名古屋 夕刊復活の日 
終戦翌年5月21日、名タイ産声

 名古屋タイムズは10月末で休刊する。本紙が名古屋の地に産声を上げたのは1946(昭和21)年5月21日。太平洋戦争敗戦の翌年のことだった。本欄最終回は「名タイ誕生」の物語―。(英)
 1946年2月のある日、東京千駄ケ谷のとある邸宅で2人の紳士が囲碁に興じていた。中部日本新聞(現中日新聞)相談役の勝田重太朗氏と後の中日新聞会長大島一郎氏。

 ■社会の公器 大島氏が黒石の碁けをかき混ぜながらぽつりとつぶやいた。「名古屋で夕刊をつくったら面白いだろうな」。勝田氏が応じた。「わたしもねえ、終戦直後に言論が解放された時から考えていました」。喜んだ大島氏。頭の中にはすでに新しい夕刊の名前が浮かんでいた。「君が責任者になって一肌脱いでくれ。ロンドンにはロンドンタイムズ、ニューヨークにはニューヨークタイムズがある。名古屋タイムズでいいんじゃないか」
 初代名古屋タイムズ社長を引き受けた勝田氏にも腹案があった。「新聞は社会の公器。いかなる権力にも左右されないことが必要。営利主義の株式会社にすると資本によって圧迫されるおそれがある。社団法人がいい。これなら出資した社員の1人1人が『自分が新聞を作るのだ』と責任を持つことができる」
 善は急げ。物資不足の当時、新聞用紙は政府に割り当て申請する必要があった。勝田氏は早速、杉山虎之助中部日本新聞社長(当時)に連絡を取った。「すぐにこちらで新聞用紙の割り当てを申請するがどうか」。「中日で全面的にバックアップしますからぜひやってください」と杉山社長は約束した。

 ■市民とともに 初代編集局長に白羽の矢が立てられたのは柴田儀雄氏だった。柴田氏は南方戦線に出兵しシンガポールから帰国したばかり。ふらふらになりながら「名古屋タイムズ」のテスト版制作に取り掛かかった。問題は紙面のコンセプトだった。
 名古屋のローカル紙として地元記事で埋めなくてはならない。しかし名古屋には中部日本新聞という地元紙がある。中部日本新聞にも報道されない特徴のあるローカル記事をどう取材したらいいのか。読者の中心をどのあたりに置いたらいいのか。
 考えた揚げ句、出した結論は「ローカル夕刊紙として肩が凝らず、しかもしっかりと市民生活に結び付いた新聞。紙面をできるだけ大衆的なものにすること」だった。市民の生活に根差した事柄を、1ひねり2ひねりし、ぐっと読みやすいものに―。こうして同年4月1日にテスト版が完成した。ところがこれに意外なけちがついた。

 ■ふんどし騒動 新聞用紙割り当ては商工省(現経産省)内の委員会で運営されていた。新聞・出版社、中立委員らから成る委員会をくどいたのは中根乾業務局長(後の2代社長)だった。
 「東京にも大阪にも夕刊ができた。今、名古屋の人たちは名古屋にも夕刊紙ができないかと待ちこがれている。名古屋は大都市。夕刊専門誌がないのはおかしい。委員会が駄目だというなら名古屋に帰って早速、市民大会を開いて訴える」
 勢いに圧倒された委員会は「とにかくテスト版を見てみよう」となった。取り寄せたテスト版を見た女性委員がサトウハチロー氏の随筆「ふんどしの話」にかみついた。「何ですか!この低級な記事は」。題名は「ふんどしの話」だが内容は決して低級ではなかったが女性委員は畳み掛けた。「テスト版でさえ、ふんどしの話が出るくらいだから、本刷りになったら、ふんどしどころかふんどしを外した話が出るんでしょう」
 むっとした中根氏だったが、ぐっとこらえてテスト版の作り直しを約束。柴田氏は1回目のテスト版よりやや調子を高くして表現だけは小学校6年卒業の学力があれば読める条件は崩さず再編集して提出。結局1カ月以上たった5月15日に割り当て許可が決まった。

 ■夕刊の鈴は鳴る 創刊は21日。編集はともかく販売、広告はてんやわんやとなった。海の物とも山の物とも知れない新夕刊紙。当時、合販制だった販売店は「売れるか売れないか分からない新聞なんて」と引き受けてくれない。「それなら名古屋タイムズ自身の手で市民に宣伝しよう」と名古屋市内オール立ち売り制とした。
 広告も苦戦した。テスト版を持ってスポンサーを回ったが、品不足の当時、造って売ればすぐに売れるとあって「うちは宣伝の必要がない」と門前払い。広告担当者たちは「新聞が売れればスポンサーの目も開けるのだ。それまで頑張ろう」と毎日歩き回った。
 創刊の日、勝田社長は全社員を前に訓示した。 「人間一生のうちに新聞の創刊号を作り、販売するという機会はめったにない。諸君は幸福だ。焼け野原になったとはいえ名古屋は日本の大都市。やがて復興し発展する。名古屋タイムズも歩調を合わせて成長しよう。今日のめでたい創刊号販売には編集局員以外は全員街角に立って街頭売りに当たってほしい」
 その日の午後、名古屋駅前、栄など市内23カ所に一斉に鈴の音が響いた。台の上に刷り上がったばかりの名古屋タイムズ。鈴を鳴らしているのは「名古屋タイムズ」と染め抜かれた白い鉢巻きを締めた社員たち。
 国民服、軍服、もんぺ姿の行き交う焼け跡の盛り場。鈴を鳴らしながら社員たちは不安だった。「売れるだろうか」。しかし不安は1分もたたずに消し飛んだ。アリが甘い物に群がるように市民が殺到した。長い行列ができた。栄などは5、6分で売り切れ。長い所でも30分とかからなかった。
 戦争のためという理由で新聞が強制的に統制され、用紙が減らされ、名古屋の街から夕刊が姿を消したのは1944年3月4日。それから2年2カ月。さっそうとした夕刊のデビューだった。名古屋タイムズ15年史「読者とともに15年」(1961年発行)はその時の様子をこうつづっている。
 「混乱した世相の中で、誰もが1条の希望の光を見つけたいとあがいていた。そういう人々にとって名古屋タイムズの発刊はまさに希望の光であった。とにかく、何が何でも読まなければ…」。
【写真説明】上=1948年9月、第1回新聞週間にちなんで、中区で行った本社「街頭編集局」の1こま。局次長、社会部長、外勤記者らが日常業務を公開。市民の質問に答え「報道の自由」などを説明。中=1960年1月、校閲で訂正されたゲラ刷りを見ながら、大組みを最終チェックする作業。鉛の活字をピンセットで引き抜きながら、別の活字と入れ替える細かな作業だ。下=1952年当時の本社社会部。エアコンはなく暑い中、シャツ1枚

(2008年10月8日更新)


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