オリンピックの国別メダル順位は国によって異なる。日本や韓国は金メダルの数で順位をつけるが、米国などは銀・銅を含めた全体のメダル獲得数が基準になっている。
どちらが良い悪いということではない。ただ日本や韓国は金メダルへのこだわりが強いということだろうか。それでも日本では近年、それがかなり緩んでいるが、韓国ではまだ金メダル主義が強い。銀や銅の選手が悔し泣きというシーンがよく見られる。
最近、ソウルで開かれた「韓日未来フォーラム」主催のセミナーで、日韓関係にこの“メダル話”をあてはめた議論が登場し面白かった。
セミナーには日韓双方からジャーナリスや学者が出席したが、知り合いの「ハンギョレ新聞」幹部の呉泰奎・元東京特派員が「日韓関係はいくら銀メダルや銅メダルを積み上げてもよくならない。韓国人は金メダルがないと承知しないからだ」という話をした。
彼によると日韓関係における金メダルとは領土問題や教科書、靖国参拝、慰安婦問題など歴史がらみの課題の解決で、これが残る限り、銀メダルや銅メダルに相当する文化や経済など他の分野でいくら友好、協力が進んでも関係はよくならないというのだ。
この話に対し場外では「確かに金メダルはない。しかし銀や銅がたくさんあるため関係は維持されている。銀や銅をバカにしてはいけない」という反論が聞かれたが、韓国の“金メダル主義”には日本人との発想の違いもある。
日本人には「神は細部に宿る」といって、具体的で細かいことや現実問題に対応することでコトの本質に迫るという考えがある。しかし韓国人は抽象的で原理主義的な発想が強く、まず総論的な本質論が先にくる。だから「過去の過ちを認め反省し謝罪することが先だ」という。
その結果、現状は金メダルにこだわる韓国を相手に、日本は銀・銅の話やメダルの総数ばかりに目が向いている。いや、金メダルをあきらめ銀や銅で自己満足しているというか。
韓国も「文化の秋」でこのところ各種の文化イベント花盛りだ。日韓関係でも先ごろソウル都心で10万人の人出を呼んだ「日韓交流お祭り」が終わり、来週には済州島で「ジャパン・ウイーク」がある。その他、いわゆる“歌舞音曲”など日本文化公演はひっきりなしだ。
韓国でのこうした文化交流は、確かに若い世代を中心に日本への親近感を広げ、今やちょっとした日本ブームになっている。だから悪いことではないのだが、しかしどこか銀メダル、銅メダルの感じがしてならない。
日本として「金メダルへの挑戦」が欠けているのだ。日本大使館をはじめ政治、外交、言論、その他、韓国がいう金メダルにあたる歴史がらみの懸案で、日本の立場や主張を韓国国民に理解してもらうという意欲、闘志、政策工夫…が不足しているのだ。
たとえばソウルの日本外交官たちは、公開の場で領土問題をめぐる日本の公式立場を語ることさえタブーになっている。日本をめぐる領土問題の現実を日本の学校教育で教えることがなぜいけないのか、韓国外交や韓国メディアの無理な主張にもまともに反論しようとしない。
領土問題が政治・外交問題として高潮する度に、韓国側は自治体交流や文化交流さえ中断させるが、これなど金メダルが取れない腹いせに銀・銅メダルの試合を拒否するようなものだ。こうした“金メダル主義”のおかしさ、非常識さは大いに批判していい。
韓国を相手に金メダル争いは厳しい。日ごろからの相当なトレーニングや準備、体力、粘りが必要だ。しかしこの厳しさを避けてはいけない。ましてや「文化」という銀メダル、銅メダルに安住したのでは金メダルは遠のくばかりだ。
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