができない」という学者さんと同じ世界に生きている。
でも、僕は、それは全キャパシティを職務や研究に捧げてしまったエリートの人の、愛のない、非常に哀しい独特の世界観に過ぎないと思います。例えば、お医者さん、社会福祉士さん、精神保健福祉士さん、作業療法士さん、看護士さん、現場の人達は、自分を犠牲にしてでも、誰も見ていない、誰にも評価されないようなときでも、患者さんをきちんと一日中助けてくれます。それは、金銭的なものを完全に越えたところにあります。うつ病になって、それがよくわかりました。市井の人々も、先日僕を助けてくれたおばさんは、僕が見知らぬ人間、しかもうつ病でおどおどしている挙動不審な人間なのに、それでも、駅まで送ってくれました。そしてネットでの関係、それも僕が文章を一方的に書いている関係にも関わらず、ギフト券を贈って下さる方々がいます。また、楽しいことが全然掛けず、辛いことばかり書いてしまっている僕をアフィリエイトで支援してくださる方々がいます。
そういった、「見知らぬ人への共感・愛情」というのが、もし、ちゃんと、社会機構の上位にあれば、日本は、今のような貧困層・障害者を支援しないという形で抹殺してゆくような形じゃなく、お互いに助け合い支え会う社会、「見知らぬ人同士でも共感し受苦し助け合える」社会になっていると思います。
そういった社会を妨げて、貧しい人々を死なせて行く残忍な日本社会になってしまった大きな一因は、愛情の形態(西欧におけるキリスト教・人権思想)を一切持たないエリート主義(全キャパシティが学究及び経済的効率統治のみにあてられているエリート主義)による官僚機構制度(そしてそれを補佐する大学機構制度)だと僕は思います。だから、民主党は官僚政治を打破すると仰っていますが、それを、もしも自民党に勝つことが出来たら、ちゃんとやって、人々が競争して脱落したら死ぬ社会ではなく、人々が互いに支えあい助け合える社会に、少しでも変えていって欲しいです。
それが本当にちゃんと一番できる政党は一番社会福祉のこと、貧しい人のことを考えて助けてくれている日本共産党だと思いますが(僕は共産党に投票します)、日本共産党が与党第一党として政権を取るのは、死に掛かっている貧困層が日本人口から見ると相対的にまだ少数な今は無理だと思います。現在の冷酷無比なエリート官僚統治・自民党財界政治がこのままずっとずっと長年続いて、若年・中年の低収入層が年を取って首になって貧困層に落ち、僕のような貧困層の境遇の人々がどんどん増えてばたばた死んでいって、大勢の人々が生きる権利を求めて革命的に立ち上がる、現状よりもさらに最悪の状況になったら社会福祉を一番に掲げる共産党政権になると思いますが、これはそれまでに大勢の人々が死んでしまいますので、それよりも早く、なるべく早く、社会を変えて欲しいです。死ぬ人の数は少ない方が絶対にいいです。
経済学者やポストモダン学者の一部の人は自民党の公共事業のばら撒きはよいばらまき、民主党の社会福祉はよくないばらまき、社会福祉は国を滅ぼすというようなことを云いますが大嘘です。日本は先進国の中で、民間の福祉事業も含めれば、低社会福祉国のアメリカに並んで最低の社会福祉しかやっていない国(日本の医療保険制度も保健費を払えない人がでてきています、それは生活保護が受けられない→結果当然年金どころか保険費も払えない、という形でだんだん医療保険制度も崩れてきています)で、その代わり、特別会計という何百十兆円ものお金を官僚が天下って公共事業などの箱物に使いたい放題にしています。無駄の極致たる「わたしのしごと館」とか(無駄の極致の箱物はそれはもう大量にあり、今後も作られ続けるでしょう)、貧困層を見殺しにして、赤字の箱物を作る自民党と官僚の悪鬼のような所業、職なき貧困層にとってはまさに彼らの残忍さの象徴です。大学機関もそうです。大学教授の高給と待遇を見れば、なぜ彼らが体制側に都合の良いことを喋っているか分かるでしょう。公共事業ではなく、社会福祉に政策をシフトしていかないと、この国は、今後もどんどん人が死んでいくと思います。
大勢の人が死ぬより大勢の人が生きた方がいいです。それは絶対です。だから、ポストモダンの学者が生きるも死ぬも国が滅びるも全て相対的なものであり、政治なぞどうでもよいものとかいってるのはただの詭弁で、貧困層を見殺しにするための体制側への支援論であることを、どうか分かって欲しいです。彼らは富裕な体制側なので、いざとなればゲーテッド・タウンに引っ越すか、日本を見捨てて海外に行けばよいと思っています。彼らは富裕で己の一族の生命が金銭によって保障されていると思って安心しているので、己は下層の者どもと違い、この世の全てを相対化できる神の如き富裕学識エリートだと思い込んでいます。でもそれは彼らの誤りです。この世には相対化できないものがあります、それは人々の生命です。それを理解できないのは彼らが権力を持ちそれを使うことで(教授のような高位の学者は官僚や政治家と同じく権力者です。富裕であり、官僚と同じく「専門家」としてマスメディアを通し、人々を動かすことができます)、自分の思い通りの世界の頭の中にしか生きていないからです。それは他の人間の生命を認めないことです。それはつまり六の宮の姫君のように「生」を生きていないことです。それは、哀しいことで、それに気づかないことは、恐ろしいことです。うつ病に掛かって、自分の命を大勢の人の利害を超えたご善意・愛情に助けてもらって、僕はそれを学びました。生命は相対化できないものです。生命含め全てを相対化できるとするポストモダン学者の学説や、それによって生命よりも経済効率第一とすることを正当化するエリート層の唱える・実施すること(非正規雇用による厚生年金制度の破壊や生活保護の実質的機能破壊)は優生学的な恐ろしいこと、生命は相対化できないものということを誤魔化して大量虐殺すら引き起こしかねない恐ろしいものです。僕はもう絶対に、ポストモダンの言説には与しません。生命を守り助ける方に与します。うつ病で人々に面倒掛けてばかりですが、それでも、僕のできる限り、生命を守り助ける方に与します。だから今もお腹痛くて食事を全然取れない状況ですが、僕にはあまり残り時間がないかも知れないから必死に、一生懸命書いています。僕の命が続く限り、生命を守り助ける方に与します。
だから僕は、現状で一番政権を取れる可能性がある、官僚統治・自民党財界政治を終わらせて、少しでも人間が生き延びられる世界に変えてくれる可能性がある民主党に期待しています。どうか民主党には選挙で頑張って欲しいです。他の野党(共産党や社民党)にも野党同士の協力も含めて頑張って欲しいです。自民党政権が続くと大勢の貧しい人々が放置され、どんどん死んでゆきます。
貧しい人々、障害を持つ人、弱い立場の人々が、全キャパシティを学究や職務にあてた寛容なき(研究や制度に人間性・寛容はありません)エリート層、厚生労働省の官僚グループに見殺しにされて、ばたばた苦しみながら生き、ばたばた苦しみながら死んでゆく今の日本社会、旧ソ連邦やディケンズが描いた悪夢のような産業革命後の超格差社会のような今の日本社会、貧困層・ハンディのある人々にとっての地獄の弱肉強食日本社会を、野党が与党政権を打破することで、どうか、社会福祉の充実した国に変えて欲しいです。
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このエントリは先のエントリ「精神障害者保健福祉手帳の取得の勧めと、人々の善意を途中で閉ざす四角形の支配の仕組みについて」の続きです。先のエントリ内のことから始ります。
僕は、先のエントリの中で書いた東大生に面と向かって「死ね」と云われたこととか、色んな派遣先で、一番冷酷だったのが霞ヶ関や研究機関での仕事の人間関係(キャリア官僚関係・学者関係)だったり、人と人との付き合いでもネットの付き合いでも、東大生の人々と学者の人々が一番非常に根幹的に冷酷無比(平気で人を切り捨てたり裏切ったりする)だったりすることについて、日本の支配層の一角で、富裕で恵まれた環境にいる人達がなんでこんなに冷酷なんだろう。中ぐらいの生活だったり、貧しい生活だったり、そういう市井の人々達が、嫌なところもあったりするけど、それでも人間的な温かみを持っている(見知らぬ僕を無償でたすけてくれたおばさんのように)、なのにそういう人よりずっと恵まれたところにいる、エリート層、東大生、学者、キャリア官僚の人間の多くに共通する、他者に対する非常に冷え冷えとしたものは、なんだろう、どうしてそうなんだろう、みたいなことを考えていました。
例えば、若い人々に大きな影響のある高名な東大出身のポストモダンの学者さんが、「人間は家族のような親しい関係以外の人間には苦しみを共感すること、受苦することができない」と書いていた(述べていた)のを読んだとき、僕は凄く恐ろしかったです。恐ろしいと感じた人は僕だけじゃなかったと思います。その学者さんはだからシステム設計によって社会を形成することが重要だと述べているのですが、その学者さんの前段の考え方(人間は親しくないと共感できない)自体が、その学者さんの心理(自分と親しい利害関係がある人間以外への冷酷な興味のなさ)を表しているに過ぎないと思います。
僕はその学者さんの発言(人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができないという発言)を見て、山岸涼子さんの短編漫画「朱雀門」を思い出していました。芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」を主軸に据えて、何か一つを極めることだけでは生を生きられなくなること、寛容と非寛容と、愛の問題を語っているとても優れた名短編です。山岸涼子さんの倫理的諸作品群の中でも最高峰の一つだと思います。ぜひ皆様にも読んで欲しい好短編です。少し引用いたします。
「どうして六の宮の姫がふがいないの」(中略)
「あら、そこが芥川龍之介のすごいところだわよ。『生』を生きないものは、『死』をも死ねない…と彼は言いたいのよ」(中略)
(六の宮の姫は「深窓のお姫様」という役割だけを極めつくすことに没頭していて)「そういった人間(自分の好きなことを極めるために他を捨て去っている人間)は自分の生を満足に生きていないのと同じよ。たとえこの時代のお姫様だとてね。
生きるということは、生活の苦しみや楽しみ、人と人との触れ合いを知るということだもの。
生とはね、生きて生き抜いてはじめて「死」という形で完成するんですって」(中略)
「話をこの本に戻すとつまりは(思い通りにならない人々と世界を共に)生きるという実感がなければ、死ぬという実感がなくてあたりまえなのよ。六の宮の姫君は自分が死んだという実感もまたわからないまま死んだんだと思うわ。結局(思い通りにならない)死をうけいれられなかったのよね」
(山岸涼子「朱雀門」「甕のぞきの色」収録)
僕は、先の学者さんの発言を見て、六の宮の姫君と同じだと思いました。その学者さんは六の宮の姫君とは違い、とてもご裕福で、ご結婚されて、お子さんもいらっしゃって、幸せそうに見えますが、根幹的なところで、とても冷え冷えとしている、自分の世界に篭った六の宮の姫君と同じだと思いました。
「人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができない」のではなくて、その学者さんが、自分の思い通りにならない世界の存在(人間は一人一人生きていて、その学者さんと同じように苦しんだり喜んだりして生命を生きている世界)を否定しているから「共感できない」という設定を作って、自分の思い通りの世界に入ってしまっている。それが凄く冷え冷えとした孤独の世界の中にいて哀しいなと思いました。再び、山岸涼子さんの「朱雀門」より引用いたします。
「あたしが急にお見合いしだしたからあせってると思ったでしょ」
「べ、別にそんなこと」
「いいのよ、そう思ってくれて。事実あたしあせったのよ。このまま好きなことだけをしててヌクヌクと生きていっていいのかなって。だけどやっぱり思いつきだけではだめね。お見合いは全敗!
当然よね、今のわたしじゃお見合いだろうと恋愛だろうと、結婚なんかできやしなかったのよ」
「なぜそんなことを」
「恥ずかしいな…千夏ちゃんもママから聞いているでしょ、この間のお見合い」
「気象庁に勤めている人との?」
「そう、その人会って見たら写真より(ハンサムで)良くてね。正直これは理想だわとハリキッタのよ」
お見合いシーン
お見合いセッティングしてくれたおばさん
「阪本さんは星に造詣が深くて、近く本も出版なさるのよ。今まで研究の方が忙しくて女性の方と知り合う機会がなくてね」
(この人なら表面上の可愛さや従順さを望む平凡な男性と違うかもしれない。ちょっと神経質そうなのもいいわ)
「それでデートすることになってね」(中略)
(デートしているうちに彼は星のことだけ考えていて、後は物凄く非寛容な人間だということが分かって、相手に拒絶されて)「なんと(好きなことだけに没頭している)わたしと彼、そっくりだった。ふたりともあるひとつのことに一生懸命で、他を顧みるゆとりがなかったのよ。ふたりともすごく好きなことだけをやってきた人間なのよね。ものすごく好きなことがあるということは、(それと相反する)すごく嫌いなこともあるということなのよ。嫌いなことというのは許せないことと同じなのよ。平凡じゃない人を望んで(星の研究者である)彼を見たとき、わたしはすごく自分がみえたわ。許せないことがいっぱいあるとそれはもう、寛容性が皆無に近くなるのよ。つまり彼には(自分の全キャパシティを星の研究に捧げているため)包容力や許容力がないのよ。それは私が今までお断りしたお見合いの相手に示した態度と同じだったのよ。(好きなこと、一つを極めることに全キャパシティを使っていて、ゆえに)ささいなことが許せなくて、その人達を拒否してきたのよ、わたしも。
なんとわたしは自分が100%許されることを期待しながら、相手を1%も許さない人間だったのよ。そういう人間が他人を愛せると思う?
他人を許す、他人を引き受ける、それができなくて何が愛よね。お見合いなんか何度やっても同じよ。六の宮の姫君のことなんか言えたわたしじゃないのよ。
ああ、ごめん、自分のことばかり話しちゃって。だけど千夏ちゃんはわたしのようになってはだめよ。成長するときには成長してよ。もっともわたしも32、ちょっと遅きの感なきにしもあらずだけど、あきらめません。今度はいい人を自分で探すわ」
(山岸涼子「朱雀門」「甕のぞきの色」収録)
僕はこの作品を読んだとき、なぜ東大生に面と向かって「死ね」といわれたのか、わかっていなかったのが、わかりました。彼にとって、東大というのは、彼の全キャパシティだったんだなということを。それを侵すようなこと(「東大の問題について書いてある本を読んで面白かったよ」)を云ったから、彼には東大以外のキャパシティがなくて、「死ね」と云ってきたんだなということが分かりました。彼がそういう人だともっとちゃんと注意して話していれば良かった、僕は失敗したと思いました。そういう人だと分かっていたら、決して東大の話なんてしなかったです。
これはエリート層特有の非寛容なのだと思います。全キャパシティを自分の好きなこと(職務や研究)に捧げているから、そのことに対して非常に優秀(エリート)な代わりに、他のことに対して無限に非寛容、人間に対して完全に非寛容になることができる。それが人間に対するエリート層の冷たさに繋がっているのだと思います。
こういったエリートの冷たさを、「汝の隣人を愛せ」「汝の隣人の苦しみを受苦せよ」という愛の形(親しい人だけでなく人々皆に対する愛情・受苦の共感の教えという形)であるキリスト教によって西欧諸国はエリート層の無慈悲さを緩和してきましたが、日本はただ西欧の制度を外的に真似して輸入しただけなので、そういう緩和がエリート層に全く働かず、結果、「人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができない」というような非常に閉鎖した孤立の思想や、厚生労働省の生活保護を削減せよという通達、無年金障害者を放置し続ける政策などが、取られてきたのだと思います。これは戦前も戦後も変わらない日本全体のひじょうな不幸だと思います。
制度は、形であり、形は思い通りになるんですね。だから、キャリア官僚は思い通りの世界(制度の世界)に生きて、そこからはみ出した人間(貧困層、無年金障害者等)の存在を無視することができる。彼らは、「人間は親しい人間以外の苦しみを共感することができない」という学者さんと同じ世界に生きている。
でも、僕は、それは全キャパシティを職務や研究に捧げてしまったエリートの人の、愛のない、非常に哀しい独特の世界観に過ぎないと思います。例えば、お医者さん、社会福祉士さん、精神保健福祉士さん、作業療法士さん、看護士さん、現場の人達は、自分を犠牲にしてでも、誰も見ていない、誰にも評価されないようなときでも、患者さんをきちんと一日中助けてくれます。それは、金銭的なものを完全に越えたところにあります。うつ病になって、それがよくわかりました。市井の人々も、先日僕を助けてくれたおばさんは、僕が見知らぬ人間、しかもうつ病でおどおどしている挙動不審な人間なのに、それでも、駅まで送ってくれました。そしてネットでの関係、それも僕が文章を一方的に書いている関係にも関わらず、ギフト券を贈って下さる方々がいます。また、楽しいことが全然掛けず、辛いことばかり書いてしまっている僕をアフィリエイトで支援してくださる方々がいます。
そういった、「見知らぬ人への共感・愛情」というのが、もし、ちゃんと、社会機構の上位にあれば、日本は、今のような貧困層・障害者を支援しないという形で抹殺してゆくような形じゃなく、お互いに助け合い支え会う社会、「見知らぬ人同士でも共感し受苦し助け合える」社会になっていると思います。
そういった社会を妨げて、貧しい人々を死なせて行く残忍な日本社会になってしまった大きな一因は、愛情の形態(西欧におけるキリスト教・人権思想)を一切持たないエリート主義(全キャパシティが学究及び経済的効率統治のみにあてられているエリート主義)による官僚機構制度(そしてそれを補佐する大学機構制度)だと僕は思います。だから、民主党は官僚政治を打破すると仰っていますが、それを、もしも自民党に勝つことが出来たら、ちゃんとやって、人々が競争して脱落したら死ぬ社会ではなく、人々が互いに支えあい助け合える社会に、少しでも変えていって欲しいです。
それが本当にちゃんと一番できる政党は一番社会福祉のこと、貧しい人のことを考えて助けてくれている日本共産党だと思いますが(僕は共産党に投票します)、日本共産党が与党第一党として政権を取るのは、死に掛かっている貧困層が日本人口から見ると相対的にまだ少数な今は無理だと思います。現在の冷酷無比なエリート官僚統治・自民党財界政治がこのままずっとずっと長年続いて、若年・中年の低収入層が年を取って首になって貧困層に落ち、僕のような貧困層の境遇の人々がどんどん増えてばたばた死んでいって、大勢の人々が生きる権利を求めて革命的に立ち上がる、現状よりもさらに最悪の状況になったら社会福祉を一番に掲げる共産党政権になると思いますが、これはそれまでに大勢の人々が死んでしまいますので、それよりも早く、なるべく早く、社会を変えて欲しいです。死ぬ人の数は少ない方が絶対にいいです。
経済学者やポストモダン学者の一部の人は自民党の公共事業のばら撒きはよいばらまき、民主党の社会福祉はよくないばらまき、社会福祉は国を滅ぼすというようなことを云いますが大嘘です。日本は先進国の中で、民間の福祉事業も含めれば、低社会福祉国のアメリカに並んで最低の社会福祉しかやっていない国(日本の医療保険制度も保健費を払えない人がでてきています、それは生活保護が受けられない→結果当然年金どころか保険費も払えない、という形でだんだん医療保険制度も崩れてきています)で、その代わり、特別会計という何百十兆円ものお金を官僚が天下って公共事業などの箱物に使いたい放題にしています。無駄の極致たる「わたしのしごと館」とか(無駄の極致の箱物はそれはもう大量にあり、今後も作られ続けるでしょう)、貧困層を見殺しにして、赤字の箱物を作る自民党と官僚の悪鬼のような所業、職なき貧困層にとってはまさに彼らの残忍さの象徴です。大学機関もそうです。大学教授の高給と待遇を見れば、なぜ彼らが体制側に都合の良いことを喋っているか分かるでしょう。公共事業ではなく、社会福祉に政策をシフトしていかないと、この国は、今後もどんどん人が死んでいくと思います。
大勢の人が死ぬより大勢の人が生きた方がいいです。それは絶対です。だから、ポストモダンの学者が生きるも死ぬも国が滅びるも全て相対的なものであり、政治なぞどうでもよいものとかいってるのはただの詭弁で、貧困層を見殺しにするための体制側への支援論であることを、どうか分かって欲しいです。彼らは富裕な体制側なので、いざとなればゲーテッド・タウンに引っ越すか、日本を見捨てて海外に行けばよいと思っています。彼らは富裕で己の一族の生命が金銭によって保障されていると思って安心しているので、己は下層の者どもと違い、この世の全てを相対化できる神の如き富裕学識エリートだと思い込んでいます。でもそれは彼らの誤りです。この世には相対化できないものがあります、それは人々の生命です。それを理解できないのは彼らが権力を持ちそれを使うことで(教授のような高位の学者は官僚や政治家と同じく権力者です。富裕であり、官僚と同じく「専門家」としてマスメディアを通し、人々を動かすことができます)、自分の思い通りの世界の頭の中にしか生きていないからです。それは他の人間の生命を認めないことです。それはつまり六の宮の姫君のように「生」を生きていないことです。それは、哀しいことで、それに気づかないことは、恐ろしいことです。うつ病に掛かって、自分の命を大勢の人の利害を超えたご善意・愛情に助けてもらって、僕はそれを学びました。生命は相対化できないものです。生命含め全てを相対化できるとするポストモダン学者の学説や、それによって生命よりも経済効率第一とすることを正当化するエリート層の唱える・実施すること(非正規雇用による厚生年金制度の破壊や生活保護の実質的機能破壊)は優生学的な恐ろしいこと、生命は相対化できないものということを誤魔化して大量虐殺すら引き起こしかねない恐ろしいものです。僕はもう絶対に、ポストモダンの言説には与しません。生命を守り助ける方に与します。うつ病で人々に面倒掛けてばかりですが、それでも、僕のできる限り、生命を守り助ける方に与します。だから今もお腹痛くて食事を全然取れない状況ですが、僕にはあまり残り時間がないかも知れないから必死に、一生懸命書いています。僕の命が続く限り、生命を守り助ける方に与します。
だから僕は、現状で一番政権を取れる可能性がある、官僚統治・自民党財界政治を終わらせて、少しでも人間が生き延びられる世界に変えてくれる可能性がある民主党に期待しています。どうか民主党には選挙で頑張って欲しいです。他の野党(共産党や社民党)にも野党同士の協力も含めて頑張って欲しいです。自民党政権が続くと大勢の貧しい人々が放置され、どんどん死んでゆきます。
貧しい人々、障害を持つ人、弱い立場の人々が、全キャパシティを学究や職務にあてた寛容なき(研究や制度に人間性・寛容はありません)エリート層、厚生労働省の官僚グループに見殺しにされて、ばたばた苦しみながら生き、ばたばた苦しみながら死んでゆく今の日本社会、旧ソ連邦やディケンズが描いた悪夢のような産業革命後の超格差社会のような今の日本社会、貧困層・ハンディのある人々にとっての地獄の弱肉強食日本社会を、野党が与党政権を打破することで、どうか、社会福祉の充実した国に変えて欲しいです。
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