2008.07.31 反戦デモ
■[今なら眠れる]
- CRASSやべえ
You're Already Dead お前はもう死んでいる
http://jp.youtube.com/watch?v=3w5AxET519E
Nagasaki Nightmare 長崎の悪夢
http://jp.youtube.com/watch?v=8aHFRwGD47M
Where Next Columbus? コロンブス次はどこだ
http://jp.youtube.com/watch?v=u7D9aoq6wfc&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=mwLDmeEspSA&feature=related
イギリスのアナルコパンクス。凄い有名なバンドらしいんだが知らんかった。不覚。かっこいいじゃないか!この単純なリフかと思いきやぐちゃぐちゃのノイズは何。語りの盛り上げ方は何。ばりばりの直接行動派らしいね FUCK ALL POWER!!!!!!!!!!!!!!!!!!
http://smashingmag.com/dr/00dr/000628crass.html
- こういうのもあるが
NARITA/RIOT
http://jp.youtube.com/watch?v=ng2-uU9043I&feature=related
「暴動」というバンドの「成田」。ジャケットがひどすぎますね。成田とはもちろん成田空港の成田。空港建設反対の三里塚闘争のことです。70〜80年代に活動していたアメリカのハードロックバンドが三里塚の闘争に感銘を受けたということらしいのだが…頭悪そうですね。三里塚といえばこないだ6月に木の根の団結小屋でRETURN OF 幻野祭という、反G8イベントがありました。ヒップホップありノイズありハードコアあり地獄演歌あり三里塚農民バンドありのわけわからんイベントでした。バスクやスペイン、マレーシア、韓国のアナキストも来ていましたね。ちなみに1971年幻野祭の映像が出てますが面白くて、アングラ勢総出演のお祭りとなっています。頭脳警察とか灰野敬二が演ってる横で学生達が口角泡とばし議論しているところにすっぽんぽんになったゼロ次元の人たちがバカ踊りしながら現れてハーレークリシュナ〜なテンションの中高柳昌行や高木元輝、阿部薫ら怖面なフリージャズ勢が突っ込んで行くんですが会場からの壮絶なブーイングを浴び、最終的に突発的に巻き起こった安保粉砕ワッショイコールにかき消されてしまいます(笑)
三里塚農民の闘争は今でも続いていて、木の根の団結小屋も鶏小屋のような鉄塔と覆面パトカーによって24時間人力で国家権力に監視されています。本当にここで何が起きたんだ…という気持ちにさせられます。空港内には農地が沢山あるんですが、アパルトヘイト・ウォールによって囲まれています。東峰神社ではフェンスの隙間から公安警察に写真を撮られる頭上20mを巨大なジャンボジェットのどてっぱらがゴォオオオオオオオオと通過していきます。一人で行くと公安警察に集団で囲まれていじめられるそうです。滑走路のすぐ横にある田んぼもあります。木の根の団結小屋で100人以上が集まってイベントをするというのは初めての試みだったようで、サミット警備戒厳令の中、ポリに潰されるのでは…という危惧もありましたが、無事に終わり。イベントの主旨は、ジャンボジェットの爆音に人民の爆音で対抗するのだ!というものでした。三里塚の野菜と米から作った酒はうまいです。
- INDIAN NO ECHO SIGN BINE NO!
大阪妖怪!涙がちょちょぎれそうです
ドラム叩いてたakamar22!さんのブログ http://d.hatena.ne.jp/akamar1212/
2008.07.30
■[今なら眠れる]
自分が何を聴いたかのメモ
- The far in, far out worlds of Shelley Hirsch(Tzadik,2002)/Shelly Hirsch
シェリー・ハーシュ。1952年ニューヨークはブルックリン生まれのヴォイスパフォーマー。これは甘美で切なくも黒板を爪でひっかいたようにこころざわつく変幻自在な悪夢ヴォイス。たまらない。
http://www.youtube.com/watch?v=2x7DcldAdLI
http://www.youtube.com/watch?v=vR9b2Q9dg1E
http://www.youtube.com/watch?v=dmOJYvVqGg4
http://www.shelleyhirsch.com/shelley/
http://en.wikipedia.org/wiki/Shelley_Hirsch
- Moa Anbessa(Terp,2006)/Getatchew Mekuria & The EX & Guests
エチオピアのゲタチュウ・メクリャがオランダのパンクバンドThe Exとやっている。ハーフジャパニーズが演歌かチンドンをやっているみたいでかっこいい。エチオピアの地獄演歌シリーズも順次紹介していく
http://www.youtube.com/watch?v=dCFLlrQEzEE
- Deliveren(Post,2001)/Sezen Aksu
- Şarkı Söylemek Lazım(Meta Company,2003)/Sezen Aksu
セゼン・アクス。トルコ歌謡の中では一番有名な人。すごく好きです。
http://jp.youtube.com/watch?v=SVIb2Rzh2_g&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=BFZi2lPyDXg&feature=related
- 横浜トリエンナーレ2008にヘルマン・ニッチが来るよ!
2008.07.25 Actual Action <事実行為> VOL.2
■[アウトノーメ]Actual Action <事実行為> VOL.2(1993)から
目次
総力特集 ドイツ★アウトノーメ [西欧ラディカリズム健在の意義]
・ベルリン現地インタヴュー
ドイツ・アウトノーメ運動 ーその歴史・現状・課題を内部から語るー
・アウトノーメ活動家からの提起 1
ロストック、その後ーアウトノーメはネオナチといかに闘うか?ー JAN KRAKER
・アウトノーメ活動家からの提起 2
アウトノーメの歴史的背景とANTIFA運動の陥穽
・RZードイツにおける武装闘争 その歴史と闘い(Actual Action編集委員会)
・『RADIKAL』誌 RZ(革命細胞)とのインタヴュー
・’93年5月1日 ベルリン
革命的メーデー・デモ報告(Actual Action編集委員会)
・新たな<戦闘性ー組織性>の提示 ードイツ・アウトノーメ論ー(Actual Action編集委員会)
・アフロ・アメリカンのアイデンティティ崩壊と映画『マルコムX』(古海洋二)
・I LOVE MILITANTー「事実行為主義」の立場について(内藤メア)
1993.7.31
________________________________
■ベルリン現地インタヴュー
ドイツ・アウトノーメ運動 ーその歴史・現状・課題を内部から語るー
ドイツをはじめヨーロッパ各地でネオナチや支配権力の右傾化と真正面から対決し、これと闘っているアウトノーメ運動については本誌第1号でもその一端を紹介した。
しかしこれまで日本では、このアウトノーメ運動についての歴史も実態もほとんど紹介されていない。いくつかの断片的紹介も、外側からの評論的なものか、または実態から大分ズレたものでしかない。
そこで本誌では、アウトノーメ運動の中心地であるベルリンで、アウトノーメ生成期からの活動家2人、Aさん(女性)とBさん(男性)に直接インタビューして、課題などについて率直に語ってもらった。アウトノーメ運動についての、日本で初めての最もまとまった紹介である。
アウトノーメ運動への係わり方と名称の由来
ーはじめに、AさんとBさんのアウトノーメ運動への係わり方、それぞれの考え方などを自己紹介的に話してください。
<A>私は1981年の住宅占拠運動の時にアウトノーメに係わったので、この運動の中では上の世代になるわけ。
そしてアウトノーメの中では、アウトノーメですら意識化していなかった、男権社会の構造を問題にしたフェミニズム運動を中心にやってきた。
<B>私も80年代の占拠運動の時からアウトノーメに入り、反原発とか印刷活動とかいろいろな活動をやってきたが、90年代に入ってからは、旧東ベルリンでの住宅占拠運動を主にやっている。アンティ・ファシズム運動(ふつうANTIFAと言われている)が、今のアウトノーメの中心的運動になっていて、私ももちろんそれに取り組んでいるけれど、私自身にとってはそれが中心のテーマだとは思っていない。
ーANTIFAが中心のテーマではないとすると、何を中心テーマと考えているのですか?
<B>ANTIFAの運動は、つまりは右翼から外国人労働者や居住者や自分たち自身を守るための運動、ある意味では受身の運動のわけでしょ?
私自身としては、支配権力の総体に対決して、多数の人々がもっとラディカルに前向きに攻勢的に闘えるような運動を中心テーマにしたいと思っている。
ーそうしたアウトノーメ運動の課題は後でもっと十分話してもらうこととして、まずはアウトノーメ運動の歴史、歩みといったことを聞かせてください。その前にまず運動の名称、アウトノーメというと70年代半ばごろのイタリアの運動のアウトノミアと混同しがちなんですが、その関係はどうなんですか?
<A>名前を借りただけ(笑)…簡単に言えばね。
<B>アウトノーメ(ドイツ語)もアウトノミア(イタリア語)も、意味は同じ"自治"だから、広く使われても当然だと思う。
イタリアのアウトノミア運動は77〜79年頃が最も活発だったけど、79年にものすごい弾圧を受けて、何千人かの活動家が刑務所に入れられ、組織的な運動としては潰された形になってしまった。
私たちもアウトノミアの代表的思想家ネグリの本などは多少読んでいたが、思想的にイタリア・アウトノミアの延長にあるとは思っていない。ただアウトノミアは有名だったし、自治という意味も気に入っていたので簡単にそう使った(笑)。
アウトノーメ運動成立の背景と初期の闘争
<A>アウトノーメ運動の成り立ちを言うためには、どうしても60年代から70年代の運動情況から入っていかないと説明しにくい。
60年代のドイツの労働運動、学生運動の流れには、大ざっぱに分けて2つのタイプがあった。ひとつは、思想や運動と自分の日常生活とを分離させたままやるタイプ。理想と思想の実現は未来の革命後ということにして、現実の生活は普通の小市民的なスタイルをそのままにしておくわけ。
もうひとつは、理想や思想を現実的にも可能な限り実現させていこうとするタイプ。つまり日常生活のあり方そのものを”反権力主義”的なものにしていこうということ。そういう人たちはコミューンをつくったり共同保育園をやったり、また男性的権力的社会構造を批判することからフェミニズム運動も生まれたりとか…そうした60年代の運動の流れ、伝統というものがつくられた。
この様な大きな流れからみると、党派というのも、ひとつめのタイプに入るだろうし、アウトノーメはふたつめのタイプの伝統、流れの中から生まれたものと言える。
こうした60年代の運動は、それぞれ下火になっていくわけだけど、このころもうひとつの違う運動が生まれてきた。それはシュポンティ(英語ではスポンテーニアス…自発的な等の意)と言われてきたけど、余りじっくり考えたり、構えたりしないで、すぐ行動する、いわば同時行動的というか〜
ー理論からじゃなくて、まず行動からということ?
<B>そう。そういうタイプの人たちは皆んなシュポンティと言われてたけど、中心は10代の元気な若者たち。とても戦闘的(ミリタント)な反権力活動をやっていた。党派の人たちからは、思想性や戦略性がないなどと批判されていたけれど、何しろ行動的だった。70年代にはそうした運動の流れがあり、従って80年代のアウトノーメ運動は、60年代の”反権力主義、コミューン”の流れと70年代のシュポンティの流れの中から生まれたと言った方がより正確だ。
<A>だから今のアウトノーメ運動のミリタントなやり方というのも、そうした歴史的な流れ、伝統の中から生まれてきているということを理解してほしい。
60年代や70年代前半の時期、ミリタント奈運動というものについては、運動をやっている人々の中では、ある意味で常識化していて何の疑問も持たれてなかった。
それが70年代後半、ドイツ赤軍派(RAF)に対する大弾圧があって、権力やマスコミの力で、武闘派と非暴力派というレッテルでむりやり分けられてしまった。いわゆる「鉛の時代」(映画名)というわけ。党派もこれでほとんどビビってしまった。
ー当時は、党派はいくつくらい残っていたのか?
<A>10くらいかな。それも70年代でほとんど解体し、80年代初めには、みんなやめてしまった。
ー党派にいた人たちはアウトノーメに合流したのかな?
<A>いや、普通の人に帰ったんじゃない(笑)。緑の党に行った人も多いかもしれない。これまで党派のあり方が誤っていたということで、議会内運動にクラがえしていったということ。
それに対し、議会外での直接行動的な運動を求め続けた人々、シュポンティの流れとか、60年代に運動してた人とか、フェミニズム運動の人たちとかが結集しなおして来た。その中でも特に若者が新しく参加してきて、住宅占拠とかユースセンターの占拠とか、80年代初めに入って運動の様相がガラリと変わってきた。
そういう新しい動きの中から、81年にアウトノーメが発足する。さっき運動の名称の話が出たけど、この言葉の最初は『RADIKAL』という雑誌(これは今もある)で、81年後半の記事の中で、「アウトノーメの基本」というのが出た。それがなかなか面白かったので、皆んなが読んだり、勉強会を持ったりした。アウトノーメの偶然的はじまり…。
ーその記事を書いた人はアウトノーメ運動のリーダーシップをとっているような有名な思想家だったんですか?
<B>いえ、誰が書いたのか分からないから(笑)。
<A>ドイツでは、運動誌の記事はすべてトク名。激しい弾圧に対抗するためと、有名人のリーダーシップなるものを否定するという2つの理由から。
<B>だからこの「アウトノーメの基本」という記事を書いた人も、当時はそれがそんな重要な役割を果たすとは思っていなかったんではないか。
書いた人もひとりだとは思えない。そういう記事を書く場合、皆んなで議論して結論を出すというのが普通のやり方だから。
ーなるほどね。このことは初耳でしたね。その記事は今でも読むことはできますか?
<B>『RADIKAL』誌の古いのを持っている人が居ればね。しかし今から思うと、それほど大した内容の記事ではなかったと思うけど、当時は運動している人々にとって、今のように沢山の印刷物があったわけではないし、皆んなが数少ない印刷物を注目して受け止める状況があったし、また自分たちの運動や思いを何か名付けたいという気持ちが強かった。「ああいいな」と思った人がいたーそうした偶然とも言えるものがひとつのきっかけとなって、アウトノーメと名付けられる運動体が成立したーというより、まず運動のベースがあって、名前が後からたまたま付けられたということ。
ー当時のミリタントな運動というのは、どんな運動があったんですか?
<A>もちろん住宅占拠運動が中心だったけど、これは次にまとめてくわしく話すとして、その他のいくつかの例をあげてみると次のような闘争をやった。
まずNATOの軍事基地に対する攻撃。アウトノーメとしては、NATO軍事基地問題を、単なる核兵器配備に反対というだけではなく、帝国主義を問題にした反帝闘争として取り組んだ。
その関連で、81年〜82年にアメリカの国務長官やレーガン大統領のベルリン訪問があったのに対し、すごくミリタントな反対デモをやった。その闘争にはすごい人数の人々が参加した。
その他、反原発運動でも工事現場に直接おしかけていって大勢で占拠したり破壊するなどの闘争もやったし、ユースセンターの占拠闘争では激しい機動隊の攻撃に対し、自分たちの手でこれを守り通すなどのミリタントな闘争がずっと続いた。
80年代ドイツでの画期的な住宅占拠闘争の詳細
ー80年代初めに旧西ドイツで起った、嵐のような”住宅占拠闘争”については、日本でもいろいろ報道され、私たちをふくむ相当多くの人々が知っている。
しかしその報道は、現象面や当時のドイツ、ヨーロッパ情勢との関連での外側からの分析にとどまっていた。かんじんの運動主体の側からの声は全くといっていいほど伝えられていない。
この画期的な闘争について、主体をになったアウトノーメ運動からの報告、意見、そしてその闘争が10年以上も続いて今に至っている中での課題。また90年代に入って、東西ドイツ統一を契機に、東ドイツでも新たな”住宅占拠闘争”が巻き起ったことなどにもふれて、できる限り詳細に語っていただきたいと思います。
<B>まずこの住宅占拠、共同生活という運動については、その前史がある。70年代には、ヒッピーの人たちがベルリンでは3軒くらい占拠してコミューン生活を行っていた。そういう生き方は若い人たちの間では広く知られていたから、80年代に入って住宅占拠、共同生活をやろうというのは、ごく自然に出てきた運動だ。ただヒッピー・コミューンとの大きな違いは、その数が圧倒的に多く、しかも一挙に200軒くらい、4000人もの人たちが参加したということだ。
ー住宅占拠闘争が、4000人も参加して200カ所というと、それは自然発生的にはいかないでしょう?一定の組織的なリーダーシップとか計画がないとできないと思うのですが、その点は?
<B>ところが、そういう運動の全体を計画し指揮したリーダー的組織というのは全くなかった。若者たちを中心にした本当に自然発生的な運動だった。
ただ言えるのは、そうした運動が自然発生する状況というか条件がそろっていたと言える。その時期は、住宅問題にからむいろいろなスキャンダルがひんぱつしていたし、投機のためにわざと空家のままにしておいて、時期をみて高く売り大もうけする人が沢山いたり、建築会社などがからんで地上げしたりとか、住宅をめぐる様々な問題が噴出していた。しかも行政の方はベルリン市長が変わる時期であったりして混乱し、全く手が打てなかった。だからドイツ市民の多くの人々の中にも、住宅問題での憤まんが積もりに積もっていた。爆発寸前といった状況を利用して、住宅占拠闘争は一挙に自然発生したと言える。
ー住宅占拠、共同生活をやろうとした人たちのネライの中心は、そのような住宅をめぐる資本や行政の不正に反対するためか、社会全体に対する叛乱を起こしてやろうとしたのか、または家族制度に反対してやったのか、そのどれなんだろうか?
<A>それは全くいろいろあったと思う。若い人でベルリンに出てきたが住む所がない。そうなれば占拠する以外にない。誰かがやってうまくいった。それに面白そうだから他の若者もやる、といったようなこともあったし、以前から運動をやっていた人は、さっき言われたようないろいろな問題を考えてやったし、それはもうさまざま。
自然発生的ネットワークと”やられたらやりかえす”のスローガン
<A>そのように運動は自然発生的に起こったわけだけど、その中から一定の運動スタイルとネットワークが生まれてきた。
例えば家のない若者たちが、自分たちで仲間をつくった。大学生なら大学生、高校生なら高校生でグループをつくって占拠をはじめる。そうしてそれらのグループ間がそれを手伝ったりもするというようなネットワークが自然に生れた。
そのような運動ネットワークが定着しはじめた中から生れたのがアウトノーメという自然発生的な組織なんだ。誰かが、あるいは指導的組織が初めから中心にあって指示したり、リーダーシップをとったりという運動でも組織でもないのが特徴点。
<B>その上、いったん占拠してからはその街の銀行とか大きな店の窓ガラスを壊すという習慣(笑)がいつのまにかできた。だから占拠者を追い出すと街中で暴動や反乱が起きるということになる。現に80年12月12日(これは有名な記念すべき日になっているが)に、ベルリンのクロイツベルグで占拠住宅に警察が入って追い出した。そうしたら別に計画していたわけでもないのに、大勢の若者たちがワァッと集まって大きな街頭反乱が起きてしまった。デモをやったり窓ガラスを壊したり、バリケードをつくったりという大騒動になった。
当時クロイツベルグには空家がいっぱいあって、普通の市民もこれは問題だという強い感情を持っていた。だからアウトノーメの街頭反乱に対して、そのやり方には批判を持っても、基本のところでは理解するという態度をとった。これは警察にとっても思いがけない反応だったので、これ以後は占拠者追い出しに慎重にならざるをえなくなり、逆に運動の方はますます盛んとなった。
そういうある意味で力関係のバランスという事態をかちとることができ、その中から、ミリタントなやり方への自信と共に、”やられたらやりかえす”という運動スローガンも生まれてきた。
<A>私たちのグループも、クロイツベルグから少し離れたところにあったある大邸宅を占拠した。すごく広い庭があって石なんかも沢山ある(笑)。その庭で石を拾ってビニール袋に入れていつも用意した上で会合なんかにも行く。
その頃、週に一回はクロイツベルグでベルリン全体の占拠者会議があった。だから各地区の情勢がすぐ集る。どこそこの占拠ハウスに警察が入ったという情報が伝わると、1台のバスがあったから皆んなですぐに乗り込んで押しかける。もちろん用意した石を持って。現場で警察とバンバンバンとやりあって、またバスに乗って帰ってくる。途中に銀行があったりすると2人ずつ降ろしてもらって、その窓ガラスにも石をバンバン。
皆んな若くてナイーブだったから、何も考えないでとにかくすぐ身体が動いてしまう。すごいことやってるなんて気は起こらない。皆んながやってるから恐くない(笑)という気持ちもあったんだと思うけど、まあそんな雰囲気。
ーまったくシュポンティだな(笑)。そうすると70年代末の「鉛の時代」の雰囲気はがらりと違った?
<B>そう。「鉛の時代」は79年くらいまでの時期で、80年代に入っていっぺんに変わったけ。そういうレベルでのミリタントな闘争に参加する若者の数はすごく多かったし、党派とちがって身軽にぱっぱっと行動して、皆んな悪いことをしているなんて意識もなく明るくおおっぴらにやったので、権力側も却って弾圧しにくかったんじゃないかな。
占拠住宅を維持するためのいろいろな工夫と考え方
ー住宅占拠をやった後、それをどうやって維持していくのか、共同生活のあり方をふくめて経験や問題点を聞かせてください。
<B>住宅を占拠すると、金はあまり要らない。家賃はタダになるし、電気、水道なんかも自分たちで工事して使えるようにしちゃうし。もっとも中には電気の源を完全にとめられて、2か年、ろうそくで暮らしたというのもあったけど。
だから一か月に一人700マルクくらいもあれば結構良い生活ができるという状態だった。だからちょっとアルバイトして、あとは生活保護をもらう程度で、そんなに金は必要なかった。
<A>住所はみんなちゃんとしたところに(知り合いのところとか)おくわけ。第一、IDカードにちゃんとした住所が登録されてないと、逮捕され起訴された時に保釈で出ることもできないから。
そして共同生活では金はみんな出し合って相互扶助でやる。なるべく労働時間を少なくしながら経済的に維持していく工夫は、60年代末からのコミューン運動の経験を生かしながらやった。
ー若い独身者ばかりだったらそれで成り立つだろうけど、年月が経って子供ができたりするとそれが難しくなったり、あるいは年齢と共についていけなくなる人が出たりという問題は起きないのかしら?
<A>もちろんそうした問題はいつも起こる。子供のことはみんなで費用を負担して何とかやってきたけど、歳をとるにつれてやめる人は沢山でてくる。それは個々によっていろいろな理由があるけど、権力からのしめつけや弾圧も次第に巧妙にかつ厳しくなって来たことが大きな原因にもなっている。
ー80年代から現在まで10年以上は経っているけど、今そうした占拠住宅はどのくらいになっているのですか?
<A>80年代と今とでは状況が相当変わって来て、旧西ドイツの占拠住宅は81年のピーク時に200カ所あったのが、半分以上はこの10年間で追い出され、残りの大部分も契約をかちとる形で維持し続けているというのが現状。
でも90年に入って東西ドイツの統一があり、東ベルリンなどでも新しく住宅占拠闘争が始まったりしたし、10年経って生活経験も積まれて共同生活のあり方や経済的工夫も以前よりずっと上達したので、全体として力量が落ちたということはほとんど感じられない。
今でも、例えばメーデーの時など、アウトノーメ独自の集会に1〜2万人は集まるし、常時の活動家も数千人は動いている。全部が全部、占拠ハウスに居るわけではないけど、いろいろな形でアウトノーメ運動には参加している。
ー80年代、世界的にいわゆる左翼運動が退潮する中で、住宅占拠を中心にアウトノーメ運動がそれだけの力量を維持し続けたのは、本当にすごいことだと思います。その最も大きな理由はなんだったのですか?
<B>81年に最初のピークがあって、10年以上経ってからまた東ベルリンでの住宅占拠とかANTIFA(反ネオナチ)運動とかの大きなピークを迎えたわけだけど、その間にもいろいろな形での運動の盛り上げを計ったこと。その刺激がアウトノーメ運動を維持しえた最大の理由だったと思う。
例えば再処理工場反対のミリタントな闘争には、大勢の人々が参加して驚くような運動の盛り上がりがあった。またメーデーデモにアウトノーメ独自の企画を打ち出して、多くの人々の関心や注目をひきつけるとか、さまざまな運動ピークをつくり出す努力を続けた。
もうひとつの運動継続の工夫として、占拠住宅から離れた人でも、別に思想が変ったのでない限り、あくまで同志としてさまざまな運動グループをつくり、そこに参加してもらった。
大きな運動ピークがない時には、さまざまな共通関心を軸にグループを沢山つくり、あるグループは1年間ずっと学習会を続けたり、または時々小さな抵抗運動を組織するー例えば街中に落書きしたりビラをまいたりとか、ともかく自分の属するグループをもつことをアウトノーメ運動の組織的な基本にしたことが、大きな力になっていた。
こうしたことが住宅占拠を続けている人々の運動的な支えにもなったわけ。
ミリタントな闘争や暴力問題に対する基本的な考え
ー日本では運動のピーク時でない時は、そうしたグループがセクト化して内ゲバを始めたりとか、自分たちだけがハネてミリタントな闘争のみに走るとかいうことが多いのですが、アウトノーメの場合はどうですか?
<A>もちろんグループ間で、大きな集会の中などで論争が起こり、怒鳴りあったりはよくあるし、デモのルートのことだけでケンカになることもあるし、女性グループだけが男性に対して猛烈な批判をあびせたりということなどはしょっちゅう。
しかし仲間内で暴力をふるうということはない。皆んな権力に反対してる左翼だからという仲間意識が基本にあり、内ゲバをやらないというモラルでは、すべてのグループが一致している。
それはアウトノーメの仲間うちだけではなく、例えば緑の党に対しても同じだ。思想的、運動的には緑の党とは大きく違うし、その意味では闘っているけど、暴力的なケンカはしない。社民党に対しては、政府主催のデモに彼らが参加した時などは、卵ぐらいは投げつけるけれど、緑の党に対してはそういうこともしない。
それからミリタントな闘いというのもそれはあくまで権力に対する闘いの中でとられる手段だと考えている。それも時と場合という条件をいつも考慮に入れるし、ましてやそういうミリタントな手段に賛成していない人々をまきこんでやるということもしない。
ーそれはどういう考え方から生まれているのだろうか?
<B>私たちは、革命後の社会は非暴力的なものとしてイメージしている。理想的社会とかその中の人間関係を考えるとき、意見などの違いを暴力で抑えるということでは理想もだめになると思うし、それは現実に運動している間でも実現するように努力しないと意味がないと思うから。
権力に対するミリタントな闘いや、その中で使われる暴力も、それを目的化してはいけないと思う。あくまで闘いのひとつの手段なのだから、いつでもやり方を考えるーこれが私たちの基本的な革命モラルだと考えているわけ。それからもうひとつ言っておきたいことなんだけど、アウトノーメがデモを組織するときには必ず女だけのブロックをつくる。そのブロックは必ずデモの最前列に位置するようにしている。女が独自でブロックを組織するということは、女がよりラディカルでミリタントな闘いを展開していくということでもあるし、同時にデモ中の運動内部あるいは外の男のセクシズム(性差別)にも闘っていくということこういうことは、議論や経験をとおしてアウトノーメの中では普通のこととなっている。だからデモ中の運動内のセクシズムに対して暴力的に抗議しても、だれも内ゲバとは考えない。
コミュニケーションに必要な「場」と印刷媒体の問題
ー占拠ハウスを中心にしたアウトノーメ運動の拠点は、ベルリンだけでなくドイツの各都市にも拡がっているそうだけど、主なところをあげると?
<A>フランクフルト、ハンブルグ、ケルン、シュトットガルト、ハイデルベルク、ブレーメンなど…大きなところは10か所くらいかな。
ーそれだけ運動が広がると、グループ間のコミュニケーションの場とか、情報や意見交換などのための印刷物とかの媒体がとても大事になるだろうけど、その問題はどうなってるのかなどを教えてほしい…。
<B>日常的に集まって情報や意見交換する場としては、ベルリンを例にとれば『EX』(エクス)という、よく知られたカフェ兼レストランみたいな、相当広い場所がずっと以前からつくられている。東ベルリンには小さいけれど沢山のインフォメーションカフェができている。他の都市のほとんどにもそうした場がつくられている。
印刷物についていうとアウトノーメにいちばん関係深いものとして『INTERIM』(インテリム)と『RADIKAL』(ラディカル)の2つがあげられる。
インテリムはベルリン・アウトノーメの機関誌的な役割を果たしているもので週刊。機関誌的といっても編集部の書く論文が中心といったものではなく、1週間以内にアウトノーメの各グループ間での討論や意見交換が紹介されるといったもの。アウトノーメのようなネットワーク型運動・組織にとってはいちばんふさわしい型だし重要な役割を果たしている。
ラディカル誌の方は、アウトノーメにとどまらずもっと広汎なグループ運動を対象にした全国誌。しかも内容は武闘を中心にした非合法出版物。だから連絡先も外国にあり、連絡(投稿など)や配布もすべて国境を超えた非合法の形で行われている。もちろん権力側からのマークや弾圧はきびしく、ラディカル誌を10部持っていただけで、組織的配布者とみなされ、逮捕投獄され1年間の実刑になったりする。
それだけにラディカル誌は特殊だけれど非常に重要な部分についての役割を担っているわけ。ドイツのみではなく世界中に読者を持っている。
インテリムの方はもちろん地下出版ではないけれど弾圧に対する防衛も考えておかなければいけないので、記事はすべて無署名だし編集部も秘密で誰がやっているかはわからないようにしている。投稿なども彼らが持っているポストを通して行うという方法をとっている。
アウトノーメの旗は…?黒と赤、その他で混然一体
ーついでに聞いておきたいのだけれど、アウトノーメの定った旗というのはあるんですか?集会などの印象では黒と赤の旗が一番多いような漢字だけど。
<A>黒赤の旗がたしかに一番多いだろうけど、一定の定った旗というのはない。黒旗に赤い星とか、赤旗に黒い星とかもあったりして、みんなそれぞれの好みで掲げている。まあいろいろゴチャゴチャで混然一体という感じ。
党派の旗のようにこれと一定して分けられたりはしていない。黒い色が多く使われているのでアナキズムに近い思想の人が多いとは言えるけど、アウトノーメ全体がアナキズムということではない。けれど外から見ると、例えば大きな集会やデモの中で、黒づくめのカッコウをしたブロックがあると、アアあそこにアウトノーメが居るんだなと思われることが多い。旗よりもそうしたことの方がめだっているとは言える。
ドイツ社会における”3つの抑圧”そこから生まれるネオナチ問題
ーここから話は、現在のアウトノーメ運動にとって最大の課題になっているドイツでの外国人労働者や難民の問題、そしてANTIFA運動に入っていきたいのですが、その前提として今の段階でのドイツ社会をどう分析しているのか、ということから話してください。
<B>ドイツのみでなく今の資本主義、帝国主義の社会では、”3つの抑圧”が支配的基本構造になっていると分析している。
”3つの抑圧”とは、レイシズム(民族的抑圧)セクシズム(性的抑圧・性差別)そして階級的抑圧の3つ。この3つの要因が混ざりあって、それが今のドイツ社会を支配している。
こうみてくると、今のドイツは30年代のナチズム社会に非常に近い。アウトノーメの中で一番議論されてるのも、この問題だ。ドイツナチズムはいつ本格化するか?…という問題。
ある人は明日にでもわれわれは地下にもぐらねば(笑)と言ったりするし、他の人も、すぐにはそうはならないだろうが危機感を大いに持たねばならないと言う人が多い。一致した意見としては、単にネオナチの動きがどうのというだけではなく、ドイツの国歌、政府、政治家そして社会が右傾化していることを見ぬき、それと闘うことが最も大事だという視点だ。
今のドイツ政府は表向きネオナチを批判しドイツ民主主義を守れなどと言っている。しかし30年代、ヒトラーが政権をにぎる(33年)以前の30年に、すでにSA(ナチ突撃隊)が出来ていてユダヤ人商店を攻撃したりしていた。それに対しヒトラーは「自分はそんな過激なやり方とは関係ない。ドイツの対外イメージが悪くなる。」などと言って国民をだまし、33年には選挙で勝ってしまう。それは今のドイツ政治家と似ている。だからアウトノーメでは昔のナチと今のネオナチとを区別していない。すべてナチと言っているわけ。
<A>そういう視点から言うと、今のナチへの対応には3つのレベルがあると思う。ひとつは、自分たちの住んでる地域を守るということ。これは姿勢としては守りなのだけれど、すごく力が必要。ふたつめは攻撃をかけるということ。こちら側でネットワークをつくり、周到に準備して、彼らの事務所とか集まりとか個々人に対して、こちら側から攻撃してこれをつぶすこと。3つめには、これがいちばん大切でかつ最もむずかしいのだけど、ナチを生み出す根源になっている社会構造ーつまりはレイシズムやセクシズムをなくす闘い。これが最も大事。目にはなかなか見えない。教育とか心理とかさまざまな要素がからんで、そうした社会、人間がつくり出されてくる。この問題との闘いに今いちばん頭を悩ましている。ひとつめ、ふたつめのレベルの闘いだったら身体を張って物理的に抑えこんでいけばいいのだけど、それだけじゃナチを生み出す社会そのものは変わっていかない。
今の社会のあり方を伝えるミリタントな方法
ーそのような社会のあり方を変えていくためにどんな闘いをやっているのか、具体例をあげて話してほしい。
<B>例えばロストックでの闘いもその一例。ロストックの闘いの中で、地元のある新聞社がデモ隊によって襲撃された。オフィスに侵入して、その内部の全てを破壊した。理由は、その新聞が日頃から「外国人が居るために周辺が汚らしくなった。 ナチの外国人排斥行動に理解を持とう」などと報道していた。それに対し徹底的にミリタントな攻撃を加えたということ。
ー日本でも「外国人が沢山集まり上野公園が汚されている」とテレビ局が報道したりしている。
<B>それならその日本のテレビ局を壊しに行ったらいいかもね(笑)。
ーそうしたミリタントな闘いのやり方にはどのような意味が…?
<A>ひとくちに言って、そのようなミリタントな方法をとることによって、今のドイツ社会、その中で重要な役割を果たしているマスメディアのあり方を、少しでもショッキングな形で広く知らせる。そういう意味でこの闘いは有効な方法だった。
というのは、ナチによる難民への襲撃は、何も去年のロストックで始まったわけではなく、西ドイツでは80年代から始まっていて80年代だけでも30人の外国人労働者が殺されている。
90年代に入っても、90年の春、東ベルリンのリヒテンベルクにある外国人(主にベトナムやモザンビーク)労働者のホームが襲撃されている。それ以外にも、マインツァストラッセだとかいろいろなところでナチの襲撃が引き続き起こっていた。
にもかかわらずドイツのマスコミはそれらを殆ど報道しなかった。たまに報道しても、それは一部のスキンヘッズのやったことだとしか言わない。ネオナチ=スキンヘッズというのは誤った意図的につくられたイメージで、実際にはナチのやった犯罪のうちスキンヘッズによるものは1割でしかない。このことは警察も認めている。第一、スキンヘッズのすべてがネオナチではなく、ANTIFAの側にもスキンヘッズは居るのだから(レッドスキンズと言われている)。
こうした歴史的な、そして悪質なドイツマスコミのあり方をばくろするには、ロストックでやったようなミリタントな新聞社攻撃というのは非常に意味が大きいというわけ。
ドイツにおける外国人労働者移民、難民の問題
ーではそうしたナチ(ネオナチ)問題を生み出すドイツの社会問題の典型として大きく浮かび上がった外国人労働者、あるいは、いわゆる移民そして難民と言われている人々の問題にふみこんで話を進めて下さい。そのためには、現在のドイツで、外国人労働者、あるいは移民、難民などと言われている言葉の中身、その意味をまず説明してほしい。正直に言って日本人にとってはその区別も実態もほとんどわかっていないというのが現状だと思うので。
<A>そのことでは日本やアメリカなどとは、その歴史も現状もだいぶ異うと思うので、簡単に説明してみる。
戦後ドイツでは1960年代に入っていわゆる高度経済成長を迎え、大量の労働力不足になった。この時期、国家と国家の契約という形で、多くのトルコ人(そしてトルコ国家に組み込まれたクルド人をふくめ)やギリシャ人、イタリア人などの外国人労働者を国として迎え入れた。
しかしドイツでは二重国籍は認めていないのでそうした外国人労働者は移民ードイツ国籍を持ったーではなく、あくまで外国人労働者(トルコ人ならトルコ国籍を持ったままドイツで働き居住するトルコ人労働者)としてドイツ経済発展の重要な下支えの役割を果たした。
次に90年代に入って、いわゆる東欧共産圏の崩壊、そして東西ドイツの統一という事態になって、難民流入問題というのが起こった。去年1年だけで50万人もの人たちがドイツに入って来た。もっと正確に言うと、旧東ドイツには以前から多くのベトナム人やモザンビーク人が居たのだが、殆どそのまま統一ドイツに残ったし、その他ポーランド人、ルーマニア人、旧ユーゴ人などが大量にドイツに入って来た。ルーマニアから入って来た人たちの中に、ふつうジプシーと言われているロマ人(ジプシーまたはツィゴイナーというのは明らかな差別語なので、ドイツでもロマまたはジンティと今では言われている)が居て、この人たちが今最も敵視されている。
したがって、ずっと以前からドイツに居住しドイツ国籍をとった移民、そして60年代に国の要請・契約でドイツに入った外国人労働者、そして一番新しく入った「難民」と、いわば3つのタイプがあるわけ。この3つを合計するとドイツ国内居住者の10%が、なんらかの意味での外国人で占められているというのが今の状況。
ーだいぶ複雑だし日本とはずいぶん異なっている。で、そうした状況に対して政府はどのように対応しようとしているのですか?
<B>政府もマスコミも外国人を2種類に分けようとしている。ドイツに来て一生懸命働き、ドイツ政府や社会の言う通りになる良い外国人と、難民とか貧しい処から来た迷惑な悪い外国人とに分ける。最近新しくきめた外国人への法律があり、良い外国人への権利は厚くし、悪い外国人への権利をうんと薄くする。それどころかルーマニアからの難民を大量に本国へ送り返したりもしはじめた。
ーそうした外国人に対するアウトノーメとしての基本的な考え方はどうなんですか?
<A>「滞在する権利を皆んなに!」というスローガンをアウトノーメではよく使っている。これは何もドイツだけではなく日本でもどこでも、誰もが自由に来て世界中が混在、混住すればいいというのが基本的な考え方。
そうなるとドイツとか日本とかこれまで良いめをして来た国の人たちの生活は変わるだろう。世界中で食べ物を平等に分けたら今までトクしていた人たちの生活水準は当然下げなければならない。でも食べられなかった人々が、平等に食べられるようになるというのは、すべての人間にとっての当然の権利だと思う。外国人の滞在を法律で合法化させようという考え方は、手段としては考えられるがそれを目的化すると、やはり差別・選択につながってしまう。緑の党の方針はその傾向が強いので、われわれは反対している。
外国人労働者との共闘とその中での問題点
ー政府やマスコミが外国人労働者を良いものと悪いものとに分断しようとしている中で、去年起こったネオナチによるトルコ人労働者・家族を襲撃して殺害した事件はどう見るべきなのですか?
<B>政府などの、そうした巧妙な政策(対外配慮を意識した)にくらべると、ナチの方はもっと単純だから外国人を全て同一視した排外主義感情を煽っている。だから今ドイツに最も多いトルコ人をねらったのだろう。
トルコ人労働者は60年代、ドイツ政府の要請でドイツに来た人々だ。つまり政府にとっては良い方の労働者だ。それをナチが襲ったので、政府もあわててナチ批判声明を出し追悼集会にも顔を出した。こんなことだと今ドイツ政府がトルコ人労働者全体やトルコ国家、世界中から非難なれ孤立することを恐れている。
ーそういう状況もふくみこみながらアウトノーメとしての外国人労働者との共闘の問題はどうなっているのか?特に最も多いというトルコ人との共闘問題を中心例にしながら話してください。
<A>ひとくちにトルコ人労働者といっても数が多いし、その中には当然右翼もいれば左翼もいてそれぞれの政治組織をつくっている。その上クルド人はまた別の独自要求や組織を持っている。
トルコ人の右翼や社民党は共闘の対象にならないからそれを除き、左翼系の各グループとの共闘を試みている。ところが左翼系グループも沢山あってそれぞれが対立しあっている。
だからデモや集会などでaというトルコ人グループに話しかけて仲良くなろうとすると、他のb、cのグループはもう近寄ってこない。
しかもトルコ人の政治グループは、組織づくり運動づくりのやり方が、伝統的な古い左翼政党のそれなの。だからアウトノーメの組織づくり運動づくりとは大きなズレが出てしまってとてもむずかしい。だから具体的な何かのイベントとかクルド問題とか軍事政権反対とかいうことでは共闘できるのだけれど、それを恒常的な共闘関係にしていくのは困難な問題が多い。もう5年以上もかかわってきているのだが、それでもまだうまくいっていない。
だからアウトノーメ全体でというより個々のグループごとに、あるグループはトルコの若い子たち(キッズのギャングと言われている)のグループにコンタクトしたりしている。そういうキッズたちはメーデーの時なんか反乱が起きて暴れられるから面白いとか言って関係してくるけど、それ以上はなかなかポリティカルな面には入ってこない。
フェミニズム運動の例でいうと、状況はもっときびしい。トルコ社会は歴史的に男権社会だから社会的政治的に女性の位置が低い。もっちろん女性グループというのはあるのだけれどそれはフェミニズムを基にしているのではなくて、政治組織のメンバーとして女を育てるという視点でつくられている。だからフェミニズムでつながりができると、そうした女性たちは組織から追い出されてしまい、個人的なつきあいになってしまう。このことはクルド人の場合も共通して言える。
でも、例えば3月8日の国際婦人デーなんかは、左翼系の中では知られた記念日だから、トルコ、クルド、イラン、チリなどの女性グループや個人が参加してくるので、この形での接触をもう5〜6年間続けている。そういう息の長い運動を続ける中から、少しづつでも理解を深め合おうと努力している。
より複雑な難民グループとの共闘関係づくり
ートルコ人労働者のように以前からドイツに定着している人たちではなく、新しく入って来た難民といわれる人たちとの共闘関係づくりについてはどうなのだろうか?例えば住宅選挙についていえば、かれら難民の方が一番住宅には困っているのだから、かれらと一緒に住宅占拠闘争をやれないのだろうか?
<A>現実問題として難民の人たちは身分が不安定だ。パスポート問題ひとつをとりあげても。だからいつ捕まるか分からない住宅占拠をやるというのはなかなかむずかしいわけ。
とは言え身分の安定した白人だけが住宅占拠をしているのは基本的におかしいという批判が出て、アウトノーメとして去年の冬、ベルリンの工業大学の一部を難民と一緒になって何週間か占拠し続けたことがある。
そうしたら10数か国、何百人もの難民の人たちがやってきて一緒に暮らしはじめた。そうすると大変なの。言葉だけでも10か国以上の言葉。会議一つやるにも10人以上の通訳が必要。その上、子どももいれば老人、病人等々、それはそれは想像以上に大変なの。しかもいつ弾圧が入るかも知れないので夜通しの見張りも必要だし。
そんな困難と混乱の中で、決定的な問題、事件が起きてしまった。難民の男何人かが他の難民の女性を強姦したの。支援している女性たちもずいぶん悩んで、難民の女性たちのグループをつくったりして、この問題にどう対処するか何度も話し合った。女性たちとしては、その男たちを追放したかった。しかしこういう問題についての、各国の人たちごとに考え方や反応の強弱に大きなギャップがあって意見がまとまらない。ごたごたする中でとうとうこの占拠闘争はうち切りになってしまった。
こうした例をひとつとっても、各国からの多数の難民が住宅占拠し共同で暮らすことの複雑さ困難さということが、つくづく分かった。しかしこういうことも具体的に行動しやってみなければ分からなかったということでは、プラスの経験にもなった。現にこの闘争以後、アウトノーメと多くの難民ホームとのコンタクトが強まり、ナチの攻撃とかいろいろな問題が起こればすぐに電話連絡が入り、皆んなが直ちに支援にとんでいくという体勢がとれるようになった。
オルグするというより自立組織化を支援する
<B>外国人労働者や難民の人たちとのこうした困難の多い共闘を何年も続ける中で、われわれが学んだことは次の点だと言える。
外国人労働者や難民の人たちに対し、外側から働きかけオルグするというのではなく、その人たち自身の中で自ら考え動こうとするセルフ・オーガニゼーション(自立組織化)の動きをわれわれが支援するということが、何よりも大切だということ。
各国ごとに異なった文化、歴史、社会構造を持っている人たちに、外側から自分たちの考え方を持ち込んでオルグしようとしても、決してうまくいかない。それは押しつけになるか、逆に、自分たち自身の原則を曲げたり捨てたりすることにもなりかねない。
外国人の中からも、自分たちの伝統的な考え方、あり方について疑問を持ったり、もっと深く考えようとする人たちが必ず出て来るし、現に出て来ている。そういう人たちが自ら考え動こうとする自立性が生まれてこそ、はじめてそこでわれわれとの共闘関係も生まれてくる。
これがこの数年間、アウトノーメとしてやった外国人労働者や難民の人たちとの共闘の中でつかんだ、今のところの結論だと思う。
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<インタビューを終えて>
ドイツ各地で、しかもアウトノーメ生成期(それ以前もふくめ)からの古い活動家であるA、B両氏から、運動内部にいるものでなければわからない、貴重で率直な意見をきくことができた。両氏にあらためてお礼を言いたい。
ドイツ・アウトノーメのように、自由連合的でしかも戦闘的な大衆運動・組織が10年以上も続き、さらに力を増大させている例を私たちは知らない。例えばベルリン(広さは東京都の一区強ぐらい)のメーデーには、アウトノーメ独自で1万5千人以上を動員し、しかもナチや機動隊と真正面きっての暴力的対決をし、街頭反乱を毎年貫徹する。
このような強さと運動的、組織的な広がりを持てた理由を、このインタビューを通して初めて知った。
日本でも自由連合的な大衆運動としてはベ平連その他数多くの市民運動的経験を持っている。しかしそこにはアウトノーメ的な戦闘力、ミリタントさはなかった。また武闘組織としては各党派軍団や反日武装戦線の経験を持っている。しかしそこには、アウトノーメ運動と密接な関係をもつ武闘組織・RZのような大衆性・日常性は持てていない。
アウトノーメ、RZが両者それぞれにつくりあげてきた、そして今なおさらに強く大きくつくり出しつつあるユニークさについて、われわれが学びとらねばならない教訓や課題は限りなく存在するであろう。(Actual Action編集委員会)
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■アウトノーメ活動家からの提起 1
ロストック、その後ーアウトノーメはネオナチといかに闘うべきか?
JAN KRAKER
1992年10月3日、ドイツは再統一(と言うよりはむしろ西ドイツによる東ドイツの併合)2周年を「祝った」。ドイツの極右と極左は、この日祝典に抗議するデモを行った。極右はすべての外国人、難民の国外追放を求め、そして極左はネオナチの暴力を非難し、すべての亡命希望者に対する国境の開放を求めた。
ドイツの国内政治秩序は、ここ2ヵ月の間で、非常に不安定な様相を呈している。それはことに、旧東ドイツのロストックで、ドイツの至る所から来たネオナチの若い一味が一連の人種差別的迫害ー前代未聞の激しい組織的、暴力的襲撃を起こして以降のことである。ロストックでの襲撃は、8月22日、難民収容所前での外国人反対集会で始まった。この集会は、少なくとも5週間前にネオナチ組織によってあらかじめ計画されていた。警察への内報があったにも関わらず、襲撃が始まった時その場に居合わせた警官はたったの20人であった。少なくとも100人のネオナチの若者が収容所の窓を打ちこわした。すぐに警官100人が増員されたが、間に入って襲撃を止めようとしなかった。そのため、襲撃は深夜まで続いた。数え切れないほど多くの住民が、襲撃現場のすぐ近くに立ち、拍手喝采を送っている映像をテレビが流した。
日曜日の夜(襲撃の2日目の夜)も、警察・機動隊は襲撃を妨げなかった。今回、ネオナチは火炎ビンを用意していた。ネオナチは非常によく組織されているようだった。ハンブルグから来た極右”National List”党のクリスチャン・ヴォルフが現場で指揮をとっていた。ネオナチの中心メンバーは携帯用無線電話機(さらに警察無線!)を使って、襲撃の組織化を促進した。
警察が明らかに襲撃を妨げなかったという事態は、次のことを意味していた。つまり、警官隊の少数部分がネオナチによる襲撃に対し遠回しの賛意を示した、あるいは、ネオナチによる襲撃準備を手伝うことすらしたーそのどちらかだということを。反ファシスト60人が現場に着くやいなや、警官が彼らを乱暴に追い散らしたことが、そのことを一層明白にした。日曜の夜、少なくとも60人の反ファシストがロストックで逮捕され、その多くが、ネオナチで溢れかえった監獄にブチ込まれた。警官は明らかに、監獄の中でネオナチが反ファシストをブチのめすのを見物したいと望んでいたのだ。
ロストック難民収容所の襲撃は、1年前のホイエルスヴェルダ事件と同じく、月曜日までの3夜連続で起きた。難民はそこから避難させられた。それはある意味でネオナチの「成功」であった。その上、このロストック事件に鼓舞されたネオナチは、少なくともドイツの10カ所の都市で、ロストック事件以降数晩連続して暴動を起し、難民センターを襲撃した。ロストック事件以降何週間も、ドイツの至るところで、ネオナチによる火焔瓶襲撃や刺傷襲撃があった。
9月2日、Ketzinの難民センターが全焼した。ちょうど2日後には、Leverkusenで同じことが起きた。Halleでは、子供を含むベトナム難民12人が巡回中のネオナチに襲撃され、重傷を負い病院へ送られた。
反撃のデモ
1992年だけに限っても、ドイツでは2000件以上もの襲撃行為がネオナチによってなされており、死者は15名、負傷者に至っては数えきれないほどである。
記憶に新しいものでは、11月20日、ベルリンの地下鉄構内で外国人をリンチしていたネオナチ集団が、偶然出くわしたアウトノーメ活動家らと乱闘になった末にアウトノーメ/スクウォッター青年ジルビオ・マイヤー(27歳)を刺殺した事件が挙げられる。その時、他のアウトノーメ・メンバー2人も負傷した。ジルビオ虐殺の夜、アウトノーメはただちに抗議行動を展開し、ネオナチと衝突した。戦闘的抗議デモでは、警官の暴行で少なくとも37名のアウトノーメ活動家が負傷している。翌週、クロイツベルク地区周辺では、アウトノーメとトルコ人青年らが警察当局と戦闘を交えた。
11月22日、事態は最悪の状況となった。ネオナチ・スキンヘッドらはトルコ人家族数世帯が入居中のアパートに火炎ビンを投げ込み、女性2人と少女1人を焼死させたのだ。他、負傷者は9人にものぼった。
この虐殺に抗議し、トルコ人青年らは口々に報復の誓いを叫んだ。
「奴等1人に対し、100人のトルコ人をもって、あの世へ葬ってやる!」
あらゆるところでナチを攻撃せよ!
ロストック襲撃事件以降、ネオナチが組織的に攻撃に出たという事実は、しかしながら、ネオナチに対する抵抗がなかったということを意味するわけではない。キリスト者、市民運動家、緑の党たちは、難民センターの正面での不寝番を組織した。ーだが、彼らはつま先にスチールの入った編上靴をはき、石やビンを持ったほんのごくわずかなスキンヘッズによって蹴散らされた。このような取り組みとは対照的に、アウトノーメ、ANTIFA(Anti-Fascist-Action)は、ネオナチと街頭で対決した。
ロストックの襲撃発生から1週間後、大規模な反ファシストデモがロストックで行われた。襲撃が行われた週、ネオナチに対して配置された警官はほんのわずかだったにもかかわらず、到着したANTIFAのデモ隊には少なくとも2000人もの警官が、即座に「治安維持」のため投入された。ANTIFAのデモは、他の都市でも行われ、しばしば警官やネオナチとの衝突になった。
11月8日、ドイツの政治、経済の「代表者」らがベルリンで「人種差別反対デモ」に参加したが、これはドイツが国際市場でイメージを損なわないためのたんなるポーズであったことは明白である。この時、首相コールは「デモ隊列」の最前列に並んで行進した。難民の送還手続きをより一層容易にするため、ドイツ国家に非常事態宣言を発動しようとしている人物が、である。コールには石や腐った果物などが投げつけられ、警備隊はあわてて「救助」に向かった。またアウトノーメ部隊が演説用スピーカーを破壊し、大統領ヴァイツゼッカー目がけて次々とタマゴを投げつけ、演説を中止へと追い込んだ。テレビ中継では、機動隊の盾に守られるドイツ国家官僚ら偽善者の姿が映し出されていた。
このような公然とした大衆的行動とは別に、アウトノーメはドイツ各都市で、右翼の活動拠点になっている建物(右翼のバーやユース・センター、極右政党の事務所)を攻撃するという非公然・非合法行動によってもまた、ネオナチに返答した。”Red Anti-Fascist Fraction”(RAFと略し、ドイツ赤軍派・RAFをもじったもの)と自ら名のるグループはアーレンスフェルデのファシストが組織しているセンターを全焼させた。ロストックでは”アントニオ・アマデオ・コマンド”(アントニオ・アマデオとは、1990年エベルスヴァルデでネオナチによって撲殺されたアンゴラ人の名である)が、襲撃された難民センターからわずかしか離れていないファシスト青年グループの共同センター”MAX”を破壊した。
ナチの政治的・文化的拠点である建物へのこのような攻撃は、ドイツではここ数年間、ごく頻繁に行われている。ロストックの襲撃事件は、このような(非公然・非合法)行動に対する要請がさらに急を要しているという認識を新たにさせた。とりわけ、アウトノーメの運動状況が沈滞しているように思われ、他方、ネオナチの活動が人数においても、組織性においても前進しているように思われることからも、そう言えるだろう。アウトノーメはこの他、難民の移送や排外的難民政策に手を染める当局の関連施設に対しても、攻撃を加えている。最近では11月21日、ハンブルグ大学法学部施設が地下グループによる爆破攻撃で炎上した。
アウトノーメのあるグループは、最近のドイツにおける極右勢力の増大に衝撃を受け、ドイツ赤軍派(RAF) に実践方針の次のような変更を呼びかける論説を非合法出版のラディカル左翼誌『Radikal』に発表した。つまり、銀行家やNATOの高官を狙うばかりでなく、ネオナチの政治指導者をターゲットにしたらどうか、と。これは興味をそそる着想ではないか……。
極右の潜在力
ファシストの暴力に対するドイツ政府の対応は、ほとんどなされていないに等しい。法廷は「青年らの襲撃行為は政治的理由からではなく、貧困や酒に酔っていたことが原因である」として、ネオナチに「温情判決」を下すばかりである。ドイツの法廷が極右の行為を「犯罪」として扱いたくないことは明らかである。一方、ANTIFAグループに対しては徹底して「犯罪者集団」化攻撃がなされている。ゲッティンゲンで活動するアウトノーメ、ANTIFA運動にはドイツ基本法129条aが適用され「非合法団体」とされた。これまで戦闘的左翼に対しこの129条aは実に300件も適用されている。他方、ファシストグループでこれが適用されたのはたった6件である。
次々と登場するネオナチ・ロック・バンドによっても極右ファシスト・シーンは煽られ、強固になりつつある。たとえばスキンズoiバンド、シュトールクラフトはライブで「ジーク・ハイル!」と叫び、「ユダヤ人、障害者、ジプシどもを焼きつくせ!」などの歌詞が並ぶ曲を演奏し、観客を煽っている。ドイツの法律ではこれらの歌詞は「取締り対象」となるはずなのだが、実際に禁止措置を受けたバンドはわずかである。また「発売禁止」処分に付されても、逆にそれによって、ネオナチ青年らの間で有名になるといったように、バンドにハクをつけるだけのものとなっている。このような極右勢力に対する「取締り」がファシズム勢力をさらに勢いづかせているのである。
ネオナチ勢力は一連の攻撃によって明らかに「成果」を上げている。難民センターの火炎ビン攻撃によって、実際に難民は他の街に移送され、ドイツ政府は「外国人は出て行け!」の合唱に合わせたかのように「ジプシー」のルーマニア送還費用保証をルーマニア政府に約束することを発表、ドイツ基本法16条(亡命申請希望者のドイツ入国とその滞在権を保証する条項)の廃止に関して、ドイツ議会は審議を開始したのだ。極右勢力とドイツ国家は同基軸に立ち、連携していると言える。ドイツ政府が今なさんとしていることは、外国人のドイツ流入の制限、管理であり、この目的を達成するためネオナチを突撃隊として有効に活用しているのである。
多くのドイツ人警官が極右政党に票を投じ、暗黙にあるいは公然と、シンパシーを寄せている極右グループのデモ、集会に手を抜いて対応していることは周知の通りである。こういった状況のなか、ドイツ政府が「極右を厳しく取り締まる」などとリップサービスをする一方、ANTIFA運動が実際の取り締まり対象とされ、弾圧されているのである。
ネオナチも末端部分ではそれほど政治的に「完成」している訳ではない点で、若干の希望も見られるが、極右運動のリーダーらが国際的に連携した強固な体制が存在していることを忘れてはならない。若いスキン・ヘッズ青年らのほとんどは経済的見通しの立たない旧東独地域に住んでおり、極右参加の大きな動機になっている。強固な組織力を持つネオナチ勢力は、この青年たちの不満のエネルギーを外国人への暴力へと転化させているのである。しかしながら、これに対する抵抗と弾圧下の中で、極右が勝利することはまずないだろう。メルンで死者を出したトルコ人住宅への火炎ビンによる放火事件で、これに加わったと自供した19歳の少年は拘置中に自殺を企てている。
戦闘的トルコ人グループが常にネオナチへの報復の牙を研いでいることを、ネオナチ青年らが自覚するなら、表通りを歩き回るのを少しは控えるだろう。
すべての難民に対し国境を開放せよ!
8月・9月、ロストックと全ドイツで起きた一連のレイシスト(人種差別主義者)の襲撃で最もゾッとしたことは、第一に、一般の人々の襲撃に対する支持の高さであり、第二に、襲撃の政治的結果である。ネオナチの暴力が、難民を彼らが「歓迎されていない」場所から追っ払うことに「成功」したという事実は恐ろしいことである。ドイツのすべての主要政党の政治指導者は、極右に非難を浴びせ、世界の抑圧された人民との連帯を声を大にして求めるのではなく、それどころかこう言ったのだ。確かに「難民問題」は存在している。よって、ドイツ憲法に規定されている難民の亡命権に対する保証は制限される必要がある、と。
ドイツの最近の諸事件は、レイシスト・ファシストに対する戦闘的闘いを緊急に組織する必要を明らかにした。この組織化は2重の内容を持つ必要がある。すなわち、第一に組織化は例えば次のようなことを分析できるくらい理論的、イデオロギー的な中身を持つ必要がある。世界資本主義が、貧困を強いられている<南>の諸国から裕福な<北>の諸国へ、膨大な難民を向かわせている理由とは何か?また、我々が”すべての難民に対し国境を開放せよ”との要求を支持・支援する根拠とは何か?ということを、だ。第二に、この組織化は、次のような闘いによって難民との具体的連帯を用意していく中身を持つ必要がある。つまりネオナチがいるところならどこででも、ネオナチ自身を、そして奴等の組織的建物を攻撃するような、街頭レベルでの戦闘的闘いを組織すること、それだけにとどまらず難民自身の独自の組織的取り組みを支援すること、この両方の闘いである。
ナチが自由に街頭をうろつくことは許されるべきではない。ナチは癌(ガン)のようなものである。もし左翼が奴等に抵抗しなければ、奴らは白人労働者階級の中の特権を失った底辺層に訴え、その支持を得てしまいかねない。ナチは直接行動を実行することが上手であり、そのために人々の尊敬を得てしまう。反レイシスト・反ファシスト側も、ナチに反対する際、まさに街頭レベルにおいてこそ、効果的闘いを実行する必要があるのだ。
簡単な解答はない
街頭レベルでの効果的な闘いを展開するということは、単に暴力と暴力の衝突という以上の意味を持っている。戦闘性だけではファシズムに打ち勝つことはできない。反ファシズム運動は、より大局的な視野を持たなければならない。たとえばファシスト勢力が、トクに旧東独地域において一般の支持を受けているという事実は、その活動の勢力拡大が相当な規模にまで及び、深く浸透していると認識しなければならない。おそらく旧東独での「既存」社会主義が掲げた反ファシズムとは、名ばかりのものであったのかもしれない。人種差別、反ユダヤ主義、性差別は厳然として存在し続け、東独社会の深層で爆発寸前の状態となっていたのだ。
ベトナム、アンゴラなど「社会主義」の同盟国から東独にやってきた多くの労働者はロストック・リヒテンハーゲンのような特別の居住施設に閉じこめられ、東独社会からは隔離されて生活していた。ドイツの統一と再建の過程で工場閉鎖や住宅難、公共福祉削減などにみまわれた旧東独地域の人々の生活状態は著しく悪化した。人種排外主義と経済的衰退がもたらすやり場のない不満は、旧東独地域でファシスト勢力が地盤を固める基礎をつくった。反ファシズム運動はこれらの状況を認識し、戦略をたてていくべきだ。一点だけではなく、大局的な状況を見据えよう。闘いは、資本主義・人種差別・性差別等に対する闘争という大きな文脈の中に位置付けなければならない。
これらの問題は容易に解決できるわけではない。旧東独地域の多くの人々が人種拝外主義者であるなどとして、たんなる道徳的非難や暴力に結論を出してしまうのではなく、対話し、訴えかけていくことが必要である。殴ったところで、彼らがファシズムに反対するようになるわけではないのだから。また、左翼は実際的な変革のあり方を提起していかなければならない。そして、ドイツの労働者階級だけでなく、ファシストの暴力に脅かされている難民や移民と深く結びついていかなければならない。
ファシストの集会には断固とした戦闘的対応でもって応えていくべきだが、これのみを反ファシズム運動の戦略に限定してはならない。闘いは街頭や工場で、また人々の「心」に呼びかけながら、様々なレベルで取り組まれるべきだろう。
*『Arm The Spirit』(No.14/15)
*『Love & Rage』(VOL.3 NO.7)
より訳出
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■アウトノーメ活動家からの提起 2
アウトノーメの歴史的背景とANTIFA運動の陥穽
”ドイツの同志”