2008年の日記

  • 読売調査では来世を信じる方が多数派 (2008年10月25日)

  • 前生、来世はあると思いますか? (2008年10月21日)


    10月19日は、大阪道場で、説法会でした。数名の一般の方を含めて、
    会員の方とスタッフ合わせて、40名ほどの集会となりました。


    その中で、私は、前生を思い出す、いわゆる退行催眠と呼ばれる瞑想や、
    幸福な来世の転生のためのチベット密教の瞑想法などについて話しました。

    最近はスピリチュアルブームで、ちまたでも、
    前生や来世の話がよく出ますね。
    私がヨーガ・仏教を始めた20年前とは比較にならないほど、
    その手の話が、一般の人の中でも、当然のごとく
    語られるようになったことは驚きです。

    20年ほど前に、私は、集中的なヨーガの瞑想修行を通して、
    前生とか、来世というテーマを考えていました。

    ヨーガ・密教の瞑想をすると、前生(とも思われた)さまざまな
    ヴィジョンを見たり、瞑想中に、体から意識が抜け出して、
    さまざまな世界に行った(と感じた)体験を
    することが一度ならずありました。

    しかし、これは瞑想体験であって、実際の前生や来世に行った
    わけではありませんから、文字通り、括弧付きの体験です。

    一方、科学的な検証としては、
    生れ変わりを検証する科学者の本なども出て、
    前生を記憶しているとも思われる子供達の記憶が、
    実在する過去の人物のものと一致するかなどの調査が行われており、
    立花隆氏などが、NHKの番組などを通して、
    このテーマを真剣に調査・報告しています(結論は、あるなし、
    どちらの可能性もある、どちらの解釈も可能である、ということ)。

    こうして、前生・来世は、仏教文化の広がった日本の中で、
    最近のブームもあって、広く語られることでありながら、依然として、
    科学的に完全に証明された事実ではなく、
    人それぞれで、考え方、信じ方がちがうだろうなと思います。

    そして、あまり、前生や来世のことを重視すると、
    一番肝心な今生のことがなおざりに
    なりがちになるという重大な問題も出てきます。
    オウムであったようなポワの問題や、イスラム原理主義の自爆テロの問題も、
    すべては来世の存在が前提になっています。

     また、昔の日本の人々が、極楽浄土への往生を願って、阿弥陀如来への信仰を深めた時などに比べると、
    スピリチュアルブームで前生や来世の話がよく出るようになったとはいえ、
    来世幸福になりたいから、仏に帰依するという人が増えているという感じは受けません。

    ただ、死というテーマに深い関心を持っている人は少ないように感じます。
    死ぬことが怖い、死後はどうなるのだろうか、なぜ人は死ぬのだろうかなど。
    また、自分の前生が知りたい、また、今生の問題が、もしかすると、
    前生にあるのではないだろうか、といったことに関心がある人も
    少なくないように思います。

    そこで、この日記を通じて、皆さんが、前生や来世、輪廻転生について、どのように考えているかを質問してみようと思いました。

    どんな考え方、信じ方、意見でも結構ですので、コメントしていただけると幸いです。

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
    活発な意見交換がなされていますので、
    よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 失敗と成功はセット (2008年10月18日)

    失敗は成功のもととよく言いますが、
    今日はこのことに関してお話ししたいと思います。

    興味深い話として、名前は忘れたのですが、
    歴史上のある偉人が、何かの試みに失敗した時に、それによって、
    成功しない道が一つ分かったから、失敗ではなく、
    成功であると考えると語ったということがあるそうです。

    論理的に考えても、失敗を恐れすぎずに、いろいろチャレンジする人は、
    経験の量が増えて、その意味で智恵が増大しますから、
    成功しやすくなると思います。

    もちろん、何かやる前に何も考えず、むやみやたらに行動してばかりならば、
    失敗が智恵に繋がらない可能性があり、
    慎重さと勇気のバランスが必要ですが、
    よく考えた上でチャレンジして、失敗した(部分があった)としても、
    それは、成功に繋がるものだし、いや、先ほどの偉人のように、
    見方によっては成功なのだという考え方が必要だと思います。

    ただ、多くの場合、何かしようとしたとき、
    失敗した場合に対する不安によって、
    縮こまってしまうことがあると思います。
    それは、何かして失敗するデメリットと、
    何もしないことによるデメリットの双方を
    公平に比較できていないことによると思います。

    背景には、失敗せずに成功したいという気持ちがあるのですが、
    これは、実際には自分を幸福にしない一種の欲望だと思います。
    言い換えれば、自己保全が強すぎる、
    努力しないで成功したいという怠惰がある。

    仏教で、苦と裏が表裏であり、苦の裏に楽があり、
    楽の裏に苦がある、と説くのですが、苦の裏に楽がある、
    というのが、失敗は成功のもとという考えと同じだと思います。

    ただし、それは、失敗した後に、
    あきらめずに努力し続ければということであり、
    仮に、一度目の失敗で、
    二度と失敗したくないと思い過ぎるようになると、
    それ以上は動きがとれなくなって、鬱状態にもなり、
    結果的に挫折で終わってしまう恐れがあると思います。 

  • 長野戸隠神社に参拝、宝篋印塔の素晴らしさ (2008年10月15日)

    11日から、13日まで、ひかりの輪の会員の方などと共に、長野県の戸隠に行きました。

    戸隠神社は複数ありますが、その中でも、奥にあって、神聖な雰囲気である神社は、奥社と呼ばれています。

    神社と言っても、以前は、神仏習合で、顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場として、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めたところです。

    近くの善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かったと言われています。明治時代の廃仏毀釈運動のため、顕光寺は寺を分離して神社となりました。

    御祭神は、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、神道の神話の安価で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が隠れた天岩戸(あまのいわど)をこじ開けた力持ちの神様です。


    神話では、この天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が、現在の戸隠山であるとされていますが、その由来通り、戸隠山は立てた戸のように切り立った山です。なお、顕光寺の時代は、慈悲と救済の菩薩とされる、観音菩薩が祭られていました。

  • マイミクならぬ、マイブッダはどなた? (2008年10月07日)

    皆さんは、好きな仏様、神様がいらっしゃるでしょうか。ないしは、最近は仏像ブームで仏像の雑誌も出ていると聞きますから、好きな仏像様などはありませんか?

    ひかりの輪では、祭壇中央に釈迦牟尼、右に観音菩薩、左に弥勒菩薩を掲げています。ただし、人を神としないひかりの輪の原則に基づいて、こうして祭壇に掲げていても、釈迦牟尼さえも絶対視はせず、むしろ、釈迦牟尼が「私を拝むまず、自分自身と法を帰依処とせよ」と説いた彼の精神・理念への敬意を示すために、そうしている面があります。

    そのため、こういった外側の仏陀・菩薩は、皆、自分達の中の慈悲・仏性を引き出すための神聖な象徴物・シンボルとして位置づけています。

    さて、難しい話は別にして、話を元に戻し、自分が気にいっている仏像があって、それは、京都にある弥勒半跏思惟像というものです。国宝の第一号とされ、教科書などにも出てくる有名な仏像です。その美しさは有名で、東洋のモナリザとも言われています。

    私は、数年前、その仏像を初めて参拝したときに、非常に素晴らしい精神的・宗教的な体験をしました。それはいわゆる神秘体験とか、変成意識の体験といったものではないのですが、
    非常に神聖な意識・エネルギーを感じました。

    神聖な意識とか、エネルギーといった言葉だけでは、到底言い表せないもので、なんと言えばいいか、そこには宇宙=コスモスのような無限の広がりと、広大でありながら非常に微細で甘みのある慈悲の波動を感じました。

     

     

    それは、オウムでの霊的な体験が中心だった当時の私に、オウムの中での体験を上回るものがあることを実感させてくれ、その後のオウム・アーレフからの独立を可能とした要因の一つになりました。

    私は、救済という名の下で、選挙から教団武装化まで、様々な激しい動き・活動が展開されたオウムの中で生きていました。

    しかし、弥勒菩薩半跏思惟像は、1300年の間だ、じっと深く思索し、微動だにせずに静かにたたずみ、その神秘的なまでの美しさと神聖な慈悲の波動・エネルギーによって、何も言わないままに、私を含めた訪れた無数の人達の心を救ってきました。

     

     

    こういった救済もあるのだなと思いました。それは、私にとっては、救済というもののあり方に関する、ある意味で革命的な意識転換のきっかけをもたらしました。

    なかなか、その素晴らしさは言い尽くせませんが、人それぞれですから、自分にあっている仏像なのだろうとも思います。

    つい先日、関西方面に行ったときに、再び参拝させていただきましたが、その時は、以前にも増して素晴らしい体験をしました。

     

     

     

     

    仏像は、同じ仏像ですから、自分の内面の変化によって、感じ方が変わった、進化・深化したのだと思います。ある意味で、自分の心を、仏性を映し出す鏡のようになっているのだと実感しました。これからの修練を積みたいと感じました。

    これが、私のマイブッダ(正確に言えば、マイ菩薩)ですが、皆さんが好きな仏様、神様、仏像様、ご神体などがあれば、是非とも教えていただきたいと思います。

  • 合宿を行い、善光寺・戸隠を参拝しました (2008年10月05日)

    9月29日から続けていた、ひかりの輪の指導員の合宿が終わりました。

    この中では、仏教的なダルマの検討、それに基づいたオウム時代の反省
    そして、今後の活動の具体的な指針・方針を話し合いました。

    後半は、ひかりの輪の長野の小諸道場に行って、さらに、その近くの
    仏教聖地である長野市の善光寺、そして、さらにその奥に控える、
    戸隠に行きました。


     

  • あらためてご冥福をお祈りします (2008年09月30日)


    今日、マイミク(mixiで友だち登録している人)の方から、
    松本サリン事件の被害者である河野さんが、
    奥さんを亡くされたことに関連して、インタビューを受け、その中で、
    私が生前奥さんをお見舞いしたことに言及されたことを知りました。

    河野さんが公にされたので、私もお話ししたいと思いますが、
    私が奥さんをお見舞いさせていただくことが出来たのは、
    お亡くなりになるわずか数日前のことでした。

    その時は、お医者さんの話によれば、あと三ヶ月以内には危ない
    というくらいの話だったので、まさか、そんなに早くお亡くなりになる
    とは思いませんでした(思いたくありませんでした)。
    もちろん、お見舞いしたのは、それが初めでした。

    河野さんの旦那さんには、昨年初めてお会いしました。
    諸事情によって、ようやく時期を得て、マスコミを避け、
    松本市から多少離れた、河野さんの友人のお宅で、
    お会いしました。お会いするのもなかなかご迷惑を
    おかけするところ、深い配慮をいただきました。

    今回は、最初は、河野さんの友人とお会いする話から、河野さん
    とも再会させていただくことになり、マスコミを含めた状況も、
    落ち着いていると判断されたのだろうと思いますが、奥さんを
    お見舞いさせていただくことができました。

    14年も前の事件であり、この14年間のご苦労は筆舌に尽くしがたい
    ものだと思いますが、「自分を含めて家族は、妻に支えられています」
    という旦那さんの言葉が、深く印象に残りました。旦那さんが奥さんを
    奥さんが旦那さんを支え、支え合ってこられたのだろうと思います。

    そして、お見舞いが、あと数日でも遅かったら、と思うと、
    一連の事件を含めたオウム真理教時代の罪を改めて
    反省する機会を私に与えてくださったのではないか、
    とも感じ、うまく表現する言葉が見つかりませんが、
    神仏という言葉さえ不足に感じる、特別な何かを感じます。

    お見舞いの後に、サリン事件の現場=河野さんの自宅の
    すぐ横の駐車場にも立ち寄った時には、当時のオウム教団の
    盲信・傲慢・倒錯・無智に基づく活動が改めて思い出される
    ように感じました。

    今に思うと、旦那さんを支えてきた奥さんに、私も、
    救われたのだと思います。お見舞いができたのと、
    できなかったのでは、大きな違いがあると思います。

    今日を機会に、改めて、奥さんのご冥福をお祈りすると共に、
    今後は、オウム時代の深い反省に基づいて、ひかりの輪の
    活動と、被害者・遺族の方への賠償に努めていきたいと
    思います。

  • 新装になった本部道場で説法会を行いました (2008年09月29日)

    今日は、新装された本部の道場で、説法会を行いました。
    ひかりの輪の本部道場は、東京世田谷区烏山にあります。


    ひかりの輪の中では最も大きな道場ですが、この度、
    内装を改めまして、その新装のお祝いを兼ねた説法会
    となりました。

  • 仏陀とは、分別がない人です! (2008年09月27日)

    私達の日常の常識では、分別とは、物事をわきまえること、すなわち、良い意味で使われますが、この言葉の元になった仏教用語の「分別」は、正反対に、正しくない心の働きのこというのですが、ご存じでしたでしょうか?そして、「無分別智」という言葉があって、仏陀は、分別が無い智慧(ちえ)を有しているというのです。今日は、このパラドクシカルなお話です。

    まず、ちょっと難しいですが、岩波仏教辞典から引用します。、

    「凡夫のそれ(分別)は、個人の経験によって色づけれた主観と、対象としての事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析する認識判断であるから、事物の正しいありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識に過ぎない。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧(ちえ)を「無分別智」という。俗には、物事をわきまえることの意に用いられ、無分別といえば思慮の足りないの意義で使われるから、この用法は、本来に意義とは反対の用法である。」

    こうして、仏教の思想では、主体と客体、自分と外界の区別を超えたところに真理を見ます。一方、凡夫(普通の人)は、その両者を分けて、自分個人の経験に基づく主観によって、いろいろな対象を(他の対象とは区別して)認識・判断するものだから、物事の真実の姿をとらえていない、というのです。

    すごく大雑把にわかりやすく言えば、この世界を色々ものに区別=分別して、認識・判断する通常の私達の主観的な知性の働きは、真に正しい認識ではなく、実際には虚構の認識であるというのです。

    例えば、私達は、実際には、自分達だけでは生きていけません。他の生き物を含めた外界に深く依存して、外界と密接不可分に生きています。分子レベルで見ると、一年で、私達の体の分子は全く入れ替わってしまい、その意味で、自分の体と自分の体以外のものを区別=分別などできず、どこまでが私の体であり、どこからが私のからではないと定義することは、物理的には不可能です。

    誰かと話していれば、同じ空気を共有し、呼吸を通して、互いの体の中の分子が入れ替わっています。私達は、水や空気や食物の循環(食物連鎖)を中心とした壮大な分子の循環を基本とする地球環境の中に浸りながら、その一部として存在しています。あたかも、地球という巨大な生命体の細胞のように互いに密接不可分です。

    でも、私達の日常の主観的な知性は、あたかも、自分は、他の人・生き物・外界とは全く別の存在であるかのような印象を持って生きています。その原因のひとつは、私達の五感が十分に微細で正確ではないから、そのように見えてしまうこと。もう一つは、「私」とか、「他人」「外界」という言葉による思考が、いろいろなものを区別して感じさせることがあります。

    だから、言語の発達した都市文明の人の方が、分別が強いということができます。東洋よりも西洋の方が強いと思います。その中で、自分と他人の強い区別に基づいた、個人主義、競争主義、資本主義が、最近も加速しています。科学については、数世紀前のデカルトやニュートンの時代から続く古典的な科学思想において、この傾向が強く、一方、量子力学などの最新科学は、だいぶ違っていると思います。

    そして、仏陀の教えでは、人は、自分と他人を区別して、他人よりも自分の方を過剰に愛して、争うところから、色々な悪業をなして、それによって苦しんでいる、と説かれます。その意味で、悪い区別・分別がある、ということになるのです。

    もちろん、世の中には様々な事物があり、様々な差異があり、決して均一でも、単一でもありません。そう考えるのは、間違った無分別だと思います。しかし、それらの様々な事物が密接不可分につながっていて、何者も、他から独立しては存在しておらず、この地球・宇宙の一部である、というのが仏陀の教え(縁起の法)です。

    そういった意味で、正しい分別・無分別と、間違った分別・無分別があると表現してもいいかもしれません。

    それはともかく、21世紀の今、私達は、非常に分別が強い文化の中に生きています。例えば、人々をバラバラにし、互いを比較して、その優劣を決めるといった。競争や切磋琢磨は良いのですが、奪い合いをふくめた、行き過ぎは、相当な精神不安定を招いている一面があると思います。それは、人の社会を含めた、この世界の真実のあり方が分からなくなって、単に、人間の共通の観念の世界の中で生きているのかもしれません。

    皆さんは、この分別と無分別の問題、どうお考えでしょうか。
    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 博愛の人も、エゴの人? ではどうすれば? (2008年09月25日)

    前回は、欲望と博愛・慈愛が同根の側面があるのでは、
    と書きました、

    今回は、このテーマの実際な側面として、
    私達が、博愛・利他の行為をする場合にも、
    動機の中に、自分のためにそれをやっている、
    という意味で、エゴと無縁ではないものがあるのでは、
    というお話です。

    宗教家、政治家、慈善活動家でも、人間はたいていが、
    自分の存在価値を追求して、その道に入りますから、
    利他の実践をすると言っても、その根底には、
    自分が重要な人間になりたいから、
    利他・博愛の人になろうという心の働きがあるのだと
    思います。

    その意味では、利他・博愛の行為も、根底では、
    自分のための行為=ある種のエゴでもある、
    ということになると思います。エゴという言い方が
    きつければ、自己向上欲求でしょうか。

    その意味で、自分が思うには、利他の実践をする場合は、
    自分のエゴを自覚した上で、それが悪さをしないように
    努めるべきであり、さもなければ、独善的な行為に
    陥りかねないと思います(オウム時代の反省です)。

    最近は、誇大妄想を抱く人が多くなっているようで、
    自分が、救世主である、偉人であるという妄想を抱いて、
    実際には、他人に迷惑をかけてしまうケースがあり
    それを誇大自己症候群と心理学では呼んでいるそうです。
    ヒトラーなどは正にそうだったと思います。
    ポイントは、現実・周囲に適用して、本当に他のためになることを
    するか、独善的な世界にはまって迷惑をかけるかということの
    ようです。

    その一方で、自分が、利他の人、善い人になりたい、といった
    タイプのエゴは、それをうまく活用さえすれば、実際に、
    他を利する行為に結びつくエネルギーになりますから、
    あれもこれも皆エゴだといって否定して、何もしない人間
    になろうとするのは、それもまた何らかのエゴであり、
    逆の意味で極端な行為でしょう。

    そのため、善い人間になりたいと思う自分の心には、
    エゴが同居していることを自覚して、なるべく、
    その善い面が出て、悪い面が出ないように努める、
    ということが、バランスの取れた心の持ち方だ、と思います。

    皆さんは、この「善い行いをしよう、善い人になろう」と思う私達の
    心に潜む問題について、これまでの経験を通して、
    どうお考えでしょうか?

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 欲望や怒りと、博愛の本質が同じって信じられますか? (2008年09月24日)

    仏教では煩悩即菩提という思想があります。

    この解釈は色々ありますが、「煩悩」、すなわち、性欲や怒りといったものと、「菩提(ぼだい)」すなわち、仏陀の悟りの心=慈悲・博愛は、全く別のものではなく、本質的には互いにつながっている、といった程の意味です。皆さん、これを信じられますか?

    釈迦牟尼は、煩悩による苦しみを経験して、ダルマ(仏法)に対する信を持つようになり、解脱・悟りに至ると説きました。だから、仏陀の悟りも、その根本原因は、煩悩である、ということです。仏教的な用語では、菩提心も、煩悩を縁として生じる(縁起する)と言います。

    これは、基本的な解釈ですが、実はそれだけではありません。私も、ヨーガ・密教の修行をした結果初めて知ったことなのですが、人が経験する、性欲などの欲望や他に対する怒りも、全ての存在を愛そうする慈悲・博愛の心は、本質的には同じ「エネルギー」であるという側面があるのです。

    エネルギーとは、最近のスピリチュアルブームで言えば、「気」といわれる目に見えないエネルギーの流れと言っても良いです。そのエネルギーの流れが、体の中をスムーズに流れ、特に、特にヨーガ・密教で重要とされる三本の主要なルートのエネルギーの流れが整っていると、慈悲の心が生じます。

    その一方で、それがどこかで滞っていると欲望が生じます。例えば、性器の部分で滞っていると性欲が生じるとか、おなかで滞っている食欲が生じるとか。怒りが生じる場合も、その怒りの種類の応じて、どこかで引っかかります。

    そして、ここがポイントなのですが、仏教・ヨーガの教えの深い理解や、精神集中力があると、自分の意思で、そのエネルギーと滞りを解消して、欲望を慈悲のエネルギーに変えることができるのです。その場合、悶々とした性欲が、博愛のエネルギーに昇華されてしまいます。この経験に基づいて、私は、確かに、煩悩即菩提だな、と思うようになりました。

    もちろん、これは、容易ではなく、いつでもどこでも簡単にできれば、その人は、神様・仏様になってしまいますから、それはありえません。そして、前提として、ヨーガが説くクンダリニーの目覚め、密教が説く管・風・心滴のヨーガ(究竟次第の瞑想)が必要になります。

    しかし、こういった体験をいくらかでもすることで、どんな悪人のどんな邪悪な心も、本質的には、聖人の博愛の心と全く別のものではないのだ、という価値観が形成され、人間の見方を柔らかいものにかえていくために役立っています。

    密教でも、これに類する教えがあり、それは、大煩悩大解脱というものです。大きな煩悩を持っている人が、解脱すると大きな解脱をするということですが、これは、エネルギーが大きいから、煩悩も解脱も大きくなると解釈できます。

    また、仏教の有名な守護神である聖歓喜天は、かつては大きな悪業を積んでいたが、観音菩薩に教化された後は、大きな善業を積むようになったとされ、こうして、大悪人が大善人になった理由は、そのエネルギーが強かったから、悪いことも良いことも、大きかった、と説かれているそうです。

    心理学的にも、ヒトラーのような、誇大妄想の人間が、その狂気によって多くの人に迷惑をかけるケースがある一方で、誇大妄想は、偉大な存在になろうとする強いエネルギーの現われである側面があり、妄想に陥らず、うまく現実に適用出来れば、本当に偉人になる可能性があると言われています。

    例えば、ヒトラーと闘ったイギリスの英雄であるチャーチル首相は、子供の時、自分は空を飛べるはずだ、と考えて、実際に高いところから飛び降りて、失敗したということがあったそうです。ヒトラーとチャーチルは、元々は、妄想的なまでに、自分が偉大だ、という意識・願望があったところ、チャーチルは、成長過程で、現実に適用できたということでしょう。

    こうすると、この世の中に、絶対の善人と絶対の悪人はおらず、条件が変われば、悪人が善人になる可能性がある、善人も悪人になる、という柔らかな人間観が、単なる観念ではなく、具体的な根拠を持って、成立します。

    そして、これは、例えば、他人に対する怒りを和らげる効果があると思いますし、その発展的な実践として、自分の他人への怒りの想念を瞑想によって、愛に昇華する境地があります。

    ともかく、人間観として、この世には、善人と悪人の別々の存在であり、大雑把には2種類の人間がいるのか、善人と悪人は、条件によって生じる流動的なものなのか、どちらの見方もあると思いますが、皆さんは、どう考えられているでしょうか。

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 大阪道場で説法会を行いました (2008年09月23日)

    21日の日曜日は、大阪道場で説法会を行いました。
    内容は、名古屋の時とあまり変わりはありませんが、
    説法では、生と死の循環について、仏教の法則を
    交えてお話ししました。

    人間を含めて、この地球の生命の寿命は有限ですが、そうであればこそ、
    人口爆発などを生じずに、地球の生態系はバランスが保たれています。


    私達は日々、食べ物などを取って、他の生き物の犠牲の上に生きていますが、
    自分達自身も、寿命が来て死に、体が分解されて、他の生き物の体の有機物に
    なっていきます。そのリサイクルの比率は99・9パーセント以上だそうです。
    こうして、自分の生は他の死に支えられ、そして、自分の死が他の生を
    支えており、ここには、生と死の循環があります。

  • 名古屋道場で説法会を行いました (2008年09月21日)


    昨日は、名古屋道場で説法会を行いました。

    道場は、名古屋の都心からはちょっと離れた、
    住宅街にある一軒家ですが、昨日は、
    会員の方に加えて、新しく来られた一般の方を
    含めて、仏教の教えの講義や、簡単な儀式
    を中心に数時間行いました。


     

    説法では、この世の生は、他の死の上に成り立ち、
    私達もまた、他の生のために、いつかは死んでいく
    立場にあることや、快楽の裏には苦しみがあり、
    苦しみの裏には幸福もある、といった仏教の教え
    を解説して、一日一生の心構えで生きることを
    お話ししました。

  • 大自然こそが仏ではないか (2008年09月21日)


    9/13掲載の日記で、読者の方からコメントをいただいたことから、仏としての大自然について、皆さんにお話したくなりました。

    大自然が仏である、というのは、日本の大乗仏教の教義であり、聖地での自然の中での修行が特長である「ひかりの輪」でも、重視している教えです。

    ご指摘の通り、生きていくために必要以上の物を貪り、地球環境を脅かしている人類に比べて、草・木・山・川・石などの自然は、まったく足るを知っています。

    自分が他に優位になろうとなどせず、他と調和して自分の領分を守り、かつ、その中で多くの生き物を育んでいます。

    その意味では、人よりも仏に違い、欲望の超越と慈悲があるという見方もできます。そして、その大自然の中で、人も生まれて、育まれています。

    普段、われわれ人間は、自分たちが地球の王様であるかのような錯覚をして、大自然を見下し、破壊・開発・消費の対象としていますが、見方によっては、それが仏に見える。

    これは、自然を開発してきた西洋文明ではなく、自然との調和を重んじる日本文化の生んだ素晴らしい伝統だと思います。そして、地球環境問題が深刻化する21世紀において、その価値は大いに見直されるべきだと思います。

    私の宗教的(瞑想)体験では、大自然を仏とみて、人間に乏しいその優れた性質から学ぼうとするとき、自分が、(大自然への愛・感謝を取り戻し)大自然に再融合したという感覚を得ることがあります。

    そして、自分は、実際は大自然の支配者などではなく、大自然の一部であって、自分の母なる大自然から生まれてきて、母なる大自然に戻る存在である、と感じます。

    最近の歌で言えば、「千の風になって」、という歌もありました。

    そして、その時は、大自然側こそが、自分の本体で、自分が「私」と呼んでいるものは、それに属する存在と言った感覚がありました。

    人とは、水の中の生まれては消える泡のように、母なる大自然の中に生まれては消えていく一瞬の何か。

    これが、人間の世界の自己中心的な世界観ではなく、大自然の中の人間というものをありのままに見た姿ではないか、と思います。


    そして、仏教では、仏陀は三宝と言われ、宝とされていますが、自分は、大自然こそが、最高の宝だと感じます。

    例えば、早朝に地平線から光り輝く太陽(ご来光)や、透明な夜空にきらめく星々よりも素晴らしいダイヤモンドなどあるでしょうか。

    なによりも、この大自然・大地球・大宇宙よりも素晴らしいマイホームなどあるものでしょうか。

    大自然は、誰彼のものではなく、すべての人が共有している最高のもの。最高のものであるから、それが神・仏であって、最高のものは、皆のもの。

    いや、皆のものというより、皆自体が、その最高のものの一部であり、だから、皆が仏の一部、仏の子。なんと素晴らしいことか。

    そういった感覚の中では、自分だけの財物や名誉を求める、ちんけな欲望が消え去っていきます。

    こういった感覚は、仏教の教学をしつつ、聖地とか自然の美しい場所で体験しました。今度、機会があれば、ご紹介したいものです。


    ※参考

    大乗仏教には、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。これは、一切の衆生はことごく仏性(=仏陀になる可能性)を有しているという意味です。同じように、一切衆生悉皆成仏は、一切の衆生はことごとく皆仏陀に成る、ということ。

    そして、日本の大乗仏教ですが、単に衆生=生き物だけではなく、無生物を含めた大自然全体に、仏性を拡大しました。自然との調和を重視する日本らしい思想ですが、「山川草木悉有仏性」とか、「草木国土悉皆成仏」などと言います。大自然を仏としています。

     

  • ファミレスでお話し会 (2008年09月20日)


    昨日は、月1回、ファミレスで、お話会をする日でした。

    埼玉県は越谷地方で、子育て中のお母さんから、
    自然農業をやっている人まで、
    いろいろな人が集まっての会合でした。

    会員の人が中心ですが、社会的な事情により、
    今現在は会員の籍はない人も含めて、
    集まりました。

    お店の一角を予約して始まりましたが、
    しばらくは、お母さんに連れられた元気な
    子供たちが主役となり、その後、徐々に、
    大人たちの時間となりました。

    自分の子供の同級生の母親との人間関係での悩み、
    仕事をやっていく上での今後の方針での質問、
    農業における殺生をどう考えるかに関する質問、
    などなど、いろいろなテーマの話し合いとなりました。

    人はやっぱり、苦労を避け、楽を求めたがるものですが、
    それが行きすぎると、いろいろ悩みが出てくるもので、
    心身を引き締めながら生きるには、
    幸福も腹八分目で、一定の労苦によって、
    自分を鍛えて生きていくのがいいのではないか、
    と思いました。

    さて、今日は、名古屋に行き、そして、その後、
    大阪に行く予定です。月1回行う、
    関西方面の説法会です。

    台風一過、皆さんにとって、
    良い日となりますように。

  • 本部道場で取材を受ける (2008年09月19日)

    9月17日は、本部道場で、普段とは変わった取材を受けました。

    死刑廃止の是非をテーマにした演劇の中で、上映するための映像を作るために、私にインタビューしたいということでした。

     元からの知り合いが出演するものであり、真剣な意図をもったものなので、その縁で受けさせていただくことにしました。「ぴあ」などを通しても、チケットが発売されると聞いています。

    自分は、オウム真理教を通して、元教祖を盲信していた時代には、今刑務所にいる、かつての友人と同じように、仮に、あのときの自分が、絶対とされた元教祖に、指示されていたら、犯罪に手を染めることになっただろうと思って、ひかりの輪として、オウム・松本元教祖から独立して、反省と自己改革の日々を送っています。

    当時の教団の中で、盲信に陥った信者には、元教祖は絶対的な存在であり、また、教団は国家権力・社会全般に不当・違法に弾圧されているという被害妄想があって、それと闘わなければならないという認識が広がっており、さらには、その闘いの中で、教祖の指示に反すれば、場合によっては、自分がポワされる(殺される)可能性もある立場でもありました。

    自分も、元教祖に、元教祖の非合法路線に従わなければ、出家を辞めて、在家に戻るように言われたことがありますが、教団施設から離れ、在家に戻るということは、教団が製造する計画であった大量破壊兵器の犠牲者になる可能性があるということを意味していました。

  • 「仏陀と凡夫」「神の子と罪人」の違いとつながり (2008年09月18日)

    大乗仏教というのは非常に面白い思想です。
    特に、その中に、「仏即凡夫」、「凡夫即仏」という思想があります。

    ここでの「仏」とは、もちろん仏陀のこと。普通の意味は、煩悩を止滅し、迷いの生から目覚めた人という意味です。

    「凡夫」とは、普通の人のこと。煩悩を止滅していておらず、仏道修行に入っていない人のことですが、蔑称ではありません。

    全体の意味は、凡夫と仏は、互いから独立した全く別のものではなく、つながっており、本質的には不可分であり、それぞれには固定した実体がない、といった程の意味になります。

    大乗仏教の前までは、こうではなく、釈迦牟尼のような「仏陀と凡夫」は、「聖と非聖」、「浄と不浄」の存在として、二分化されていたとされています。

    そして、これは宗教の常であり、キリスト教で、イエスを神の子として、他の人間と区別して、別の物とするのと同じです。

    しかし、大乗仏教は、釈迦の説いた縁起の法を広く解釈して、その違いを乗り越えてしまったのです。

    確かに、仏陀も、最初は凡夫であり、苦しみを経験して、成道して、仏陀になりました。最初から仏陀ではなかったのです。

    さらに仏陀は、無智という根本的な悪業の結果として、人々は、苦しみを経験するが、それゆえに、時期を得て、ダルマ(仏法)に対する信が生じ、善業を積むようになり、解脱に至る、と説きました(十二支縁起の法などから)。

    これは、悪業をなす凡夫が、その悪業が故に苦しみ、その苦しみをきっかけに、仏法に帰依し、解脱して、仏陀となる、という流れがあることを示します。

    わかりやすく言えば、誰しもが幸福になりたい中が、その方法が分からないため、悪いことをするが、それは過程であって、その苦しむ結果として、いつか(の生)では、ダルマの実践を始め、その後、解脱を果たす、ということでしょうか。

    人間に対する、柔らかく、温かい、肯定的な、前向きな見方だと思います。良い意味で仏教らしい思想です。

    さらに、面白い見解があります。

    それは、凡夫でも、仏陀の智慧から見ると、仏と見ることが出来るというものです。

    たとえば、上記の思想に基づくと、すべての凡夫は、未来の仏陀、仏陀の卵だということになります。これから、如来蔵という思想が生まれました。仏陀の胎児、仏陀の卵という意味です。

    また、他人の良いところを見本とし、さらに、それだけではなく、他人の悪いところも、それを自己の半面教師として、自分の反省に活かすことで、全ての人を自分の導き手と考える実践があります。

    この場合は、より明確に、すべての人が、自分にとっては、教師=仏陀になります。

    宗教では、誰が仏ないし神の子であり、誰がそうではないか、という議論があり、それが、宗教・宗派による対立の大きな要因になりますが、決して決着つきません。

    仏教徒は釈迦を奉じ、キリスト教徒はイエスを奉じ、イスラム教は、マホメットです。今でも、オウム真理教(現Aleph)の人は、麻原なのです。

    しかし、人間の歴史の中で、いかなる教祖も、自分こそが、絶対者・完成者である、という十分な証明をなし、人類のすべてを信者にすることはできませんでした。
    釈迦やイエスやマホメットを古代の遺物とみて、全く尊敬しない人はたくさんいます。

    そういった人類と宗教の現実の中で、「誰が仏なのか、誰が神の子なのかは、実は、自分達一人一人の心によって、決まることである」という思想は、非常に興味深く思います。

    大乗仏教的に言うと、仏陀の智恵を持って見るならば、全ての人が、仏陀のようにありがたい存在として見え、活かすことが出来ます。

    一方で、見方が違えば、釈迦牟尼もイエスさえも、仏陀・神の子にも見えず、自分の周囲が悪い者だらけに見える(こういった人が最近多いように思います)。

    そのためか、チベット密教の有名な聖者のミラレパは、「仏陀など探しても見つかるわけがない。だから自分の心を見つめなさい」と語ったといいます。

    同じように、地獄も天国も、その人の心が作り出すものという解釈があります。すなわち、心の持ち方によっては、この世界は、悪人ばかりの地獄に見えたり、仏が集う浄土として見えたりするということです。

    仏教では、苦しみの世界と苦しみのない世界をそれぞれ「輪廻(りんね)」と「涅槃(ねはん)」と言いますが、その両者をまったくの別のものとはせず、見る側の智慧や無智によって現れるという意味で、「輪廻即涅槃」、「涅槃即輪廻」という思想があります。

    わかりやすく言えば、「普通の人を正しく見れば、仏だとわかる。この世界を正しく見れば、仏の浄土だと分かる」という思想です。これは、非常にしなやかで、ダイナミックで、肯定的で、明るい人間観・世界観だと思います。

    みなさんは、仏や神、凡夫や罪人、涅槃や地獄、天国や地獄、といったものについて、どう考えられるでしょうか。

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

  • 東北は仙台道場で説法会を行いました (2008年09月17日)

    9月16日

    昨日は千葉・船橋でしたが、今日は、仙台道場で説法会を行いました。

    昨年開いたばかりの一軒家2階建ての道場で、その2階に道場があります。

    東北はさすがにもう涼しくて、人が集まった昼の説法会でしたが、
    クーラーなしで十分いけました。

     

    船橋の時に引き続いて、
    仏陀のダルマをできるだけわかりやすくお話しした後に、
    何人かの方の個人面談・指導を行わせていただきました。

  • 千葉・船橋道場で説法会を行いました (2008年09月16日)

    9月13日(土) 

      

    今日は、ひかりの輪の千葉・船橋道場で、
    説法会を行いました。

    朝まで長野の小諸道場に居ましたが、
    車で約3時間半で、船橋まで来ました。

    この道場は、東京の本部と比べると、
    だいぶ閑寂な地域にあって、
    施設自体は、きれいな一軒家で、
    1階に道場があり、庭には、家庭菜園もある、
    のどかな雰囲気の道場です。

    道場長というか、支部長は、
    ひかりの輪の副代表の細川美香さんが
    努めています。

  • やめられない罪 (2008年09月15日)

    ある女性からこういった相談を受けたことがあります。
    「10年以上の間、不倫を続けて、どうしてもやめられず、
    そのやめられない自分をずっと責め続けて、
    相当に苦しんできましたが、最近になって、
    やめられない自分を受け入れることに
    決めたのですが、これで良いと思いますか」
    というものです。

    そして、最後に付け加えられていたことは、
    「良いと言って欲しくて、相談しているのだと
    思います」ということでした。

    こういった相談について、普通、単純に言えば、
    あきらめずに、今後とも、
    やめられるように努力し続けなさいとか、
    相手の奥さんのことを考えてみなさい、
    といった答えが出てくると思います。

    ましてや、仏教を学ぶ者として、
    不倫は不邪淫戒に反する悪業と
    されています。

    しかし、今の時代、人の心の状態は、
    相当、複雑に病んでいる面があると
    思います。
    悪いことと知りながら、それがやめられない、
    そういった精神状態もあるかもしれません。

    このテーマに関連するかどうかは別にして、
    浄土真宗開祖の親鸞は、20年もの間、
    比叡山で修行したが、煩悩を振り切ること出来ず、
    ある意味で挫折して、
    性欲を超えられないので、観音様が現れて、
    自分が女性に変身して現れるから、
    その女性と結婚するようにと言われて、
    妻帯したという話も聞いたことがあります。

    こうしたエリートとは言えない修行者だった
    親鸞は、悪人正機という教えを説きました。
    解釈は色々ありますが、
    阿弥陀の慈悲はすべての衆生に及ぶから、
    善人は当然のこと、悪人をも救われる、
    といったような教えです。

    この相談について、皆さんどう思われるでしょう。
    また、皆さんならどう答えられるでしょうか?

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
    活発な意見交換がなされていますので、
    よろしければ、のぞいてみてください。

  • 楽しみと苦しみは別のものか、つながったものか? (2008年09月14日)


    よく苦しいことがあるから、楽しいこともあると言います。

    これを宗教の教義としたのが釈迦牟尼だと思います。

    しかし、釈迦牟尼が説いたことは、一般の人が、
    それを言うときのものとは違って、もっと徹底していて、
    楽しみと苦しみはセットであり、別々のものではない、
    という思想でした。

    例えば、20万という給料があるとして、
    それをもらう人が、
    これまでは10万の給料で苦労していれば、
    20万という給料は喜びであり、
    これまでは30万の給料で楽していれば、
    20万という給料は苦しみとなる、
    といった具合です。

    これは苦楽表裏(苦と楽は裏表)とも言われますし、
    これまでに日記に書いた縁起の法の
    意味の一つでもあります。

    よく、私達は、大変なときに、「四苦八苦」といいますが、
    実は、これは、人間の苦しみを分類して説明した仏教の用語で、
    四苦は、生・老・病・死の四つの苦のことであり、
    八苦は、これにもう四つが加わったもので、それは、

    1 求めても得られない苦しみ、
    2 愛著したものと別れる(を失う)苦しみ、
    3 嫌なものに会う(を経験する)苦しみ、
    4 一切の作られたもの苦しみである(この部分は諸説あり)、
    というものです。

    これを噛み砕いて、自分なりに説明すると、
    誕生日おめでとうと生まれたことを喜ぶが、
    出産するのは苦しいし、生きる喜びは、
    老いて病んで死ぬという苦しみと不可分であり、

    さらに、
    何かを求めて得ることは楽しいが、
    得られなければ苦しいし、
    得てしまうと愛著・執着するから、
    失ってしまう苦しみが生じるし、

    また、好きなものを追求すれば、
    その反対の嫌いものも生じてくるし、
    こうして、一切のものについて、
    苦しみを伴わない楽しみはない、
    ということになると思います。

    このように、仏陀の思想には、
    楽しみと苦しみは別々のものではない、
    という考え方があるようです。

    もし、楽しみと苦しみがセットなら、
    普通、私達が、ひたすらに、
    苦しみを避け、楽しみを求めることに、
    どういった意味があるのか?

    苦しみと楽しみという視点からは、
    人は何を求めて生きるべきか?

    そして、そもそも、皆さんは、
    楽しみと苦しみは別々のものだと
    おもわれますか、それとも、
    それは連動した、
    表と裏だと思われますか?

    仏陀は、
    通常の苦楽を完全に表裏と考え、
    真の幸福(真楽)は別にあるとし、、
    それを涅槃と呼んだと、
    私は解釈していますが。

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

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  • 自分を少し離れたところから見る (2008年09月13日)

    mixiの日記より)

    同じ物に対して、それぞれの人が、
    違った認識を持つ。ということや、
    人間の五感や意識といったものが、
    必ずしも、真実をありのままに伝えない、
    といったことをお話ししてきました。

    こういった考える延長上に、
    仏教の四念処といった瞑想があるのですが、
    今日、私が話したひかりの輪の会員さんですが、

    「こうした瞑想をしていくと、
    今まで自分が「自分」と思っていたたものから、
    一歩距離をおいたような意識が出てきて、
    自分と他人を平等に見ることができる感じがした」

    という感想を伝えてきました。

    私もその感覚がわかるので、興味深く感じました。

    これは、特別な変成意識の体験ではなく、
    精神的な体験であり、心境です。

    もしかすると、皆さんの中にも、
    こうした、自分自身から、
    一歩離れた感じの意識を
    体験されたことがある方が
    いらっしゃるのでは、
    と思い、書いてみました。


    ※参考:四念処の瞑想

    この中には、「受は苦なり」という瞑想があって、
    「受」=人間の五感や日常の意識は、
    人を真実の世界のあり方を正しく認識させない故に、
    苦しみをもたらす、という意味合いがあります。

    この訓練は、自分の心に生じる外界の近くに、
    一歩距離を置いて、冷静に見るという効果が
    あると思います。

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  • 長野・小諸道場へ来てます (2008年09月12日)


    今日は長野県の小諸市にあるひかりの輪の道場に来ています。


    先日、大自然のすばらしさについて書きましたが、
    この長野・小諸道場は、ひかりの輪の中では、
    最も、自然豊かな場所にある道場で、
    普通の一軒家場で、こじんまりとしてるのですが、
    会員にとっては、自然に浸って修行できる道場です。

    近くには、地元の神社寺院に加えて、
    悠然とそびえる浅間山と田圃の緑が、
    あたりいっぱいに広がっています。

     

  • 昨日と今日の「私」は、真に同一の存在なのか? (2008年09月11日)


    mixiの日記より)

    私たちは、昨日の私と今日の自分が同一のものである、と考えています。

    しかし、科学的には、そう思いこんでいるだけだという見解もあるようです。
    たとえば、記憶については、記憶が貯蔵される脳内の分子は
    見つかっていないそうです。
    それどころか、脳を含めた体の細胞の分子は、頻繁に入れ替わっており、
    どこかの分子に貯蔵されたら、それが外に出て行ってしまう。

    そして、実際、記憶自体が全く正確に維持されるかというと、
    10年前のことと、今思い出す場合と、5年前に思い出す場合とでは、
    厳密に言えば、内容がちがってくることを考えると、
    記憶自体も少しずつ変質していると考えるのも合理的です。

    同じ分子がずっと脳内に存在せず、絶えず入れ替わっているので、
    分子と分子の繋がり方に、記憶が保存されるメカニズムがある、
    という見解もあるようです。この場合、厳密に言えば、
    つながり方が保存されると行っても、つながる分子自体は
    新しいものに入れ替わっていくため、保存のされ方は、
    大まかであり、分子の入れ替えの影響で、微妙に変化していく、
    とも考えられます。

    こうしてみると、昨日の私と今日の私の間で、
    これが全く同じだというものは何一つない、
    という不思議な事実が浮かび上がってくるように思います。
    体も、心も、記憶も、全てが、厳密に言えば、一瞬一瞬
    変化し続けている。

    だからこそ、人は、過去の自分の状態を文字として記録したりする。
    約束したときに、契約書を作る(作る必要がある)のも、
    これが原因ですね。

    そのため、仏教では、単純に「心」という言い方をせずに、
    絶えず変化し続けている心を、無数の心が連続していると見なして、
    心(意識)の連続体という表現を使います。

    こういった「私」とか、「私の心」に対する見方は、
    「私」というものを一つの固定的なものを見ることで、
    「私」に対する執着が強くなりすぎて、
    それが、人の最大の苦しみの原因である、
    という仏陀の思想に通じるものです。

    皆さんは、この自己同一性というものについて、
    そして、それがもたらす幸福と不幸についてl
    どう考えられるでしょうか?

    メールでのご意見お待ちしています。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
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  • 何が「私」か?、どこからどこまでが「私」か? (2008年09月10日)


    最近、分子生物学者の本を読んだのですが、
    私達は、日常で、「私」というものを「他人」というものから、
    強く区別して、いろいろな争いがある、と思うのですが、
    科学の目から見ると、それは、あまり合理的なことでは
    ないようです。

    というのは、人の細胞を構成する分子は、一年ほどで、
    全部、食べ物などで取り入れたものに入れ替わってしまい、
    分子レベルでは、自分と他人の区別がないそうなのです。
    つまり、自分だけの分子とか、他人だけの分子とかはなく、
    この地球環境の中を壮大なレベルで循環している分子が、
    ある時は、Aさんに、ある時は、Bさんに、ある時は、
    他の生き物に、そして、無生物になる。

    その分子生物学者によると、「私」というのは、
    その壮大な分子の循環の中で、地球の長い歴史から見ると、
    ほんの一瞬寄り集まったものが、生じさせている
    一種の効果である、としています。
    一瞬寄り集まっていると言っても、その数十年間の間、
    絶えず、その中身の分子は入れ替わり、
    そして、一瞬一瞬、厳密に見ると、姿形大きさが、
    変わっている。

    そういった意味では、様々な生き物は、厳密には、
    互いに独立して生きているのではなく、
    人間の中の各細胞のように、各々は確かに生きているが、
    一人で生きているのではなく、相互に依存し合って生きている。
    その意味で、地球生命圏という巨大な生命体があり、
    その中の細胞として、それぞれの生き物が存在している、
    という解釈が成り立つのではないか、と思います。

    爪も髪も、切る前は自分の物で、切った後は自分の物ではなくなる。
    体内の酸素・窒素も、体内に有れば生き物の一部となり、
    外に出れば無生物となる。どこまでが自分で、どこからが、
    自分ではないか、明確な境界がない。

    だとすれば、私達が日常生活で意識している、
    他人や外界とは別の「私」という存在は、実際にあるというよりも、
    人間の脳の中で、「私」という言葉などによって作られている、
    一種の観念・概念ではないか、とも考えられます。

    これが、仏陀の説いた無我という思想だと思いますが、
    現代の科学によって、それがより具体的になってきたように、
    私には思えます。

    みなさんは、私たちの最大の関心の対象である、
    この「私」とは、いったい何だと思いますか?

    なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、活発な意見交換がなされていますので、
    よろしければ、のぞいてみてください。

    メールでもご意見お待ちしています。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    ※上記の分子生物学者とは、福島伸一(青山学院大学教授)など。

  • 福岡に出張 (2008年09月09日)

    9月7日、今日は、
    自分の故郷である福岡に行きました。
    ここには、ひかりの輪の指導員(役員)の
    山口さんの住居があり、そこは時々、
    会員が集う場となっています。
    福岡空港から30分弱で到着できる
    ところです。

    そして、今日は私も山口さんの住居に行き、
    10名前後の会員・スタッフと集い、
    いろいろな話をしました。
    エンパワーメントと呼ばれる密教的な修行の話、
    この日記でも出てくる仏陀のダルマ・縁起の法の話、
    そして、ある会員さんの健康相談です。

    私のやっているmixiの方の
    マイミクの方の中にも、福岡県出身
    在住の方が多くいらっしゃいます。

    また、自分と同じ1962年生まれで
    同じ福岡県久留米市周辺で生まれたのが、
    松田聖子さんだったと思います。
    若いときのアイドルスター時代から、
    今現在も息の長い活動をされている
    ことに、非常に尊敬しています。
    自分は、徳川家康を含めて、
    息の長い、粘り強い人が好きで、
    その中の1人です。

    ということで、仏陀のダルマから一転して、
    今日のテーマは、九州・福岡でした。

    今後の福岡の発展を祈りたいと思います。


  • 私たちは何を愛しているのか? (2008年09月08日)

      今、仏教の縁起の法について研究しています。

    その中でも、出てくる興味深い世界観が、
    私たちは、この世の中で、
    食べ物にしても、異性にしても
    いろいろなものを好きになったり、
    または、嫌いになったりするのですが、
    それは、私たちの外側にあるものを
    直接好きになったり嫌いになったりしているのではなく、
    それらのものについて、自分の脳が感じているもの、
    つまり、自分の脳の感じ方を
    好きになったり、嫌いになったりしているだけ
    という事実です。

    だから、同じ対象を見たり、感じたりしても、
    人によって、まったく好き嫌いが違ってくる。
    こうして、自分たちの外にある対象自体には、
    善し悪しの実体はなく、
    それを見る自分の内側の要素いかんによって、
    善し悪しが現れる。
    その意味で、世界は、現実は、
    人の数だけ、脳の数だけ存在する
    ということもできる。

    これが、仏陀が説いた、縁起の法や、
    大乗仏教の空の思想の
    少なくとも一部だと、自分は解釈しています。

    でも、私たちは、日常生活で、自分たちが感じていることが、
    外側に実際に存在していると、思い込んでいることが多い。
    単に、自分の脳の感じ方にすぎないとは思わない。

    しかし、その結果として、場合によっては、
    非常に強い好き嫌いが起こり、
    さまざまな争い、戦争までも起こる。

    こうして、人間が存在していると感じているものが、
    実際に存在しているものとは違っている。
    これが、苦しみの根本原因だと、仏教は説く。

    皆さんは、この考え方、思想について、
    どう思われるでしょう?

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

  • 長野・高峰高原に行きました (2008年08月01日)


    今、長野県の小諸市にある、ひかりの輪の道場に滞在しています。
    主たる目的は、最近ここで始めた団体の指導員の教学・修行の手助けや、
    お盆に、ここで予定されている団体の出家修行者の修行の準備などです。

    本部道場などと比べると一軒家でこじんまりとしていますが、
    自然豊かな場所柄もあって、感じが良いので気に入っています。

    とはいえ、一日中、道場施設の中での修行だけではと思い、
    いつものパターンで、近くの優れた自然の中に行ってみました。

                                                                     小諸道場近くの高峰高原にて


  • 長野・上高地に行きました (2008年07月31日)

    7月19日から21日まで長野の上高地に行きました。
    日本有数の景勝地として有名で、すばらしい自然がありました。


  • サリン事件から13年に際して (2008年03月19日)

    明日3月20日をもって、サリン事件から13年となりますが、
    これに際して、団体として、以下のようなお詫びと決意の
    声明を出させていただきますので、本日記にも、
    転載させていただきます。

     

    地下鉄サリン事件13年目を迎えて

                                                            2008年3月19日
                                                            ひかりの輪・元オウム信者代表 上祐史浩

    地下鉄サリン事件から明日で13年目を迎える今、あらためて事件のご遺族・被害者の皆さまに対して、深くお詫び申し上げます。

    事件に遭われた大変多くの方々の苦しみ、今も続く苦痛を心に刻み込み、二度と同じ過ちを繰り返さない決意を重ねていたいと思います。

    そのために、今後とも、被害者の方々への賠償金のお支払いという経済的な償いはもちろん、事件総括を通じて、精神的な償いもいっそう強めていきたいと考えております。

    その中で、事件の背景要因となった、元教祖の神格化や善悪二元論的な世界観といった教義に加え、元教祖だけではなく、個々の信者が、自分の教祖を安直に絶対化するに至った原因である、無智、虚栄心、依存心などを深く反省しております。

    この反省に立ち、松本死刑囚の著作等のオウム真理教の教材を破棄する一方で、事件に至った教団や信者一人一人の実態、心理状態を分析して総括し、その解決案を一般に呈示して、私たちのみならず、今後の同じような過ち・悲劇が二度と繰り返されないように全力を尽くし、ささやかながらも、せめてもの償いとさせていただければ、と考えております。

    最後に、亡くなられた方々のご冥福と、負傷された方々の一日も早いご快復をお祈り申し上げます。


    ※被害者賠償金のお支払いについて

    明日、当団体は、被害者賠償金として金200万円をオウム真理教破産管財人の口座にお振り込みさせていただく予定です。これからも全力でお支払いに努めることをお誓いいたします。

  • 本日記者会見をとり行います (2008年03月13日)

    本日、3月13日、記者クラブの記者を対象に、
    オウム・アーレフの脱会から一年経ったことを機会として、
    記者会見を行う予定です。

    この一年で、どのように変わったのかについて、
    相当に詳しい資料をもって、説明したいと考えています。

    さて、記者会見での説明する内容や資料は、
    皆さんがご覧になれるように、
    公式HPにも、掲示を始めております。
    ご関心があれば、ご覧ください。

    公式HPの「改革の取り組み」というコーナーの中で、
    過去一年の改革の状況と今後の方針と題された、
    新しい記事が、それにあたります。

    http://www.joyus.jp/hikarinowa/aboutaum/


    また、後日となりますが、当日の記者会見の様子も
    動画情報として掲示したいと考えております。

    実際に、報道関係者が伝えることができるのは、
    実際の記者会見の内容のごく一部にならざるを
    得ません。

    そのためにも、一般の皆さんにHPで、
    その内容を公開させていただきたい、
    と思います。

  • アーレフ脱会から一年経ちました (2008年03月07日)

    今日3月7日で、オウム・アーレフを脱会し、
    ちょうど一年が経ちました。
    この一年、実にいろいろなことがありましたが、
    この場を借りまして、
    ひかりの輪の専従スタッフの方々、
    ならびに会員の方々、
    そして、外部から応援いただいたすべての方々に、
    深く御礼申し上げます。

    これを機会に、改めて、
    精進に努める所存ですので、
    今後とも、よろしくお願いし申し上げます。

  • 会津巡礼 (2008年03月03日)

    昨日と一昨日、関東地方の会員の方々と共に、
    会津に巡礼に行きました。


           猪苗代湖畔にて 背後の山は、会津磐梯山

  • 生と死、そして、輪の思想 (2008年02月24日)

    一昨日は、ある方の質問に答えて、生と死がセットだと思うことを書きました。

    昨日はは、ひかりの輪の長野小諸道場で、会員・信徒の方に、説法会を開いて、
    その中でも、この二つのセットのお話しをしました。

    そして、実は、このテーマは、ひかりの輪の「輪」に関係しています。

    仏教では、不二という教えがあり、それは、普通、
    人が二つに分けて考えるものが、
    本質的には一つである、と説くものです。

    生と死が、その一例ですが、
    これは、単にセットとか、不二いうだけでなく、
    私の考えでは、「輪」を形成しています。

    仏教を含めたインド哲学の輪廻を信じる人は、文字通り、
    生きて、死んで、生まれ変わることを無限に繰り返す様を
    輪廻の輪と呼ぶことをご存じでしょう。

    輪廻を信じない人も、昨日お話ししたように、
    食物連鎖や、人口バランスの維持について考えるならば、
    他の死に支えられて生き、自分の死は、他の生命を支える、という、
    生命体の間で、果てしない生命の与え合い、奪い合いの輪がある、
    と考えることができる、と思います。

    そして、輪といっても、単なる静止した輪ではなく、
    循環する輪ですね。

    人で言えば、生、死、生、死を繰り返す、循環の輪。
    自然で言えば、昼と夜、春夏秋冬の季節の輪。

    そして、仏陀の説いた、楽と苦の輪。
    それは、煩悩・欲望に関する輪。

    欲する物を得た時の快楽があれば、それと当時に、
    得られない時、得たものを失う時、欲しない物を経験する苦しみも、
    同時に生じる。
    この楽と苦のセット、楽と苦の無限の輪。

    私の考えでは、仏陀が説いたことは、
    普通、人が、生や楽として認識しているものは、
    真実は、生と死、楽や苦という循環の輪の一部であるが、
    そうは意識せず、あたかも、死と別の生、苦とは別の楽がある、
    と錯覚しているが、この錯覚を超えて、
    循環を超えた静かな安らぎの境地(=涅槃寂静)を
    真実の幸福、悟り、とした、と解釈しています。

    仏教では、仏陀の教えの象徴として、
    法輪(ダルマ・チャクラ)、というものがあります。
    法の車輪を意味します。
    その形は、ひかりの輪のシンボルマークにも使われているので、
    公式HPをご覧頂ければ、その形がわかります。

    通常の学説では、それは、
    仏陀の法が、車輪のように転がり、
    広まることを意味する、などと解説されるようですが、
    私は、それよりも、ある意味で、重要なことは、
    仏陀の法の意味合い自体が、正に、輪の教えであるから、
    法輪が、その素晴らしい象徴ではないか、と考えています。

    なお、ひかりの輪のシンボルマークは、
    仏教伝統の法輪の形に、虹の色を加えたもので、
    虹の色の部分は、オリジナルですので、
    その点、ご承知おき下さい。

    今日は、東京の本部での説法会、
    ダブルヘッダーで、会員・信徒、一般の方向けのものと、
    いわゆる出家者向けのものが、それぞれ昼と夜にある、
    一ヶ月で一番忙しい日となりますが、
    人の輪を見るのは、嬉しいことです。

  • なぜ人は死ぬのか (2008年02月23日)

    今日、あるミクシィの方から、興味深い質問を受けました。

    それは、死ぬとはどういうことか、なぜ死ぬのか?という質問でした。
    彼は、まず、死ぬとはどういうことか、と問いました。
    そして、なぜ死ななければならないのか、と問いました。

    酒、女、友、学、空、星、花などがある、
    この素晴らしい世界から、あと数十年たつと、
    自分はどこかに消えてしまう。
    これはなぜだろうか、と問いました。

    彼は、「私は死にたくない」と言います。
    これについて、常に悩んで生きているそうです。


    私は、自分の宗教的な実践の視点から、次のように答えました。

    なぜ、あなたは死ぬか。それは、あなたが生きるからです。
    なぜなら、生と死はセットだから。

    生きるために、あなたは、食べ物などで、
    必然的に、他の生命を奪います。
    美味しい食べ物は、他の生き物の犠牲の結果。

    こうして、人が生きる、ということは、他の生命が死ぬ、ということ。
    その業の結果、いつかは、自分の生命も奪われる。
    これは、ある意味で、公平なことです。

    もう一つあります。
    あなたのように、死ぬ人がいるから、
    生まれてくる赤ん坊が、生きることが出来ます。
    人類が、これまで存続してきたのは、
    死ぬ人と、生きる人のバランスがあるから。

    もしそうでなければ、人口が爆発して、
    人類はとうの昔に滅びています。
    大自然の営みは、生と死のバランス、
    生と死の循環によって続いています。

    そして、仏教では、人は死ぬと、生まれ変わる、と説きます。
    老いた体が、死ぬことで、新しい体が、生まれてくる。

    こうして、生と死はセット
    あなたが生きるから、あなたのために死ぬ生き物たちがいる。
    そして、生きるということは、死に近づくこと。

    あなたが死ぬから、、
    生まれてくる人が、生きることが出来る。
    そして、死んでいくことは、新しい生に近づくこと。
    生きていくことは、死んでいくこと。
    死んでいくことは、生きていくこと。

    生と死を超越した、真の幸福は、
    人生の一面だけを見て、一時的な快楽に耽るのではなく、
    生と死、快楽と苦しみがセットである、という真実を理解した後に、
    得ることができる境地だ、と思います。

    それは、生と死によっては、壊れない類の幸福です。
    それによって、死に対する恐怖は和らぎ、
    消えていく、と思います。

    このように答えました。

  • 週刊誌フラッシュにスクープされる? (2008年02月19日)

    今日発売の週刊誌フラッシュを見ると、
    「上祐史浩自称皇族教祖との密談現場を撮った」
    との記事が出ていました。

    そして、なんと、私が、ひかりの輪が立ちゆかないので、
    その皇族教祖と「新団体設立に動いた」という内容。

    実際は、この教祖の方は、
    一教団の教祖というよりも、
    国際宗教連盟という、宗教家や政治家が加盟する
    国際的な連合体のトップである、という紹介を受けたので、

    他の宗教・宗派と融和する、という意味でも、
    お会いすることになった経緯があります。

    自称皇族と表現されていますが、その方によると、
    いわゆる、南北朝における、南朝の後継者だ、
    ということだそうです。

    要するに、南朝の天皇陛下。

    自分は、こういった話しには、門外漢であり、
    ただただ、聞くばかりでした。

    いったい、なぜ、このような縁が出来たのか?

    南朝と言えば、奈良吉野の天川が、
    南北朝時代の南朝の人たちを保護した
    という史実ありますが、

    私は、公式HPにも出していますが、
    天川が好きで、何度も行っているので、そのため、
    こんな風になったのかな、
    と思っています。

    記事内容については、公式HPや、ミクシィなどで、
    私をよく知る方には、あえてコメントする必要がない
    類のものだと思いますが、ともかく、

    少なくとも、教団が危険である、
    という類の報道ではなかったので、
    一安心でしょうか。

     


  • 虹の話 第3回 救いと虹 (2008年02月17日)

    虹のお話の第三回目です。

     

    宗教では、虹は神聖なイメージがあります。
    神、仏陀、救い、といったイメージでしょうか。

     

    旧約聖書では、ノアの洪水の後、
    神が、今後は、人間を滅ぼさないと約束した
    際の契約の印として虹があります。
    その意味で、正に平和のシンボル。

    仏教では、釈迦が、天上界から、
    降りてきた際に、虹が出てきます。

  • 虹のお話の続編 シンクロ現象 (2008年02月16日)

        虹のお話の続編です。

    私が聖地巡礼などに行くと、
    虹がよく出ることは
    以前もお話ししましたが、その中で、
    一つ気づいていたことがありました。

    それは、全てのものは繋がっている、という、
    一元的な世界観に基づく思索をしていると、
    その際に虹が出ることが多い、ということです。

    しかし、この内側の一元的な思索と、
    外側の虹の間には、
    何の具体的な繋がりも見えませんでした。
  • 虹は7色ではなく (2008年02月15日)


    自分が聖地に行くと、虹がよく出るので、自称、虹男である、
    と書いたことがありました。


    そして、最近、虹というのは、平和のシンボルとして、
    世界各地で、戦争反対の運動に使われていることを知りました。

    それを平和の旗と言います。

    虹は、7色と言われていますが、実際は、無限の色を含んでおり、
    各色の間には境界がないことから、多様性の下での統一を意味し、
    調和・平和のシンボルとして用いられるようになったとのこと。

    そして、もう一つ。

    この多様性の中の統一とは、仏教的な一元論の世界観と似ています。

    仏教の説く縁起の法は、その教えの一部に、
    世界には様々な違ったものがあるように見えても、
    実際は、何一つとして、他から独立して存在するものはなく、
    全ては相互に依存しあっている、という見方を含んでいます。



    ひかりの輪は、
    オウムの事件を否定し、宗教宗派、宗教と社会の融合を目指し、
    仏教的な一元思想を掲げています。

    そして、昨年、新団体立ちあげの時に採用した、
    シンボルマークは、仏法の象徴の法輪を用いて、
    それを虹色にしたものなので、
    団体の思想によくあったシンボルマークにできたようで、
    この点、嬉しく思いました。

            ひかりの輪のシンボルマーク

      虹は、7色ではなくて、無限の色を含み、
    しかも、それが連続的で、一体である、
    という視点は、日常の固定観念を超えた、
    とても、興味深い視点だと、と思います。

    関連記事上祐史浩のメッセージ 虹の教え

  • 節分前夜2月2日、天河・鬼の宿へ (2008年02月06日)

      天川に到着して、最初に感じたのは、
      その澄んだ空気とプラーナでした。


                    神事が行われる宮司宅前にて

      その後、鬼神事の儀式に出席しましたが、
      いろいろと自分の内省が深まりました。

      また、儀式に使われる真言や、般若心経の唱和のリズムが、
      心地よく感じられ、学ぶところが多くありました。

      瞑想していると、何と表現したらよいか、
      いきいきとした水の精のイメージと言えばいいか、

      そのようなヴィジョンが見えましたが、
      水の神の弁財天らしい体験でした。
    (→さらに詳しいレポートはこちらへ)


    社殿へ続く参道

  • 年末年始 (2008年02月02日)

    年末年始は、ひかりの輪のセミナーを行っておりました。
    5泊6日の充実したセミナーでしたが、
    ヨーガや仏教の修行や、密教的な儀式を行い、
    さらに、京都・東京の聖地を巡礼しました。

    年末は、京都は、比叡山延暦寺、日吉大社、
    賀茂神社、京都御所、東寺、広隆寺、松尾神社など。
    年越しは、東京の本部に戻って、年末年始の儀式を
    行ない、年越しそばなどを食べ、

    年が明けて、東京で、日枝神社、
    浅草寺、寛永寺、上野東照宮、
    清水観音、増上寺などを巡礼しました。

  • 45歳になりました (2008年01月31日)


    2007年の12月17日をもって45歳になりました。

    この日は、京都の聖地を巡礼しました。
    まず、京都の東北にある、
    比叡山の麓の日吉神社、
    そして、 天台宗総本山である、
    名高い比叡山延暦寺。

  • 国立博物館で大徳川展を見て(2007年12月6日) (2008年01月29日)

    12月1日に、上野の国立博物館に行って、大徳川展を見ました。
    「大」徳川展と銘打たれ、二度は無いという宣伝でしたが、確かに、各地から取り寄せた、徳川家の物品が展示されていました。
    その中で、一番印象に残ったのは、徳川家光が見た、徳川家康の霊夢を家来に書かせた絵でした。

    何故、印象に残ったかというと、それが、12月17日という自分の誕生日に書かれていたものだったからです。
    もちろん絵は何枚もあり、他の日付のものもありましたが、12月17日付けのものだけは2枚あり、同じ日に二つの霊夢を見たようです。

2007年の日記

  • 聖地巡礼日記13 天川、弁財天社、龍泉寺 (2007年08月05日)

    天川の信仰体系を説明しますと、古くは神前崇拝の視点から、多くの川の水源として聖地とされていました。
    そして、その後、修験道の開祖である役行者が、この近くの弥山の山に弁財天を祀りました。

    そして、仏教では、高野山を開山する、弘法大師空海が、この地を修行の場としました。そのため、天川弁財天社のすぐ近くに、それにまつわるお寺があり、まさに神仏習合の聖地でした。

    さて、弁財天社から車で十五分くらいのところには、修験道の聖地である龍泉寺があります。修験道の修行者が、ここを拠点として、その聖山である大峰山に登山していくために、古来から修験道のセンターとなってきました。

  • 聖地巡礼日記12 天川と弁財天社 (2007年08月02日)

    今回は、奈良の天川を御紹介します。

    天川は、著名な聖地・行場である、高野山、熊野山、吉野山といった紀伊三山のちょうど中間にあります。
    美しい川と森林に囲まれ、多くの川の水源となっており、古来から秘境的な聖地とされてきました。 名の通り、天川という美しい川がありますが、ここには、有名な天川弁財天社があります。天川弁財天社は、弁財天を祀る日本の寺社の筆頭です。

  • 聖地巡礼日記11 日光最高の聖地、瀧尾神社 (2007年07月30日)

    さて、今回は、「日光」の聖地巡礼日記の最終回です。
    今日は、瀧尾神社をご紹介します。

    瀧尾神社は、ちょうど日光東照宮の裏山にある、といった位置関係にありますが、東照宮が出来るまでは、  長年、ここが日光山の信仰の中心でした。
    そして、重要なことは、ここが、日光最大の聖地と言われていることです。
    私は、6月に初めて行ってみましたが、やはり素晴らしいところでした。

    地理的には、東照宮や二荒山神社などから、歩いて30分くらいなのですが、この神社の周りは、一面が森林で、全くの自然の中となります。賑やかな東照宮などの施設のあるところとは、全くの別世界です。

  • 聖地巡礼日記10 日光の観音信仰と中禅寺との出会い (2007年07月27日)

    さて、今回は、日光の観音信仰の拠点である寺院を紹介したいと思います。
    最大の拠点は、なんと言っても、日光山の輪王寺であり、東照宮のすぐ横にあります。

    そこには、非常に大きい阿弥陀三尊像を収められていてて、確か、日本有数の大きさである、と記憶しています。
    三像とは、阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音の三仏であり、これら三仏は、それぞれ、神道の三つの神、日光の三つの山に対応しています。

    なお、輪王寺は天台宗のお寺で、本殿の横の寺社では、時々護摩法(火を使った密教の供養の儀式)などが行われているのを見ることが出来ます。
  • 聖地巡礼日記9 日光・観音信仰の発祥地 千手が浜 (2007年07月25日)

    今回ご紹介するのは、勝道上人が、観音菩薩を見た場所として知られる、中禅寺湖の、千手が浜です。
    この千手が浜と言われるのは、勝道上人が見た観音菩薩が、千の手を持つとされる、千手観音の姿だったためです。

    そして、この地で、勝道上人が観音菩薩を見たからこそ、日光を観音の聖地として開山して、今日に至るわけですから、ここは、日光の貫の信仰の発祥の地とも言うべき聖地でしょう。

    さて、前回、ひかりの輪と日光の不思議な地理的関係についてお話ししましたが、千手観音と言えば、ひかりの輪が祭壇に掲げいてる三つの仏陀の一つです。釈迦、弥勒、観音の三仏を掲げていますが、観音は、千手観音の御尊像を飾っています。
  • 聖地巡礼日記8 日光の自然信仰・神道信仰 (2007年07月23日)

    日光の原初の信仰として、中禅寺湖の近くの男体山などを聖山とした山岳信仰と結びついた神道の信仰があ  ります。

    これは、日本の各地に見られる形態ですが、男体山は、2400メートル以上の標高で、印象深い形をした山で、見るものを惹き付ける力があります。特に、天気の良い日には、非常に美しく見える山です。地元の人は、関東一の名山と呼んでいましたが、その気持ちも分かります。
  • 聖地巡礼日記7 日光とひかりの輪 (2007年07月20日)

    さて、今回からは、シリーズで、「日光」をご紹介をしたいと思います。
    なぜ、シリーズでご紹介かというと、私個人、そして、ひかりの輪にとっては、この日光は、様々な意味で、非常に縁のある特別な聖地だからです。

    よって、多少なりとも、我田引水的な、というか、パーソナルな聖地紹介となってしまう面もありますが、この日記は、結局は、私の日記ですから、それはしょうがないだろうと思っていただければ幸いです。

    さて、第一回は、当然の如く、日光で、最も有名な日光東照宮となります。徳川幕府は、徳川家康の死後、彼を東照大権現という名の神として祀ったのが、東照宮です。
  • 聖地巡礼日記6 榛名神社、水沢観音 (2007年07月19日)

    今回は、7月12日に参拝した榛名神社の紹介です。
    榛名神社は、以前、友人から、パワースポットである、と聞いて、書籍などで読む内に関心を持っていたのですが、今回は、ちょうど参拝する機会が得られました。

    この神社が祀る神は、火産霊神(ほむすびのかみ)と埴山毘売神(はにやまひめのかみ)です。火と土の神とされていますが、それ加えて、雨乞いをした神様もいるので、土=地、水、火の三神が揃っています。

    また、古来から修験道(山岳仏教)の聖地ともされてきたそうです。
  • 聖地巡礼日記5 鹿島神宮 (2007年07月18日)

    今回は、7月11日に訪れた茨城県の鹿島神宮をご紹介します。
    鹿島神宮は、タケミカヅチノミコトを祀り、大和政権の初期に建立された、非常に古い伝統を誇る神社です。昔は、神宮と呼ばれる神社は、鹿島神宮と伊勢神宮を含めて、三社しかない時代もありました。

    さて、この参拝直前の朝、鹿島神宮の参拝と連動してか、波乱含みを思わせる現象が起こりました。

    まず、私たちの車のうち、2台の車のタイヤがパンクして、予定時刻に出発ができません。さらに、天気も雨模様で、雷雨の予報まで出て、行くべきかどうか、さらに迷いが生じます。同時に、訪問するメンバーの中で、とあることから怒り・嫌悪の感情の問題を話し合う必要が生じました(人は皆、発展途上ですから)。
  • 聖地巡礼日記4 春日大社 (2007年07月15日)

    さて、奈良東大寺のすぐ隣に、有名な春日大社があります。春日大社は、東大寺と共に世界文化遺産で、7月6日に私は訪問しました。

    その神社は藤原氏の氏神を祀っていますが、それはタケミカヅチノミコトです。イザナギノミコトが、イザナミノミコトの息子であるカグツチを斬ったときに生まれた神で、また、大和政権側が出雲の国を大国主命から譲り受けたという有名な国譲りの神話の中で、大国主命と話し合った神様です。名前の通り、雷の神とも言われています。

    奈良のたくさんの寺社の中から、東大寺の次に春日大社を選んだきっかけは、我田引水ながら、藤原氏への関心と、この神社の大きな祭り(若宮祭)が自分の誕生日の12月17日だということでした。
  • 聖地巡礼日記3 東大寺・不空羂索観音 (2007年07月14日)

    さて、今回は、7月5日に、大仏の後に参拝した、同じ東大寺の中にある法華堂(別名3月堂)の不空羂索観音をご紹介したいと思います。 

    私が東大寺に行こうと思ったのは、最初は、その大仏を見るためではなく、この不空羂索観音像を見たいと思ったからでした。

    動機は、単純で、観音菩薩が好きな上に(ひかりの輪の祭壇に飾っている三仏の内の一つ)、このシリーズ日記の一回目にも、ご紹介したように、不空羂索観音と、ミクシィなどのネットが結びついたからでした。

    羂索とは、あみとつなという意味で、英語で言えば、正にネットですし、「けんじゃく」と読むので、ネット用語の検索に音が似ていることもあり、不空羂索観音=ネットの観音様、というイメージが沸いたのでした。
  • 聖地巡礼日記2 東大寺大仏 (2007年07月11日)

    本日は、東大寺参拝の第2回目で、いよいよご本尊の大仏様を取り上げます。

    東大寺の大仏、通称奈良の大仏は、仏教用語では、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、サンスクリット語では、ヴァイローチャナと言います。大きさは、高さ15メートル近く、重さ380トン、ご存じのように日本最大の仏像です。

    7月5日の午前中、私は、同行するひかりの輪のメンバーと共に、鹿が沢山いる公園を通って、大仏殿に向かいました。

    すると、私達が聖地巡礼に行くときに、不思議とよく起こることなのですが、雲間から虹が現れました。
  • 聖地巡礼日記1 奈良東大寺 (2007年07月10日)


      本日より、ひかりの輪で行っている、聖地巡礼の旅を日記にしたいと思います。
    見ようによっては、人が忙しい間に、遊んでいるのではないか、という  ご批判を受けるかも知れません。

    しかし、ひかりの輪としては、松本氏から脱却した思想・宗教を古来からの聖地・大自然に求めて、真剣に取り組んできました。 この点、よろしくご理解願いします。

    さて、今回は、7月5日に行った、奈良東大寺を取り上げます。
  • 6月5日 日光  (2007年06月06日)

     6月4日、5日と、団体のメンバーと、
    日光に行きました。
    団体では、
    聖地巡礼と呼んでいる活動の一環です。
    日光が、私の住んでいる、
    世田谷烏山の真北にあることは、
    前に書いたことがありましたが、
    これまでは、主に、
    尊敬する家康の東照宮や、
    観音菩薩を祀る輪王寺などの参拝が中心でした。
  • 4月15日 大阪にて (2007年04月16日)

     今日は大阪に来ています。昨日は名古屋でした。

     信徒・会員の人と会うためですが、旧教団の活動で
     傷ついた一般の方ともお会いしました。

     いろいろ思案しなければならないことが多い毎日です。

     旧団体の総括の後半部分の書き方とか、
     新団体の立ち上げ時期とか、
     連休のセミナーのこととか。

     ともかく、焦らず、弛まずで進んでいこう、
     と思っています。

     ところで、自分は、織田、豊臣、徳川の中では、
     あまり一般に人気のない、徳川家康が好きなのですが、
     皆さんはどうでしょう。

     天才的で革新的だった織田信長、
     実力もあり自信家でもあった豊臣、
     に比べると、家康は地味ですが。 

     ともかく、家康の言葉、
     
     人生重き荷物を背負いて長い道を行くがごとし、 
     焦るべからず。
     不自由を常と思えば不足なし。

     これには感銘を受けました。

     ある時、ひょんなことから調べてみると、
     自分の世田谷区南烏山の3LDKの住居が、
     その真北に約百キロメーター行くと、
     日光東照宮の家康の墓があることが分かり、
     大変驚きました。

     詳細な経度が出るパソコンソフトで、
     精密に調べましたので、
     数メーター単位で正確です。

     不思議なことがあるものです。

  • 4月12日 (2007年04月14日)

     先の週末は、千葉の船橋と仙台に出張し、
     その他は、旧団体オウムの総括・払拭と、
     新団体の準備におわれている感じです。
     週末は、名古屋・大阪です。

     私の周りでは、大変化の最中ですから、
     色々な人に、色々なことが起こっています。
     
     そういった中、先日、なんとか仕事が切れたので、
     近くの川(といっても多摩川)に行き、
     エネルギーを回復してきました。

     4月10日は、新団体参加予定の出家信者多数を集めて、
     オウムの総括・反省のための長時間の会議を行いました。

     今から思えば……だが、あの時はああなってしまった……
     ということが多い、とみんな感じていたと思います。

     会議は、もう一度行なって、そのの結果は、
     新団体のサイトの方に、月末までに発表される予定です。

     自分個人の総括・反省は徐々にやっていますが、
     他人(松本氏)のせいにせずに、
     しっかりと自分の反省として書くことを
     心がけようとしています。 (言うは易し行なうは難し)。
     
     新団体の基本的なイメージ・プログラムも、
     皆で、一歩一歩、考えています。
     5月中には、とりあえずの発足になる、
     と思います。

  • 島田裕巳氏の中沢氏批判の本について2──両氏に対するお詫びを兼ねて (2007年04月01日)

     前回、このテーマについて日記を書きましたが、実際に刊行された本(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』亜紀書房)を読んで、少なからず驚きました。

     それは、島田裕巳氏がこの本を書いた二つの理由の一つとして、他ならぬ私自身が、中沢新一氏の『虹の階梯』が、オウム・アーレフの信者が松本智津夫氏への信仰を脱却したり事件を反省したりする上で障害となっていると考えている、ということが挙げられていたからです。

  • 島田氏の中沢氏批判について (2007年03月28日)

     島田裕巳氏が、かつて一時的に松本氏を擁護した中沢新一氏とその著作である『虹の階梯』を批判する著作(中沢新一批判ないし宗教的テロリズム)を近日中に発刊する、という話を聞きました。

     中沢氏は、日本のチベット密教研究者(ならびに修行者)として第一人者であると思います。そして、チベット密教ニンマ派の教義と瞑想修行を解説した『虹の階梯』は非常に有名になりました。

  • 地下鉄サリン事件から12年目を迎えて (2007年03月20日)

                           上祐代表・新団体準備グループ一同

                                 2007年3月20日

     地下鉄サリン事件から12年目を迎えた今日、私たちは、事件のご遺族・被害者の皆さま、そして多大なご迷惑をおかけした公的機関、一般国民の皆さまに対して、あらためて深くお詫びを申し上げます。

     振り返るに、私たちのこの12年間は、事件に対する真の反省からは、ほど遠いものでした。先日、宗教団体アーレフから脱会した私たちも、アーレフにいた長らくの間は、かつての元教祖などへの愛着のあまり、事件から目を背け、ご遺族・被害者の皆さまの苦しみに目をつむり、真剣な反省を回避してきたことを、ここに正直に懺悔しなければなりません。

     一人の人間を神と見立てて絶対視し、「教団を善・社会を悪」と見立てる善悪二元論的な考えにとらわれた結果、私たちは無智と傲慢に覆われ、地下鉄サリン事件のような残虐な事件を引き起こす教団を作ってしまいました。
     さらには、その後も、その考えからなかなか抜けられなかったため、真の反省に至ることができず、ご遺族・被害者の皆さまをはじめとする多くの方々の心を傷つけ続けてきてしまいました。
     
     私たちのグループは、各々の経験や反省に基づいて話し合いを続けた結果、この約2年半のうちに、ようやく上記のような総括の入口に至ることができました。それは、あまりにも遅すぎる歩みでした。この間、私たちは、アーレフの信者全体への説得も続けましたが、不徳のゆえ力及ばず、今般脱会して、過去の反省に基づく新しい道を歩ませていただくこととしました。

     私たちはかつて、皆の力で誤った信仰に陥ってしまい、多くの方々を不幸にしてしまいました。
     ですから、今度は、皆の力をあわせて、外部の方々の厳しいご意見・ご指導を頂戴しながら、かつての失敗を組織的・体系的に教訓化し、決して対立や闘争や事件を生み出さない新しい考えに基づき、行動してまいります。そうすることによって失敗から立ち直り、償いを果たしていきたいと思います。

     そして、まことに申し訳なくも停滞している被害者賠償のお支払いを全力をもって進めさせていただくとともに、許されることならば、ご遺族・被害者の皆さまへの直接のお詫びを進めていきたいと考えております。

     最後に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、関係者の皆さまに深くお詫び申し上げるとともに、いっそうの贖罪に努めていくことを決意させていただきます。

  • 3月18日 (2007年03月18日)

    3月18日
    昨日は名古屋、今日は大阪に来ています。例によって、信者ならびに道場を訪ねてこられた方と話すためです。
    サイトには、オウムの総括の最初の部分の掲示が始まりました。ご関心あればご一読下さい。今後も内容が増えていく予定です。一度には書ききれませんので。
    新団体発足までには、自分の責任を明らかにするためと、社会全体にお伝えする重要性がある、と思うことについては、だいたいの部分を書き終えなければならない、と考えています。

  • 3月15日の日記 (2007年03月16日)

     今日は、他の宗教の教祖の方と話す機会がありました。いろいろ、学ばさせてもらいました。
     
     高齢の女性で、病弱で学校にも行けず、しかし、20年くらい前に信仰に目覚め、他を許し、他に与えることを中心に実践されているそうです。

     ともかく、男性・大学出・健康体の私とは全く違うキャラクターでした。

     しかし、現在、宗教が互いに争って世界をおかしくしており、宗教が変わらなければならない、という点では、意見は一致しました。その最たるものが自分が没入したオウムでした。

     ところで、最近マスコミにも出て、そして、ミクシィを初めて、感じることですが、私が批判されるのは、過去の罪のためとしていいのですが、しかし、私以外の人と人の間でも、互いに批判し合うことが、相当に多いなあ、と思いました。

     私と違って、ミクシィやその他のネット世界に参加されている人は、みな、オウムのようなテロリストではないし、もしかしたら、ちょっと警察に捕まっちゃった経験があっても、私たちよりずっときれいな人たちの集合体ですから、互いをほめ合ってもいい人たちだと思います。

     私たちは、とうていほめられるべき人間ではないのですが、だからこそ、いっそう、他の方々は互いにほめられて良い人間だ、と思うんですよね。

     それとも、ネットだと、批判はしやすいが、称賛はしにくいのだろうかなあ。いや、やっぱり称賛より批判をする方が、パソコン以外の日常生活でも多くて、生活全体が、社会全体が、批判優位になっているのかもしれないな、と思います。

     実際、やってみると、称賛するのは、批判するより難しい面もある。相手の良いところを見つける力がないと、まとまな称賛はできないし、自分にストレス、いらだち、卑屈、嫉妬があると難しい。

     ただ、全く称賛がないと、成長するのが難しい人は、少なからずいる、と思います。自分の団体代表としての反省からそう思います。

  • 記者会見を終えました (2007年03月09日)

    3月9日

    とりあえず記者会見を終えました。

    その記者会見でも説明しましたが、オウム事件の反省を背景としながら、なぜ、解散をせずに、新団体としての再出発となったのかについて、自分の宗教的視点ではなく、社会的な視点から、「新団体について」のコーナーに改めてまとめてみました。大切なことだと思うので、読んでいただければ幸いです。

     今の心境としては、ようやく、新しい道が始まったな、という感じです。今までは、オウム時代の流れを断ち切れず、ある意味で、まともなことは何もできなかった、事件以来の12年間でした。皆さんにも多大な迷惑をおかけしましたことを改めてお詫び申し上げます。

     とはいえ、12年間の間、色々経験しました。男性の一番弟子として、オウム・麻原氏への没入が激しかった分だけ、それから脱却し始めるのは時間がかかりましたが、同時に、それは、脱却し始めるために払った努力も多かったことを意味しており、今後の努力のいかんによっては、全く無駄ではない面もあるか、と思います。

     なお、今後、出来るだけ多くの方と意見交換をしたい、と思い、いま噂のミクシーも始めました。
     URLはこちらです。 http://mixi.jp/show_profile.pl?id=10236634

  • 本日のご報告 (2007年03月06日)

    3月5日

    今日は公安調査庁に行って、まもなく脱会する旨説明しました。
    また、新団体としては、住民の不安の除去を最優先し、
    観察処分に協力する意思を伝えました。

    それから、賠償を行なっている破産管財人にも面会しました。
    新団体としても、賠償を継続することを約束しました。
    新団体設立後に、管財人と賠償契約を結びます。

    その後、同じマンションに同居する住民の方々に、説明会を行いました。

  • 愛著による妄信 (2007年03月04日)

    3月4日

    昨日お話ししたことは、私だけでなく、
    多くの信者もそうだ、と思います。

    信者の中には、元代表が、
    世の中で一番自分を愛してくれた存在だ、
    元代表が、一番自分のことをわかってくれた、
    と思う人が少なからずいます。


    一般の方から見れば、
    それは何とも理解しがたいことでしょう。

    あれほど悪しき事件を起こした
    悪鬼のような元代表に、
    なぜ、信者はそう感じることがあるのか。

    単に元代表に一定の超能力やカリスマ性があり、
    気配りが効いて、面倒見が良い、
    だけで愛著するだろうか。


    私はそうではないと思います。

    私は、アーレフの代表として、多くの信者を見てきました。

    信者の中には、子供の時の傷、家族との傷、学校での傷、
    社会での傷がある人が、当然います。
    少なくありません。
    いや多いと言うこともできます。

    出家した信者は、家族・学校・職場の
    人間関係を捨てた人たちです。

    私自身は、エリートコースでしたから、
    自分の自覚としては、現世に苦しみがあったとか、
    傷があったとは思いません。

    しかし、私の周りの信者には、傷のある人が多くいます。
    だから、自分についても、
    自分で気づいていないだけかもしれません。

    私は、小学生のころから、
    父親と別居する家庭環境にありましたから、
    その結果、元代表が、文字通り、父親代わりになりました。

    元代表がそのように表現していましたし。
    元代表の妻も、
    元代表が私をそのように見ていると語っていました。

    この元代表と私の親密な関係は、
    教団の中でも知られています。
    でも、それは私に特別なことではないかもしれません。


    教団の中で、元代表を
    父親代わりにしている人は少なくないようです。
    いわゆる父性への欲求でしょうか。
    智恵・力・安定・愛への欲求。

    信者の中で、
    一般の人の目を気にしなければならない場所において、
    元代表を隠語で、お父さんと呼ぶ人もいます。

    自分のことはともかく、
    生い立ちに傷がある人の話をよく聞きます。
    家族の問題、学校での問題、社会での問題。

    ともかく、自分たちが経験した、
    家族、学校、社会の中では、
    それが未熟で狭い範囲の経験であったとしても、
    少なくとも、元代表を超えるものがない、と感じたのでしょう。

    もちろん、それは偏った見方でしょう。
    親の愛、学校の先生の愛、
    友人の愛、会社の同僚・上司の愛。

    それは元代表のようなカリスマ性はなくても、
    心から感謝すべきものがあった、と思います。

    しかし、大変申し訳ないけれど、
    事実として、そう感じることができなかった。

    人によっては、元代表に会うまで、
    誰一人として自分を愛してくれない、
    という被害妄想的な孤独感、寂しさを
    感じていた人もいるでしょう。


    そして、彼らにとっては、
    世界の中で、唯一自分を愛してくれた人が、
    ないしは、世界の中で最も自分を愛してくれた人が、
    世界の中で、最悪のテロ事件を起こしてしまった。

    そういう現実が、元代表が逮捕された後に、
    目の前に立ち現れました。


    このような信者の心境を
    ある程度察する立場にある自分には、
    何とも言いようがない状態です。

    そして、元代表以外については、
    親を含めた多くの人が、
    むしろ自分自身で苦しんでいて、
    元代表のようには、自分を成長させることができない、
    と感じてしまった。

    そして、元代表に強く愛著し、
    そうしている自分自身に強く愛著していると、
    元代表と自分がなした悪いことも、否定・反省できなくなる。

    それが、事件を否定できない信者の
    心理の根底にあるものだと思います。

    そう、私は思うようになりました。


    ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎


    さて、今、私のいる世田谷の教団施設では、
    毎日、公安当局の方々が、教団信者を監視しています。

    新団体ができることもあって、
    表情が以前よりも、若干厳しくなったようです。

    私は、あまり接することはないですが、ある信者が、
    最近、あんまり公安の人たちが、挨拶を返さなくなってきた、
    と言っていました。

    公安当局の皆さんが、日本の国民のために、
    教団を監視して、教団の問題点を批判し、
    必要な圧力をかけるのは、当然のことだと思います。


    しかし、信者が変わっていくために必要なのは、
    本当に必要なのは、
    甘えだとは思いますが、
    元代表以上に、彼らを愛してくれる何か、
    そう感じる何か
    かも知れません。

    人は、厳しさだけでは、導けない、と思います。
    悪いことを罰する厳しさ、
    悪いことをしないように見張る監視だけでなく、
    同時に、辛抱強く、愛を持って、
    変化・成長を促し、励ます導きが、
    必要だと思います。


    この点については、私自身の不徳を強く感じます。
    代表派・新団体の構成員は、全教団の2割弱だ、と思います。

    これは、代表である私の力量の不足、
    愛の不足であることは明白です。

    まず、自分の反省と努力が第一です。
    しかし、同時に、オウムの問題を解決するには、
    多くの方々の力が必要なことも事実だ、と思います。

    すべての日本の人々のために、
    信者のためにも、一般の人のためにも、
    皆さんの力を貸してください。

  • 長らく元代表から自立できなかった理由 (2007年03月03日)

    3月3日

    なぜ、これまで、元代表から自立できなかったのか。
    これを一言で説明することは難しい。

    まず、元代表は、私のかつての宗教的な、精神的な父親です。
    元代表は、あれほどの悪しき事件を起こしました。
    しかし、私にとっては、私を愛してくれた、
    評価してくれた存在でした。

    個人的な対応においても、
    教団での評価においてもそうでした。
    私は、男性の弟子の中で、最高位にあり、
    特別な宗教名を与えられました。

    よくよく考えたあげく、私は次のように思うようになりました。

    私は、私にとって、最も私を愛してくれた存在だと思うが故に、
    元代表を否定することができなかったのではないかと。

    しかし、こう一言で表現できるようになったのは、
    ある意味、最近のことです。

    ながらく、私は、元代表に帰依することが正しいから、
    私は、帰依している、と考えてきました。
    帰依することが正しいから、私は正しいことをしているのだ。

    しかし、実体は、まず、最初に、元代表の愛著に基づいて、
    自分がしたいことが、
    元代表を肯定することだったのだと思います。

    その後に、元代表が正しいという論理を作り出す思考が生じます。
    もちろん、元代表には、面倒見の良さ以外に、
    カリスマ性がありました。
    いわゆる超能力とか、神秘力と言われるものです。

    しかし、高弟たちは、元代表が神ではなく、
    人であることを知っています。
    全知全能ではなく、
    事実に反する推察をする場合も経験しています。
     
    高弟たちだけでなく、すべての信者も、知っています。
    例えば、元代表の預言が成就しなかったことを知っています。

    よって、客観的には、元代表のカリスマ性は、
    人を殺すまでのことを正当化する理由にはなりません。

    しかし、超能力のある人、神秘的な人でも、
    人は人であり、神や神の化身ではない、
    という理解がありませんでした。

    超能力・神秘力のある元代表=神の化身である、
    という構図になったのです。

    それは、超能力、神秘体験、瞑想体験、宗教に
    対する無痴でしょう。
    未熟で免疫がなかった、ということもできるでしょう。

    いや、本当の理由は、そうではないかもしれません。

    本当の理由は、経験不足、免疫の不足などではなく、  
    元代表に強く愛著した私たち信者は、
    元代表を否定したくないために、
    元代表を絶対化、神格化したように思います。
     
    本当は、絶対ではないと知っている面があっても、
    絶対であってほしかった。

    よって、信者が、
    元代表の超能力、神秘力というものを口実に、絶対化した。
    ないしは、信者が、
    自分たちの得た宗教的な体験を肯定するために、絶対化した。

    元代表を絶対化したいから、絶対化した。
    否定したくないから、否定しなくていいように、絶対化した。

    それは、突き詰めれば、自分を愛しているからです。
    自分を否定したくないからです。

    人が最も愛しているのは自分自身。
    自分自身の実践した宗教を否定したくない。
    自分自身を最も愛してくれたと感じる教祖を否定したくない。

    これが、事件を起こした理由。
    そして、長らく、それを反省しなかった理由だと思います。

    これが、今になって思うと、感じることです。

    もちろん、元代表が私を愛してくれた、という言葉の意味には、
    今思えばですが、元代表が私のエゴを満たしてくれた、
    という部分が多分にあることに気づきます。

    自己の存在意義を求める欲求。
    愛情、名誉、地位・権力への欲求。
    超能力や神秘的な体験、宗教的な瞑想体験への欲求。
    そして、世紀末世界の救済といった、一種のロマン。

    自分が最も愛する「自分」の
    様々な欲求を充足したのが「元代表」でした。

  • 20年目の独り立ち (2007年03月02日)

    3月2日

    一時代前でも、オウム・アーレフでは、
    個々人が脱会することはありました。
    しかし、今回ほど、多くの信者の集団が、
    脱会することはありませんでした。

    しかも、元代表のすべての教材や、
    その信仰システムを捨ててです。

    ましてや、新しい宗教、思想を目指すことは考えられませんでした。
    それは、教団が破綻しようと、考えられませんでした。

  • ブログをはじめました。 (2007年02月27日)

    このたび、ブログをはじめました。
    まもなく、私は、アーレフを脱会します。

    それは、旧教団を乗り越えて、新しい道を歩み始めるためです。
    それに先立ち、皆さんにいろいろなことをお伝えしたいと思います。

    脱会は、3月中にも行なう予定です。
    私と共に、新しい道を歩むために、
    新団体を立ち上げる友人たちも脱会します。
    新団体は、4月から5月にかけて、立ち上げる予定です。

    これまでの経緯から、私や新団体に対して、
    厳しい見方もある、と思います。
    そして、それは、自分たちが本当に変わるために、
    大切なものだ、と思います。

    そのため、このブログで、自分や、新団体について、
    できるだけのことをお伝えし、
    皆さんからも、いろいろな方々の意見を聞かせていただければ、
    と思います。

    私たちは、変わっていく決意をしました。
    どうかよろしくお願いします。

    2月27日  上祐史浩

ひかりの輪 ネット道場
7/10開設!会員でない方も、どなたでも、支部道場での、教えや修行法を、ネットを通じて、ご自宅から学ぶことができます。
過去1年間の改革の状況と今後の方針




21世紀の宗教・思想の創造「ひかりの輪」
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