■竹中半兵衛

竹中半兵衛はその後年は藤吉朗の軍師として仕えた。竹中半兵衛と黒田官兵衛の二名が両方ともこの時期に木下藤吉朗の軍師として仕えている。このあたりの事を見るにつけ、この時期の木下藤吉朗には、エンジェルが常にほほえみかけていたようである。両軍師とも性格、考え方が似ていた。ただし共に藤吉朗に仕える前までの境遇は全く異なっている。

黒田官兵衛が藤吉朗と知り合うのは、彼の主君の小寺藤兵衛が「織田家に使いをだしてみよう」と色気を見せ、配下の官兵衛を使いを出す。彼はその時に初めて藤吉朗と出会う。このあたりは今の会社組織に似ている。この時代織田家だけがすべての家臣と一対一で信長と主従関係を結び、信長が中間管理職を決め、実際の実務はその中間管理職に一任された。官兵衛も場合により、柴田勝家、明智光秀、前田利家が上司になったかもしれないのだが、ラッキーな事に(これは藤吉朗にとっても同様だが、)木下藤吉朗が受け継ぎとして上司となった。

一方、竹中半兵衛の事を書くには遠く信長の舅(信長正妻お濃の父)である斉藤道三の時代までさかのぼらなければならない。竹中半兵衛は斎藤道三が「美濃国盗り合戦」で「負けた方」の土岐氏の方と関係が深い。明智光秀もどちらかというと同じである。ついでに書くと織田信長も最初の道三の構想では「取られる側」になるはずであった。最初「お濃」は道三の信長への「嫁」とか言う甘いモノではなく実質は「刺客の指揮者」として送り込まれている。しかし逆に道三自身が信長から「取られる側」の人間になると察知するや、「もはやこれまで」と国盗りの夢をあきらめ逆に信長にすべての国盗りのノウハウを伝授するに至った。このあたりの心理変化を起こす斉藤道三は悪党だけど許せるしおもしろいと思う。

道三の行為(下克上、上司である土岐氏を単なる一塊の民に落とし、その後継におさまった事)はその後 江戸時代から昭和初期にかけて、「仁義に劣る」という事で非難され、歴史上から抹殺されていた。しかしその時の武士というものは、利のある方に付くというのが一般的で、「不利でも仁義があるから、あなたにつく」という武士の方がまれだった。下は上に対し奉仕をし、上は下にその報酬を与えるという契約関係に基づいて上下関係を決定しているといって良い。したがって下は働きに応じて報酬の少ないと感ずれば上を切り(裏切り、殺し、他人の下につく)、上は報酬に対して、働きが少ないと感ずれば、下を切る(殺す、放逐する)。そのような風潮があれば、切られる側も当然対抗処置を取る。よって「下克上」という歴史の教科書にあるような、身も蓋もない説明を中学校の生徒は聞く事になる。

中学校の授業で、「そんな人道的には動物にも劣るような行為をこの時代の日本人はしていた。」だから「自分には理解できない、価値判断の違う人」という当惑をもって受け入れる事になる。 一方、現代ではそんな殺人鬼は蔓延していないから、現代に至るまでにモラルが改善されたと思わざるを得なくなる。よって、

一 この中世の日本人の倫理観は猿以下の倫理観しかもちあわせていなかった。
二 近代までに日本人の倫理観が成長した(モラルを持ってきた)という結論におちつくのである。

中学生が「歴史」を縁遠いものに思えたり、興味をなくしてしまう理由である。しかし私はそうは思わない。彼らは彼らなりに現代と同じ倫理感で動いていたと思う。ただ現代と違うのは「殺人罪」という刑法の規定が無いだけである。しかし「殺人」というのは究極の最終決断手段として履行されていたと思う。現代でも刑法上「死刑」という合法的殺人はある。こういう風に歴史を見るとがぜんこの時代の人間がいきいきと見えてくる。

実はこれに似た例はつい最近にも実はある。アメリカの「西部劇」時代、日本の「太平洋戦争」時代で殺人が横行したとされる時期である。アメリカの西部の一時期、日本の一時期、すべての人間が凶人のごとく殺人を犯した時期が有った事が記録されている。しかし前述の様な事を考えていくと、その時期はすべてアメリカでは「殺人鬼が町を闊歩して、町を歩いていると撃ち殺される恐ろしい時期」だったのか?、一方日本は「アメリカと銃を持って殺しあいをしている恐ろしい時期」だったのか?、そうでは無かったのではないか?、と思えてくる。一方で普通の人間が恋もして、愛もし、子供が父親と食事をし、楽しい会話が流れていた事もあったはずである。かたや日本でも、愛する息子が戦争で死なない様に祈る母親の姿もあったはずである。前述した様な「下克上」の世の中で、半兵衛は狂気に走らず、そのような風潮を冷静に見れる人間であった事は間違いない。

彼が中国の「史記」を愛読していたという説がある。中国にも同じような混乱の時期があって、それを漢の創始者劉邦が終止符を打っている。半兵衛の生きた時代とその時期は似ている。「そのような時期を冷静に生きたのは、史記の文章を彼が参考にしたせいだ」ということであるが裏は取れていない。混乱の時期に「的確な行動をする人間」は必ず「史記」を読んでいるという風に結論づけるのは安易すぎるので私はあまり信用していない。

半兵衛は父(重氏)が勤めていた、道三とその嫡子斉藤義龍(のち土岐義龍)に勤める事となった。息子である竹中半兵衛の上司は道三を後継した龍興(義龍の子)である。父の選んだ上司であり今と違い勤務先は変える事は出来ない。実をいうと別章で書いている官兵衛とのつながりで、彼が「官兵衛の息子の松寿丸を助けたい」と思いつくまでの心理の経過を書きたいのであるが、思いつかないので先に彼の内面的な事を書こうと思う。

価値観の事である。

半兵衛は彼が生きた世の中に蔓延している「相対的な価値観」というものが許せなかったのは間違いない。彼は「相対的な価値観」を著しく嫌悪し、「物事の判断を相対的に決めてはいけない」と思っていた。物事の判断は「絶対的な価値観」で行わなければならないと思っていたに相違ない。それは猪突ながら上司の命令を無視し「松寿丸を生かしてやろう」と決めそれを実行したことでも判る。

諸々の事情で一族の長である信長が「松寿丸を殺せ」と藤吉朗に命令した。その命令は藤吉朗の配下の半兵衛が積極的に自分で進み出て担当する事になったが、この時点で半兵衛は逆に「信長の命令を無視して、松寿丸を生かしてやろう」と決めていて、それを実行した事に注目してみる。むろん「松寿丸を殺す」命令を取り消すように半兵衛は無駄と知りつつ信長に説得を続けている。しかし信長の意志を変えることが出来ないと判った時点で一気に「命令違反」という行動に出た。これは現代なら職務違反無視で解雇処分に相当する。この時代であれば切腹処分は間違いない。

大事なことは「松寿丸を殺せ」という信長の命令は側近のほとんどすべてが「そこまでやる必要はない」と思っていたであろうという事である。しかし一方で「信長が命令するなら、やらざるを得ない」という「相対的な価値判断」を半兵衛以外の織田家の家臣全員が持っていたであろうという事である。この当時天才的な機転で信長とやりとりをしていた藤吉朗でさえ「松寿丸を殺せ」という命令の実行回避は不可能と思っていたに違いない。その中で半兵衛だけが「自分の信念に基づき、それは行わない。」と自分の「絶対的な価値判断」で自己の行動を決定したのである。この時、半兵衛は重い病気にかかっていて近々自分が死ぬことを予知していたというが、仮にそうでなかったとしても、そうしているのでは?と思っている。

そう思う根拠である。

これは半兵衛が過去に、斉藤龍興の居城である稲葉山城を十数人で占拠してしまった後に、信長の命を受けて藤吉朗が使いに出た。「城ごと織田家の家臣にならないか?」と申し出たのである。


稲葉山城(時代により名前が違う。後日、金華山城、岐阜城と呼ばれます。 )守天働児の部屋 管理人さまご提供

それに対する半兵衛の答えである。「これは自分の上司(斎藤龍興)があまりにもふがいないので、今の城はたった十数人でも占拠できるんですよ、もっとしっかりしなさいといさめ、それを実証するために占拠したのです。子供の遊びですからな、(「だからオトナは割り込むな」という事を暗に含ませている)お灸をすえたら元のお館さまに返すつもりです。」 という旨の返事を藤吉朗に返した。

藤吉朗はこの時半兵衛から受けた衝撃が忘れられず、逆に半兵衛に自分の軍師になってもらうように口説き回ることになる。一方半兵衛は、先の諫めが龍興の立腹を当然買い、そのまま隠居生活に入ってしまう。藤吉朗の誘いを隠居している半兵衛は断り続けるがとうとう根負けし最終的に藤吉朗の下でなら(信長の下ではない、織田家のしきたりとしては異例)仕える事を約束する。藤吉朗はその事を信長に願い出、信長も許可した。

絶対的な価値基準をもっている人は「もう1人の自分が心の中にいて、自分がその判断を良いか悪いか検討している訳ではなく、自分の中にいる別のもう1人がこうしろといっているんです。」とよく言うが、半兵衛もそのような感覚を持っていたのではないかと思う。そのような確固たる考えを持っている人間が、自分の死期が近いからそのようにした、なんて考えられない。

最初、官兵衛と半兵衛が藤吉朗の下で軍師同士で面と向かったとき、お互いに相手を観察するような関係であった。藤吉朗以下が城攻めの軍議の際に、地図を見ながら先輩の半兵衛が各家臣たちに担当を決めていく。

半兵衛は「拙者は、ここを攻める、官兵衛殿には、ここをお頼みいたす、」などと指示する。地図が示すいろいろな状況を検討して、官兵衛の攻める所は楽に落とせる所、半兵衛が攻める所は難しい所ばかりを指示するので、最初官兵衛は半兵衛の人格に疑いを持った様だ。今までの官兵衛の人間観察では、そういう人間は少ないという事がわかっていたからだ。しかし事実は新参の官兵衛に手柄を与えてやろうと思っていたのである。それと、難しいところだから自分がやるのだ、難しい所で作戦を立て、困難下で成功を収めるという事が半兵衛の唯一の楽しみにすらなっていたのである。しかしこの心情を理解する人はいない。当然ながら手柄もいらないと言う。自分の武功は、すべて他人に与えていたのである(正に子供の遊びがそのまま続いていたような感覚だったのだろう)。当時このような人間は非常に少ない。しかし、官兵衛は同じ軍師として仕事をするうち、彼の心情を理解し、また自分も同じような嗜好を持っている事に気が付いた為、お互いに親しみを持つ様になった。半兵衛の方も官兵衛が持った心情を理解し、好意を持った事は間違いない。二人は時間が立つにつれ、お互いに同じ価値観をもっている事に気が付いた。その価値観とは正に「絶対的な価値観」である。

官兵衛は若かったのか、自分の絶対的な価値観のよりどころを「キリスト教の神」にも求めてた。しかし半兵衛は絶対的な価値観の根拠を信仰には求めなかった。自分の信念自体に絶対的な確固たるモノがあった訳で、私は半兵衛がそのような価値観を持つに至る背景とはなんだたのだろうか?、と強い関心を覚える。

人間が行動を起こす場合、おおまか二つのパターンがある。確固たる信念に基づき行動を起こす時と博打的に起こす時のどちらかである。人間が実際に行動を起こすパターンは両者が常に混在し、それを微妙に組み合わせて自身の行動を決定している。普通成功する人間の場合の行動パターンは博打的な行動はせず、確固たる信念で計画に基づき行動を起こすが、だからといって百%すべて安全確実な事ばかりやっていては大成功は得られない。 成功した武将というものはいずれもどこかで勝率一%程度の博打的な行動を起こしている。

論理的に無理だと判っていてもそれを行いたいという衝動(モチベーション)に基づき行動を起こす。翻訳する適当な言葉がないのであえて英語を入れるがこれによるモノは大きい。これは歴史上でも証明していて、信長場合は対今川義元への「桶狭間の戦い」であり、 家康の場合は対武田信玄への「三方ケ原の戦い」である。 いずれも勝率十%以下の戦いであった。結果は信長はいろいろな幸運の要因で勝利し、 家康は当然のごとく敗退した。

余談ながら家康の「三方ケ原の戦い」は負けたとはいえ、結果として後々でソロバンをはじくと大黒字であった。この戦いの相手の武田信玄の本当の目的は織田信長だった。信長を打つ為に家康の領土を通りすぎる必要があっただけである。しかし家康は自分の領土を同盟状態にある織田信長を討ちに行く信玄一行が通り過ぎるのを手を加えて見ていたという自分は絶対許せなかったのである。敵は三万、味方は三千、戦をすれば負けるのは目に見えている。家臣すべて、黙って通り過ぎるのを見ているハラだったのだが家康一人が先頭を切って戦いに挑んだのである。結果として大負けし、大切な家臣を多数失った。しかしこの戦いで「家康は恐ろしい」の印象を諸国の武将に与え、信長の信任をより厚くなり、後の豊臣家の時代でも家康のみ、他の武将と違う処遇を秀吉より引き出した。


三方ケ原の戦いの後の家康

この様に絶対的な価値判断を持った人間の背景にはどのような心理があるのか?、興味のある所である。信長と家康関連の色々な小説のあちこちに「早く天下を統一し平和な世の中を築かなければ、民がかわいそうだ。早く天下を統一なされませ」という言葉が君主に向けて投げかけられている。この言葉は信長が同盟の為に家康に再度会った時、小説の家康から出た言葉である。もしこれが事実でなおかつ本心から出たのであれば、家康はたぐいまれな近代の「主権在民」の近代思想をその時にもっていたことになる(これは後彼が行ったいろいろな事柄と合わせて考えると本心では無いと思う)。

確実な事は、自分の領地の民・百姓が豊かになれば、年貢の入りが良く、結果的に自分が豊かになるという事である。大変シンプルな論理である。「自分が豊かになるためには、先に地盤の民・百姓が豊かにならなければならない。 民・百姓が豊かになる為には、戦国の時代を統一しなければならない」という事である。その簡単な論理を冷静確実に実行できるのが家康であった。「自分が豊かになりたいなら、まずあの人を豊かにせよ」という事である。判ってはいるのだが、この時代の武将達が行った例は少ない。家康とは恐ろしい人間である。後に多数の学者が家康を研究する根拠がココにある。

さて半兵衛である。

半兵衛が木下藤吉朗の下に再就職するにあたり、信長よりも自分を口説き落としている藤吉朗に魅力を感じたのは面白い事である。半兵衛が藤吉朗に感じた魅力と官兵衛が藤吉朗に感じた魅力とは多分同じものである。尚、官兵衛が藤吉朗に感じた魅力に関しては「播磨灘物語」に、こう書いてある。

官兵衛はまた1人だけ損をしたように感じた。藤吉朗の前に行くと、彼の顔が全身耳になっていて、一応事前に「これは話さない方が良いと思う事」、「これは耳に入れといた方がいいと思う事」、「これは自分の考え(これは話すまい、)」などと整理して望むのであるが、 彼の前に行って話を始めると、つい思っていることを全て話してしまい、あげくのはてに「こうした方が有利で、作戦としてはこうした方が良いと思う」といった事まで話してしまう。終わると「ああ良いことを聞いた。ではそのようにする。」といって藤吉朗は離れる。後で「自分の思っている事は藤吉朗にすべてを話したが、藤吉朗は自分に何も話していない」という事に気が付く。しかしイヤな気はせず、すがすがしい気持ちになってしまう。後で「損な事だ、」と笑う。

藤吉朗が人を引きつける人間的な魅力をいかにもっていたかという引用である。たぶん半兵衛も同じ様な事を感じていたのは間違いない。
そうやって最強の軍師二名が藤吉朗のスタッフに入る事になる。二人の格を考えると半兵衛が二枚も三枚も上手である。半兵衛は秀吉が三顧の礼で迎えた。いわば口説き落として軍師として入ってはもらっている。官兵衛は播磨の田舎からはるばる信長を頼り「では猿の下で働け」と言われている。入った段階で既に半兵衛は官兵衛の遠く上の地位にいるのである。半兵衛は秀吉の参謀として中枢にいる。彼らが決めた戦略を実行するのが官兵衛だった様である。
逸話がある。官兵衛はかって「秀吉が自分との約束を守らない。」と言って半兵衛に泣きついた事がある。彼は秀吉から貰った証文を半兵衛に見せ「藤吉朗はこの証文の事をなかなか履行してくれない」と言って相談した。(実際にはダダをこねているのであるが)半兵衛はその時その証文を破り捨てて官兵衛にこう諭している。「上に立つものは色々あって、その様な証文を発行しても履行できない事情が多い。 したがって、上に立つ者のその手の約束はそういう物だ、という事を理解しなければならない。」と諭し官兵衛も納得した。(このあたりは自分にとっても訓辞的な話である。)

このあたりの話を聞くに付け、半兵衛は藤吉朗にはもったいないほど素晴らしい教育者だった訳である。藤吉朗はいままで貧農からはい上がり(本当は裕福だったという説もある。)いままで全部1人で考え、自分で処世を行ってきた。彼は生まれてから、半兵衛に会うまで多分「人から教えて貰う。」という事を経験した事が無かった。そういう藤吉朗にこつこつと人生の生きる道、哲学、兵法などと教えていった。藤吉朗にとってみれば目から鱗が落ちる様な気がしたであろう。

このHPを書こうと思った最初の契機の「半兵衛が黒田長政(松寿丸)を命をかけて、信長の刃から守った事」も半兵衛が身を賭けて実践した藤吉朗への最後の教育だった様に思える。彼は藤吉朗に対し「信長に対して懐疑的に見ること」を教えている。彼にとって初めての経験でなおかつ衝撃的だったはずである。多分藤吉朗は混乱したであろう。

藤吉朗の中の「自己の人格」が半兵衛によって初めて引き出される事になった。藤吉朗は信長の身体から引き裂かれる様な痛みを感じたはずである。