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スローライフ スローセックス:不妊治療、どこまでやるか

 「不妊治療、代理母についてとても違和感を持っています。人間として、女として生まれたなら、子供が欲しいというのは果たして『正しいこと』なのでしょうか?」とメールを寄せてくれたのはペンネーム「ぶん」さんこと、41歳の女性。

 さらにこう続きます。

 私には一人子供がおります。産んでみて、育ててわかったこと、考えたことは、人はだれかの「幸せ」を補完するために生まれてきたわけではない、ということです。「私」の人生を完成させるために、「この子」は生まれてきたのではないと、力強く思うのです。人が生まれてくるということは、奇跡に近いことだと思います。確かに子供はかけがえのない存在です。しかし、出産は死と隣り合わせでもあるのです。人を死のキケンに晒(さら)してまでも欲しい「子供」とは何なのでしょうか? 子供がいないと、幸せではないのでしょうか? 遺伝的繋(つな)がりとは、そんなに大切ですか? 欲しかったら、どこまででも思いを完遂するまで努力する? 何かとても違和感があります。

 僕をうならせるメールを拝読しながら、しばし沈思黙考の時が流れました。産婦人科領域における不妊治療は今や「花形」です。体外受精・胚(はい)移植、顕微授精、卵子提供、代理母など話題に事欠きません。高度生殖補助医療技術とは言っても、実は畜産の世界での経験をヒトに適用しているだけで、決して新しく、しかも高度な技術が日々開発されているわけではなく、要は倫理の立場から「どこまでやるか」の問題なのです。「患者の要望に応える」という大義名分を振りかざして、国民のコンセンサスが得られないままに技術を提供していく一部の医師の姿勢に対して、僕は以前から疑問を感じていました。そのような意味からは、「ぶん」さんの意見に相通じるところがあります。

 読者にはいろいろなご意見をお持ちの方がいらっしゃると思いますし、現在不妊治療に専念しておられる方には失礼な言葉と受けとられかねないことを承知で、僕の不妊治療観をまとめてみました。高度生殖補助医療技術については、それを提供する医療側あるいは、それを利用する不妊の当事者側が、遵守すべきこととして次の三点を挙げたいと思います。

 第一に、「出生児が幸せに生きられる医療であること」。出生児が健康で幸福に生きるために、双方とも最大限の努力を払わなければなりません。また、親がだれであるか論争を呼び起こしている代理母を選択することについては消極的です。同業者批判とも受け止められかねませんが、産婦人科医の場合、安全な妊娠・出産の管理には熱心であっても、出生児が幸せに生きていけるかという点については、とかく関心が薄いと感じています。「作る」ことに手を貸す側が、「育てる」にまで目を向けた生殖補助医療技術の在り方を考えることが大切です。

 第二に、「第三者の苦痛やリスクを伴う生殖補助医療技術は用いるべきではありません」。卵子の提供を目的とした卵巣刺激と採卵あるいは妊娠・分娩を代行する代理母を認めることはできません。卵巣刺激・採卵はある程度リスクを伴うものです。妊娠・分娩にも苦痛と予期せぬ異常をもたらし、健康を損なうこともあります。このようなことが起こり得ることを第三者に託すのは問題です。

 第三に、「生殖医療に商業主義を取り入れるべきではありません」。生殖医療は善意の範囲で行われるべきで、営利目的の精液銀行や商業主義的代理母斡旋(あっせん)については反対というのが僕の立場です。

 読者の皆様は「ぶん」さんと、僕の不妊治療観に対してどのような感想をお持ちになりましたか。

2008年10月30日

 

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