【NEWS】
★現在4日遅れで公開しています。ご意見・ご感想はMLA掲示板へどうぞ。
★8/28に講談社より『どちらかが魔女』と『僕は秋子に借りがある』
 (いずれも短編集)が発行。

★9/4に講談社ノベルス『目薬αで殺菌します』が発行。
★9/19にメディアファクトリーより『MORI LOG ACADEMY 11』
 が発行。

★10/15に講談社文庫より『議論の余地しかない』が発行。
★11/14頃に講談社文庫より『探偵伯爵と僕』が発行予定。
★11/25頃に中央公論新社より『スカイ・イクリプス』ノベルス版が発行予定。
★12/1頃に角川書店より『もえない』ノベルス版が発行予定。


2008年10月22日(水曜日)

【HR】 格差と裏金問題

 ようやく天気が悪くなってきた。今日は一日曇天。気温も上がらず。天候のせいか、午前中頭痛がした。スバル氏に言わせると「花粉」らしいが、違うと思う。こういう体調が悪いときは、仕事以外にやる気にならない。
 とりあえず、現在手許にある唯一のゲラ「半熟セミナ(仮題)」を見た。15%くらい。内容よりも、レイアウトやデザインのチェックが重要。1月刊の「ゾラ・一撃・さようなら」ノベルス版のゲラも明日到着予定。来年の出版計画も80%くらい固まってきた。ここ1週間に幾つか原稿の依頼があったが、どれもお断りした。理由は、締切が近いこと。

 電気屋さんが2人来て、エアコンの配管の工事をしてくれた。床下での作業である。築30年の家なので、方々がそろそろ危ない感じだ。構造体は大丈夫そうだが、やはり設備関係のものが一番劣化が早い。もうすぐ引っ越すかもしれないのに家を直すというのは、不思議な感じに思うかもしれないけれど、僕は、車を売ることを決めたあとに修理をしたことが幾度かあるし、なにかを人に譲ったりする場合は、自分のものであったとき以上に点検を入念にする傾向がある。信頼関係とは、たぶんこうして築かれるものだと思う。巡り巡って結局は自分の得になる。だから、むしろ打算的だといえる。

 なんと、驚くべきことに、スバル氏がWiiをテレビに接続し、Wii Fitを試したという(目撃はしていない)。「30代の評価だった」と自慢げに話すので、「もしかして、ゲームをするとき年齢を入力するの?」と尋ねると、そうだ、という。だったら、喜ぶようなプログラムにしておくだろう。本来は、測定には年齢の情報は必要ないはずだ(評価には必要だけれど)。占い師に見てもらうときに、女装をしていったら、きっと当たらないだろう。
 体調が悪いので、今日は工作はお休みにして、そのかわり、機関車製作部のレポートを作り始めた。まずは1カ月の写真の整理から。記念で作ってもらっているカスタム・ブライスが2体とも出来上がった。まだ写真しか見ていないけれど。

 先日、丸ビルの中のお店で、天井にぶら下がっている飛行機が目にとまった。普通、この種の品は出来が悪いのだけれど、じっくり見たところ、なかなかレベルが高かった。値段も数万円で安い。ただ、一級品ではもちろんない。やはり、どこか手抜きの量産品に見える。おそらく、アジアのどこかの国で手作業で作られているのだろう。
 最高に良いものはいつの時代も高い。かつては、安くて悪いものが世の中に溢れていたけれど、安くてもそこそこに良いものが近頃増えてきた。だから、商品に関しては、質の格差は確実に縮まっている。縮まっているけれど、追い抜いてはいない。相変わらず、高いものの方が少しだけ良い。
 料理でも同じで、安くて美味しいものが増えている。見るからに貧乏そうな人を街で見かけることはなくなった。借金があって、お金に困っている人たちも、きちんとした服装で、住む場所もある。昔の貧乏とは条件がだいぶ違っているのだ。少なくとも日本においては、格差は大きくなってはいないように観察される。
 勝ち組がますます儲けることが、悪くいわれることがあるけれど、こういった余剰な金が、慈善活動や遠い未来への投資に回る効果は否定できない。「公平」を絶対原則として運営すると、国全体が公務員みたいになるだろう(つまり社会主義だ)。公務員のシステムがどれだけ腐敗しているか、最近のニュースで明らかなところである。
 予算を使い切らなければならない、というシステムについては、10年以上まえから問題だと繰り返し書いている。そろそろ気づけよ、というのが「裏金問題」のニュースを見ての僕の感想だ。もう言う気にもならない。「昔書いたことを読んでね」くらいがせいぜいか。

【算数】 怪談「山小屋の4人」

 有名な怪談である。以前にも一度紹介したことがあるが、改めて書いておこう。
 4人の登山者が、吹雪の中を歩き続け、山小屋になんとか辿り着いた。外は猛吹雪。食料もない。燃料もないので、山小屋の中は真っ暗だ。眠ってしまうのは危険なので、4人は一晩中起きていることにした。
 山小屋は1部屋しかない。ほぼ正方形だ。だから、4人は、それぞれ4隅に座って休んだ。眠ってしまわないように、まず、1人めが壁沿いに歩いていく。そして、次のコーナに着いたら、そこにいる人にタッチし、そこに座る。タッチされた人は、次のコーナへ向かって歩く。こうすれば、ときどき歩くし、3/4の時間は座って休むことができる。
 このようにして、4人は一晩中、歩いては、座る、を繰り返し、朝を迎えたのである。日が昇ったのが窓から見えたので、4人は部屋から飛び出した。天気は回復に向かっているようだった。体力を温存できたことで、下山が可能かもしれない。
 しかし、ここで1人が気づいた。
 「おかしい。変だぞ……」
 「え、何が?」
 頭の中で、正方形ABCDと、最初にそこにいたS、T、U、Vの4人を思い浮かべてみよう。AにいたSが、Bへ移動する。BにいたTは、Cへ移動する。CにいたUは、Dへ。DにいたVは、Aへ移動する。Vはそこで、いったい誰にタッチしたのだろう?


2008年10月21日(火曜日)

【HR】 自分との協調

 10/17の書き出しは、2007年の6/1の文章を消し忘れていたものだった。ただ、アップ直前で「ところが」を「それなのに」に直した。なんとなく気持ちが悪かったからだ。潜在意識で覚えていたのだろう。まあしかし、それくらい気持ちの良い晴天が続いている。

 朝から工作。昨日塗装をしたカブースの最後の仕上げ。3時間ほどかかったが、列車の最後部に連結して走らせてみた。まだ、ディテールでやりたい部分が沢山残っているけれど、とりあえず完成ということにしておく。僕が趣味で作るほとんどのものは、このような「とりあえずの完成」にしか至らない。すべて未完成だ。
 それから、パスカルシャンプー。濡れると、ジャックラッセルテリアになる。今日は、ちょっとした隙を突いて途中で脱走し、びたびたのまま走り回って大騒ぎになった。

 シャンプーのあとも庭園鉄道を走らせた。パスカルはウェットのまま庭で遊んでいた。爪も切られた。洗われるよりも、爪を切られる方が抵抗する。
 フィアットでスバル氏とドライブに。書店と薬局とスーパに寄った。この車はまだ250kmしか走っていない。初期点検は再来週の予定。スバル氏もだいぶ運転に慣れた様子である。
 庭掃除もしたし、沿線の枝の剪定もした。ポイントマシンの充電も今日から3日ほどかけて行う。電気機関車のバッテリィの充電もしなければならない。秋はオープンディが予定されているから、整備が大変だ。
 「D&D」は、ゆうき氏との対談のことを書いて、1回分を差し替えた。その確認作業があった。同連載の来月分のテーマを考えた。このほか、細かい確認事項が多数。

 10/17に少し書いた「成し遂げたい感」の理由について、少し考えてみた。これは、過去や未来の自分との協力、と捉えることができる。つまり、現在の自分だけでなく、明日の自分、明後日の自分、という大勢の自分と力を合わせよう、という共同意識なのではないか。他人との協調と同様に、人間は自分とも協調しなければならない。いつか気が変わるようなことがあるが、そこでどれだけ説得できるか、といった問題も発生する。

 一人の力ではなく、大勢の力を合わせることに価値がある、という感覚を人間は普通に持っているようだ。たぶん、本能的なものだろう。僕自身は、これがあまりない。できるかぎり一人でやりたい方だ。たとえば、人を使って仕事をすることに非常に抵抗がある。僕自身の中に、いうことをきかない人格が既に多数いるからだと思う。自分を使うだけで精一杯なのだ。何日もかかって少しずつ仕事をすることは、沢山の自分の力を借りる必要がある。そういったことが、達成感を生むのでは、と考えた。

 ところで、僕の今の仕事、つまり小説関係のビジネスを客観的に見ると、普通ならば、人を使って行うレベルの事業だ。僕の場合も、秘書氏を雇ってはいるし、スバル氏にもあれこれ手伝ってもらっている(もちろん有給)。けれど、これが定職といえるほどの正社員的な人物はいない。数名雇っても不自然ではないし、雇えばもっとビジネスとして展開できただろう。僕よりも収入の少ない会社で、何人も社員がいるところはいくらでもあるはずだ。人を使うことに憧れて、少し儲かると、すぐに社員を増やそうとする事業家もいる。僕にはそういった方向性がまるでない。逆に、人を使わないことを誇りに思っているくらいだ。これは、やはり協調性がないという理由からだろうか。また今度考えてみよう……。

【国語】 読字障害2

 このタイトルはあまり良くないと思うけれど、わかりやすいのでまた使った。誤解のないように書いておくが、現在の僕は、文字を読むことが「不得手」ではあるものの、けっして「障害」というほどではない。
 「仮名が読めない」と書いたら、私もそうだ、というメールが沢山来た。だが、それらは、ぱっと見たとき認識しにくいくらいの話であって、レベルがまるで違う。仮名で3文字程度のものが、さっと読めないのである。また、読めても、頭には入らない。つまり、音に変換することに思考を集中させるため、言葉として認識できない。小学校低学年のときには、3文字を読むのに、5秒くらいかかったと思う。
 国語の時間には、先生に当てられて、立って本を読まなければならないが、上手く読むことはとうてい不可能なので、だいたい、事前にその文章を覚えておいた。これは、中学のときの英語でも同じだ。予習をしておかないと、読むことができない。おかげで、ちゃんと予習をする習慣が身についたけれど。
 大学に勤めてから、膨大な文章を書くことになった。それから、学生が書いてくる文章を読んで、その添削をする作業を繰り返した。この過程で、文章の読み書きに対する苦手意識はかなり和らいだと思う。文字を書くことも苦手だったけれど、こちらはワープロに救われた。
 数学の式を見て、「呪文のように見えて、どうにもならない」というのも、同じだし、また、「音符が読めない」というのも同じだろう。まったく読めない、というわけではない。ようは「遅い」だけなので、時間をかけることで挽回できる。
 文字はメディアなので、文字に価値があるわけではない。そこに書かれている内容(コンテンツ)に興味があれば、必ず読めるようになる。読めないことを、理解できないことの理由にしてはいけない、ということ。


2008年10月20日(月曜日)

【HR】 感動定食が嫌い

 爽やかな天気が続いている。日差しが眩しい。
 ホンダを1カ月点検に持っていった。実際には1カ月半になる。800kmくらい走ったところだ。異常はまったくない。車を工場に預けて、近くのマックまで歩いて、スバル氏と朝マックをした。それから、大型電気店に入って、Wiiを買おうと思ったら売っていなかった。そうか、おもちゃ屋さんで買うのか、とスバル氏と話す。スバル氏は新しいプリンタが欲しいそうだ。
 車を取りにいってから、郊外のショッピングモールへ。そこで、Wiiを購入。スバル氏がついでにWii Fitも買った。食料品も買い、帰る途中で園芸店に立ち寄り、苗を30鉢くらい購入。

 午後は、デッキで塗装をしつつ、音楽を聞きながら、エッセィの原稿を書いた。「D&D」の1回分で、これは明日送ることになっている。パスカルが庭で水遊びをしている声が聞こえてくる。コーヒーが美味い。残念ながら、Wiiはまだ箱から出ていない。たとえば、塗装作業に比べると、「今日しなくちゃ」の優先順位がそれほど高くない、ということ。

 ゆうき氏との公開対談で話したことだが、僕はとにかくマイナ指向で、普通ならばこうするという方向へ絶対に書かないから、普通の人が読んで感動できるような部分が少ない物語ばかりになる。たとえば、親子の愛情を描いたりしないし、命をかけてまで愛する人を助けるなんて場面もないし、そういった行動をたとえしても、けっしてそれを言葉にしたり、台詞で言わせたりはしないだろう、と思う。もう世の中、そんなお決まりパターンの「感動定食」でいっぱいだからだ。
 日本に限ったことではない。最近のハリウッド映画の大半はこれである。愛情、友情で煮詰めすぎ、出汁(だし)が出すぎ、みたいな作品が多いからうんざりしている。昔の映画って、こんなふうじゃなかったのにな、と思う。もちろん今でも、D.リンチの作品なんかを見ると、凄いと思うわけで、良いものは作られているはずなんだけれど、一般の人がなかなか見ない。僕はSFものが好きだけれど、宇宙とか地球とか、時空とか超能力とか、そういうスケールの物語に、父と娘の絆、恋愛みたいなものを大袈裟に持ち出してほしくない、と感じてしまう(「The Matrix」に言っているのか)。ときどきなら、良いなと思えるのだろうが、ここまで頻繁にやられると食傷気味になる、というわけ。

 たぶん、同じ気持ちの人が少数派だけれどきっといるのだろう。だから、森博嗣のようなマイナな作家の本が売れたのかもしれない。もちろん、素晴らしい方向へ誤解をしてくれた人たちも多い、とは想像する。ただ、誤解を生むような仕込みは、やはり作者が意図するところである場合が多い(自分のことを書いているのではなく、一般的に)。
 作者と読者の間には必ず「ずれ」がある、ということも事実だ。たとえば、僕が自分で最高傑作だと思っている作品が一番売れたわけではない。このトリックが一番だと確信しているものは、誰も気づかずに評価もされていない。逆に、こんなものが、と思っているものの方が高く評価される。これも、もちろん想定内のことではある。そして、ギャップは縮まらない。縮める気がないからだろう、たぶん。

 こうやって書くと、偉ぶっているとか、硬派みたいに思われてしまうが、そうではない。僕がもう少し若くて、もう少しこの世界で仕事をする気力があれば、ギャップを埋める積極性を持ったと思う。小説家としてのデビューがもう40歳になろうかという年齢だったこと、そして、たまたまこの仕事を始めたのであって、若いときから憧れてなった職業でもなかったこと、などが原因だと思われる。素直に書いているだけで、他意はない。言い訳をしているつもりもない。もしかしたら、若い人に「僕の真似をしたら非効率だぞ」と言いたいのだろうか。あ、親切なのかな……。

【社会】 見なくなったもの

 子供のときには、どこでも見かけたのに、今はもうほとんど見ることのないものを思いついてみよう。
1)野良犬:最近は、犬がひとりで歩いていると、どこかから逃げてきた、というふうに解釈される。そのかわり、飼い犬はもの凄く増えているらしい。特に、最近10年間で何倍にもなったと聞く。
2)バスの車掌:全部ワンマンカーになってしまった。ワンマンカーの意味さえ、もうわからない人が多い。バスの切符というものも見ることがない。あるのだろうか。
3)乞食:街で見かけることがなくなったように思う。そういえば、ホームレスの人も少ない。どこか目立たない場所へ行ってしまったのだろうか。人目につく場所からは遠ざかっているみたいだ。
4)牛乳入れ:これは、実は近所の家にちらほらとまだ見かける。配達してくれるところがあるようだ。牛乳の蓋を開ける針のついた千枚通しみたいな道具、あれの名称は?
5)リアカー:きっと田舎へ行けばまだあるにちがいない。リニアモータカーではない。
6)三輪車に乗っている子供:もっと格好良いものに乗っている。
7)小型のトラック:仕事に使われる車は、ほとんどワンボックスになってしまったようだ。これも田舎にはあるだろうし、趣味で乗っている人がいる。


2008年10月19日(日曜日)

【HR】 ちゃんと読んでる?

 またも、秋晴れ。昼間は暖かい。朝夕は涼しい。グッドである。
 朝早くから人と会った。仕事関係で、さほど興味深い話はなかった。新幹線では、鳩山幹事長が隣の席にいた。「どうして党首にならないのか?」とききたかったがやめておいた(心にもないことを書きました)。
 電車の中でネットができるのが、とても嬉しい。よしもとさんがiPhoneで、ハワイからつぎつぎワイルドな写真を送ってくる。メールに添付の写真が大きく見られるし、URLが書いてあれば、すぐにブラウザで開ける。ありがたやiPhone。

 パスカルが大喜び。だいたい、久しぶりに会うと、庭で飛びつかれ、それから、家の中に入って玄関でもう一度歓迎を受け、次にリビングで心新たにまた飛びつくのである。3役くらいをこなしているように見える。
 午後は、模型の工作を1時間半ほどした。主にデッキで塗装。気候が良いから、こんな日に塗装をしないで何をするのか、というほどだ。それから、アイスクリームを食べた。それくらい気持ち良かった。

 文章を読むというのは、実に特殊な行為である。先日の国語で書いたように、僕は文字を読むことが得意ではなかった。また、文章の意味がわかっても、その次の段階として、映像として展開するのにエネルギィも時間もかかる。なかなか短時間ではできなかった。
 慣れるために本を読め、と大人は言うのだが、読むことがもの凄く疲れる。絵で見ればすぐにわかることなのに、文字とは億劫なものだな、と思った。でも、そこでしか得られない情報がある。少年向けの工作雑誌などは、最初は図や絵だけをじっと見るわけだが、どうしても文字を読まないとわからない部分がある。
 読んでもわからなかったら、何度も何度も繰り返して、一言一句吟味しなければならない。そうしているうちに、なんとか自分なりの解釈に辿り着く。ああ、そうか、これを書いた人は、こういうことが言いたかったのだな、とようやく気持ちが通じたような気分になるわけだ(多くの場合、錯覚であるが)。
 これは、実はごく普通のことで、会話でも同様のプロセスがある。言葉だけを聞いているのと、その内容を理解しているのは、状態として違っている。単語だけを捉えて、勝手な部分的解釈をしている人はけっこう多いのだ。言葉をやりとりするうちに、あれ、通じてないな、と感じることは誰にでもあるだろう。「だから、そうじゃなくて、言ったこと、聞いてる?」みたいなことになる。
 人ならばきき返せるけれど、読みものが印刷物しかなかった時代は、とにかく理解できるまで読み返すしかなかった。ところが、今はネットで文字を読む。サッと読んでわからなければ、すぐに多数の情報を検索できる。その情報も、内容を理解せず、さっと読んでいる人たちが書いたものが大半だ。けれど、どういうわけか、そういう人間どうしで、信じ合ってしまう傾向がある。ようするに「腑に落ちる」ことがあればそれで良い、という感覚だ。正しく理解できていなくても、周りと同じ程度の感想なり印象なりを持てればそれで良い。
 昔の文豪たちが今の時代に生きていたら、ネットのブログを読んで、自分の小説がこんなに誤解されているのか、と驚いただろう、そして、たぶん森博嗣のように早々と書くのをやめてしまおうと考えたにちがいない。
 比喩がまずかった。誤解があるといけないので、念のため書く。僕は、誤解が気に入らない、といっているのではない。誤解も理解も、ほとんど同じだと思っている。

 さて、そろそろ小説の仕事を再開しなければ。大変だな、小説家は。でも、漫画家よりは楽かな……。沢山、カバー案を見た気がするが、ほぼ落着。12月刊予定の「半熟セミナ(仮題)」のゲラが来た。タイトルは、たぶん「マニアック博士とおしゃべり助手」くらいになるのではないか。それから、文庫になる「探偵伯爵と僕」に、アンガールズの田中卓志氏から解説をいただいた。

【理科】 ブルーレイ

 SONYだったかな、これの宣伝をしている。DVDとは違うようだ。高画質だという。僕は、最初にこの「ブルーレイ」という名前を聞いたときに、こうイメージした。そうか、青い色の光は波長が短いから、信号をディスクに刻むとき、それを小さくできる。それで、同じ面積当たり、沢山の信号を記憶させることが可能になって、画質が向上するのだな、と。
 自分では、そう考えていたので、ときどき周囲でみんなに話すと、研究者仲間は、「当たり前じゃないですか」という反応を示したのに対し、家族や小説関係の人たちは、「え、そうなんですか、単なるイメージカラーじゃなかったんですね」と驚いた。何だ、イメージカラーって。「レッドマジックだって、赤には関係ないじゃないですか。単に雰囲気でつけた名前だと思っていました」ということらしい。レッドマジックだって、なにか赤に関係するものがあるかもしれないよ、とまでは深追いせず。
 ブルーという言葉自体は、英語圏では、あまりプラスではない。いやらしかったり、気分が優れなかったり、そんなときに使われる色だ。だから、紫でも良かったのではないか、とも思ったり……。
 赤外線については2006年の7/5、紫外線については2007年の8/8の【理科】に書いたので、興味のある人はどうぞ。光は電波と同じもので、普通の電波よりは波長が短い(振動数が多い)。その中でも、赤は波長が長く、紫が短い。一番長いものと一番短いものが、近い色に見える。色がぐるりと循環して並べられるのは不思議だ。


2008年10月18日(土曜日)

【HR】 公開対談みたいな

 良いお天気なので、電車に乗ってぶらりと銀座へ。天賞堂が開くのが11時なので、周囲を散策。アップルストアにも立ち寄って、新しいMacを見てきた。それよりシネマディスプレィの新型が欲しくなった(展示されていたが、まだ買えない)。天賞堂では、日本の雑誌と洋雑誌を2冊ずつ購入。模型は欲しいものがなかった。

 午後は半蔵門のFM東京へ。今日は、漫画家のゆうきまさみ氏と対談。しかも、ファンが大勢いる前で話をするので、いわゆるトークショーみたいなもの。文字になって、来年出る「DOG & DOLL」にも収録されるし、もしかしたらラジオで一部流れるかもしれない。前回の西尾維新氏との対談に続き2回め。来月にも漫画家の山本直樹氏との対談を予定している。
 聴きにきた人は、携帯サイトの読者で、応募をして抽選に当たった人たちだけれど、ほとんどの方の顔に見覚えがあった。一言でいえば、「コアな」人たちで、もう少し砕けて表現すると「コアナ」だ(複数形は「コアラ」)。

 ゆうき氏が、少し遅れてこられたので、始まる僅か5分まえに初めてお会いした。初対面である。解説を書いていただいたことがあるし、僕もゆうき氏の「鉄腕バーディ」の推薦文などを書いたことがある。メールのやり取りが1度あったくらいで、特に親しいわけではなかったのだけれど、なんと同じ歳だし、誕生日は2週間くらいしか違わない。
 実は共通の友人がいることが半年くらいまえに判明し、その人に、「ゆうきさんって、どんな人?」ときいたことがあるのだが、その答は、「森さんみたいな人ですよ」だった。ああ、そうですか……。そのほか、あっと驚く人とつながりがあったり、よしもとばななさんの妄想は筋違いだったり、というような意外な展開があったけれど、それは「D&D」に書くかもしれないので、ここでは出し惜しみの心だ。
 収録が終わってから、隣のホテルのラウンジでおしゃべりをした。面白かった。漫画家って(特に売れっ子の方は)本当に忙しいのである。大変だなあって、いつも感じる。ああ、ならなくて良かったぁ、みたいな……、ちがうか。

 それから、タクシーで移動して、友人数名と待ち合わせ、食事をした。スパゲッティとピザで、美味しかった。「スカイ・クロラ」のゲームがもう発売になっていて、みんなもうやっているという。僕も、バンダイナムコから送ってもらっているのだけれど、ハードをまだ買っていない。早く遊びたい。
 そういえば、このまえ、ファン倶楽部からメールインタビューを受けて100の質問に答えた。これは、10周年記念本に収録されるのだけれど、そのうちの1問だけ、ここで先行公開しておこう。

Q 『スカイ・イクリプス』を読んでも、まだ読み解けない読者のために
  何か少しヒントをいただけないでしょうか。

A 無理に読み解かない方が良いと思います。
  ヒントとしては、以下のとおり。
 ・シリーズ5作では、主人公(一人称)はそれぞれ1名。
 ・クローン(特に短時間で人間を再生する)や記憶移植といった非科学的
  なものはこの世界にはない。
 ・「スカイ・クロラ」から読むから難しく感じるかもしれない。
  たとえば、草薙瑞季は、水素の娘だと思っている人が多いですが、土岐野
  がそう言っただけです。このように、何を信じるべきか、ということが重
  要だと思います。

【算数】 文系・理系よりも

 このところ、理系の話題を幾つか取り上げた。こういう話を書くと、「そもそも理系なんて区別をしだしたのは文系だ」とか、「社会では、理系・文系よりも、体育会系・文化系の差が顕著だ」といった意見がメールで来る。まあ、そういう議論は、何度も何度もネットの掲示板で繰り返されているので、10年もこの世界にいると、もう話をするのも億劫になってしまうのだが、しかし、一つだけ書いておこうと思う。
 数学には、代数と幾何がある、という話を7/31の【算数】で書いた。代数は記号を使い式を展開する。幾何は基本として図形がある。僕は、この2つが、人間の文化を分けるようにときどき思う。
 記号の方は、つまり言語も同じで、代数と国語や語学は似ている。また、音楽もこちらに入る。ようするに、記号は音でもあって、つまり聴覚に結びつく。
 一方、図形の方は、やはり絵に直結しているから、図工が同じ分野だと思える。こちらは視覚から発するものだ。
 小説も、読んでいると、テキスト系のものと、ビジュアル系のものがある。小説自体がテキストなので、ビジュアル系のものもテキストとして読めてしまう。しかし、テキスト系の小説は、僕のようなビジュアル系の人間には展開ができない(ようするに、文章を読んでもすんなり頭に入ってこない)。
 音楽も、僕は歌詞をほとんど覚えない。タイトルさえインプットしない。聴くのはメロディで、そこから映像が連想される。絵を見たときも、まずはピントを合わせず、ぼうっと色合いや明暗を捉え、だんだん細かく見る。描かれているものに解釈を与えたり、何が描かれているのかを考えたりしない。タイトルという記号もほぼ無視する。記号による分析もしない。
 記号系と図形系という分け方の方が、理系と文系よりも、本質的なベクトルの違いとして、僕には見える。


2008年10月17日(金曜日)

【HR】 探すものがある?

 眩しいくらいの晴天。それなのに気温があまり上がらず、なんというのか、ヨーロッパみたい。
 朝から、スバル氏とデパートへ。なんということはない、ぶらぶらとしたのみ。人と会う約束が幾つかあって、そのための荷物も多かった。

 「もえない」ノベルス版のゲラを角川のK子氏に手渡した。それから、講談社のK城氏とも待ち合わせ、一緒に川崎へ。実は、宇山氏宅を訪問するため。宇山夫人にお会いするのは8年ぶりくらいになる。まったくお変わりない。宇山氏の家は僕は初めてだったけれど、写真を見たことはあったし、いろいろ小物を見せてもらっていたので、見覚えのあるものがいっぱい飾られていた。懐かしいお話をコーヒーをいただきながら2時間ほど。
 それから、少し離れたところのレストランへ移動。食事をしながら、楽しいおしゃべりの続き。あっという間に時間が過ぎてしまった。再会を約束してお別れをする。宇山氏に向けた言葉は2006年8/5に書いた。ご一読を。

 毎日を楽しく過ごすことが、たぶん、人生の目的だと思うけれど、しかし、その日その日だけ、その場その場だけの短絡的な楽しみに流されてしまうと、そのうち虚しくなってくることがある。虚しくならない人間もいるので、そういう人はどこまでもそのままで良いと思う。
 やはり、ときどきは新しいことがしたいとか、もっとなにかを積み重ねていきたいとか、そういった気持ちになるものだ。発展志向というのか、そんな大層なものでもないし、人によってスケールは様々だけれど、やはり「成し遂げたい感」に憧れるわけである。
 そんな「なにかをしたい」という気持ちが確かにあるのに、実に不思議なことだが、自分は何がしたいのだろう、なんて考えることがわりとある。何が好きなんだろう、とも迷う。そんな基本的なことがわからないのか、と苦笑したくなるかもしれない。しかし、案外はっきりとしていない。それを探すことがとても難しいときがあるし、好きなものが見つかると、もの凄く嬉しかったりする。
 たとえば、ネットには検索エンジンがある。ここで、キーワードを入力して関連サイトを探すことが多い。仕事で使うときは別として、のんびりとした暇な時間に、キーワードを入れて探すものがある、その分野でわくわくするものを見つけたい、というのは「素敵な状態」なのではないか。いつもこれを探している、というキーワードをあなたは幾つ持っているだろう?
 穿った見方をすれば、満たされていないから探すわけであって、つまり不満だから楽しい、という分析にもなる。なんでもそうだけれど、追求すれば追求するほど、目標は遠くなる(あるいは高くなる)ものであり、そのうち、もうそこへ到達できなくても充分に幸せだと感じられるほど、そのプロセスが楽しくなるだろう。

 最近、「スバル氏って誰ですか?」「女の子の人形の名前を知りたいのですが」「写真に登場するネズミの名前を教えて下さい」という質問メールが毎日のように届く。なにものも留まらない。富士の高嶺に雪は降りつつ、万物は流転するのだなあ(感嘆)。

【国語】 読字障害

 読字障害について、最近ある本で読んだ。どうも、自分が子供のときのことに驚くほど当てはまる。僕は、とにかく文字を読むのが苦手だった。特に仮名が一番読めない。漢字はまだ形があって、意味するものがあって、それがなんとか結びついている。仮名(のちにアルファベットがやはり読めなかった)、いわゆる表音文字は、文字の形から読み方を連想することが難しい。しかたがないので、たとえば「ゆ」であれば、それはお風呂屋さんの暖簾に書かれた白抜きの文字を思い出し、それから連想して、お湯の「ゆ」だ、と頭の中で辿る。このため、どうしても時間がかかるから、すらすらと文字を読むことができない。教科の中で、国語と社会が一番不得意だったが、国語などは、とにかく時間中に全部問題が読めないことが多かった。
 ただ、文字を使わないわけにいかない。なんとか自分なりの方法で、回りくどいシステムを頭の中に構築したわけだ。それでも、今でも人よりも劣っているだろう。文字がすらすらと読める人は、どこか頭の構造が違うのだろうな、といつも考えていた。
 アルファベットしかない言語は、読むことが不得意な人には、非常に扱いにくい。海外では、かなりのインテリでも、文字がすらすらと読めない人が多いと聞く。文字を読める一般の人は、それが普通だと思っていて、こんなハンディがあることを想像もしていない。算数や物理のように、できなくても生きていける、というように諦めることができないから、余計に苦労を強いられ、ストレスになる。
 まえに書いたが、僕は「みぎ」という言葉を聞くと、小学校のときに分団で歩いた坂道の情景をそのつど必ず思い出す。その道のどちら側を歩いていたかを頭に思い浮かべ、ようやくそちらが「右」だとわかる。咄嗟に、左右を言われてもわからない。固有名詞が覚えられないのも、たぶん同じメカニズムだろう。「佐藤」と「佐々木」と「斉藤」と「清水」、それから「加藤」と「田中」の区別がつかない。どんなに親しい友人でも呼び間違える。
 もちろん、僕の場合は、非常に軽い症状で、別の回路で補填ができる程度のものだったのだ。まあまあ人並みに文字が読めるようになったのは、たぶん25歳くらいだったか。
 大人になり、非常に高い知能、豊富な知識を持っていても、文字が読めない人が世の中には大勢いるらしい。


2008年10月16日(木曜日)

【HR】 解放されつつある

 多少疲れが出たのか、朝寝坊。今日も暖かくなりそうな日差し。
 朝から、まず工作をした。金属を曲げて加工。ペンキ塗り。庭で少しだけ掃除をした。それから、研究関係の仕事で2時間ほど電話で話をする。普段は全部メールだけれど、ときどき会話が必要なことがある。

 お昼頃、スバル氏とショッピングに出かける。街を走っていると、値段が下がったガソリンスタンドの看板が目につく。
 この頃、スバル氏につき合って食品をスーパで買うのだが、いろいろなものが驚くほど安いのだ。僕が若い頃に比べると、どれもこれも安い。魚が少し高くなったくらいで、肉や果物やスナックはかなり安い。「え、メロンって、こんなに安いの?」みたいな感じだ。これはやっぱり安くしすぎたんじゃないのかな、と思う。安くするためにいろいろ無理をしてしまって、安全性が今頃問題になってきたのだろう(それでも、昔よりは実質的に安全なのは確かだが)。
 おもちゃも安いのだ。高くなっているのはプラモデルくらいではないか。売り場で、だだを捏ねて泣いている子供がいるけれど、あれを見かけるようになったのは、僕が社会人になったくらいだった。それまでは、ああいう場所で泣き叫ぶ子供って、見たことがなかった。というのは、そもそもデパートでおもちゃなど買ってもらえないのが当たり前であって、おもちゃ売り場は、見られるだけで、そこにいるだけで嬉しかったのだ。泣いている暇なんてない。みんな目を輝かせていたものだ。今の子供って、何に目を輝かせるのだろう。ちなみに、僕は、今でもベテランのモデラが作った素晴らしい作品を見せてもらうと、目が輝く。

 今日は、CD店が閉店セールをやっていて、全品50%引きだったので、2枚購入した。ときどきは固有名詞を書こう。Bruce SpringsteenとPeter Gabrielだ。全然ジャンルが違う。僕がCDを買いだしたのはつい最近のことで、もうCDショップが軒並み潰れかかっている時期だったから、安売りに遭遇する機会が多い気がする。そのうち、CDデッキがなくなるかもしれないから、一生分くらい買い溜めしておいた方が良いだろうか(冗談)。帰ってきてから、No.3のアンプで聴きながら工作をした。でも、すぐに疲れてしまって、昼寝をした。
 「議論の余地しかない」の感想が届き始めた。感謝。この本のまえに出した「君の夢 僕の思考」も、同様のスタイルの本で、そちらの方が出来が良いと僕は思う(そのうち講談社文庫になるはず)。「もえない」のカバーは、スバル氏と議論の末、編集部へ返答。「探偵伯爵と僕」のカバーでも鈴木成一デザイン室から提案があった。「スカイ・イクリプス」ノベルス版のカバー案も来た。
 小説の仕事を減らす努力を続けてきたが、この頃ようやく楽になってきた。今年は25冊出るけれど、来年から順次減っていくはず。本当は、もう2年くらい早くこうしたかったけれど、力不足で遅れてしまった。しかし、解放されつつある。

 日中はTシャツでいられるのに、夕方には長袖のシャツが必要で、さらに夜や朝は、それでも寒い。ファンヒータをときどきつけている。「まだ冬でもないのに」と我慢するのは駄目だ。この時期に暖房を使うことが、風邪を引かないコツ。病気が一番効率が悪いのだから、結果的に省エネになるように思う。

【社会】 傍迷惑

 本人にとっては、日常的な行為であっても、周囲に迷惑が及ぶ例はいくらでもある。わかりやすい例としては「暴走族」だ。これは、暴走するわけではない。暴走は取り締まることができた。しかし、住民にとっては「音」が迷惑だった。いうなれば「暴音族」であるけれど、これだと「防音族」と書かれてしまって、サイレンサ着用のグループみたいだ。最初は音の迷惑に対する規制はなかったが、後追いでルールが決められたようだ。
 煙草も、かつてはどこでもみんなが吸っていた。吸わない人から要求が出て、最近はもう公の場所では吸えない。僕自身は煙草を吸わないけれど、たとえば、(新幹線などで)隣の人が煙草を吸うことはまあまあ許せる(少なくとも、強烈な匂いの香水よりは我慢ができる)。それよりも、煩い鼾の方がずっと迷惑だと感じる。子供が騒ぐのもどうにかしてほしい(ただし、赤子は例外)。スバル氏によれば、煙草も許せるし(彼女は僕よりも嫌煙家だが)、騒ぐ子供も許せるが、絶対に許せないのは、隣の席でビールを飲む男だそうだ。これは、臭いが主な問題らしい。
 住宅地でも、「近所迷惑」というものがある。多くは「音」が原因であるが、この頃はゴミやペットに絡んだ問題もあるし、極端な例になると、「景観」だけで揉めた、というニュースがあった。
 いずれの迷惑も、昔からあったことだけれど、問題にしなかっただけのこと。知り合いだったら許せても、他人であれば腹が立つ。つまり、近所つき合いが他人行儀になったことが問題だ、というふうにマスコミはまとめようとするが、それも一辺倒で上辺だけの分析に感じられる。
 人それぞれ、迷惑に感じるものが違うけれど、その中から共有人数が多いもの、明らかな害が認められるものは、だんだん規制の対象になっていくだろう。「マナー」では解決ができないからだ。
 文句を言うことは非常に格好悪い。格好悪いのがわかっていても文句を言わざるをえない、その気持ちも察することが必要なのだが、たいてい文句を言われると、そのときは人間誰でも、カッとなるものだ。そもそも、気持ちを察するような人間ではないから迷惑を振りまいているのであって、最初から解決が容易な状況ではないことは事実だろう。


2008年10月15日(水曜日)

【HR】 支配からの卒業

 秋晴れに戻り、朝から綺麗な光。
 一昨日うまく運転ができなかった機関車に再挑戦。そもそも、今までで一番小さいボイラと、1気筒しかないエンジンのため、運転が難しいことは確か。今日もスチームアップに1時間ほど悪戦苦闘した。しかし、うまく燃え始めてからは快調で、念願の「ノンストップでメインラインを一周」に成功。2周したあと無事に運転を終えた。申し分ない結果で、とても満足。記念撮影をした。結局、お金と時間をかけて製作するのも、この一瞬のためだ。もう、このまま運転しなくても良いと思えるほど、元が充分に取れる。

 そのあとコーヒーを淹れ、一番気に入っているアンプに火を入れて、ロックを大音響でがんがん鳴らしながら、小説を書いた。長編は今、1500文字ほどのところで、軌道に乗ったと思われる。たぶん、もう悩むことも少ないだろう(なにしろ、ストーリィは決まっているのだから)。ただ、来月中旬締切の連載の仕事(「ジャーロ」のZシリーズ)があるので、どこで中断をするかが考えどころ。その連載は今回が最終回で、しかも最後の連載小説になる(エッセィの連載はまだ続く)。「もえない」ノベルス版のカバー案が届いた。
 朝のパスカルの散歩はスバル氏と一緒に行った。夕方は、スーパへパスカルを連れていって、駐車場で待っていた。そのあと、公園に寄って、パスカルは散歩。でも、いつもの場所じゃないから、パスカルは「早くおうちへ帰りたい」状態だった。

 このところ、柄にもなく教訓めいた話を書いているが、もちろん最後を意識して、これまでに書いたことのうち、もう一度くらい書いても良いかな、と思える一般的なテーマを選んでいるにすぎない。僕は、たとえば学生や友人や、そして自分の子供たちにさえ、日頃こういったアドバイスをすることはまずない。どんなケースであっても、一番適切な判断ができるのは当事者本人である。他者にはけっして見えない事情があるから、参考意見を述べることはできても、判断は当事者が行う以外にない。
 だから、ここに書かれていることは、抽象化された「綺麗事」である。そして、綺麗事の価値とは、それを受け止めた人間が、自分の条件に当てはめて考えてみる、その考えてみるという行為そのものにある。言葉の力が、考えてみようという気にさせるわけだが、結局は、考えるその人間の意志の力から発する。アドバイスとは、そういった効用以上のものではない。それで悩みが消えたり、問題が解決したりしても、アドバイスのおかげではなく、あくまでも当事者の能力によるものだ。
 しいて例を挙げるならば、音楽と似ている。好きな音楽を聴いて、やる気になったり、元気になったりするけれど、音楽にその能力があったわけではなく、聴いた者が、自分の力で立ち直っているにすぎない。逆にいえば、立ち直れない人、落ち込んでいる人は、自分のせいでその状態に陥っている。自分でその状態を無意識のうちに許容しているから、そのままなのだ。

 さて、「支配度」について書こう。人間は誰でも他者に支配をされている。社会とはお互いに支配し合う仕組みのことである。ただ、その度合いが人によって様々だ。僕は、できるかぎり支配を受けたくない人間だ。自分のことは自分で決めたい。自分の思ったとおりに行動したい。自分で一度決めたことが、他人の関与で取り消さなければならないという事態を避けたい、と考えている。自分で決めていれば、約束を破るようなこともない。自分の大事な人に対して誠実であるためには、他者からの支配を受けないことが必要だと考えている。
 だが、若いときには、これがとても難しいだろう。たとえば勤め先の事情で時間を左右される。自分よりも偉い人間が大勢いるのだから、どうしても振り回される。それでも少しずつ、そういったことがないように立場を築こう。支配がまずいことだと自覚していれば、いつか必ず支配からは逃れられる日が来る。支配が普通だと諦めれば、支配されたままになる。
 結局、「大人になる」とは、支配から卒業することだと僕は思う。

【理科】 ディスプレィ

 僕が結婚したのは1982年だが、このとき、スバル氏が嫁入り道具を買うというので、SONYのアルファという名前のテレビを希望した。冷蔵庫よりも高かったと思う。初めて、テレビではなく、「モニタ」という役割を明確にした製品だったのではないか。結婚祝いに、講座の仲間がお金を出し合って、PC-6001というパソコンをプレゼントしてくれたので、これをアルファにつないで使った。BASICを初めて扱ったのは、この画面だった。
 当時、パソコンの専用モニタはほとんどが白黒だった。液晶モニタなどはまだ、大きなサイズが作れなかった時代である。最初に薄型モニタを買ったのは、NECが出したプラズマ・ディスプレィで、これはオレンジ色の1色だった。PC-9801につないで、実験で計測に使っていた。持ち運びが楽だからだ。普通のモニタの倍の値段だったと記憶している。
 大きな液晶モニタが作れるようになって、ついにノート型のパソコンが登場する。最初はまだ白黒である。ブラウン管のカラーモニタもかなり高価だったと思う。毎日16時間はディスプレィを見つめる生活だったから、目が悪くなるのではないかと心配したけれど、結局視力が落ちるようなことはなかった。
 ノートパソコンしか使わなくなって、もう8年くらいになる。24インチのシネマ・ディスプレィを繋げて使っているものもあるし、キーボードも別につけている。それでも、ノートがやはり便利だ。
 いつの間にか、液晶がカラーになり、プラズマもカラーになった。今、家で使っている50インチのプラズマ・ディスプレィは、数年まえに150万円くらいで買ったものだ。今なら、この半額でも高い。最近は、さらに薄いモニタが登場している。近い将来、壁にかけるカレンダもポスタも電子化されるだろう。


2008年10月14日(火曜日)

【HR】 自分を使う以外にない

 久しぶりに一日冷たい秋雨。パスカルは少々の雨でも散歩に出かける。簑を着ているようなものだから、ほとんど関係がないのだ。大雨で散歩にいけなかった、というのは、これまでのパスカル人生で3度くらいしかない、とスバル氏談。
 スバル氏と車で繁華街へ出かけた。2つの銀行へ行き、ちょっとした手続きをした。このうち1行では、ATMだけで用事が済むはずだったけれど、どういうわけかメッセージが出て、係員がやってきた。「どうしたのですか?」と尋ねると、整理券を渡されたので、ゴージャスなソファでTVを見て待った。カウンタというものがなくて、窓口は個室みたいになっているセレブな銀行だった。しかし、15分ほど待っても呼ばれなかったので、整理券を返して、銀行を出た。僕はどんな場合でも自分の持ち時間で行動するので、イレギュラなことでスケジュールを変更しない。設備はゴージャスでも、待ち時間は改善できなかったようである。

 それから、デパートで洋服をまとめ買いした。スバル氏も服を買った。僕の場合は、同じブランドだから、あらゆる服、鞄、靴、帽子を1軒の店で買える。スバル氏は、1種類の服を買うために何軒も店を回らないといけない。非効率である。
 次は書店。最後はハンズで金属素材を買った。途中で、パスタを食べた。駐車場を出るとき駐車券を7枚も機械に入れたから、3時間半もいたことになる。暖かいコーヒーを飲みながら運転をして、コンビニに寄ってから帰った。すぐに工作を30分ほどして、それから昼寝をした。ずっと雨の音がしていた。

 先日たまたまTVを見ていたら、アナウンサがノーベル賞を授与された博士の研究について説明をしていた。スタジオにいた司会者のタレントが、「ああ、そんな難しいこともういい、ぜんぜんわからんから」と笑って言った。そうそう、こういう態度を何度見たことだろう、と僕は感じた。
 文系の一部の人が算数や物理に対して見せる拒否反応だ。僕は、国語や社会や英語がまったくできなかった(偏差値ぎりぎりくらいだった)けれど、少なくとも、「ああ、わからんから、駄目」と顔を背けるようなことはしたことがない。これは、理系の人にほとんど共通していると思う。文系も理系もお互いに向き不向きがあり、得手、不得手があるだろう。ただ、不得手なものを拒否するかどうか、の違いを感じることが多い。
 マラソンの選手には誰もかなわないが、普通の人でもなんとかあの距離を走るか歩くかすることはできる。1日かけて、あるいは2日かけても良い。できないことではない。競技やテストになれば落第するかもしれないが、「私は駄目」と顔を背け、諦めてしまうほどのことはそうそうない。算数がわからないのは、最初に少し時間をかければ良かったことを自分から諦めたからではないのか。
 9秒台で走れなくても、誰でも100mを進むことはできる。時間には関係なく、成し遂げる仕事としては同じなのだ。才能の違いなんて、その程度、つまり数秒間の差である。それよりも、「私は走れない」と諦めてスタートもしないことの方が大きな差になって表れる。
 たぶん、自分が「遅いこと」に対してプライドが許さない、だからそっぽを向いてしまうのだろう。そういったことが、10/11の【理科】で書いたような偏見の根底にあるともいえるし、10/6の【算数】で書いたような「できないから嫌い」という感情にもなるだろう。

 スバル氏は、「この歳になって、人間にはいろいろなタイプがいることが、やっとわかってきた」と話していた。自分の子供を育てた時間の中で、自分との違いを認識したようだ。同じ犬種の犬でも、一匹一匹違っている。同じはずだ、と考えて単純な比較をするから、優劣が気になり、その結果、僻んだり諦めたりする。自分のペース(時間)を見つけることが、なによりも大切だと思う。生きる方法は、「自分」を使う以外にないのだ。

【算数】 解き方も問題のうち

 小学校のドリルなどでは、たとえば、「ツルカメ算」を習ったあと、これを使う問題が出る。学校でも普通にこれが行われている。しかし、「ツルカメ算を習得した」というのは、ツルカメ算の問題が解ける、という意味だけではない。どんな方法で解くのかわからない一般の問題に直面したとき、「あ、これはツルカメ算で解けそうだ」と発想できることが、つまりツルカメ算を使える人になった、という意味だ。
 武術でも同じで、さあここに打ち込んできなさい、と待っているところへ、決まった型で技を決めることは容易い。しかし、相手に対峙しているとき、戦いの流れの中で、沢山ある技の中から最適のものを瞬時に選んで繰り出せるかどうかが、使えるか使えないかの差になる。
 このように、学校で習うことは「解法」であり「技」ではあるけれど、習得したものの中から、どれを選ぶのか、という部分については、個人の閃きというか、学習経験に委ねられていて、場数を踏むしかない。場数とは、算数の場合には、問題集やテストになるのだが、たいてい、問題集もテストも出題範囲が決まっている場合が多く、どんな解法を使えば良いのかあらかじめわかっている。これでは、本当の学習にならない。
 パズルやクイズでもそうだけれど、達人の多くは、解法の選択が素早い人である。頭の中で、どれが当てはまるか、とスキャンする速度が優れているのだろう。
 実社会では、使える方法がそんなに数多くは存在しないし、どれを選択するか充分に検討する時間があるから、ゆっくり見定めれば良い。つい、使い慣れた方法でやろうとしてしまい、失敗をすることがときどきあるだけだ。


2008年10月13日(月曜日)

【HR】 才能に投資をする

 秋晴れ。朝はパスカルにご飯をあげてから散歩に出かけた。昨日ほど寒くはなく、また日差しが綺麗で良い天候の休日(何の日かな?)。
 庭の水やりをしてから、小説の仕事をした。長編を書き始めた。最初の3行くらいを15回くらい書き直した。これはいつものこと。今日はまだ500文字ほどしか書いていないけれど、もうピークは越えたような気分だ。あとは労働が残っているだけ。ファン倶楽部へ送った文章に対して校閲の指摘が来たので、それに従って文章を修正した。

 気持ちの良い空気なので、機関車の試運転をする。一番新しい21号機だ。ボディができるまえに一度だけ走っているので、今回が2回め。新しいポンプを取り付けたが、これの調子は良い。前回はいちいち停車しないと給水ができなかったが、今回は走りながらできる。しかし、デッキまで上がったところで火が消えてしまった。ノンストップで1周回ろうとしたため、石炭を余分にボイラへ入れたのだが、これが空気を遮断してしまったらしい。失敗である。もう一度火をつけて、やり直した。結果はまあまあ。
 工作は同じものを沢山作る単純作業なので、音楽を聴きながらした。しかし、この退屈な工程でも、学ぶことは多い。繰り返さないとわからないこと、身につかないことがある。たいてい、「道」と名前がつく習いごとは、すべて同じことを繰り返して練習をする。「躰で覚える」という表現があるけれど、覚えているのは「頭」だ。たとえば、どんなふうに力を入れれば、ノコギリが垂直に入るか、ということは、繰り返し行ううちに、手の感覚としてわかってくる。違うものをつぎつぎ処理するときは、何が良くて何が悪いのかわかりづらい。同じものを繰り返すと、結果を見て、少しずつ修正ができる、というわけだ。アンプの音を判断するときも、同じアルバムを繰り返し聴くとわかりやすい。

 4日まえに、才能が海外流出する話を書いた。では、才能の海外流出って、何が悪いのか、と思った若者は多いだろう(年寄りは感覚的にその危機がわかるはず)。まず、考えてほしいのは、何故アメリカは外国から来る才能に莫大な資金援助をするのか、ということだ。世界のトップの国だから、奉仕活動をしているのだろうか? もちろん、そうではない。優れた才能は、なんらかの価値を生む。だから、それに資金援助をして、つまり投資をする。すぐにはものにならないかもしれないが、50年後、100年後には素晴らしい価値を生み出す可能性もある。株や証券に投資をするよりは、ずっと未来を考えたやり方だと思われる。
 まったく同様のことが、「教育」にもいえる。教育も、この才能を育てるための投資である。また、優れた才能が流出すれば、身近に優れた先生がいないことになり、教育にとって大きな痛手でもある。
 べつに、アメリカが金を出してくれるのなら、アメリカへ行けば良いではないか、と思う人もいるだろう。そのとおりだ。だから、自分の子供が小学校に上がったら、アメリカへ留学させれば良い。向こうには、すぐれた先生も設備もあるのだ。子供と一緒に住みたかったら、家族みんなでアメリカへ移住すれば良い。だったら、日本語なんか教えないで、最初から英語にすれば良いではないか。日本で本なんか出版しないで、アメリカで出せば良い。というような話へ展開すると、想像できるだろうか? 近所に凄い人がいる。自分の街には面白い人がいる。距離的に近いことが、あるときは重要だということ。

 僕は個人的には、それほど問題が大きいとは考えていない。これから研究者になる人は大変だな、と心配する程度だ。僕の小説が、名古屋(らしき街)を舞台にしているから、名古屋の人から「嬉しい」というメールを沢山いただく。僕はたいてい、「日本が舞台の小説は多いですよ」と答えている。
 小説も映画も、全部アメリカから輸入すれば良い、お金があるところに任せておけ、無駄なものを作るエネルギィがもったいない、とみんなが考えるような国は、やはり「貧しい」だろう。そうはなりたくない、というだけのささやかな希望である。

【国語】 「とか」と「たり」

 僕はこれらをよく使う方だろう。
 「とか」は本来、「Aとか、Bとか、Cとかがある」というように使う。「と」も「か」もいずれも並列を表す助詞であるが、「と」は「and」で、「か」は「or」だ。両方つなげて「とか」になったらしい。辞書によれば、「例示し列挙するのに用いる語」とある。また、例示する事項のあとにいちいち「とか」をつけるのが本来の使い方だが、最後の例示のあとにはつけない場合もある、と書かれていた。そう、僕は最後につけないことが多い。だから、例示するものが2つの場合には、「AとかBがある」となる。すると、校閲から、「AとかBとかがある」ではないか、と指摘される。どっちなんだろう?
 動詞のあとにつく助詞で、「たり」があって、これも動作の並列を示す。「Aしたり、Bしたり、Cしたりした」というように使う。これも、「跳ねたり、転がったり、走り回っていた」というように、最後に「たり」をつけないことがある。でも、2つだけの場合には省けないようだ。
 「とか」も「たり」も、「〜とか、欲しいね」や「〜たり、したい」のように、並列せず1つだけで使う場合がある。これは、「ほかにもまだある」ということを暗示していて、いろいろある中の、1つを示している。
 「遊ぶとか、走るとか、したい?」という場合と、「遊んだり、走ったり、したい?」という場合、どう違うだろう?
 ただ、口癖のように、これらを必要以上に使う人もときどきいる。「とか」とか、使ったりとか、けっこうしたり、とかあったり……、みたいな。


2008年10月12日(日曜日)

【HR】 感情で情報を遮蔽する

 朝はかなり冷えた。パスカルのために早起きをして、まずは散歩に連れていった。午後はますます曇ってきて、肌寒い感じになる。スバル氏がいないので、音楽を聴き、工作をし、雑誌を読み、ずっとガレージにいて、ときどきリビングでパスカルと遊んだ。1時間ほどビートでドライブもできた。
 執筆のための準備も最終段階。キャラの名前を考えた。もう、明日からでも書けるだろう。とにかく、時間をかけてゆっくり進めたい。慌てないように。

 工作は、木工で製作中のカブース(車掌車)がだいたい完成。あとは手摺りをつけるくらい。ただ、塗装で1週間はかかるから、完成はまだしばらくさきである。今日はデッキで線路にのせてみて、走行試験をした。写真の小さいカブースは7月に製作したもので、今回のものはこの3倍のサイズになる。カブースは弁天ヶ丘線では3台めだ。
 たとえ株を持っていなくても、株価が下がるとみんながこんなに損をする、という説明をマスコミがやっきになってしている。書かれているものも幾つか読んでみた。いったいどんな損があるのか、と調べたが、一つとして僕には当てはまるものはなかった。やっぱり不況でも損なんて全然しない。年金支給額が目減りするなんて、最初からわかっていたことではないか。期待している方がおかしい。
 こういうときに限って、中小企業の資金繰りが大変だとか、こんなことで困っている人がいる、と紹介されるけれど、では、好景気のときは、どれだけ儲けていたのか? どうしてそのとき蓄えなかった?(おそらく、税金対策で黒字を出さないように、借金をするように、という指導を銀行がするのだろう。銀行はこれで儲けるのだから) 好景気を基準にした生活設計、事業計画だったことに反省点はないのか?

 今ではもうこんなことはなくなったけれど、ちょっとまえは、これこれでラッキィだった、とネットで書き込んだりすると、それで損害を受けた人もいるのだから、そういう人たちの気持ちを逆撫でするような発言は慎め、という注意を受けたりしたものだ。先日も、政治家が、大雨の被害が出た地域ではない場所で、「あそこだったから良かったけれど、こちらだったら大変だった」という内容の発言をしたため文句がついて、結局謝罪をした。でも、そういう発言って、ごく普通のことなのだ。「台風が逸れて助かった」と言うとき、逸れなかった地域のことを蔑ろにしているわけではない。合格して万歳をしている人は、不合格の人の気持ちを逆撫でしているわけではない。そういう話をするなら、あらゆる幸せは、誰かの不幸せに間接的に結びつくだろう。どんな努力・美談も、誰かを蹴落とす結果を招く。厳密に個人的な成功なんて社会では成り立たないのである。
 こういった発言が問題になるのは、単に「発言の公共性」に起因している。身内や友人の間の話ではない。TVで流れたり、ネットだから世界中で見られたりする、という意識から生まれた倫理だろう。歴史的に見ても、発言の公共性が個人のものになったのは、つい最近のことだから、まだルールが定まっていないし、価値観も様々である。

 それにしても、情報を客観的に受け入れることがそんなに難しいだろうか。現象を見るだけだ。人の話を聞くだけだ。そして、内容を捉えれば良い。それなのに、その現象の原因や影響の方がさきに気になったり、酷い場合は、言い方が嫌いだとか、どうしてこんな大変なときにそんな発言をするのか、といった自分の事情を持ち出す。余計なことに囚われ、勝手に感情的になる。頭に血を上らせて、肝心の情報をまるで自分の中に入れようとしない。その感情だけを記憶し、内容をまったく理解しないまま捨ててしまうのだ。それでは、たしかにデータは蓄積しないだろう。経験を積んだと思っていても、偏見に近い感情を覚えているだけで、参考データを持っていない人間が出来上がる。損をするのは、そういう人たちなのである。
 といった話を書くと、「それは成功したから言えることだ」と反発する人もいる。そう、つまりそれがまさに、感情で情報を遮蔽する行為である。
 成功したから言えるって、当たり前ではないか。もちろん、失敗しても言えるが、言い訳やひがみに聞こえるだけだ(これも、また感情的遮蔽である)。成功するまえ、失敗するまえには言えないし。

【社会】 ロス疑惑

 三浦和義氏が自殺をしたというニュースを昨日ネットで知った。自殺と確定はしていないが、そう報道されているので、そのつもりで書く。
 この事件は、1981年だから、僕が院生のときだった。当時、ワイドショーのレポータが三浦氏を追いかけるそのやり方がとても異常だった。彼が犯人なのか、あるいは無関係なのか、それはわからないが、少なくとも、裁判の判決もまだなのに、まるで自分たちで謎を暴いて見せる、とばかりに、単に「いじめ」に近い行動を繰り返す、このマスコミの無礼さ、下品さというものを初めて目の当たりにした事件だったといえる。その後、三浦氏は裁判で無罪になり、マスコミも多少は自重するようになったかに見えるが、言葉使いや表現を和らげているだけで、基本的な部分ではあまり変わっていないように見受けられる。
 ロスの事件については、真相が裁判で究明されるとは僕は考えなかったけれど、少なくとも新しい証拠がもしあるならば知りたかった。三浦氏がどんな理由で自殺をしたのか想像するしかないが、これ以上にない有効な「反撃」と捉えることはできる。少なくともマスコミに対しては一矢報いた結果になるからだ。おそらくTVはやっきになって「真実が暴かれるのを恐れていたから自殺した」という言葉をコメンテータに語らせるだろう。でも僕には、どうしても三浦氏の「勝ち逃げ」に見える。質はどうあれ、無実のヒーロとして死んだのだから、「勝ち」だろう。ただ、「逃げた」ことだけが客観的な観測である。