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稽古日誌2
日時: 2006/02/01 23:25
名前: 佐山

前までのは返信数が100を超えたので、
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Re: 稽古日誌2 ( No.71 )
日時: 2007/02/08 23:31
名前: 8日雑感

巷には「胴体力」「呼吸力」「無足」「脱力」「身体意識」「なんば歩き」「インナーマッスル」など、なんだか、それさえやっていれば達人になれるようなキーワードが溢れている。

それらは、ある部分の説明にはなるかもしれないいし、ある面では有効かもしれない。
が、どんな鍛錬法でも、それで全てが説明できるとか、それさえやっていれば良いというようなものは、無い。
むしろ、そういった情報を取捨選択し、何には何が有効なのかを判断できず、盲目的にそれ一辺倒になるなら、そうした鍛錬法などは害にしかならない。

確かに真理、奥義というようなものは極めてシンプルなものだ。
しかし、それを説明する理論もシンプルかというと、それは逆だ。シンプルすぎて、それ以上、分解できないもの程、説明は困難なのだ。
例えば、「林檎は赤い」という事象はシンプルな事実だ(青リンゴもあるとか言わないでね☆例え話だから)。
しかし、林檎を見た事もなく、赤いという色も知らない人に、その事を伝えようとしたら、途方もない労力が必要だ。そして言葉を重ねるほど、それは真実の持つシンプルさから遠ざかってしまう。

特に武術の場合は、極めて体感的なものが本質なので、「ガーッといってサクッて感じだよ」などの長嶋的アドバイスや、昔ながらの無言伝授というやり方でしか、本質を伝えられない。昔の人は理論が無いのではなく、理論化した途端に本質から離れるのを知っていたのだろう。

そういった意味で、「武術の本質を解き明かした理論」などのキャッチフレーズで世に出たものは、大抵、眉に唾をつけて聞くべきものだろう。
Re: 稽古日誌2 ( No.72 )
日時: 2007/02/11 12:34
名前: あい〜ん

>長嶋的アドバイスや、昔ながらの無言伝授というやり方でしか、本質を伝えられない

禿げしく同意いたします。
Re: 稽古日誌2 ( No.73 )
日時: 2007/02/12 23:21
名前: 10日、11日

10日。

基本的な事を中心に稽古。
最後、四つん這い同士で、足首の取り合い、フォールの奪い合いをレクリエーションとして試みる。
これにバックの取り合いなどを加えていくとレスリングになる。普段より、全身を使う運動になるので良いかもしれない。

11日。
あい〜ん氏を加えての稽古。
普段より身長差がある相手なので、良い稽古になっていたのではないかと思う。
技は掛かりにくい時こそ、丁寧に崩さずにやったほうが良い。力づくで掛けることより、なぜ掛からないのかを考えるほうが勉強になるだろう。

稽古後、広辞苑を買い求め、「たほいや」大会。
Re: 稽古日誌2 ( No.74 )
日時: 2007/02/13 14:30
名前: 雑感(会員向け)

推手や、座り技、型稽古などで押さえたり押さえられたり、相手を引っくり返したりというのは、稽古法、手段であって目的ではない。
が、どうしても勝ち負けみたいな意識が出ると、死に体になっても投げられまいとしたり、倒せれば良いとばかりに、急所をさらしたりする。
それでは、その場で倒すことが出来ても、あるいは倒されなくても、当身や武器などを視野に入れれば武術的には無駄な頑張りな訳で、それこそ、旦那102芸で書いた、冬でも寒くないからといって薄着でうろつく馬鹿のようなものになる。

何の為の稽古をしているのかを考えないと、ただ問題集を解いているだけだ。
出題者の意図を考え、どういう力をつけさせようとしているのか、それは何のためなのかを考えないと、意味がない。
まず数字という概念を教え、足し引きを教え、かけ算わり算へ進み、そのうち方程式のようなものが出てくる。最初の段階で数字という概念も理解できず、ただの模様に見えてしまったら、残りは全部、何をやっているのか、意味がわからないだろう。
わからないまま、技をなぞっているだけでは、全ての数字と記号の組み合わせを丸暗記しようとするようなものだ。意味もないし、そんな作業に終わりはない。
そうでなくて、「足し算」「わり算」というような概念を理解するために問題集を解くと思ってほしい。
稽古ごとに、今回のテーマは何だったのかを考えるのも、稽古のうちだろう。
一を聞いて十を知るというのは、才能ではなく、努力で獲得できる発想法だ。教わることに受身のお客さんや、自分の意志を持って考えることのできない人をお断りしているのは、そういう意味だ。(質問板Q&A集No.56)
迷路は鳥の目で見れば迷路ではない。虫の目で迷いこめば十を聞いても一も分からない。
Re: 稽古日誌2 ( No.75 )
日時: 2007/02/20 00:01
名前: 雑感

記事の一部がウィンドウズで正しく表示されないという報告があったので、日誌をMIXIに一部移動しました。

Re: 稽古日誌2 ( No.76 )
日時: 2007/02/24 06:17
名前: 雑感

公共の施設で稽古をしていると、おのずと他団体の稽古も目に入る。
すると、門派は違っても、その中で誰が一番強いか、上手いかというのも見えてくるし、出来ないにせよ、ある程度、技の原理や、コンセプトなども分かるようになる。それはそれで勉強になる。

特に新宿スポーツセンターは、色々な人が来る。
中の数人とは、挨拶をしたり、時に技術交流をする人もいる。その中でも突出して強かったのが、妙に迫力のある60歳くらいの沖縄唐手の師範だった。
私の何が目にとまったのか、幾つかの技を体験させてくれたのだが、極めて異質な、火薬が弾けるような感触の技だった。
この事例は幾つかの問題を私の中に残した。

・あの師範と同じ歳になった時、自分はあれ位、強くなっているだろうか。

・その師範の技術は凄いが、それと同じ方向性に行っても、私は多分、強くなれないだろう。

大きく分けると大体、この二つの問題であり、細かくするなら、優れた物を学んでも自分に向いていなければ結果が出ないと言う事や、それならば教える側は相手によって教える内容を変えるべきなのか、あるいは最大公約数的なものを教えるべきなのか。弟子と師の格差は何故生まれるのか。そういった問題でもある。

これらはいまだ、答えらしきものも無いし、今後も揺れ動くと思うが、せっかく稽古するなら、商会員達にも、私にも実りのある時間であってほしい。
が、教える側に貴重な技術があり、教わる側にやる気、見る目があっても、「向き、不向き」によっては結果が得られないというのも、動かしがたい事だろう。

勿論、まるっきりドラネコ商会に向いてない人は、続かないから来ないだろうが、今いる人達も、ただ私をなぞっていても私以上にはならないので、自分の特質を理解することが上達への道だと思う。


Re: 稽古日誌2 ( No.77 )
日時: 2007/03/05 00:41
名前: 最近の稽古とか

えー、遅刻者が多い。
それは置いといて。
少しづつ太極拳の用法分解の、突っ込んだ部分を教えている。
多分、他のところではもうちょっとオブラートに包んだ用法を教えていると思うが、うちは悪用するほど喧嘩っぱやい人もいないし、女性などにとっては、護身的に非常に有用だと思うので、わりと泥臭い、えげつない使い方を教えている。
前にも書いたが、蓮の花を咲かせているのは泥の養分だ。太極拳も、美しく動作を見せることより、その技の本質を大事にしてほしい。それが結果として正しい形を作ることにも繋がると思う。
正直、私は気功的な「気」というようなものも重要だとは思っていないし、経絡なども単に神経のシナプスくらいにしか考えていない。
よく、「指先に気を通して」などと言う表現も、単に末端まで神経を集中するという意味だと思っている。
そのままゆっくり動きつづけて、脳からの指令の電流が通る回路を刺激し続ける事で、反応速度などを上げているのだろうな、とか、書道で、根幹から腕を動かしてゆっくり線を引いてもぶれないような、慣性に頼らない動作を作るのだろうとか、そんな感じの理解だ。
まあ、そういうのを「気」と呼ぶ人もいるんだろうけどさ。
Re: 稽古日誌2 ( No.78 )
日時: 2007/03/22 16:46
名前: 雑感

活殺自在、なんて言葉がある。
まあ当然、技のコントロールが出来ない、当てる気がないのに当ててしまう、というのは下手な証拠なので、逆に当てようと思った時に当たらなかったり、避けようと思っても避け損なったりする。

だから、技を制御できるのは重要なことだが、最終的には「生かすか殺すか」はこちらではなく、相手が選ぶ一面もあるな、と思いはじめた。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と言うが、極端な話、こちらが止まっていて、相手が勝手に突っ込んで来て自滅する場合などは、責任が取りきれないという事だ。
投技などでも、安全な形で投げていても、相手が全く受身を取らなかったり、関節が曲がっているのに耐え続けていれば、怪我は発生する。そういう意味では、「安全な技」も「危険な技」も無い。受け手の心がけ次第である。

やってる事がやってる事だけに、ある程度の危険はつきものだが、稽古中は、不注意や、変な我慢などの原因で、下らない怪我をしないように気をつけてほしい。身を守る為の技術を学びに来ているのに、怪我をしていたのでは何が何やらだ。
Re: 稽古日誌2 ( No.79 )
日時: 2007/03/25 11:47
名前: 雑感

あまり言いたくないのだが、こっちの掲示板でもMIXIでも、入門、見学についての問い合わせがたまに来るが、どうにも最低限の礼義すらない人が多くて嫌になってしまう。
子曰く、礼といい礼という、玉帛をいわんや。
形式だけが礼儀ではない。
誠意があるかないかだと思う。
質問しておきながら、こちらの回答を放置とか、ちょっとサイトを見れば分かる事や、何度も既出している事を聞き返すとか、勘弁してほしい。

当会のスタイルは一般的な道場と違い、月謝を取らないし、一回限りの参加なども別に構わない。
が、それはデパートの試食売り場のような気軽さで、適当につまみ食いしていっても良いですよ、と言う事ではない。

お金を取らないのは、金に換算できない事を伝えているからだ。
制約が無いのは精神的に自立して、自己判断できる人を対象にしているからだ。
一回しか来なくても良いのは、一期一会、たった一度でも、人と人とが通じ合えれば実りのある交流は出来るからだ。

何度でも言うけど、うちはフィットネスクラブじゃないし、お客さん気分でお口を開けて、そこに美味しいものを入れてもらうのを待ってるだけのような人は来て欲しくない。
ましてや、「はじめまして」「ありがとう」レベルでの挨拶も満足に出来ない人は論外だ。

武術は時として、生死に関わるコミュニケーションだ。
稽古では、顔の寸前で得物を止めたり、一歩間違えれば怪我をするような形で投げを打つこともある。
その時、稽古相手との間に信頼関係が無ければ、どうなるだろうか?
ろくに挨拶も出来ない人間に命を預けられるだろうか?

こういった不毛なやり取りの連続で、最近は誠意を尽くして何かに回答すると言う事自体に疲れてしまっている。少しトピックスを整理して、テンプレートを作るので、以後は、それを参照して、質問等してください。
Re: 稽古日誌2 ( No.80 )
日時: 2007/03/26 15:51
名前: 24日稽古

ノビ氏が実家に帰っている代わりに、その盟友であるタロ氏が参加。合気道の経験があるというので投技を中心に稽古。少し遅れててまもとさん、大分遅れて我孫子氏も参加。

稽古後、「高木」まで徒歩で移動し、会食。我孫子氏の復職を祝う。「ニート虎の穴」「逆ハローワーク」「無職養成機関」などと噂されているドラネコ商会から、今、一羽の鳥が羽ばたいていった。
まあ、多分3か月くらいで巣に戻ってくるだろう。

引き返して某漫画家の家に。えらく移動疲れした。
某漫画家は家賃も払えぬ程貧窮していたが、逆転の発想でパチンコ屋に死中の活を求め、40万円の大勝を収めたのだという。
景品のチョコレートを某漫画家がジープに乗ってばらまくと、商会員たちは「ギブミー、ギブミー」と言いながら浅ましく群がっていた。

Re: 稽古日誌2 ( No.81 )
日時: 2007/03/28 01:37
名前: 雑感

現在、土曜の東板橋体育館での稽古では、複数の団体がスペースを共用している。
その中に、合気道のグループが二つある。

一つは外国人を中心としたグループだ。
彼らは進んで場所を開けてくれ、ぶつかるとすぐに謝ってくれる。気持ちの良い人たちだ。

もう一つは、日本人のおっさんが教えているグループだ。
彼らは個人解放日でも専有道場のように振舞い、勝手に線を引き、ここから先には入ってくるなと言う。
そして、こちらが稽古中でも、正面に礼をするからと、手で犬猫を追い払うように「しっし!」と追い払われる。確かに我々はドラネコ商会だが。

この人達は、「礼」の意味が分かっているのだろうか?
失礼と礼の区別もつかず、何年「武道」をやっているのだろう?
これが、一流派の長に対し、一流派の長が振舞う態度なのである。その場で殺しあいになっても不思議はない行為だ。

つづく
Re: 稽古日誌2 ( No.82 )
日時: 2007/03/28 01:48
名前: 雑感

つづき

しかし、私は我慢した。
なぜなら彼等は、黙想と称して目を瞑って座り込んでしまったのだ。
喧嘩を売り、目の前に敵を作っておきながら、その場で目を閉じて座り込む。

いつでも殺して下さいと言うようなものだ。

自分達がどのくらい間抜けなのかも気付いていないのだ。
彼等が稽古中、「護身」や、「実際なら…」といった単語を口走る度、私は苦笑する。

この師範は自分の流派内での地位が高くなったことで、それが外部の人間や、公共の場所でも通用する常識だと思い込んでしまったのだろう。
お山の大将という奴だ。

外国人のグループは、白人、黒人、スパニッシュ、アジア系、いろいろな人が来ている。
そのせいか、彼等のほうが異文化、異分野と接するという事の意味、礼儀を知っている。皮肉な話だ。
Re: 稽古日誌2 ( No.83 )
日時: 2007/03/29 01:11
名前: ぶらりことおいちゃん

合気道のグループには僕も二年くらい前に
不快な思いをしましたな。
江東区のある体育館が、
月1回無料解放になるのだけど、
武器術を我々がそこで稽古をしていたら、
後から来た
毎週その体育館で
稽古をしているという合気道の団体が
あからさまに不快そうな態度をとって、
「ここは俺たちの縄張りだ」とばかりに
我々を追いだしにかかったのだった。
当時僕はまだ若くて、50そこそこだったので、
そういう態度がまったく気に食わず、
そこの大将を、
気がつけば木刀片手に挑発していただよ。
あんころはまだ尻が青かったな。
今はそういうことされても、
もう悟りましたから争ったりしません。
それは50過ぎたら、
喧嘩なんかしたら、
僕の体が壊れてしまうという悟りです。
Re: 稽古日誌2 ( No.84 )
日時: 2007/03/29 01:43
名前: 佐山>ぶらりことおいちゃんさん

好き放題やりたければ団体登録して貸し切ればいいんですけどね。個人解放日に商業的団体が入ること自体、規約違反じゃねえかって話ですよ。

喧嘩は50過ぎてからが円熟期なので、頑張って理不尽と戦って下さい。
Re: 稽古日誌2 ( No.85 )
日時: 2007/04/13 11:40
名前: 近況

内弟子として前人未到の80段に達したノビ氏の帰郷。
茨城のT氏の半年ぶりの復帰。
タロ氏、昭和ハンサム氏、LIVIN' ON THE HEAT氏のスポット参加など、わりと激動の季節と言える。一気に平均年齢が上がった気がする。

最近、年寄りじみた説教や愚痴的な日誌が続いており、やや反省している。
これではまるで私が、偏屈で頑迷な取っ付き憎い人のようではないか。
これを機に言っておくが、本来の私はもっと偏屈で頑迷で取っ付き憎いので、これでも大分、我慢しているのだと理解してほしい。
もともと、まるで社交的な人間ではないのだ。みんな死んでしまえ。

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