帝国主義的STSからトロツキイ主義的STSまでの広域スペクトルの中で溺れる無思想研究者たち
テーマ:ブログ佐々木力は講演の中で次のような話をしています。「もっと一般的な政治的観点から言えば、労働者や市民の立場に立ったリスク論に基づく議論を展開すべきだと思います。私は1960年代から労働者運動と共同歩調をとり続けています。(2003年)11月には仙台に赴いて、電通労組でIT革命と労働運動について講演してきますが、彼ら労働者の立場に立って見た技術論を、この際、是非うかがってきたいと願っています。あらゆる科学技術がはたして人間の解放に敵対するのかどうかなど、なんの思想的前提もなく、話し合ってきたいと希望しております。彼らはIT革命下の合理化・リストラで大変な目に合っているわけで、そういった労働現場から見た技術論を聞いてきたいと考えている。科学史家の科学技術論は労働者・市民の現実要求にこそ応えるできです。労働者の科学技術政策の確立と市民の科学技術批判運動にこそ貢献すべきです(『湘南科学史懇話会通信』、2003年7月31日刊、第9号、p.43)。さらに、佐々木力「近代科学史論」三部作完成シンポジウム(『湘南科学史懇話会通信』、2004年7月7日刊、第11号)には次のように記されています。小松美彦(東京海洋大)は、「佐々木科学史学の現代史的意義」の「佐々木科学史学への問い」の項において、次のように記しています。「近代の日本では、広い意味での科学論の中に新たな分野が二つ誕生しました。一つはSTS。Science Technology and Societyの略で、現代の科学と技術の関係を考えましょう、そして政策提言に結び付けていきましょう、そういう風に見える新潮流です。もう一つは、皆さんよくご存知のはずの、バイオエシックス、生命倫理です。これは私の特殊な見方かも知れませんが、この両新分野には二つの特徴が見受けられます。第一に体制補完的である、ないし、そうなる可能性を多分に有している、ということです。・・・第二の共通する特徴は、いずれも歴史的な視点が希薄だということです。・・・一方では、佐々木さんは歴史の重大さを唱えて実践してきましたが、現代批判と歴史研究を結びつける、そのトーンがだんだん薄らいでいるように感じるわれです。若い人たちに対する佐々木さんの責任はどうなのか、と問いたいわけです」(pp.42-43)。さらに、山口直樹(北京大科学与社会研究中心博士課程)は、「労働者のためのSTSとは」の項において、次のように記しています。「この指摘(先の小松の指摘)に対しては佐々木も評価していたが、それでは労働者を基軸にしたノン・コンフォーミスティックなSTSを構想する佐々木は、具体的にいかなるSTSを構想しているのであろうか。日本のSTSが現状肯定的な批判性を喪失したものとなっているとするならば、今後はそうしたことを明らかにしていくことが急務の課題なのではないだろうか」(p.85)。日本STS学会に所属している研究者は、村上陽一郎のような帝国主義的STSから佐々木力のような根源的マルクス主義者としてのトロツキイ主義的STSまでの広域スペクトルの中で溺れている無思想研究者にすぎません。桜井淳所長に拠れば、日本科学技術社会論学会会長の平田光司は、「日本のSTS研究は滑走路で離陸待ちの段階にあるように思えます」(NEWSLETTER, No.8, p.1, 2007.05.25)と位置付けていますが、いつまでも待機状態でもないでしょう(開港9年にしていつまでもそのような開店休業状態にしていると、乗客から不満(革命)の声が起こりますので、もっと、現実的な対応を始めなければなりません)。