コラムUNCORK
堀 賢一
テロワールの死(前編)

 近年、「テロワール」という言葉が本来の意味を離れ、単なるプロモーションやマーケティング上の、生産者にとって非常に便利で都合の良い、曖昧な宣伝文句に成り下がってしまったと感じているのは、私だけではないと思います。葡萄品種や栽培・醸造技術が世界的に拡散し、ワインが単純に数値で評価され、多くのワインから地域性や独自性が失われつつある現在、ワインの流通価格をその味わいによってではなく、原料となった葡萄がどこで栽培されたかによって決定させようという主張は、すでに市場で一定の地位を確立している保守的な生産者にとって、当然のことなのかもしれません。

クローン
  私自身が初めて「テロワール」の定義と真摯に向き合わされることになったのは、1994年のことだったと思います。この年、私は大学卒業以来7年間勤めていた洋酒会社を辞め、カリフォルニアワインの仕事をするようになったのですが、これ以降、カーネロス・クリークやセインツベリー、キュヴェゾンといったワイナリーで、ピノ・ノワールのクローン別のテイスティングをする機会に恵まれるようになりました。ピノ・ノワールに多様なクローンが存在していることはこれ以前にも知っていましたし、収量の多さから選抜された劣等クローンのピノ・ドロワがブルゴーニュで問題になっていることも聞いていましたが、「同じ畑で栽培されたピノ・ノワールを、クローン別にテイスティングする」というコンセプトは、当時のブルゴーニュではありえないことでした。
セインツベリーでディジョン・クローンのピノ・ノワールを一口すすった途端、自分が「テロワール」という言葉に抱いていた「こうであってほしい」という願望は、すべて崩れてしまったのかもしれません。
  それは、それまでカリフォルニアのピノ・ノワールの主流であった、「イチゴの香りが豊かでチャーミングな味わいだが、表面的で、本質に欠ける」ものではなく、偉大なブルゴーニュにのみ見つかるような、「表面上は寡黙だが、奥行きを感じさせる、本質の備わった」ワインだったからです。それまで、「カリフォルニアのピノ・ノワールは、コート・ド・ニュイよりも、コート・ド・ボーヌに似ている」と考えていたのですが、このディジョン・クローンのワインは明らかに、コート・ド・ニュイのスタイルでした。
また、当時はちょうど、カーネロスでエアルーム(Heirloom)というピノ・ノワールのクローン研究プロジェクトが始まった時期で、ハドソン・ヴィンヤードとハイド・ヴィンヤードの一部に、ブルゴーニュから持ち込まれたクローン群が畝ごとに植えられており、その挿し穂の供出元にはロマネ・コンティやロマネ・サン・ヴィヴァン、ミュジニー等の偉大な畑が含まれていました。この試験栽培の葡萄は、エチュードのトニー・ソーターによってクローン別に醸造されていたのですが、私には、ロマネ・コンティやロマネ・サン・ヴィヴァン、ミュジニーのテロワールが蜃気楼のように、そのまま反映されているように感じられました。
こうした「テロワールの死」に直面した私が、自分なりの確信を得るためにブルゴーニュを訪問したのは1996年の初秋でした。目的はたったひとつで、私にとってのコート・ド・ボーヌの赤ワインのイメージを形成する上で重要な役割を果たしていたドメーヌの畑に植えられている、ピノ・ノワールのクローンを調べることでした。そして、コルトンの丘で、そのドメーヌの区画に足を踏み入れた途端、私の「こうであってほしい」という願いは、あとかたもなく崩れてしまいました。その葡萄樹はピノ・ドロワで、カリフォルニアで広く植えられている、ポマール・クローンと呼ばれているものでした。私が「コルトンの赤は明るい色調で、チャーミングな味わいだが、本質に欠ける」とか、「ロマネ・サン・ヴィヴァンは濃い色調で、果実香にスパイスが混じり、ストラクチャーがしっかりしていて複雑な味わい」と考えていたのは、実は「テロワール」ではなく、「クローン」の個性だったように思うのです。

定義の乖離
  「テロワール」という言葉が、単なるマーケティング上の宣伝文句に成り下がってしまった背景には、「葡萄畑を取り巻く気候や地勢、土壌といった自然環境要因が、ワインの風味に与える影響」という学術的な用語と、フランス人が「地域性」とか「伝統的な味わい」程度の意味で曖昧に用いる慣用表現との間の、定義の乖離があったと思います。
  ドメーヌ・カミュがつくるシャンベルタンとドメーヌ・ルロワのシャンベルタンの間には、関西のそばつゆと関東のそばつゆくらいの違いがあり、ドメーヌ・ルロワのシャンベルタンはドメーヌ・カミュのシャンベルタンによりもはるかに、ドメーヌ・ルロワのポマールに似ているのですが、興味深いことに、両者とも「自分のシャンベルタンはテロワールを忠実に反映したワインだ」と主張し、暗にもう一方がテロワールを反映していないワインであると批判しています。おそらく、ルロワがテロワールを学術的な意味で使っているのに対して、カミュの方は「伝統的なシャンベルタンの味わい」程度の意味で使っているのだと想像されるのですが、「テロワール」という言葉の定義を誰も明確にしないまま、さまざまな立場の人間が自分の都合に合わせて濫用するため、テロワールという壮麗なコンセプトは地に堕ちてしまいました。
  英語圏において、テロワールは ‘typicity’ という言葉と混用されることがあります。「このキャンティ・クラシコにはテロワールが感じられない」「ティピシティに欠ける」といったふうに用いられるこの単語は、「典型」とか「〜らしさ」と訳すようですが、英・デキャンタ誌のコメンテイターですら、キャンティ・クラシコにカベルネやシラーがブレンドされていることを批判するに際して、不用意に「テロワールが感じられない」という言葉を使っています。ここにみられるように、テロワールは「ワインの香味に現れる葡萄畑の自然環境要因の影響」という学術的な意味だけでなく、「その産地の伝統的な味わい」という因習的な意味でも用いられており、保守的な生産者が意図的にこの両者を混用するために、ワインの流通に携わる人々ですら完全に混乱してしまっています。
  フランスのAOCワインの味わいは、歴史的な連続性の上に築かれています。長い歴史を通じて、特定の葡萄畑では特定の葡萄品種が人為淘汰され、特定の葡萄栽培方法や特定の醸造方法が取捨選択されてきました。父は祖父に、子は父からその味わいを引き継いできました。この引き継がれてきたものもすべてをテロワールに組み入れ、「テロワールは人がつくる」と主張する者もいますが、それではテロワールに関する学術的な議論はすべて、単なる言葉遊びになってしまいます。
  次回は、「テロワール」の定義を「葡萄畑を取り巻く気候や地勢、土壌といった自然環境要因が、ワインの風味に与える影響」とし、その規模によって、ボルドーやカリフォルニアといった大規模なテロワール(マクロ・テロワール)、シャブリやバローロといった原産地呼称上の村程度の規模のテロワール(メソ・テロワール)、さらには畑や区画といった最小単位のマイクロ・テロワールに場合分けして、葡萄畑を取り巻く自然環境要因のワインに現れる、相対的または絶対的な影響を考えてみたいと思います。