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時の番人
 西日の差し込む署内の食堂に、一人の、体格のよい若い警察官がいた。妙に落ち窪んだ
目と無精髭が、男の疲れた様をよくあらわしていた。
 男は時折、テーブルの上に置かれた、冷めたコーヒーを見る。しかし既に飲む気が失せ
ているのか、手を付けることはない。
 男は、朝から随分とコーヒーを飲んでいた。それは味わうためではなく、緊張の糸を保
つためだった。そうやって無理矢理飲んだため、いい加減飲み飽きてしまったのだろう。
 それどころか、胃に鈍い痛みすら感じはじめている。だからだろうか、目の前のカップ
の中身は、注がれた時と比べても全く減っていない。
 男は、そんな白いカップを一瞥して目を瞑り、その日あったことを思い返した。
 死体と、血と、壊れた時計と、笑う女……そして『時の番人』という言葉を。

 この日の朝、のどかな街は一変した。
 時計店を経営していた老夫婦が殺害されたのだ。
 夜が明け切らぬ頃、住人が、住宅兼店舗の時計店からあがった悲鳴を聞き、警察に通報
した。
 数名の警察官が駆けつけてみると、時計店の方はシャッターが降りていたものの、住宅
側の玄関の扉には、鍵がかかっていなかった。
 意を決し、玄関の扉を開けた。
 すると、廊下に女性が、血を流して倒れていた。また、廊下の奥にはもう一人、男性が、
やはり血を流して崩れていた。すぐさま確かめてみたが、二人とも既に息はなかった。
 男達は辺りを見回して、頭の中で状況を整理した。
 廊下と玄関を飲み込もうとする血の海。フローリングの板の目にそって筋状に伸びた、
幾つもの血の川。ロールシャッハ=テストを思わせる、壁についた血の跡。吐き気を誘う
血の臭い。そして、二つの死体。
 男達は確信した。
「ここで、殺人事件が起きたのだ」
 それから点々とした血痕を辿ると、血の跡は階段を昇って二階へと続いていた。
 男達は無言のまま頷き、居間と店舗に向かう者たちと、二階に向かう者たちに分かれた。
 居間は滅茶苦茶に荒らされ、店舗もひどい有り様だった。また家と店舗の、時計という
時計が悉く壊されていた。男達は、その念の入った破壊の様を見て言葉を失った。
 片や二階には、返り血を浴びた女性がニヤニヤしながら座り込んでいた。
 彼女の傍らには、血糊のついた包丁と、ハンマーが一つ、転がっていた。
 全てを悟った男達は、彼女を取り押さえた。
 その時彼女は、満面の笑みを浮かべながら、取り押さえた警察官のひとり……今、署内
の食堂でぼんやりしている警察官に向かって、こう言ったのだ。
「私は『時の番人』になるのです」

「親父さん」
 食堂の扉が開くのを聞いた男は、扉のそばに立っている初老の男をそう呼んだ。
「まだ考え込んでいるのか?」
 初老の男は、若い男をいたわるような口調でそういった。若い男は、首を軽く横に振り
答えた。
「考え込んでもどうしようもないんですがね」
「そうか」
 初老の男はそう呟いた。若い男は、その様子を見て訊ねた。
「ところで、取り調べの状況はどうです?」
「あぁ」
 初老の男はそう答えて、つかつかと、若い男が座しているテーブルまで歩み寄った。
「まぁ、順調と言えば順調だ」
 そう答えると、初老の男は、テーブルを挟んで若い男の正面に腰掛けた。
 若い男が初老の男を見ると、初老の男が西日の差し込む窓を背にしていたため、まるで
後光を背負っているように感じた。たまらず若い男は、眩しそうに目を細めた。
 初老の男のほうは、腕を組み考え込むような仕草をしながら、ゆっくりと口を開いた。
「奴は、かなり『頭がいい』らしい」
 若い男が「ほぅ」と相づちを打った。
「まぁ、テレビで言っていることを鵜呑みにすれば、の話だがね」
 初老の男はそう言って、顎の下の、少し伸びた髭を撫でながた。そして皮肉っぽい口調
で続けた。
「最近じゃ、手続きを踏まえて慎重に調べるワシらよりも、なりふりかまわんマスコミの
連中の方が早く正確に情報を掴むからな」
「確かに」
 初老の男の意見に同調するように、若い男は頷いた。それを見た初老の男は続けた。
「実際、随分としっかりした話ぶりだ。素人目にゃ、本当に頭がいかれているのか、全く
わからんよ」
 初老の男は少し間を置いて、背もたれに身を預けながら言った。
「奴の出た大学の名前を聞いたら、お前さんも驚くぞ」
  若い男が身を乗り出した。
 興味を示した風の様子を見て、初老の男は少々得意げな顔をした。
「いくらインテリでも、気が触れたらお仕舞い、ってことだな」
 初老の男はそう言いながら、自分の頭を小突いて見せた。それを見て若い男は嘲笑し、
初老の男に訊ねた。
「通院歴は?」
「あぁ、あるようだ。ただ奴は『自分は病気じゃないのに、精神科に連れていかれた』と
言っているがな」
「入院歴も?」
「あぁ」
 初老の男は、一呼吸置いて話を続けた。
「先週退院したばかりのようだ」
 それを聞いた若い男は、溜息をついた。
「また……ですか」
 若い男は、日本中で問題になっているこの手の話を思い起こしたのだ。
  初老の男はあえてそれには応えず、容疑者のことについて語り始めた。
「何でも、深夜寝ていたときに『神託』を受けたんだそうだ」
「神託?」
 意表を突いた初老の男の話に、若い男は声を裏がえらせた。
「あぁ、そうだ」
 初老の男が頷いた。
「神のお告げが下ったんだとさ。彼女の話では『お前は時の番人に選ばれた』と言われた
そうで」
「誇大妄想……か」
 ふたたび、初老の男が頷いた。
「時を司り、神の現れるのを待つ。それが与えられた使命なんだと言い張っている」
「分裂病の症状の、典型的な奴ですね」
「そうだな」
  初老の男は短く答え、深呼吸をした。そして若い男の目を捕らえ、続けた。
「自分を『王』だとか『メシア』だとかと思い込むのと同じ、典型的な誇大妄想だ」
 若い男は軽く目を瞑り、頷いた。
「その神託には続きがあってな。
『時の番人になるためには、この世の中にある全ての時計をぶちこわす必要がある』、と
言われたそうだ」
「全ての時計を?」
 若い男が目を開いた。そして初老の男を凝視した。
 初老の男は頷いて答えた。
「だから彼女は、家と店の、時計という時計を全部壊したっていう訳だ」
 初老の男は、胸にしまっている全てを早く吐き出したい風に、矢継ぎ早に続けた。
「その直後、さらに神託が下ったんだと言っている。
『その時計だけじゃない。生き物の中にある体内時計も、全て、壊さなければならない』
とね」
「……だから、か」
「そう」
 初老の男が小さく頷いた。
「だから、両親を殺した」

 現実と妄想の区別が付かず、事件を起こしてしまう者がいる。
 確かに全ての精神障害者が、そうであるわけではない。
 しかし『これ』もまた、事実なのだ。

「精神障害者であろうとなかろうと、ワシらは犯人を捕まえる」
 初老の男が、沈黙を破った。
「けどな。ワシは『一寸待てよ』と思ったんだ」
  立ち上がり、窓の外の西日を見ながら話を続けた。
「『彼女のいっていることは全て間違っている』と、ワシは否定することができるだろう
か? と、考えたんだよ」
 初老の男はゆっくりと振り返った。そしてそのまま、テーブルの周りをゆっくりと歩き
始めた。
「確かに彼女は、精神分裂病を患っている。けど、第三者が直に確認できない神託の話は
本当かもしれんじゃないか、とね」
「親父さん……」
 若い男は動揺した。
 それを見た初老の男は、それを打ち消すように言った。
「いやいや……ワシだってわかっているさ。彼女が病気だって事は」
 初老の男は立ち止まり、目を瞑った。
「ワシがいいたいのは……」
 手を後ろに組み、立ったまま話を続けた。
「彼女の言っていることをはっきりさせるには、実際に『全ての時計を壊すこと』以外に
ないんじゃないか? そう、腕時計や置き時計だけじゃなくて、全ての生き物の体内時計
も壊す以外に、ね。
 そしてそれは、限りなく不可能に近いことだ。だから証明できないだけに過ぎない」
 初老の男が、溜息をついた。
「そう考えてしまったんだよ」
 もう一度、初老の男が溜息をついた。そして首を振った。
「不覚にもね」
 若い男はテーブルを叩き、勢いよく立ち上がった。
「考え過ぎですよ! そんなことを言っていたら、何も信じられないじゃないですか!」
 初老の男は視線を避けるように、再び、窓の方を向いた。
「違いは『何を信じ、何を行うか』なんだろう」
「……」
 暫くの沈黙がうまれた。
 そしてようやくの思いで、初老の男が向きを直した。
「ワシは考えてしまったんだよ。
 彼女の言っていることは、あながち間違いではないのかもしれない、とね。
 つまり……時間の流れにしろ世界の動きにしろ、観測するやつが彼女しかいなければ、
それを彼女がどう解釈しようと勝手じゃないか」
 男は、男のいわんとすることを解した。
「……究極の独裁者、という訳ですか」
 若い男のその言葉は、吐き捨てるようなものだった。だが初老の男は冷静に答えた。
「彼女流に言えば『時の番人』だ」
 口篭もってしまった若い男を見て、初老の男が言った。
「そう考えれば、『時の番人』になれるのは彼女だけじゃない」
「……」
「その気になれば、君だって」
「……」
「ワシだって」

  初老の男が立ち去って後、若い男は自分に嫌悪した。
 一人になってから、自分も『時の番人』になれるのかもしれない、と、考えてしまった
のだ。
 男は身震いして、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
  正気を保つために。

                                2003.09.27 掲載
      
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