よそ行きの妄想 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-13

[]金持ちの不幸と貧乏人の幸福 (追記あり

はてなブックマーク - またかよ - good2ndにて、id:kyo_juid:y_arimとやり取りしていてふと思ったことを。


金持ちの不幸は、身の回りのあらゆる些細な問題がその豊富な資産によって大抵解決されてしまうがために、自分の病や死など解決しようのない不安に苛まれることだろう。

貧乏人の幸福は、身の回りに些細な問題が山積しているがために、自分の胃の調子がおかしいことに無頓着でいられることだ。

現実に抱えている不安の大きさ・深刻さで比較するときっと金持ちの方がそれは大きく、大きな不安を抱えている状態のことを不幸と言うなら、金持ちの方がずっと不幸だと思う。人間の生命が有限である限り、不安からまったく開放されることは不可能だから、それをどう誤魔化すかということが要は生きる知恵だろう。

自分が貧乏であることから派生する幸福に気が付かない人は、金持ちになれば幸福になれるのだろうか。


思うに、消費的な欲望の充足の先に幸福なんてない。もちろん、他人との比較でもないし、誰かを不幸にすることでも幸福にはなれない。

当たり前のことだけれども、見方次第によって誰の中にも幸福はあって、それを自分でいかに上手に見つけることができるかどうかだろう。


社会との関係で言えば、社会とは個人が生存するにあたっての「環境」を整備するものであって、その先に万人の幸福があるかといえばそれはまったく別の問題だ。その意味で、我々は突如無人島に放り出されたらおそらく生きていけないのに対して、明日例えば家や職を失ってホームレスになったとしても死にはしないという目処がたつのだから、社会はその役割を十分に果たしている。

そういった社会を形成する上で設けられた経済などのさまざまなシステムがときに人間を疎外するということは確かにあって、その対象となった人が人柱のように見えることは否定しないし、そのシステムは人間と人間の間に格差を設けたかもしれない。金持ちは貧乏人から搾取したカネでより大きな欲望を充足させているかもしれない。でもだからどうしたというのだろう。

健康な人ほど病気の人を不幸だと思いたがるが、病状が昨日よりもずっとましな日や、家族が見舞いに来てくれた日は、健康な人には感じられない喜びを感じているかもしれない。そうして生命をより強く感じることができるなら、病気の人は健康な人よりも幸福だとさえ言えるかもしれない。何かを正当化しているわけではない。可能性の問題だ。機会が平等に与えられていることは望ましいが、結果が平等であることは害悪の方が大きい。現状とは結果だ。そして未来でもある。


結局、健康な人に病気の人の気持ちはわからない。わかった気になっているのは「健康な状態で考える病気」についてだ。いま自分にあるなにか、または自分が欲するなにかが「ない」状態としての理解であって、そこになにが「ある」かは理解できない。

たとえば、ホームレスについて、彼らは差別されているとか、保護するべきだとか、薄汚い欲望を垂れ流しているやからは大勢いるが、あれは自分の欲望をホームレスにただ擦り付けているだけだと思う。ホームレスを欲望の世界に引きずり戻して、一体誰が得をするのだろう。

それが医療であれ、人間の欲望というのは際限がないだけに、逆に意味がない。それを満たしても何も得ることはできない。

「足ることを知る」とはそういうことではないの。


幸福論 (岩波文庫)

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※追記(コメ欄のやり取りを経て。)

私の思う理想の社会とは、道にバナナがたくさん植えられていて、誰でも比較的容易にそれを勝ち取れるような社会だ。困窮者にはバナナを無償で与えよという運動や、僕の持ってるりんごをお食べ的な活動がある社会は少し気持ちが悪いと思う。バナナやりんごを与えられることで、与えられた人は何かしらの枷を負うことになるだろう。バナナを与えられたら次はメロンが欲しくなるかもしれない。

誰しもが自分のためにバナナを植えて、余ったバナナが自然と自分以外にも行き渡り、それが自然に許容される社会がよろしいのではないだろうか。

参照:低所得者が差別されて生存権すら奪われることの「仕方なさ」 - よそ行きの妄想

kyo_jukyo_ju 2008/10/14 09:23 あのー、結局それ貧乏人にだけ「足るを知れ」と言ってるに過ぎないと思うんですけど。
富豪や王侯貴族には金持ち故の悩みがある、むしろ不老不死みたいな解決不可能な執着を抱えてかわいそう、という見方は、貧乏人の「精神的勝利法」としてもありでしょうし、金持ち側がそれを訴えて同情を買う構図もあるでしょう。
しかし、病気や死の苦しみは貧乏人にも等しくある、どころかろくな医療も受けられないだけなおひどい訳で、それが主な悩みの対象にならないのは、他に悩みが多すぎて人としてのキャパを超えるからにすぎません。
しかし、だからといって金持ちは貧乏人と立場を交換したいと思うでしょうかね?あるいは、健康な状態の人は重病人と入れ替わりたいと思うでしょうかね(自分の肉親や恋人などの場合は別として)。
誰でも本人の現状なりの幸福感や不幸感があるという話と、人にとってよい状態・悪い状態があるという話とを混同してはならないと思いますよ。

chnpkchnpk 2008/10/14 09:53 >kyo_juさん どうもご無沙汰しております。
うーん・・そうですかねえ。
金持ちからみた貧乏人は確かに不幸で、なりたくない対象だと思いますが、本当に不幸なんでしょうか。
貧乏人からみた金持ちは幸福そうに見えるのかもしれませんが、金持ちになったら幸福になれるのでしょうか。
医療なんて、本当に誰しもが当然に望むものなんでしょうか。そうは言っても生命にかかわるものですから、最低限の医療という倫理的な線引きは必要でしょうけど。
例えばうちの息子はいろんなおもちゃを欲しがる年齢になってきました。そのくらい大抵は買い揃えてやるくらいの資本は私にはありますが、そういう欲望を順番に満たしてやると子供は幸せになりますか?
私は実際、全然貧乏ではないので、貧乏になりたいとは思いませんが、これは失うことの怖さだと思います。たぶん失ってしまったらこの怖さはなくなるでしょう。


>結局それ貧乏人にだけ「足るを知れ」と言ってるに過ぎない
ブコメでも同様の指摘があったわけですが、そういう趣旨はまったくないと繰り返しておきます。私は足ることを知るようにしようという意気込みはありますが、他人様に強要しようと言う気はまったくございません。
そもそも読者として困窮者を想定していません。私の日記なんかを見る余裕のある人は、大概掛け値なしに幸せだと思ってます。


>誰でも本人の現状なりの幸福感や不幸感があるという話と、人にとってよい状態・悪い状態があるという話とを混同してはならない
これはまさにおっしゃるとおりで、人間として、自らが所属する社会をよりよいものにしていく努力は続けないといけない。ただし、その話と主観的な幸・不幸の話を混同しても仕方がないし、他人を指差して彼らは不幸だと言い放つような行為や他人に何かを与えるような好意はちょっと醜悪じゃないのかというのが本エントリの趣旨です。
この趣旨自体が別に何かの反論にも何にもなっていないのが意味不明かもしれませんが、本当にふと思っただけということでご容赦下さい。

kyo_jukyo_ju 2008/10/14 11:27 最初に、「しかし」が2段落続いてしまったので(恥)、2個目を「そもそも」に訂正しますm(_ _)m

それにしても、good2ndさんの元エントリは社会のあり方や政策の優先順位について物申しているのに、そこから個々人の幸福感(観)の話に行くのはあまりに斜め上過ぎるのではないでしょうか。あまりの斜め上ぶりにポカーンとしながら、あのブコメを書いたのが正直なところです。
ホームレスの話もそうです。ホームレスにも幸福はあるしそれを侵害すべきでないと思うのなら、ホームレスでいることも選べる(それでも生活が保障される、不当な排除を受けない)自由な社会を目指せば良いのであって、人それぞれなんだから介入すること自体傲慢じゃね?という議論は、ただのレッセ・フェールを正当化するものでしかないと思います。

chnpkchnpk 2008/10/14 11:51 >kyo_juさん レスどうも。
斜め上ですね。それは完全同意です。ただの連想ゲームです。議論ではないです。思考の過程を全部飛ばして、突然無作為な点から適当に話し始めるので、昔からよく何を言ってるかわからないと言われます。最近は多少よくなってきたはずだったんですけど。まあ別にそれはいいです。(よくない?)


社会を強化することで、ホームレスの人たちであっても「自然と」何かを得ることができるような状態が理想だと思います。そしてその状態は、弱者に対する同情のようなものの先にあるのではなくて、あくまでも自身に対する欲求の先にあるのではないの、という考えがあります。
ぽの人に見つかるとまた怒られますが、ニーチェの超人思想ってそんな感じだったような。

geulgeul 2008/10/14 14:53 「自然と」のあり方は規制されるべきだと思います。低所得者のために、バナナなり何なり撒いて置いて食べなかったら意味無いわけで、リンゴを皮剥くなり何なりして彼の好みそうな形にして、こちらの世界に彼を連れて来ないと、社会全体の損失になるのではないでしょうか?勝手に相手の立場を解釈して御節介を焼く行為は、唯一、社会に生きていることの証明だと思います。他人の偽装された笑顔を見て、自分の得にする行為は許されるべきです(有閑階級の理論)。

kyo_jukyo_ju 2008/10/14 18:47 >追記
そりゃあそういう社会なら何も文句はないでしょう。そういう状態にはほど遠い(資源の希少性がいつでも問題にされる)社会だから、所得の再分配や弱者救済が必要とされるわけで。

あと、与えられることによるスティグマとか、人の欲望には際限がないから…みたいな再分配にまつわる原理的な問題点について話を続けるとするなら、立岩真也の本とか読むと面白いのではないかと思いました。といってもどの本が良いか謎ですが。短い文章が多い『希望について』とかですかね。
『現代思想』や『Webちくま』の連載をまとめた『良い死』『唯の生』というシリーズ本も出るようなので、それを待って読むのも面白いかもしれません。

chnpkchnpk 2008/10/15 07:05 >geulさん はじめまして。
>「自然と」のあり方は規制されるべきだと思います。
そうですね。そうかもしれません。

ただ、社会全体の損失に関するくだりですが、これはシステムからドロップアウトした人に再び欲望を植え付け、システムに引きずり戻すべきだ、それがシステムのためだというご主張なのでしょうか。もしそうであれば理解はするもののあまり望ましいとは思いません。たしかに、『他人の偽装された笑顔を見て、自分の得にする行為』は許されるべきです。ただその行為は基本的に与える側の得だと思います。ブコメにも書いていただいたとおり、自分を評価するための差別(化)でしょう。差別される方の負担を免除する方策も必要だと思います。つまり、先日ぽまの人から習った言葉(←便利)を使うと、消費的な欲望の負担を免除する新しい欲望のデザインが必要だという話に接続します。
よろしければご参照くださいませ。http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081009/1223530431

chnpkchnpk 2008/10/15 07:08 >kyo_juさん いつもいろいろ教えていただきありがとうございます。
ご推薦の図書、拝読いたします。

geulgeul 2008/10/15 09:51 はじめまして。ホームレスの人権のお話の頃から、こちらは拝見していました。個性的な欲望(?)を与える方策と差別化良くないと言うお話は少し違いがあると思います。ニートに幸せがあっても働かなきゃいけない。過保護まで一つの個性的な幸せの一つとして、捉えたら子離れできない親もニートも絶えないでしょう。誰もが利用できるように職安などを用意しておいても、そうした公共的なものにさえ進行させない人間がいます。この親の欲望を規制しないと、バナナさえ取れなくなります。カプセルは、元々そこにあるものではなくて、歴史的に構築改築されてきたものに人を殺してはいけないなど与えられているのは、人を守るためには盾よりも法が最適だと考えたからだと思います。法はマナーなどに関わり、ある程度の幸せのあり方を抑制します。

chnpkchnpk 2008/10/15 11:05 >geulさん そうでしたか。いつもありがとうございます。
「働かなきゃいけない」のでしょうか。こんなに余剰な生産力があって、供給が過多で、親世代の貯金が余っている状況で、「働いたら負け」と言う判断は純粋に合理的だと思います。


「働いたら負け」を許容したら、誰も働かなくなるでしょうか?私はあまりそうは思いません。働いてこそ得られるものがあるからです。ただつらいだけでカネにもならないスポーツに没頭するのと一緒で、食うにはまったく困らないのに働く人はいると思います。ビルゲイツやウォーレンバフェットは食うために働いているわけじゃないでしょう?


たぶんこれからの時代、「食うためだけの労働」はもはや必要じゃなくなって(←これが私の理想です)、一部の天才みたいな人や浪費を楽しみたい人などが、みんなが食える分くらいの価値を創出してくれるのだと思います。


そうすると問題は、労働を放棄した人がいかにして「欲望」を満たすかでしょう。道に生えているバナナを「勝ち取る」と敢えて表記したのは、食欲だけでない欲望の充足をイメージしてこそなわけです。

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