今週のお役立ち情報
PJオピニオンに掲載された陰謀論を批判する=秋葉原無差別殺傷事件
2008年07月17日07時16分 / 提供:PJ
【PJ 2008年07月17日】−
市民ジャーナリズムの一つであるPJニュースには、パブリック・ジャーナリストとして意見を述べる「PJオピニオン」というカテゴリーがある。どのような意見であっても公表できるメディアは、市民レベルでの表現の自由を保障する場として大きな社会的役割を担っている。また、記事に署名をし、その記事の内容についての責任の所在を明示して公表することは、匿名ブログや匿名掲示板よりも高度の社会的責任を負っていることを示している。
この記事では、あるPJオピニオンを批判する。同じPJとして活動している仲間を批判するのは本意ではないが、その批判もまたPJの責務だと信じる。「PJのマッチポンプ」と揶揄(やゆ)されることは覚悟の上で、私は私の信念にのみ基づき批判する。
論理の正しさと結論の正しさ
「すべての人間は死すべきものである」「ソクラテスは人間である」「ゆえにソクラテスは死すべきものである」という誰でも知っている三段論法からも分かるように、"論理"とは、いくつかの前提から結論を導き出す推論の規則である。19世紀に数理論理学(記号論理学)が誕生して論理学は記号化され、単純明快な規則として(だからこそ厳密な規則として)進展したが、「前提が正しければ、論理的に導かれた結論も正しい」という原則は何ら変わることがない。繰り返すが「前提が正しければ」である。論理的な正しさと結論の正しさは別次元の問題であって、前提が間違っていれば、論理的に正しく導かれた結論も間違っていることになる。
アリストテレスから2000年以上経た現代社会では、さまざまな事象を理解する思考法としての「論理」が浸透していると言っていい。論理的でない主張は一笑に付されるし、前提も結論も一見正しそうな場合でも、それらをつなぐ論理が間違っていれば信ぴょう性を失う。
陰謀論に欠けているのは前提となる事実の探求
世の中にあふれている陰謀論も、その多くは論理的である。陰謀論が出される事件の多くは、原因がはっきりしない、あるいは常識では理解できない事件であり、事件全体を論理的に理解しようとした人の努力の結晶が陰謀論なのかもしれない。だが、社会に受け入れられない陰謀論のほとんどは、その前提となる事実の検証を置き去りにし、わずかな「可能性」だけを頼りに論理を組み立てている。陰謀を提唱するなら、それを裏付ける事実の究明に注力しなければ、永遠に「論理的な妄想」のままである。
北朝鮮による日本人拉致は、不幸なことだが、事件発生当初は荒唐無稽(むけい)の「陰謀論」としてまともに取り扱われなかった。それが、事実として社会全体の支援を受けられるようになったのは、拉致被害者のご家族の方々が命がけで事実を追求し、北朝鮮に拉致を認めさせたからにほかならない。怪しげな他の陰謀論者と拉致被害者のご家族を同列に取り扱うのは失礼極まりないが、陰謀論を唱(とな)えて社会全体に何かを訴えかけるには、事実を追求するための血のにじむような努力が必要だということを、ご家族の真摯(しんし)な活動は教えてくれている。
PJオピニオンに書かれた陰謀論を検証する
16日のPJオピニオンに、秋葉原無差別殺傷事件の陰謀論が「秋葉事件は日本人殺りくの予告」というタイトルで掲載された。(上)とあるのであと1、2回連載されると思われるが、事実をないがしろにした陰謀論の典型である。この記事には、受け入れがたい前提が満ちあふれている。
同記事では、<犯行が加藤容疑者によるものでなかったら、これらの主張はすべて無効である。報じられる事件の経緯を眺めただけでも、その可能性が極めて高い。>(以下、<>でくくった部分は同記事からの引用部)とあるが、衆人環視の状況で、しかも容疑者に斬(き)りつけられて辛うじて命を取り留めた人や重傷を負った人が多数いる中で、「逮捕された容疑者が犯人でなかったとしたら」とは言葉遊びでしかない。
<犯行が加藤容疑者によるものでなかったら>という前提を筆者が書いた理由は<男がトラックで交差点に突っ込んでから警察官に取り押さえられるまで2分しかかかっていない。><犯行前に現場周辺を1周以上車で回っていたとの報道が突然一斉に流された。掲示板に「時間です」と書き込んでから犯行までの23分間の空白を埋め合わせるための苦肉の策だろう。><防犯カメラの画像など、まゆつば物だ。><(容疑者に対する周囲の)人物像><一貫しない動機>なのだそうだ。
あれだけ混雑している歩行者天国に、警官が配置されていないことなどあり得ない。どんなに小規模の歩行者天国でも私服・制服の警官はいる。まして、秋葉原は日本で有数の人出を誇る歩行者天国だったのだ。また、掲示板に書き込んでからの23分間、容疑者がトラックで移動していたことは、交差点や付近のビル、マンションに設置された防犯カメラの映像で裏付けられている。しかも、その映像が<まゆつば物>だとする証拠は記事に示されていない。日常生活で「そんなことをするように見えない人物」であっても、供述している動機が一貫していなくても、殺人を犯した事実を否定する前提にはなりえない。
結局、検証に耐えない「可能性」を前提に積み上げた論理だ。その論理の結論が<権力とかかわりある者(正確には、わが国の国家権力をも支配する組織と通じた者)の犯行としか考えられない>とは、開いた口がふさがらない。妄想である。
全ての犯罪が論理的に説明できるわけではない
この妄想の中で、たった一つ同意するのは、マスコミの犯罪報道について書かれた<「人生の不満(両親との不仲、繰り返した転職、高校での成績不振、交際相手の不在)→ネットやゲームの世界への傾倒→『携帯サイト』でも孤立→無差別殺人」。はっきりした動機が見当たらないので、つじつま合わせしたいのだろう。>という部分だ。
凶悪事件が起こるたびに、マスコミはその原因を探ろうとする。秋葉原の事件では、格差社会や不安定な労働環境、容疑者の生育環境を取り上げたマスコミが多かった。だが、容疑者と同じような環境でも、殺人者にならず、まっとうに生きている人がほとんどだ。「ある特定の状況に置かれていたから、殺人を犯した」と解説できれば、なんとなく分かったような気になるのだろうが、それは危険だ。犯人の頭の中で、危険な論理が展開して殺人に至ったとしても、その論理を普遍化するのは不可能だからである。もし、その危険な論理を社会が認めれば、同じ状況にある人が殺人を犯しても、それなりの理由があるということになってしまう。
犯罪の原因を考えるのは社会的に重要なことだと思うが、社会全体が受け入れられる合理的な理由が存在しない犯罪があることを忘れてはならないだろう。人間は、常に論理的に行動しているわけではない。社会的に批判される事が分かっていても、不倫をする人がいる。なに不自由なく生活しているのに、万引する人がいる。自分は死にたくないのに、他人を殺す人がいる。社会に認容される論理は、そこにはない。
陰謀論を発表したことの社会的責任
さまざまな事件について陰謀論を唱(とな)えることは、表現の自由で許容されることかも知れない。だが、前掲のPJオピニオンに決定的に欠けているのは、被害者とその関係者への思いやりだ。無残に命を奪われ、傷つけられた被害者とその関係者に、「実は容疑者は真犯人ではなく、事件は国家的陰謀だ」と言う場合には、それなりの覚悟が必要だ。国家、つまり社会全体が被害者を殺した"敵"だと言っているのだ。確たる証拠を積み上げた上での結論でなければ、非常識の誹(そし)りは免れないだろう。
わずかな可能性だけで被害者を苦しめ悩ませる結論を導き、それを公表することは、人としてやってはいけない。そんな陰謀論をパブリック・ジャーナリストとして公表したのだから、社会的責任を取る覚悟はあるのだろう。少なくとも、私は許さない。国家的陰謀だというなら、その証拠を示せ。検証可能な事実を示せ。国家的陰謀は解明が難しいなどという言い訳は許さない。それができないのであれば、被害者とその関係者への謝罪を強く求める。【了】
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パブリック・ジャーナリスト 小林 亮一【 宮城県 】
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論理の正しさと結論の正しさ
「すべての人間は死すべきものである」「ソクラテスは人間である」「ゆえにソクラテスは死すべきものである」という誰でも知っている三段論法からも分かるように、"論理"とは、いくつかの前提から結論を導き出す推論の規則である。19世紀に数理論理学(記号論理学)が誕生して論理学は記号化され、単純明快な規則として(だからこそ厳密な規則として)進展したが、「前提が正しければ、論理的に導かれた結論も正しい」という原則は何ら変わることがない。繰り返すが「前提が正しければ」である。論理的な正しさと結論の正しさは別次元の問題であって、前提が間違っていれば、論理的に正しく導かれた結論も間違っていることになる。
アリストテレスから2000年以上経た現代社会では、さまざまな事象を理解する思考法としての「論理」が浸透していると言っていい。論理的でない主張は一笑に付されるし、前提も結論も一見正しそうな場合でも、それらをつなぐ論理が間違っていれば信ぴょう性を失う。
陰謀論に欠けているのは前提となる事実の探求
世の中にあふれている陰謀論も、その多くは論理的である。陰謀論が出される事件の多くは、原因がはっきりしない、あるいは常識では理解できない事件であり、事件全体を論理的に理解しようとした人の努力の結晶が陰謀論なのかもしれない。だが、社会に受け入れられない陰謀論のほとんどは、その前提となる事実の検証を置き去りにし、わずかな「可能性」だけを頼りに論理を組み立てている。陰謀を提唱するなら、それを裏付ける事実の究明に注力しなければ、永遠に「論理的な妄想」のままである。
北朝鮮による日本人拉致は、不幸なことだが、事件発生当初は荒唐無稽(むけい)の「陰謀論」としてまともに取り扱われなかった。それが、事実として社会全体の支援を受けられるようになったのは、拉致被害者のご家族の方々が命がけで事実を追求し、北朝鮮に拉致を認めさせたからにほかならない。怪しげな他の陰謀論者と拉致被害者のご家族を同列に取り扱うのは失礼極まりないが、陰謀論を唱(とな)えて社会全体に何かを訴えかけるには、事実を追求するための血のにじむような努力が必要だということを、ご家族の真摯(しんし)な活動は教えてくれている。
PJオピニオンに書かれた陰謀論を検証する
16日のPJオピニオンに、秋葉原無差別殺傷事件の陰謀論が「秋葉事件は日本人殺りくの予告」というタイトルで掲載された。(上)とあるのであと1、2回連載されると思われるが、事実をないがしろにした陰謀論の典型である。この記事には、受け入れがたい前提が満ちあふれている。
同記事では、<犯行が加藤容疑者によるものでなかったら、これらの主張はすべて無効である。報じられる事件の経緯を眺めただけでも、その可能性が極めて高い。>(以下、<>でくくった部分は同記事からの引用部)とあるが、衆人環視の状況で、しかも容疑者に斬(き)りつけられて辛うじて命を取り留めた人や重傷を負った人が多数いる中で、「逮捕された容疑者が犯人でなかったとしたら」とは言葉遊びでしかない。
<犯行が加藤容疑者によるものでなかったら>という前提を筆者が書いた理由は<男がトラックで交差点に突っ込んでから警察官に取り押さえられるまで2分しかかかっていない。><犯行前に現場周辺を1周以上車で回っていたとの報道が突然一斉に流された。掲示板に「時間です」と書き込んでから犯行までの23分間の空白を埋め合わせるための苦肉の策だろう。><防犯カメラの画像など、まゆつば物だ。><(容疑者に対する周囲の)人物像><一貫しない動機>なのだそうだ。
あれだけ混雑している歩行者天国に、警官が配置されていないことなどあり得ない。どんなに小規模の歩行者天国でも私服・制服の警官はいる。まして、秋葉原は日本で有数の人出を誇る歩行者天国だったのだ。また、掲示板に書き込んでからの23分間、容疑者がトラックで移動していたことは、交差点や付近のビル、マンションに設置された防犯カメラの映像で裏付けられている。しかも、その映像が<まゆつば物>だとする証拠は記事に示されていない。日常生活で「そんなことをするように見えない人物」であっても、供述している動機が一貫していなくても、殺人を犯した事実を否定する前提にはなりえない。
結局、検証に耐えない「可能性」を前提に積み上げた論理だ。その論理の結論が<権力とかかわりある者(正確には、わが国の国家権力をも支配する組織と通じた者)の犯行としか考えられない>とは、開いた口がふさがらない。妄想である。
全ての犯罪が論理的に説明できるわけではない
この妄想の中で、たった一つ同意するのは、マスコミの犯罪報道について書かれた<「人生の不満(両親との不仲、繰り返した転職、高校での成績不振、交際相手の不在)→ネットやゲームの世界への傾倒→『携帯サイト』でも孤立→無差別殺人」。はっきりした動機が見当たらないので、つじつま合わせしたいのだろう。>という部分だ。
凶悪事件が起こるたびに、マスコミはその原因を探ろうとする。秋葉原の事件では、格差社会や不安定な労働環境、容疑者の生育環境を取り上げたマスコミが多かった。だが、容疑者と同じような環境でも、殺人者にならず、まっとうに生きている人がほとんどだ。「ある特定の状況に置かれていたから、殺人を犯した」と解説できれば、なんとなく分かったような気になるのだろうが、それは危険だ。犯人の頭の中で、危険な論理が展開して殺人に至ったとしても、その論理を普遍化するのは不可能だからである。もし、その危険な論理を社会が認めれば、同じ状況にある人が殺人を犯しても、それなりの理由があるということになってしまう。
犯罪の原因を考えるのは社会的に重要なことだと思うが、社会全体が受け入れられる合理的な理由が存在しない犯罪があることを忘れてはならないだろう。人間は、常に論理的に行動しているわけではない。社会的に批判される事が分かっていても、不倫をする人がいる。なに不自由なく生活しているのに、万引する人がいる。自分は死にたくないのに、他人を殺す人がいる。社会に認容される論理は、そこにはない。
陰謀論を発表したことの社会的責任
さまざまな事件について陰謀論を唱(とな)えることは、表現の自由で許容されることかも知れない。だが、前掲のPJオピニオンに決定的に欠けているのは、被害者とその関係者への思いやりだ。無残に命を奪われ、傷つけられた被害者とその関係者に、「実は容疑者は真犯人ではなく、事件は国家的陰謀だ」と言う場合には、それなりの覚悟が必要だ。国家、つまり社会全体が被害者を殺した"敵"だと言っているのだ。確たる証拠を積み上げた上での結論でなければ、非常識の誹(そし)りは免れないだろう。
わずかな可能性だけで被害者を苦しめ悩ませる結論を導き、それを公表することは、人としてやってはいけない。そんな陰謀論をパブリック・ジャーナリストとして公表したのだから、社会的責任を取る覚悟はあるのだろう。少なくとも、私は許さない。国家的陰謀だというなら、その証拠を示せ。検証可能な事実を示せ。国家的陰謀は解明が難しいなどという言い訳は許さない。それができないのであれば、被害者とその関係者への謝罪を強く求める。【了】
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