久しぶりの(一週間ぶりですね)日曜日。
天気がいいので、掃除をして洗濯をしてふとんを干す。
日経のエッセイが行数オーバーだと言われて書き直す。
どうも字数計算をよく間違える。
ただの足し算なはずなのだが・・・
今回の日経エッセイは「小学校に英語を教科として導入」という中教審の答申(予定)に対する不安と不満を綴ったものである。
教育の現場から繰り返し指摘されているように、外国語というのは母国語習得の後に学べば、母国語を批判的にとらえ返す生産的な契機を提供してくれるが、母国語習得と並行して学ぶと、どちらの国語も不十分にしか運用できない「セミリンガル」を生み出してしまう。
私たちは母語を話すときに文法規則というものを意識しない。
文法規則を学んで「ふうん、ことばってそういう仕掛けになっていたのか・・」ということに気づくのは古文や英語を学び始めてからである(古文は中学生にとってはとりあえず「外国語のようなもの」である)。
バイリンガルというのは、二つの国語を「母語のようなもの」として運用することのできる人であり、定義からして、どちらの言語をも文法規則というものを意識しないで使うことができる。
小学生まで日本にいて、日本語を文法規則を意識せずに使いこなし、中学から高校までアメリカにいて、やはり英語を文法規則を意識しないで使いこなせるようになって・・・という人の場合がそうである。
この人の場合、「言語の文法規則を体系的に学ぶ」ということをどちらの国においても学習していない。
その結果どういうことになるかというと、「流暢なのだけれど、微妙に不自然な言葉」をどちらの国語についても使うようになる。
そして、いちばん問題なのは、「微妙に不自然らしいことは、まわりの人のちょっとしたリアクションからわかるのだけれど、どこがどういうふうにおかしいのか自分には説明できないし、周りの人も説明できない」ということである。
「うーん、なんか変だよね。日本語ではそういうふうには言わないけどね、どうしてか知らないけど」
というようなあたりさわりのない訂正がときどき入るだけである。
もちろんその程度のことなら日常のコミュニケーションには何の不自由もない。
けれども、自分の使っていることばが「母語の自然で規範的なかたちである」という自信が持てないという事実は想像以上に重いものである。
何度も書いていることだけれど、「言葉の力」というのは、それが思考を適切に表現できるヴィークルとして性能がよいということではない。
ある名詞を口にすると、それを修飾することのできる形容詞のリストが瞬間的に頭に並び、ある副詞を口にすると、それをぴたりと受け止める動詞が続く・・・というプロセスが無意識的に高速で展開するという言語の「自律」のことである。
母語運用能力というのは、平たく言えば、ひとつの語を(場合によってはひとつの音韻を)口にするたびに、それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、それに続くべき語の膨大なリストが出現する・・・というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。
「梅の香りが・・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。
「分岐点の細かさ」というのはわかりにくい言い方だが、「分岐点がない言語」を思い浮かべればわかる。
「分岐点がない言語」というのはストックフレーズのことである。
あることばを選ぶと、そのセンテンスの最後までが「まとめて」出力されるようなフレーズだけを選択的に言い続ける人がいる(校長先生の朝礼の言葉とか議員の来賓祝辞を思い浮かべればよろしい)。
ある語の次に「予想通りの語」が続くということが数回繰り返されると、私たちはその話者とコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。
「もう、わかったよ。キミの言いたいことは」
というのはそういうときに出る言葉である。
外国語を学ぶときに、私たちはまず「ストックフレーズ丸暗記」から入る。
それは外国語の運用の最初の実践的目標が「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」ことだからである(ホテルのレセプションや航空会社のカウンターや税関の窓口で)。
「理解される」というのは「それ以上言葉を続ける必要がなくなる」ということだからである。
自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたちである。
それは母語のコミュニケーションが理想とするものとは違う。
母語言語運用能力というのは、端的に言えば、「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」という心的過程を伴った言語活動のことである。
ストックフレーズを大量に暗記して適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プロセスに身を投じることは(結果的にはどちらも「たくみにある言語を操る」というふうに見えるけれど)内実はまったく別のことである。
というようなことを書こうと思ったのだが、違うことを書いてしまった(いつでもそうだな)。
午後に朝日新聞の取材。
ミリオンセラー藤原正彦さんの『国家の品格』について、著者の藤原さんへのインタビューと、私の読書感想を紙面に並べるという企画ものである。
たいへん面白く読みやすい本であった。
藤原さんの言っていることのコンテンツについては、ほぼ95%私は賛成である。
私が「私ならこういうふうには書かない」と思うのはコンテンツではなく、「プレゼンテーションの仕方」である。
「国家の品格」というのは誰が決めるのかということが問題である。
品格というものは本質的に外部評価である。
「私は品格が高い」と本人が大声で呼ばわってもしかたがない(というか、そういうのはふつう「夜郎自大」と言って、「とても品がない」人間に典型的なみぶりである)。
「あの人、品がいいね」というのはよそさまに言って頂くものである。
この本には残念ながら、「よそさま」に「言って頂く」という姿勢が乏しい。
著者は読者として「日本人」(それも「武士道」的エートスを蔵し、和歌を賞味し、自然の美を愛し、「万世一系の皇統」を誇りに思うようなタイプの日本人)を選択的に読者に想定しているように思われる。
おそらく日本に在住している外国人は読者には想定されていない。
英語や中国語に訳されて読まれることも(たぶん)想定されていない。
でも、それって少しおかしくはないだろうか。
日本という国の「国家の品格」について査定を下すのは私たちではなく「彼ら」である。
彼らが読んだときに、この「日本国家の品格を向上させるための啓発的文書」に横溢する自民族中心主義は彼らを「日本国家の品格」にハイスコアをつけるように導くだろうか。
ちょっと無理なような気がする。
私がアメリカ人なら(私はそういう種類の想像ばかりしている人間であるが)たぶんこの本を読んで「けっ」と思うだろう。
この本を読んで日本人読者が「溜飲を下げる」箇所の多くは、外国人が読んだら「むかつく」箇所である。
「溜飲とむかつき」のトレードオフが国際関係論上「有利な」バーゲンであるという判断に私は与しない。
できることなら、外国の方が読んでも「うーん、日本ってけっこういい国みたいだね」と思って頂けるようなものを書いた方が「国家の品格」のためには資するところがあるのではないか・・・というようなことを申し上げる。
ベストセラー相手にこんなことを言うと、せっかく読んで気分がよくなった読者のみなさんが激昂せられて、私はますます世間を狭くすることになるのであるが、仕方がない。
投稿者 uchida : 2006年03月20日 11:04
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今日は「国家の品格」第二章についての大筋と爺の感想です
ここでは藤原氏が「論理」だけでは世界が破綻する理由を四つ挙げて説明します
{/kaeru_fine/}... [続きを読む]
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いろんなところで「もっかい武士道とかいうのはバカげてる」みたいな話を聴いていて、 [続きを読む]
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「内田樹の研究室」には、時々おじゃましているんですが、この母語運用能力と「国家の品格」というエントリーは、今日まで見逃していました。(- -;)
ここで、... [続きを読む]
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「国家の品格」。「バカの壁」よりもハイピッチで売れているらしい。なんだか新書にしてはすんごいタイトルなのでちょっと引いてしまったが,念のために読んでおいた。しか... [続きを読む]
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今日の朝日川柳から(西木空人選)。
最近話題のボクシングネタ。
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(広島市 いぬいかおる)
【評】どん... [続きを読む]
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「武士道」的エートスを蔵し、和歌を賞味し、自然の美を愛、する人になりたい or する人だと思われたい方が百万人もおられるのはなんだかイイコトのような気がしてたんですが、もしかしたら勘違いだったのでしょうか。
それはそうとセミリンガルについて、ちょっと違うような気がしています。
>「流暢なのだけれど、微妙に不自然な言葉」をどちらの国語についても使うようになる
私の周りにもたくさんそうした友人がおりますが、微妙に不自然な言葉を使う頻度は、日本語しか使わない友人と比べてそんなに多いようには思えません。
ウチダ先生がおっしゃるようなレベルでの母国語運用は、(元々才能をお持ちの方以外は)どんな環境で育った人間でも意識的な訓練をしないと身につかないものではないでしょうか。
なんだかうまくコトバにできないのですが(日本語運用能力の限界がこのあたりなのでしょう)、たとえ母国語であっても、なんとなく使っているうちはセミリンガルといわれる状態に近い使い方しかできないのかもしれないと思ったのです。
投稿者 バカヤマびと : 2006年03月20日 11:39
こんにちは。
私は先日「インディペンデンス・デイ」というアメリカ映画を見て、その「けっ」を「けっ」しました。
投稿者 bun : 2006年03月20日 15:00
お正月に、『国家の品格』を読みました。私は非常に感銘を
受け、とても納得させられた者の一人です。
ただ、読み終わった後、ほんの少しだけ違和感が残り、加えて
先日、中曽根元首相と著者の藤原さんが出演されていた
TVでのお話を拝聴していても、同じ感覚がわきました。
それが何なのか、ぼんやりとしかわからなかったのですが、
先生の記事を読ませて頂き、クリアになった気がします。
きっと、「どうだ、おれらはエリートだ。」と、藤原さんが
真のエリートであれ、それを若干主張していらっしゃる
ニュアンスが少しだけ読み取れてしまい、微妙な違和感として私の中に残ったのではないかと思えました。
でも、あまりにオブラードに包んで書かれてしまうと、私の
ような読み取り能力の低い読者には伝わらなかったかもしれま
せんし、難しいですね。
先生の記事、大変勉強になりました。ありがとうございます。
投稿者 E88000 : 2006年03月20日 15:32
以前インドに行ったとき、日本語の出来るインド人から「日本は猟奇殺人と援助交際の国だろ?」と言われて苦笑せざるを得なかった経験がありますが、
まあそれこそ『隗より始めよ』で、外の目を意識するのは先延ばしにしたほうが近道だとしたのでしょうな。
しかし「国家の品格」という書名の本はちょっと読む気になれませんね。(内容はどうあれ)
投稿者 mamodolian : 2006年03月20日 15:55
前半が良くわかりませんでした。わかりにくい文章で、内田先生らしくないなあと思いました。
>ストックフレーズを大量に暗記して適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プロセスに身を投じることは(結果的にはどちらも「たくみにある言語を操る」というふうに見えるけれど)内実はまったく別のことである。
というようなことを書こうと思ったのだが、違うことを書いてしまった(いつでもそうだな)。
書こうとお思いになったことを読んでみたいと思います。
私の甥っ子たちは小さい時から英語を習っていました。なるべく多く英語に触れさせようと母親が機会を作っていました。テープやレコードを聞かせていました。今二人とも外国で暮らしています。一方私は、子供が小さい時彼の日本語の能力に欠けているところがあるような気がして、恐くて英語など習わせる気になりませんでした。現在彼はことのほか英語の成績が悪いのです。これをどう考えればいいのでしょう。幼児教育の賜物と見ていいのでしょうか。それとも言語能力の差と考えたほうがいいのでしょうか。甥っ子たちの祖父という人は科学文献の翻訳をも仕事とする人です。血筋でしょうか。
私はでも自分は間違ってはいなかったと思うのです。きちんと日本語を入れなければいけないときに、英語を入れるのは良くないと思います。甥っ子たちは日本語で良く考えることができたから英語ででも他の言語ででも暮らすことができるのだと思います。考える基を作るのが母語だと思います。
「英語で考えよ、訳してはいけない」というのが高校の英語の教科書の第一単元でした。それを田舎の高校生は和訳して、教わりました。イギリスの人と何日間か毎日会っていた時に、英語で考える必要なんて無いと思いました。モワーとしたものが英語で出てきたり日本語で出てきたりするだけのことだと思います。色んな形で出せるほうがいいけど、考える力を養わなくては伝えるものがありませんよね。まず国語を!です。内田先生折あるごとに大きな声を上げてください。お願いします。私も子供たちといっぱい喋ります。
いつもありがたく読ませていただいています。
母国語運用能力の話は、昔から、なんとなく感じていたことを
ずばり表現していただいたので興奮しました。
いつも感動と尊敬を新たにしています。
内田先生がおっしゃる母語言語運用能力の高さ、つまり「分岐点の細かさ」という考え方を知って、私は、イチロー選手のインタビューでの話し方を思い浮かべました。彼ほど一語一語言葉を選んで話す選手は他にいないと思います。そして我々が予想するようなセンテンスをまず使わない。だから(それだけではもちろんないけど)、我々は彼の話にじっと耳を傾けてしまうんですね。
人の話の聞き方、自分の話し方に関しての、新しい視点を得ることができました。ありがとうございます。
投稿者 EightyEight : 2006年03月22日 22:52
私は日本で15年間教育を受け、この3月に大学を卒業します。
(大学3年時から一年間英語圏に留学しておりました。)
そして思うのは、内田先生のおっしゃる「リストの長さ」や
「分岐点の細かさ」は、学校教育で養われるものではない、と言うことです。
学校が教えられるのは、リストにおける基礎の築き方まで。
リストを更に発展し分岐点を細分化するためには、
自ら読書していく他ありません。
ところで近年、若者の国語力の低下を嘆く声がしばしば聞かれます。
でも、三十代、四十代の方々の国語力もひどく落ち込んでいるのではないでしょうか。
ためしに漢字を書かせてみると、ぼろぼろです。
手前味噌ですが、英語もそれなりに話せる私のほうが余程漢字を知っています。
つまり、英語も話せないが、日本語も書けない人が増えているのではないか、と。
これをふまえると、母語能力の低下と外国語教育の早期導入は
関連性が極めて薄いのではないか、と思います。
外国語を学ぼうが学ばなかろうが、母語を忘れる人は忘れるんです。
母語能力低下の原因は、外国語教育とは別のところにあるのでしょう。
ですから、私は小学校で英語教育を導入することは結構なことだと考えます。
外国語を自然に発音し運用するためには、中学校からでは遅すぎるからです。
また外国語を母語並みに操れない、ということは、
母語でしか知識や情報を得られない、ということです。
日本のメディアのニュース報道の質の低さを考えると、
英語が出来ない日本人は情報を得る上でも非常に不利だと言わざるを得ません。
投稿者 kunjani : 2006年03月23日 10:19
kunjani さん。自信はありませんが、「留学しておりまた。」
という使い方は間違っていませんか?何故なら、「おります」
は「いる」の謙譲語だからです。
こういう事が、母国語運用能力の低下だと思うのですが、私も
低下している者の一人です。どんどん年長者から指摘してもら
いたいと、常日頃考えています。
30代女子
投稿者 E88000 : 2006年03月23日 15:29
申し訳ありません、タイプミスです。「留学しておりました」
の間違いです。
投稿者 E88000 : 2006年03月23日 15:32
E88000様
お返事が遅くなって、申し訳ありません。
「留学しておりました」と言う表現に関して、ご意見ありがたく伺いました。
私も日本語を専門として勉強したわけではないので確信はありませんが、
中学・高校時代に習った文法を用いて考えますと、
まず「留学する」と言う表現は、
名詞である「留学」と「する」が複合して作られた動詞です。
この動詞「留学する」の連用形「留学し」+助詞「て」+『おる』で、
卑語性を加えるとともに、既にあったことを示します。
(余談ですがこの表現の一例として面白かったのが、
坪内逍遙の『一読三歎 当世書生気質』にある以下の表現。
「よ余ツぽどきみ程君をラブ〔愛〕して居るぞう」
…「ラブして居る」って! おしゃれな表現だったのかもしれません。)
この「おる」の丁寧形が「おります」。
これに助動詞「た」がついて過去のことを示します。
以上、動詞の連用形+接続助詞「て」+『おります』の表現は
古くから一般的に用いられている丁重語で、敬語として問題はないかと存じます。
しかし文法をいちいち考えながら母語を使うわけではないのも事実で、
違和感を感じる方の意見も尊重されて然るべきだと考えます。
これからもご指摘お願いします。
投稿者 kunjani : 2006年03月25日 22:32
度々申し訳ありません。追記します。
「おる」それ自体に卑語性があったのは事実ですが、
ここでは謙譲の意を加える、と書くべきでした。
ちなみに下記を参考にしております。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/zyugyou/history/2000/kangaku/yakn03.pdf
母語で改めて文法を考えるなど、慣れない事をするといけませんね。
お詫びして訂正します。
投稿者 kunjani : 2006年03月25日 22:51
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