2008年10月25日(土)
続バカげた記事 2
日本自閉症協会 会報誌 いとしご 2001年 69号 7月8日付
きいて!!「僕のきもち 私のきもち」 本人の頁 より
翻訳は声帯模写芸ーー翻訳者として生きる私−− ニキ・リンコ
結
結局、これが全部結びついて、しかも社会の中でお金をもらえる道が「翻訳」だった。
診断を受けたせいなのか単に若者ではなくなったせいなのか、恥ずかしい理想主義っぽさはもうなくなっていたけど、
世の中を少しは暮らしやすい場所にしたい気持ちは変わっていない。
そして、自分で内容を生まずに、受け売りの情報を再流通させるのが嬉しいことも変わらないし、
頭の中に蓄えた口調や言い回しや文体を再現して聞く陶酔感も変わらない。
翻訳という作業は声帯模写の芸に似ている。あるいは洋画の吹き替え声優さんの仕事にも。
声帯模写の芸人さんや吹き替え声優さんになるには社交性がいまいちでも声帯模写が楽しめるんだからわりとお得だと思う。
コーダ
そんな私が、仲間の本を訳す決心をした。障害を商売に利用していると思われるのも、親に診断のことが知れるのも怖かったけれど、
私が診断後の不安定な時期を乗りきれたのは、英語の文献を読めたおかげだから。
英語を読めない仲間たちのことを思うと、自分の受けた恵みを独り占めするのは申し訳なくて、リスクを負う決心をしたのだった。
おかげで興味本位の視線にさらされることも増えたけれど、心身の安定と仲間への貢献のバランス点をどこかで見つけられたらと思っている。
(ニキ・リンコさんが翻訳した本は図書紹介の頁に掲載してあります。)
日本自閉症協会では、アスペの館をリンクし、東京支部埼玉支部では、
ニキリンコ、泉流星、ペンギン、森口のサイトをリンクし、宣伝に協力している。
アスペの館で、私たち本物のアスペルガー症候群が、どんな思いをしているか知らないのか。
ニキリンコのサイトを見て、私たちが絶望する様を知らないのか。
如何に本当に診断を受けた人間をないがしろにしている団体かよく分かる。
写真は、ニキリンコと森口奈緒美。森口はニキリンコの症状に同調し帽子をかぶって登場。
浅見淳子は頭と頭の毛が不自由。つまりまだらハゲだ。
浅見淳子にしても、泉流星にしても、ニキリンコにしても、髪の付いた帽子、つまり「カツラ」を
みんな一緒に「いっせーのせー」で脱げば、すべての真実が明らかになる。 簡単な話なんだ。
「仲間」って言い方は嫌ですね。
同じ診断を受けている=仲間って、どの疾病でも障害でも多いと思うけど何の連帯意識なんでしょう。それとどうも「定型」と「自閉人」みたいなくくりに馴染めない。それは人のごく一部の要素であって全てではないしそもそも人によって違うので、と思えるのは自分が、自閉があるとしても軽度だからでしょうか。自閉で悩み苦しみ、生活が困難な、自閉度の高い?人たちは仲間意識を感じ、代弁者として、助けられた思いの人も、いるんでしょうか。自分は自閉度が軽い上に、厭世的で前向き(前ってどっち?)でないから、理解できないのか。
>>浅見淳子は頭と頭の毛が不自由。つまりまだらハゲだ。浅見淳子にしても、泉流星にしても、ニキリンコにしても、髪の付いた帽子、つまり「カツラ」をみんな一緒に「いっせーのせー」で脱げば、すべての真実が明らかになる。
あぁそれでカツラをかぶらなければならない必然性にこだわってらしたんですね。今頃わかりました。
帽子は、私は、目深にかぶってると落ち着くので屋内でもかぶるときあります。
なぜニキさんは自分の両親に「診断のことが知れる」ことをそんなに「恐れる」のか?
私の両親は、私が診断されたことは知っています。
我が子が「診断」されたという事実、その根拠を突きつけられた場合、
生後〜青年期までの私の状態を知るのは両親であり、
親子喧嘩の度に私の(彼らから見た)異常性を訴えていた張本人でもあるので、
診断結果には納得したようです。
しかし、母は自分が障害者を生んだとは認めたくない、
父も我が子が障害者だとは認めたくない、
アスペルガー症候群という障害を受け入れられないだけの話です。
私は別に彼らがどう思おうと構いませんので、
ニキさんの説明は私には理解できません。
どうもこの一連の話読んでいるとこの人の話思い出すんですよね。
J.T.リロイ
http://blogs.yahoo.co.jp/kiwa905/42069182.html
詳細はこのURLに行ったほうが早い。
世間をだまし続けた、しかも映画化にされた、というすごいスケールの話になっていますが。
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