2005-08-31 『ちびくろサンボ』より遥かに狂ってる『ちびくろミンゴ』
『ちびくろサンボ』よりすごいお話を見つけました。
その名も、『ちびくろミンゴ』です。
著者は『ちびくろサンボ』と同じです。
本のタイトルは、『ちびくろサンボ』ですが、『サンボ』と一緒に『ミンゴ』も収録されていました。
お話は、以下のような感じです。
正確ではないですが、だいたいの雰囲気を掴んでいただけたら嬉しいです。
ミンゴは、くろんぼの小さな女の子です。
ミンゴには、お父さんもお母さんもいません。
ノギーおばさんと一緒に暮らしていました。
ノギーおばさんはミンゴをこき使い、いつも小言を言いました。
今日もミンゴは、ノギーおばさんから用を言いつけられました。
「ミンゴ、川で水を汲んできなさい。瓶いっぱいに汲んでくるんだよ」
みんごは瓶を頭に乗せ、川の土手に来ました。
水を汲むため、瓶を川の水に浸しました。
川に、ワニがいることに気付きました。
ミンゴは驚いて飛び上がりました。
「お前を食べてやる」
と、ワニが言いました。
あわてたミンゴは、瓶を持たずに、逃げ帰りました。
ワニもミンゴを追いかけようとしたけれど、ちょうど瓶に顔を突っ込んでしまい、前が見えなくなりました。
ワニはくやしがりました。
ミンゴは家に戻り、ノギーおばさんに事情を話しました。
さっきよりも大きな瓶を渡されました。
「この瓶いっぱいに水を汲んでくるんだよ。いいね?」
と、ノギーおばさんは言いました。
「こんなに大きな瓶いっぱいに水を入れたら、重くて持てないよ」
ミンゴはそう言いました。
「2度行けばいいじゃないか。」
ノギーおばさんは、ピシャリと言いました。
ミンゴは瓶を頭に乗せて、もう一度土手にやってきました。
ミンゴがまたやってくるのを待ち構えていたワニは、そろりそろりとミンゴに近付きました。
そして、ミンゴが水を汲もうと、川面に近付いたところで、ワニはミンゴの服に噛み付きました。
「やめてー。助けてー」
ミンゴは暴れたけれど、ワニは構わず、ミンゴをくわえたまま、島へ泳いでいきました。
「島では、わたしのかわいい子どもたちが待っている。まだ卵からかえっていないけれど、明日にはかえるだろう。そしたら、わたしと子どもたちとで、お前を食べるんだよ」
ワニは、我慢できないというように、薄笑いを浮かべながらミンゴに言いました。
島に着くと、ミンゴはどさりと降ろされました。
ワニは、今日食べる獲物でも探しに行ったのか、ミンゴとたくさんの卵を残し、どこかへ泳いで行きました。
ミンゴは困り果てました。
そこへ、誰かが話しかけました。
「ちょっと手を貸してくれないか」
そう言うのは、マングースでした。
ちょうどプカプカと流されてきた瓶に引っかかり、島へ上がって来れない様子でした。
ミンゴはしゃがんで、瓶を引き寄せました。
「ありがとう、助かったよ」
そういうと同時に、マングースはワニの卵を食べ始めました。
すごい勢いで、たくさんの卵を食べていきます。
そこへワニが戻ってきました。
「なんということだ。わたしのかわいい子どもたちが」
そう言って嘆きました。
「抱いていれば、食われることもないだろう」
とワニは言って、抱きかかえながら、居眠りを始めました。
マングースは、またすごい勢いで、卵を食べました。
たくさんあった卵が、もう6個しかなくなってしまった頃、ワニは目を覚ましました。
「あぁ、わたしのかわいい子どもたちが、もうこれだけしかいない。そうだ!こうしておけば、もうマングースの野郎に食べられるまい」
と言ってワニは、6個の卵に、瓶を被せました。
そして、また島を出て行きました。
「ミンゴさんミンゴさん、瓶をどかしてくれないかな」
マングースがミンゴに言いました。
ミンゴは瓶をどかしてやりました。
マングースは、残りの卵を全部食べました。
「これで、ワニと子どもたちとで、あなたを食べてしまうこともありますまい」
マングースは、得意げに言いました。
「むだよ。子どもたちがいなくたって、あのワニはわたしを食べるに決まってる。」
そう言って、ミンゴは諦めの表情を浮かべました。
「この瓶をひっくり返し、ミンゴさんは中に乗るといいよ」
マングースが言いました。
ミンゴは、その通りにしました。
瓶に乗って、海の上を横断しました。
マングースはその横を泳ぎました。
陸に上がると、マングースと一緒に走って、家を目指しました。
ワニが追ってくるのがわかりました。
ちょうどワニの鼻先が近付いたとき、目の前でバタンとドアを閉めました。
家中のドアも窓も、鍵をかけました。
ワニは、家の裏で、ドアが開けられるのを、ずっと隠れて待ち構えていました。
ノギーおばさんが市場で石油とライターを買って、帰ってきました。
ノギーおばさんがドアを開け、家に入ったところで、ワニはノギーおばさんに襲いかかりました。
そして、ノギーおばさんを石油とライターごと飲み込んでしまいました。
ワニのおなかの中で、ノギーおばさんは、手探りにライターを探しました。
ノギーおばさんは、ワニのおなかの中に火を付けました。
ワニが飲み込むときに、歯で、石油の入った袋に穴を開けてしまったことは、ノギーおばさんもワニも知らないことでした。
ワニのおなかは爆発し、ワニもノギーおばさんも、ちぎれちぎれになりました。
意地悪なノギーおばさんがいなくなり、家にはミンゴとマングースのふたりきりになりました。
ミンゴは、ワニの頭を椅子として使いました。
マングースは、ノギーおばさんの使っていたハンカチをワニの鼻の上に乗せ、そこに座りました。
2人は、楽しく暮らしました。
<おしまい>
といった感じのお話です。
先日行った、皮膚科の待合室にありました。
泣いている赤ん坊、「お母ちゃん嫌いだ」と30回くらい叫んでる3歳児、など、待合室にいる子どもたち全員に、読み聞かせてあげたくなりました。
2005-08-28 ヤモリが逃げてった
外に出ました。
ドアを閉めたのと同時に、ドアの上あたりから、何かがポトッと地面に落ちました。
虫かと思い、屈んで覗いてみると、虫ではありませんでした。
ヤモリでした。
ちょうどヤモリだと確認する時間だけ与えくれた彼は、その後走り出しました。
どこに行ったのか、わからなくなりました。
ヤモリが壁に付いている家は、金持ちになるだか、幸せになるだかということを子どもの頃に教わりました。
座敷わらしと同じですね。
ヤモリがいつから付いていたのかはわかりません。
でも、最近わたしが災難続きなのは確かです。
1ヶ月前にバセドウ病が発覚し、先週足の指を骨折し、今日はどうも、水疱瘡らしき疱疹が体中にできました。
小さなヤモリだったので、彼なりに頑張ったけれど、本来なら大きいはずの不幸を、小さくするまでしか、頑張れなかったのかもしれません。
本来わたしは、植物人間になって然るべきだったとすれば、今そうなっていないのだから、ヤモリに感謝しなければなりません。
ヤモリ、ヤモリと書いていますが、イモリだった可能性も、充分あります。
本来受けるべき災難を本来通りの大きさ、タイミングで、受けただけかもしれません。
2005-08-26 おじいさんから差別を受ける
道ばたで、よくおじいさんに怒られます。
ある夕方、無灯火で自転車に乗っていたら、反対側から来た自転車のおじいさんに、大声で怒鳴られました。
「電気、付けろよ〜!!」
そのおじいさん、電気は付けてましたが、公道のちょうど真ん中を走っていました。
またあるときは、私は自転車なのに、右側を走っていました。
段差のある、歩道の上でした。
車を運転していたおじいさんが、右折し、小さな路地に入ろうとしました。
目の前を右折しようとするおじさんを、わたしは歩道の上から眺めていました。
運転に慣れていないのか、なかなか曲がれません。
何度もやり直していました。
わたしは、それをきっと、冷めた目で見ていたことでしょう。
と、おじいさんがいきなりわたしに、「左側通行だろー!!」と怒鳴りました。
おじいさん、それって、八つ当たり……、じゃないですか?
そしてまた別のときは、駅から大型デパートまで運行している、無料送迎バスでのことです。
確か、無料バスが出ていたはずだけど、バス停が見つからない……、友人と2人、途方に暮れていました。
そんなとき、ちょうどバスが来ました。
バス停の前に止まりました。
そこにバス停があったことをそれを見て初めて知りました。
バス停で待っている人は誰もいなかったので、誰も乗らないと思ってバスが行ってしまったら困ります。
駆け寄りました。
バスに乗りました。
老夫婦が後から乗りました。
彼らは、バスの中で私たちに近付いてきました。
おじいさんのほうが、言いました。
「私たちのほうが先に待ってたんだぞ!!」
おばあさんは、「そうだそうだ」というように、頷きました。
バス停から、離れたところで、待っていたようです。
乗客は、その老夫婦と、わたしたち、合わせて4人しかいません。
4人しかいないのに、抜いた、抜かれたもないでしょう。
実は、まだまだあります。
わたしの人生で、はっきり声に出して怒られたことは、覚えているだけで10数回あります。
そのうちの7割までが、おじいさんからの罵倒でした。
他にはおばさん数人、おじさん数人がいました。
舌打ち、咳払い、丁寧な苦情等は抜かして、その数です。
だから、おじいさんは皆、むかつく!死ね!!と言っているわけではありません。ただ、どうもわたしの人生は、他人に怒られること、特におじいさんに怒られることが多いようなので、彼と闘う武器が欲しいと、常々思っていました。
わたしは、怒鳴られると、怒鳴り返せません。
怒鳴られた瞬間、思考が停止してしまい、相手が悪いのか、自分が悪いのか、判断できなくなります。
萎縮してしまい、「すみません」も口にできません。
後になって、自分が悪くなかったことに気付き、イライラムカムカする、というのがいつものパターンです。
http://www.php.co.jp/bookstore/prog/n_detail.php?select=4-569-62581-9を読みました。
中島先生は、『電車の中で注意したことだけでも、もう500回を超えた』そうです。
この本を読んで、わたしの人生の目標は、「他人を大声で怒ること」「怒られたら怒り返せるようになること」になりました。
はたして、身長148センチで、子どものように見えるせいか、他人よりも怒られることの多いわたしに、そんな大それた目標が達成できるか、否か。
2005-08-25 低いところを中心に
ひまです。
雨が降っています。
松葉杖はあるけれど、包帯を巻いただけの足を地面に付けるのは、雨の日にはきついです。
なにか、足に被せるものを買わないといけません。
たとえば巾着袋とか。
コンビ二にも行けないので、チョコレートが食べられず、困ります。
パン焼き機に投入し、くるみパンを作るために買ってあったくるみを食べてしまいたいという衝動と、2時間も闘っています。
お菓子類ならなんでもいいんです。
どうも棚の上にラムネがあるように見えるのですが、踏み台を使わないとよく見えません。
踏み台を使えるくらいだったら、コンビ二にも行ける気がしました。
危ないところでした。
もう少しで、コンビニに行けないから、踏み台を使ってお菓子を探す、というばかをやらかすところでした。
お菓子は、家の中の、低いところを中心に探してみようと思います。
2005-08-24 2人はなかよし土筆の子
足の指を2本、骨折しました。
ベランダで洗濯物を干していました。
ベランダと部屋は、大きめの窓で隔てられています。
部屋に上がろうとしたとき、窓枠の、サッシの部分に足の指が引っかかりました。
指を引っかけたまま、部屋の中に向かって、ズテッと転びました。
イテテテテ。
へらへらへら。
痛がりながらも、自分のドジさ加減に、笑いがこみ上げてきました。
足を見ると、指2本があらぬ方向を向いていました。
絵に描いた土筆のように、中指と薬指が寄り添って、外側を向いているものだから、小指が窮屈そうに見えました。
それは、数時間後に、やたらめったら若い女医さんの手で、引っ張られ、もとの方向に戻されました。
所要時間3秒。
手作業でした。
固定され、松葉杖で帰宅しました。
足には、包帯が巻かれていて、靴も靴下も履けません。
こける前に履いていた靴下を洗濯機に入れようと、ふたを開けると、そこには生乾きの靴下やらタオルやらが入っていました。
あとちょっとで干し終わるというところでこけ、病院に行っているうちに、洗濯物のことはすっかり忘れていました。
見なかったことにして、洗濯機のふたを閉めました。
『さぁ、これから数週間、家で何をしようかなぁ』と思いました。
2005-08-23 片輪だらけ
北海道土産を実家に送ったので、それを食べに実家に帰りました。
眼鏡をかけて、テレビを見ていたら、父に話しかけられました。
「別に、目が悪いわけじゃないんだろ」
目が悪いから、眼鏡をかけているのです。
眼鏡をかけるようになって1年が経ちますが、かけているところを父に見つかるたびに、聞かれます。
目が悪いわけじゃないんだろう、と。
『眼鏡をかけている奴は片輪だ』
子どもの頃から、父がそう言うのを聞いて育ちました。
『相撲取りは太りすぎているから片輪だ』とも言っていました。
父に、わたしがバセドウ病だということを話しました。
『昔は嫌がられたもんだよ。目玉ぎょろぎょろに飛び出るもんだから。』
案の定、そう言われました。
父の姉がバセドウ病でした。
わたしは、そこから遺伝したわけです。
父は、右手の指が3本、第2関節から下しかありません。
仕事中に機械に挟んで、なくしました。
子どもの頃、「朝鮮人」と言われ、石を投げられたことも、あったそうです。
血の繋がらない親戚に、朝鮮人がいたからです。
わたしは、バセドウ病治療のために、まだまだ病院に通わなくてはなりません。
私の通っている、甲状腺専門の病院は、お店のたくさん並んでいる、明るいところに建っています。
先日、病院の目の前の横断歩道を渡っていると、車を運転しているおじいさんに罵られました。
「馬鹿者!!」と。
「この気違いジジイが!!」と怒鳴り返してやればよかったと、後悔しました。
でも、帰りにそこを通ると、ないと思っていた信号機がありました。
きっとわたしは、赤信号なのに横断歩道を渡っていたのでしょう。
戦争で人を殺してきたり、昔さんざん他人を差別してきたりした人たちが、偉そうにしたり、弱そうにしたりして、生きています。
バスの中で、老人に席を譲ろうか、それともバセドウ病のせいで疲れやすいわたしが座っていようか、迷うところです。
2005-08-18 今日も日が暮れる
古本屋で閉店セールをやっていました。
50円と書いてある少女マンガを一冊、レジに持って行きました。
「40円です」と言われました。
店内には、「表示価格より2割引き」と手書きで書かれた紙がたくさん貼ってありました。
まさか、もともと「特価50円」のものまで値引きしてくれるとは思いませんでした。
帰り道、歌いながら歩きました。
「少女マンガが40円 50円だったのが40円 嬉しいな 40円」
自作の歌です。
ほとんどスキップのような歩き方で、コンビニの前を通りかかりました。
渋谷の似合う人たちでもありました。
男女4人組でした。
誰もわたしのことを見なかったけれど、わたしはじっと見ました。
わたしより3つか4つくらい若い人たちでした。
わたしは人生どこで間違ったのだろう。
古本で喜ぶ人間に、どうしてなってしまったのだろうか。
考えても、わかりませんでした。
ただ、コンビニの前にいた子たちと同じ年の頃には、もうすでに古本の10円20円に、一喜一憂していたことだけは覚えています。
今日は、部屋で体育座りして、マンガを読んでいました。
コンビニの前にいた人たちは、今日もコンビニにいるのでしょうか。
それとも渋谷でしょうか。
仕事かもしれません。
日が、暮れてきました。
2005-08-17 東京のばかやろうが
北海道に行ってきました。
飛行機に初めて乗りました。
羽田から函館までの飛行機の中、iPodでずっと長渕剛の曲を聴いていました。
『今日から俺 東京の人になる』
『死にたいくらいに憧れた 東京のばかやろうが』
などという歌詞が、盛りだくさんです。
北海道から東京に出てきたわけでも、これから北海道に移住するわけでもないのに、なんだか厳かな気持ちになりました。
北海道はというと……
そんなに、そこかしこで、ソフトクリーム売ることないじゃないかー!?
と、あきれるくらい、至るところでソフトクリームを売っていました。
東京では、なかなか、おじいさんがソフトクリームを食べているところとか、おばあさんが食べているところとか、おじさんおばさんでも、見かけません。
家では食べているのかもしれませんが、外では見たことがありません。
それが、北海道では、どんな年代の人もソフトクリームを食べています。
人がソフトクリームを食べているところを見るのが、たまらなく好きという人には、北海道は楽園なのかもしれません。
函館は一泊しただけで、あとは北海道の中でも誰も知らないような町に泊まりました。
彼氏の実家です。
初めて会った人たちを「お義父さん」「お義母さん」と呼び、彼の親戚に会うたびに、「お祖母さん」とか「叔母さん」が増えていき、数日でいきなり、わたしの知る人間、わたしを知る人間が、増えました。
耐えられないことです。
いや、うそです。
喜ばしいことです。
その数日前に、東京で、薬を飲んでラリラリになっていたなんて、誰が信じるでしょうか。
朗らかに、てきぱきと、感じよく、北海道で過してきて、東京に帰ってみると、部屋にはガラスの破片とか、雑誌を切り裂いた後とか、ひどい光景がありました。
まぎれもなく、わたしがやったものでした。
2005-08-09 天皇じゃなくても、生きていこうと誓った日
ドラえもんの『もしもボックス』があったら、天皇になりたいと思っていました。
「なんでわたしは天皇じゃないんだ」と嘆き、枕を濡らした夜もありました。
昨夜、その思いがすっかり消えました。
わたしはわたしのままでいたいと、思いました。
わたしの意識が、他の誰かの体の中に入ったり、死んでも残っていたりするよりは、このまま生きていたほうが、まだましだと思うようになりました。
というわけで、小学校の頃から繰り返していた自殺未遂は、もうしなくなりそうです。
今朝起きたらバッグの中に、血のような、錆のようものの付いた、印刷用紙が入っていました。
全く記憶にありません。
体のどこにも傷はありませんでした。
誰の血だか、血じゃないのかわからないけれど、ゴミ箱に捨てました。
2005-08-07 せみに鳴き声で対抗する
洗濯物を干すため、ベランダに出ました。
せみがいました。
天井部分に留まって、ミンミン鳴いていました。
追い払うため、わたしは「グワオ〜〜〜〜〜!!」と叫びました。
せみは、ピクリともしませんでした。
拳を振り上げ、威嚇しました。
せみはピクリともしませんでした。
ティッシュペーパーを丸めて投げました。
当たりませんでした。
せみはピクリともしませんでした。
途方に暮れ、昼寝をして起きたら、せみはいなくなっていました。
ムシキングというものが流行っていると聞きました。
子どもたちが虫を嫌わないとは、良いことです。
わたしも子どもの頃は虫が好きでした。
だから、町内草むしり大会の時には草をむしらず、ミミズばっかり切っていました。
切っても死なないと聞いたので、一匹を10等分くらいにしました。
生きていると思っていたけど、たぶん死んでいました。
アリを潰しては、お墓を作り、お墓を作ったから良いことをしたのだと、思い込んでいた時期もありました。
虫はおもちゃじゃないんです。
生き物なんです。
ところで、ムシキングはおもちゃ屋で買えるのでしょうか。
売っていたら、買いに行こうと思います。
ダイソーに売っていたら、もっと嬉しいのですが。
2005-08-04 シャルレのパンツで、登校日
小学6年生の夏休み。
登校日前日の、夜のことでした。
お風呂に入るため、服を脱ぎました。
パンツに、茶色いものが付いていました。
ウンコ漏らした・・・・・・
と思い、そのままパンツを洗濯機に入れました。
念のため、トイレに行きました。
お風呂に入っている間に、また漏らしたら大変!と思ったからです。
和式トイレに、全裸でしゃがみました。
今度は、便器に赤いものが垂れました。
学校の保健指導の時間に、いやというほど習っていたので、「生理だ」とわかりました。
ウンコではなかったのです。
こんな面倒なことが、40年間も続くのだと思うと、ぞっとしました。
人生の不条理を、憎みました。
立ち上がり、トイレのドアを開けました。
初潮を迎えてからの、第一声を発しました。
大声で、
高らかに。
「おまんから、血ー、出た〜」
母は、台所で食器を洗っていました。
父は、居間で野球中継を見ていました。
姉は、塾に行っていました。
あのひとことは、まだ子どもでいたいという願望の表れだったのかもしれません。
女性性の否定とも、言えるでしょう。
いや、違います。
時間差でパニックになっただけです。
翌日、母の履き古したシャルレhttp://www.charle.co.jp/index.htmlの生理用ショーツを履いて、登校しました。
夏休みは、まだ続きました。
2005-08-01 新聞紙を丸める早さ
昨日、ゴキブリが出ました。
見つけた瞬間、新聞紙を探しました。
ありませんでした。
新聞屋が来ても、白痴のふりをして、追い返してしまうからです。
彼氏は、新聞紙ではなく、ティッシュペーパーを探していました。
ありませんでした。
数日前に切れたきり、トイレットペーパーで間に合わせていたからです。
トイレットペーパーで、彼がゴキブリを叩きました。
尊敬しました。
トイレットペーパー越しにゴキブリを感じても発狂しないなんて、超人としか思えません。
彼にそう言うと、叩くことのできるわたしのほうがすごいと、言われました。
トイレットペーパーで捕まえてトイレに流すことはできても、新聞紙を丸めたもので叩き潰すことはできないというのです。
不思議です。
ふつう、ゴキブリが出たら、即座に新聞紙を丸めます。
ちょうど、競馬場にいる人たちが持っている、新聞紙のように。
父から教わったのでした。
その、ゴキブリの仕留め方は。
そんな父も、先日、還暦になりました。
競馬もいいけれど、たまにはスポーツなんかして、体を動かしてみたらどうかな。もう若くないんだし。あぁ、そうそう、彼のお父さんはね、競馬やらないみたいだよ。だから、ゴキブリ仕留めるとき、新聞紙使わないんだよ。ちょっと悲しいね。わたしの姓も、いつかは変わっちゃうね。変わらないのも困るけどね。
頭の中で、父に語りかけました。
ひとつの伝統芸能が失われる瞬間にしては、あまりにもひっそりとしたものでした。