このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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某氏からコメントを頂戴した。
チェスタトンが書いた小説のようです。
そう、それですよ、わたしが言いたかったのは、端正で古典的なイギリスの作家。そうなんですよね。
アラビアのロレンスを引くまでもなく、宗主国の主人公が支配している土地で体験した数奇な事件。そんな雰囲気が溢れています。
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『サイゾー』の記事に関するmixiの日記で感じたことをもう少し整理して書いてみよう。
10年前にマアチュアが自分の意見を不特定多数(特定でもいいが)聞いてもらうためにはどんな手段があったろうか。まず考えられるのは、新聞・雑誌の投書、投稿欄だろう。しかし、実際にはアマチュアではなくて、いわゆる投稿のプロと呼ばれる連中の偏った(そのメディアが気に入るような)論調の投書が繰り返し掲載されている。その甚だしいのが朝日新聞の投書欄で、もはや狂気とも言えそうな偏向した投稿は、最初のうちは笑いの対象だけど、そのうち不愉快になり、クオリティペーパーを自認するメディアがこんなことをしているのかと空恐ろしくなってくる。
自分の意見を多くの人に問うためには、自費出版というやり方もある。が、こちらの方は実に大人しい主張ばかりて、この機会に自分の意見を声高に申し述べるといったものは余り見かけない。
なにを言いたいか、お分かりだろう。10年前と一番違っているのは、インターネットによる、サイト・ブログでの発言なのだ。
ここには朝日新聞に見られるような、偏向したバイアスはない。自由な発言が出来るのだが、これが驚くべきことにどれも徹底的に保守的な意見なのだ(と言い切ってしまうのは正しくないだろうが)。そして、中国、韓国・朝鮮人への信じられないような差別と悪態。弱者(肉体的、経済的)に対する罵りと嘲笑。「鬼畜」などという姑息なキャラクターなどふっとんでしまうほどの悪辣さなのだ。
こうした状況を単純に分析することは出来ないけれど、多くは、日頃良い子ぶっている仮面の下の下劣な本質が噴出してしまった結果なのではないかと思われる。そうして、対象となるなにかを、傷つけようとしたときに、稚拙な作文技術を駆使しないで済むよう、お気に入りの「誹謗テンプレート」を貼り付けるのだ。
ある出来事に対し、それを自己の中でどう捉え、自分はどういう立ち位置から、それに対して発言するのかではなくて、どうすれば当事者を傷つけることが出来るかのみを考えて、悪意あるテンプレートを貼り付ける。だから、それは常に一般論であり、上から目線になる。
今、国民の総意のなんパーセントかは分からないけれど、確実にこうした既成のテンプレートが多数意見を占めてきていることは確かなのだ。暴論といわれるような極端な意見が「人気テンプレート」になれば、それは遅からず民意、世論になっていく。
これが由々しき問題であることは誰だって分かると思う。
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正統な古典的ミステリの傑作
いやあ、驚きました。21世紀の日本で、しかも懸賞小説の新人賞に、こんな端正で精緻なミステリが応募されてくるなんて。
本作は、第5回ミステリーズ新人賞受賞作、しかも、選考委員の綾辻行人、有栖川有栖、辻真先三氏の大絶賛の受賞なのです。
この選考に関しては、もうなにも申し上げることはない。傑作です。
そして、ちょっと稚気のある編集者が、本作を、二十世紀半ばの日本では全く知名度の無い英国のミステリの巨匠の作、なんて形で発表したら、もう頭から信じちまったでしょう。それも、クリスティとかドロシー・セイヤーズ、F・W・クロフツ、アントニイ・ バークリーなんて黄金期の巨匠だと言われたって、あっさり信じたでしょうね。主人公“斉木”の名前を英国名にして、英国の商社マンという設定にしていたら、わたしなんざ100%騙されたでしょう。
そのぐらい良く出来たミステリです。はっきり言ってベスト10クラス。
長距離走者は、後から後から追い抜かされていくなあ。
『砂漠を走る船の道』梓崎 優 東京創元社 2008
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具体的な内容はここでも読めます。
既報のようにサイゾー11月号に「イキガミ」に関するインタビュー記事が載ったのですが、この記事がmixiニュースに取り上げられたため、300件近くの日記がコメントしてくれました。
まあ、アマチュアの日記にいちいち目くじら立てるのも何なんですが、一応、ニュースにリンクしているということは、皆様自分の日記を読んでもらいたいという意志があると考えて、一言言わせていただきます。
大半のご意見が「あの程度の類似で盗作なんて言われたら、今後同じようなネタの新作が発表できない」といった主旨のものなんですね。
反論するのはいいけど、おれはそんなこと一言も言ってねーつーの。
おれが言ってるのは「この二つは全然似てないし、それは設定が違うのだから当たり前。なのに妙に似ている部分があり、その部分は「イキガミ」にとって、必然性もなければ説得力もない。そして、それこそが「生活維持省」に書かれている内容の総てなのだ」ってことなんですよ。ま、理解できない方が大半(でなけりゃ、あんな反論を書くはずがない)なんでしょうけど。
それに、「アイデアには著作権はない」ともはっきり言ってるのに、そこもスルー。
いや、この方たちは、最初からわたしの意見に反論しようとしてるわけじゃないのよ。いい機会だから自分の意見を開陳しようと。それがまあ、そろいもそろって「陳腐な一般論ばかり」ってのが、わが国のネット民度が分かって情けないですけど。
そう。それと「わたしは『イキガミ』は読んでいませんが(或いは『生活維持省』は読んでいませんが)」という前提で物を言っている方。みっともないからおよしなさい。いかな、個人の日記とはいえ、そんな方には自分の意見を公開する資格がありません。「わたしは無知蒙昧な馬鹿ですが」といった断りを入れるなら別ですけど。
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本気で本を読んでいますか?
小心でなんでも考え過ぎちゃう少年、暮林一樹君は、ホームルームでだって、まともに発言することが出来ない。うーむ、どうやらこの少年が主人公らしいが、果たしてやっていけるのか。況や『月蝕姫のキス』なんてロマンチックな展開になっていくのであろうか。いやいや某氏の傑作短編集のタイトルみたいに『月蝕姫のキス』はサボテンの名前なんです、なんて衝撃のオチ(カクテルの名前でもいいな)が待っているのではないか。などと思いながら読み進めれば、この手のお話の定番、素敵なマドンナ行宮美羽子が登場し、好意の三つも四つも手前だけれど、暮林君ににっこり微笑んでくれたりもする。
そんな暮林君が殺人事件の証人になり、さらにその現場近くで拾ったコインロッカーの鍵から、第二の殺人が起こり――と物語りは予測も出来ない方向に転がっていく。
さて。小生は「包装」というものが嫌いで、購った商品はすぐ「裸」にしてしまう性癖がある。腕時計を買えば即装着し、箱も説明書も保証書も捨ててしまう。こんな性分だから、本を買ってもカバーは断わり、カバンに入れ、本屋を出たら、腰巻、栞、出版案内、葉書の類は全部捨てる。ところがこの日はカバンを所持していなかった上に、雨が降っていたので、カバーを付けてもらったのだ。
そして、飲み屋、地下鉄と読み続け、家に帰ってカバーと腰巻を捨てようとして、とんでもない文言を目にしてしまった。
ここからネタバレ(内容には触れません)↓
腰巻の惹句。「悪の大天才はまさか●●●●●●●●●●!?」
これはないでしょうよ。いや、腰巻のこの文言を見て、その事実を知った上で読むのと、小生みたいに虚心坦懐に読むのとでは、受け取り方も意外性への感動も、全然違うと思うんですけどねえ。
ここまでネタバレ ↑
イニシエーションラブの単行本も、カバーの折り返しに恐ろしいネタバレが書かれていた。腹立たしいのは、それを書いた奴が、それがネタバラシとは気付いていないことなんだが、理論者の編集者はどうなんだろう。
本当にこの物語の面白さが分かっているんだろうか。甚だ疑問である。編集者の皆様本気で本を読んでますか? 小生は広告屋だから、こんな発言はちと不味いのかも知れないけど、本書に限り、購入したら腰巻は読まずに捨てましょう。
むろん、「その事実」が分かっていても頗る面白い小説ではあるけれど。
『月蝕姫のキス』 芦辺 拓 理論社 2008
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ル・クレジオのノーベル文学賞受賞のニュースを耳にして、ふと頭に浮かんだことが二つある。
一つは、1992年にわたしが小説新潮新人賞を受賞したときの新潮新人賞受賞作『カワサキタン』という小説のことであった。川崎さんのことを書いた小説ではなく、包茎の包皮の「皮先譚」だったのでは記憶するが、掲載誌が手元にない。同時に表彰式が行われながら、新潮新人賞の方は掲載誌が配られ、拙作の方は来場者の多くが未読のままというおかしな状況だった。
帰りの地下鉄で『カワサキタン』を読んだ。今で言えば舞城王太郎のような、猥雑な言葉がテンポよく綴られていく物語だったが、気になったのは作中何回か「クレジオ」という名前が出てくることで、前後関係から「ル・クレジオ」のこととは分かるが、これは不味いんじゃないのと思った。一人称の主人公の言葉だから、作者の責任ではなくて、そいつの教養の問題だが、そうした意味合いもなく、つまり単なる間違いなのね。選考委員の一人である、島田雅彦もその点に苦言を呈していた。
もう一つは、先日見た『闇の子供たち』という映画の予告編で、妹を誘拐されたタイの少年が―
「可愛い妹、アランヤーは何処にいったの?」
と語るシーンで、思わず泣いてしまったのだが、実は、アランヤーは売春宿に売り飛ばされ、エイズに感染して袋に詰められて捨てられてしまうのだ。
ここで突然、ル・クレジオの『黄金の魚』を思い出した。
主人公のライラは幼き日に大きな袋に投げ込まれ、誘拐されてしまうのだ。
黄金の魚とは網や仕掛けに常に狙われている、可愛く小さな魚のことである。これが数週間前のことだったので、「ル・クレジオ」の名を聞いてどきっとした。
書棚を見たら、ル・クレジオ『はじまりの時』の背表紙が目に入った。上巻の半ばまで読んで挫折していたが、いい機会だから読み直してみるか。
で、本日のエントリを記すために「ル・クレジオ」で検索していたら、こんな文章を発見した。
唐沢俊一 裏モノ日記
一方で文学賞はル・クレジオ、とは懐かしい。
20歳くらいの頃だったか、やたら翻訳書が出て、幻想文学のワクで読んでいたのは。
唐沢が20歳と言ったら、1978年だが、そのときル・クレジオの翻訳ラッシュなんてあったか知らん。因みにWikipediaによると――
# Les Géants (1973) (『巨人たち』望月芳郎訳、新潮社、1976年)
# Voyages de l'autre côté (1975)(『向こう側への旅』高山鉄男訳、新潮社、1979年)
# Mondo et autres histoires (1978)(『海を見たことがなかった少年』豊崎光一、佐藤領時訳 集英社 1988年)のち文庫
# Désert (1980) (『砂漠』望月芳郎訳、河出書房新社、1983年)
1978年には翻訳は一冊も出ていないし、前後を見てもやたら翻訳書が出てという状況では全然ない。わざわざ「幻想文学の ワクで読んでいた」というのもワザとらしいよね。純文学なんか読まないだろうとお思いでしょうが、幻想文学という価値観からチェックしていたんですよ、という哀しい嘘なんだろうな。
まこれも、唐沢サーガの「20歳くらいの頃」であり「ル・クレジオ」なんだろうけれど。
もう一つのミステリー
これは実に不思議な写真である。
第18回鮎川哲也賞授与式の様子なんだが。
ここに登場している人物は左から、「ミステリーズ新人賞」受賞者の梓崎優氏、不明(ホテルのスタッフ?)、東京創元社のF嬢、そして、一人おいて、東京創元社の長谷川社長。なんで、一人おいたかと申しますと、この眼鏡の人物、実は受賞者の七河迦南氏ではなくて、氏の代理人なのである。
七河氏は「よんどころない事情」で欠席。受賞の言葉も代理人が代読した。
受賞者のプロフィールは、
東京都出身、早稲田大学文学部卒、会社員となっているから、年齢は不肖なれど、覆面作家というわけでもないようだ。だから、よっぽどの事情があったのだろうが。
分かりませんねえ。受賞が決まってから昨日まで、充分に時間はあったはずだから、仕事の調整だって出来たと思うのだ。わたしなんかもう一月以上前から、昨日は仕事しないように調整していた(だから、3時から呑んじまったんだ、嗚呼)。いや普通の会社はそうじゃないのかな(ウチだって普通の会社だけどね)。
まあ、ミステリ作家がうようよと屯して酒呑んでいるパーティだから、無責任な仮説がどんどん飛び交うのだな。たとえば――
代理人=本人
とかさ。
これはないだろう。何のためにそんなことするのかというか、その悪戯を続けるなら、未来永劫この眼鏡の男性は代理人役を演じ続けなければならないのだから。まさか、次の機会にネタばらしなんかしたら、ちょっと格好悪いもんなあ。
本人はスタッフに扮してこの会場にいる。
創元社はそのことを知っているのかね。わざわざそんな手の込んだジョークには付き合わないんじゃないか。創元が知らない間に、スタッフに紛れたとしたら、メトロポリタンホテルの関係者ということになるかも知れない。
某有名作家の別名の応募
「オレじゃないよ」「おれでもないぞ」「おれ違うからね」
えーいい、思い上がり者共、黙らんか。
例年通り泥酔して、数々のご無礼(ほとんど覚えちゃいないが)お許しのほどを。
ホラーの達人
出久根達郎の一般的なイメージは、古本屋の主で、博覧強記、下町を舞台にした人情話(それも、しばしば古本屋が舞台となる)、時代小説の名手である直木賞作家といったところだろう。
しかし、わたしはこの方の作品を読んでいて、ゾっとした経験が何度もある。つまり、俗に言えば「ホラー」ですな。それも、皮膚感覚のようなネチネチした恐ろしさではなくて、日常生活の中に異形の怪物が人知れず出現していて、気付かれぬうちにこちら側の世界が侵略されてしまうような恐ろしさなのだ。
本書は出久根の初出版本。ここに収められた『狂聖・芦原将軍探索行』は書き下ろしだから、著者四十歳前後の筆になるものと思われるが、「ホラーの達人」片鱗は、もう、あちこちで窺うことが出来る。
芦原将軍と呼ばれた狂人のことは皆様ご存知だろう。本編は芦原将軍の手になるものと思しき「詔勅」を主人公の古本屋(出久根自身を彷彿とさせる)が売るところから始まる。購った人物は老齢の元新聞記者で、芦原将軍を取材したこともあるという。この、Kという老人を取材している中で、ゾっとする話の流れになっていくのだ。
Kは駆け出しの頃、芦原将軍の取材に失敗する。すると、Tなる人物が現れ、煙草(ゴールデンバット)をせびり、その礼として、将軍取材の秘訣を伝授してくれる。このTなる人物は極めて怪しく、若き日のK老人がTの正体を探ると言う形で作中話は進むのだが。
私はKさんの許しを得て煙草をに火をつけた。F(註;主人公の友人)も待ちかねたようにともした。
「肺ガンの原因はライターのガスにある。と私の友人が昔、珍説を唱えたことがありましてね」とKさんがいった。
「それが証拠にマッチで煙草に点火していた時分は癌が少なかったって。そういう本人はいつもポケットに大きな徳用マッチをいれていましたよ」
「Kさんは煙草はおやめになったのですか?」
私はKさんに気がねしつつ煙を吐いた。
「いや私は若い時から吸ったことがないんです」
変だな、とそのとき私は眼をみはる思いがした。さきほどらいのKさんの話の中に、煙草を吸う場面が何度かでてきたような気がしたが。
ゾッとしたでしょう? 日常の会話の中の、ちょっとした矛盾。瑕疵と言ってもかまわないことなのか、それとも、総てが嘘なのか。少なくともわたしは、もう冷静にKの話を聞くことが出来なくなる。そして、作者はさらに追い討ちをかけてくる。
そこへKさんの奥さんがコーヒーをたててきた。見事なほどの白髪をおかっぱにした奥さんは、私たちに目礼し器を並べると何もいわずに退出した。ドアを閉める時私の気のせいかヒヒヒと笑ったような気がした。それは全く私の気のせいであったろう。
今引用していてもゾッとする。
そして、なにが凄いかと申せば、Kも奥さんも、この後は全く出番がないことことなのだ(最後にKを再訪しよとしたFから、家はなくなり草原になっていたと聞かされるだけ)。つまり、なにかの伏線だったわけでもない。ただ、そう感じたことが放り出されたように唐突に書かれる。これが怖さの原因なのだろう。
ところで、この第一作品集には、『楽しい厄日』という短編が収録されている。そのなかに興味深いくだりがあったので引用しよう。
『楚囚之詩』の完全本が初めて世上に現れたのは、四十二年後の昭和五年のことであった。それまで「幻の本」視されていたのである。本郷の古本卸売展に三十五銭でそれが出た。買ったのは大学生である。するとその学生をつかまえて、是非五円でゆずれと血相をかえて談判する紳士があらわれた。客が何事かと二人をとり囲み、訳を知って全員が発奮した。くだんの学生は本を抱きしめて逃げるように会場から消えてしまったという。
このエピソードは古本界では有名なものなのかしら。
『古本綺譚』出久根達郎 新泉社 1985
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わくわくするほど面白い
ごめんなさい。
唐沢俊一がせこい連載をしている雑誌という認識しかなかったので、実際に読みもしないで、その程度のもんだろうと高を括っていました。
わたしは生粋の理科系人間なものですから、例えばP.104の「薬理凶室のアリエナイ理科ノ実験室」レーザーメス製作なんて、まあ、ゾクゾクいたします。こんな素敵な企画を見て、自作しようと思わない奴が「オタク第一世代」だなんてはり倒してやりたいよな、全く。
他のページも、まあ、呆れるほど面白いや。あの「おぐりゆか」も連載頁を持っている。こいつは拾い物と言ったら失礼かしら。購読しよう。
で。
唐沢俊一の連載、「唐沢俊一の古今東西トンデモ事件簿」なんだけど。これが浮きまくっている上に、突出して面白くない。なにこれ?
第38回 「作家と食人」の巻 (P.148~151)
P.148は自作「血で描く」の紹介。多くの人から「で、どこまでが実話なんですか?」と質問されたという。そこから導いた結論は――
一般の人たちというのは、作家という人種の想像力(創造力)を、かなり過小評価している、ということだった。
はっきり言わせていただくが、小説とも呼べないような酷い代物を、たった一作上梓した人間が、なんで作家という人種なんて立場からものを言うのかね。あんたの想像力(創造力)は思い切り過小評価しても、し足りないと思うけどね。
で、その実証として、唐沢は夏目漱石を例に挙げる。
漱石の研究家が作中人物のモデルを探したり、漱石が姉嫁に恋をしていたなどと論じることを――
漱石みたいな天才が、恋愛模様の1つや2つ、簡単に頭の中でひねり出せるとどうして思わないのだろうか。
つまり、漱石の研究家は「総て天才漱石の想像力の産物であります」と結論して、四の五の研究なんかするなということらしい。
さらに、アイザック・アシモフがよくサイン会(そんなことしてたのか?)などでUFOの存在を問われて「あんなものを信じているのは馬鹿者だとおもいますね」と答えたという例を引く。
まあ、この場合は答える方も答える方である。
って、どういう意味? 山本弘だって志水一夫だって皆神龍太郎だって、そう答えるんじゃないのか。さらに、十返舎一九が面白味にかける人物だったという話を紹介し、こう結構する。
今でもウィキペディアなどを見ると、作家のある作品の中の一節を脈絡なく抜き出して、「これがこの作者の貧しい人間観を表している」などという誹謗が書き込まれているのをよく発見する。いずれアンチファンの書き込みであろうが、実は漱石、いや一九の頃と状況は変っていないのである。
「いずれアンチファンの書き込みであろう」というのも酷い文章だが、そもそも意味不明。前半は多分自分が誹謗された経験から、後半は支離滅裂。
ここまできても(P.149半ば過ぎ)、まだ全然、「作家と食人」の話にはならない。と思ったら、ここで論調が変り――
…しかし、中にはそういうイメージと作品が非常に密接にリンクしている作家もいるのが、ちとやっかいなのである。
と主張するのだが。この後、例の丸パクリの食人作家ホセ・ルイス・カルバの話になる。変だよね? ホセ・ルイス・カルバはイメージと作品がリンクしているんじゃなくて、実像と作品がリンクしているんだもの。で、
「世界の三面記事 オモロイド」丸パクリの挿話があり、続いて村山槐多の紹介になる。そして、食人作家では全然ない村山槐多のエピソードを羅列してこの項は終る。
結局、テーマである
「作家と食人」の部分は、パクリだけなんですがねえ。
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うーん、そうきたか……
全くのノーチェックだったが、書評家のtaipeimonochromeさんが『ラットマン』を持ち出してきて――
傑作。今年リリースされた作品の中では道尾氏の「ラットマン」、そして某御大の「完全恋愛」とともに、「仕掛けによって人間を描いた」現代の本格ミステリとして大いに評価したくなってしまう逸品
とまで書いているのですから、スルーするわけにはまいりません。
余談ですが、この本、本屋で捜すのに一苦労いたしました。いや、わたしが悪いのですが、店内のPCで検索しようとして「タイトルはなんと読むのか?」「著者名はなんと読むのか?」と基本的なことが分からなかったからなんです。因みに『とおみじけん』『よみさかゆうじ』と読みます。
とても不思議なお話です。
登場人物の一人、佐藤誠が、稀代の殺人者であることが冒頭に明らかにされます。それも半端ではない。推定では百人以上、本人の自白で九十八人、そして、起訴されたのは十三件の殺人で、有罪と看做されたのは九件。これによって佐藤は処刑される。オシマイ。
……いや、この有罪判決を受けた事件のうちの二件は「遠海事件」と呼ばれるもので、それを調べなおしていくというドキュメンタリー小説の体裁で物語りは進んでいきます。製本、表紙装丁から、ページデザイン、構成まで、犯罪実話に相応しい精緻に造られたものなのです。
で……。
物語に関しては、反転のネタばらしも難しいのですよ、これが。いや、ネットでも少数ではあるが辛辣な感想も見られるほど、この物語は普通ではない。一読、自分の解釈が正しいのか自信が持てず、恥ずかしながらtaipeimonochromeさんにメールで問い合わせてしまったくらいなのです。
この小説は日頃わたしが主張している、設定の謎に真っ向から取り組んだものなのです。なのに、全くわたしが予想していたようなミステリーになっていません。こうしたぶっ壊し方もあるのだなあ、と感心してしまいました。では、面白いから絶対のお薦めかと言うと、全然そうではないのです。この凄まじい設定の謎も「事件自体」の説明されずに終わる謎に比べたら、色褪せて見えるからなのです。
(以下ネタばれ ↓)
佐藤誠はなんで、百人以上の人間を殺したのか。それは納得のいくような形では語られないし、佐藤という人間の内面まで描きながら、その心理状態が少しも伝わってこないのです。「遠海事件」は実は佐藤の犯罪ではなく、佐藤は恩人の罪を隠蔽して引っ被っただけでした。本来なら、自分が死刑になってまで他者を庇うのかが問題になるのでしょう。本書では、どうせ百人以上殺していて死刑は確実だからという理由でそれは納得させられることになります。全編に仕掛けられたトリックは、前代未聞のもので、日頃、設定の謎を口にしているわたしなら、感心しなければならないのでしょうが、この、事件全体の余りに乱暴な解決の前には、総て色褪せてしまうのです。極言すれば「そんなことは、もうどうでもいい」。
(ネタばれここまで ↑)
大量殺人の小説的意味が、ネタばれに書いた通りなのだとしたら、それは余りに安易で危険な選択だったのではないのかと思えてなりません。
『遠海事件 詠坂雄二 光文社 2008