2008年10月の日記
2008.10.01.
喫茶店で作業をしていたら目の前のテーブルですごく奇麗な女の人がおもむろにエロース系なコミック表紙の色校を始めて、そんなん気にするなっていうのも無理だろうっていうか、人間性クイズみたいな状況になってしまった時の不定期連載。
(タイトルはもういいですよね。やたら打ち間違うし……)
配給を待ついつもの列の中に、知らない顔があることにこいつは気づいた。
無論、他の全員を見知っているわけでもない――この配給所だけでも何百人と並んでいる難民全員を把握してはいなかった。その老婦人を初めて見ると感じたのは、そいつの落ち着かなげな態度であったり、後ろに並んでいる寡黙な男に時折向ける不安な眼差しであったり、つまりはそうしたもののせいだったかもしれない。
食事は、碗に注がれる野菜粥とパンの塊といった、簡単なものだ。配給所の大鍋から並んでいる人々に、係の手によって配給される。
こいつはさっきまでその配給係をしていたが、交代したところだった。エプロンを畳んで鞄にしまい込み、キャンプを一回りしてから帰ろうと思っている。
なんとはなしに気になって、こいつは、列に近づいていった。その老婦人の元に。
最も古い者は、この難民キャンプに一年近く前からいる――大多数は半年前ほどにやってきた。タフレム市当局が難民の宿営に用意できたのはこの郊外の土地と、衣類、テント、いくつかの配給所設備だ。簡易の住宅も建てられつつあるが、まだまだ足りない。老人や子供のいる家族から優先して割り当てているものの、まだ半分にも行き渡っていない。難民の数が多すぎた。
難民キャンプに《塔》の敷地を一部開放する案もあったが、魔術士とキムラック人双方の感情も鑑みて、実現していない。ボランティアに魔術士の姿はなかった。あれば、厄介事も生んだだろう。なければ、厄介事は生まない。そして無論、他のなにも生まない。
どのみち魔術士らは、北方に布陣する騎士軍との小競り合いや折衝で、余力もなかった。難民の中にはタフレムでの労働を望む者もいる。問題となるのはやはり、長年の対立による感情のしこりだ。頑固な者は双方にいる。
こいつが列に近づくと、何人かが目を伏せるか、逸らすのが見えた。そいつらの中には、ボランティアに魔術士のスパイが紛れ込んで食事に毒を入れていると信じる者もいる。逆に顔見知りで、会釈する者もいた。
老婦人はこいつが近づいても気づかなかったようだった。そわそわしているが、こちらに反応はない。気を引くために、こいつはそいつの腕に軽く触れた。
「大丈夫ですよ」
話しかける。
「全員に行き渡る分はありますし、ここは安全です」
老婦人はなにも言わない。こちらを見もしない。
後ろについている男が、口髭の中でぼそりと、つぶやいた。
「聞こえないらしい。なにも」
「え?」
「話しかけても無駄のようだ。なにも聞かない。魔術士と騎士の戦闘に巻き込まれたのを保護されたって話だが、なにを話しても聞かない。聞こうとしない」
男は表情を動かさず、淡々と説明した。なにを言えばいいのか分からず、こいつが黙していると、そいつは首を左右に振った。
「本当は聞こえてるんじゃないかと思うがな。昨日の夜、どこかのテントで子供が歌ってるのを聞いて、泣いていた」
「…………」
「平気だ。俺が見ておくよ」
こいつは礼を言って、列から離れた。
2008.10.02.
このところ昼夜が逆転してしまって22時くらいから猛烈に眠くなるわけですが、かなりわけ分からない気がしてきた時の不定期連載。
今日がなんの日なのかあいつは忘れているのではないか。
そんなことを疑うほど、変哲のない一日だった。いつも通りだ――訓練をして、その合間に家事を手伝い(家事のできないあいつを『手伝う』のは、つまり一切合切全部やって、あいつが余計な手出しをした分まで後片付けするということだが)、キムラック難民キャンプのボランティアに参加する。用事を済ませて落ち着けるのは日が没してからだ。
部屋の中を見回して、こいつは強張った腰を伸ばした。頭に乗せていたディープ・ドラゴンも、ベッドの横に置いてある、クッションを詰めた籠の中に置く。そいつは一日中ずっとそうしていたように、まだ眠っていた。
その籠のさらに隣に、荷物がまとめてある。
この屋敷に住み着いて、その生活にも慣れた。名残惜しくないと言えば嘘になる――筋を解そうとして肩に手をやり、一年前からばっさり切り落とした髪がその手に触れるくらいの長さになっていたことに気づく。
なにかが変わっただろうか。ふと胸をよぎる独り言に、溜息をつく。自分が目指した変化がなんだったのかも、実のところよく分からない……
この広い屋敷で、人の気配を感じ取るようになったことは変化なのだろう。廊下を進んでくる静かな足音を察して、こいつは寝台に腰を下ろしたまま扉を見つめた。あと何歩。何秒。
見込みをつけた瞬間に、ちょうど扉がノックされた。
「ちょっといい?」
あいつの声だ――これも、いくつかの理由から分かっていたことだった。同じ屋敷で生活するあいつは静かになんて歩かないし、魔術士至上主義のあいつはわざわざ『無能力者』になど会いにこない。
それにつまり、今日がなんの日なのか、こいつは覚えていたからだ。声をあげる。
「どうぞ、もちろん」
もちろんは余計だったろうかと思いながら立ち上がる。扉に鍵はかかっていないが、開けに行く。
「呼べば、わたしが行ったのに」
ドアを開けつつ心配顔でこいつがつぶやくと、そいつは苦笑してみせた。
「いつも言ってるけど、階段も登れないってわけじゃないのよ」
と、大きくなったお腹をさすりながら。
2008.10.03.
突発的に49ersに興味を持ったものの、突発的過ぎて成績の見方すら分からない時の不定期連載。
とはいえ無論、言うほど身軽なわけもない。臨月も近い身体を揺すってそいつが部屋の入り口をくぐるのを見守る。そのままそいつをソファーまで連れて行ってから、こいつは改めてそいつに向き直った。
こいつは座らなかった。そいつの前に立っている。
「そんなに格式張らなくてもいいのよ」
そいつはそう言ったが、こいつは首を軽く左右に振った。そいつもそれ以上は勧めてこない。
「それで、一年が経ったわけね」
「はい」
さすがに落ち着かないものを覚えて、こいつは胃の前で手を揉んだ。
そいつはゆっくりと話を続ける。
「誤算がいくつか。まずわたしは、あなたのお母さんが認めるわけがないと思っていたし、あなたが一年間我慢できるとも思っていなかった」
そいつはこちらの反応を待とうとしたのだろう。しかしこいつがただ見つめるだけと察して、先を進めた。
「でも分かっていたこともある。あなた、わたしが今ここでなにを言おうと行くつもりなんでしょう」
「はい」
「正直なのは好感」
言葉に反して、そいつの笑みは引きつっているように見えた。
「でも不安は不安よ。治安は悪化する一方だし。こうでなければわたしもついていくところなんだけど……」
こうとは、無論、妊娠のことだろう。
そいつの妊娠は突然のことだった。が、驚いたのは周りだけだったようだ。端で見て分かる状態になるまで、当人に自覚がなかったはずもあるまいが、四か月目になってようやくそいつが周囲にした説明とは『妊娠した。戦線には参加できない』だけだった。
こいつも驚かなかったといえば嘘になる。話を聞いてあっけに取られたこいつに、そいつは、やや困ったようにこう言った。付き合いが長かったから、わたしたちの間には子供はできないって思ってた。なんでそんな風に思ったのか、考えてみれば変な話だけれど。
こいつは、こう言った。
「でも、嬉しいんでしょう?」
そいつは笑った。そいつを初めて親しく感じたのは、その時だ。
突然の兵役拒否に《塔》執行部は大いに憤慨したらしい――が、だからといってどうできるわけでもなく、自分の生徒に加えて《塔》でも代理教師をするということで話がついた。
父親の名前については、そいつは特に語らなかったが、態度から明々白々なことだった。学生の頃から、ついたり離れたりを繰り返してきたという話だが。
2008.10.04.
あれ、今日って木曜日じゃなかったのか。な時の不定期連載。
とにかく、とそいつはかぶりを振った。
「あなたに同行させられる人手もない。本当にひとりで行くつもり?」
「ここにいる間、あの人のこともいろいろ聞きました。十五歳の時から、お姉さんを探して大陸中をひとりで旅していたって」
こいつの話に、そいつは物寂しく笑ってみせた。
「それが良い結果をもたらしたとも言い難い。あの子は後悔してたでしょう?」
「でも、前に進みました」
動じることなく、こいつはそう告げた。
長い息を吐いて、そいつが天井を見上げる――
「ここしばらくの間、宿営地で、キムラック難民をよく見て回ってたわね。なにか情報はあった?」
相手はこちらを見ていなかったが、こいつはうなずいた。
「あの人がキムラック人に接触したっていうのは、確かなことみたいです」
「例の噂は?」
「本当だと思います」
こいつが神妙に言うと、そいつも同意した。
「アーバンラマの、外大陸開拓計画ね。少なくともあてもなしに探し回らなくて済むわけだけど、道は険しいわよ。海路が封じられている以上、騎士隊のいるキムラックを越えるしかない」
唱えるように言ってから、そいつは視線をもどした。ソファーの肘置きに頬杖して、含んだような眼差しを見せる。
「掴んでいる情報は、それだけじゃないわね?」
「いいえ……」
嘘を答えたが、バレるのは分かっていた。
そいつは愁眉を寄せると、体型に許せる範囲で身を乗り出した。囁くように言う。
「わたしだったら、その方法は取らない。危険が大きすぎる」
「…………」
こいつが沈黙している間に、そいつは続けた。
「わたしも、それはあいつだと思う。それならなおさら、正体が露見した今、あいつは維持しないとならない仮面もなくなって、本来の凶暴な――」
「あいつにも会いたいんです。友達のことを話したいから」
一息に告げる。
2008.10.05.
あれ、そして明日は日曜で合ってるんですよね。な時の不定期連載。
いかにも馬鹿げたことを言った時に、常に感じるひやりとした悪寒――それが背中を撫でるのを感じつつ、そいつの顔を見つめ続ける。
「歪んだものを正して回るつもり?」
そう問いかけるそいつの瞳は、悪寒をなぞり直すように冷ややかだった。
もちろん、そうだろう。自分は今、そいつが一番懸念しているところを、そうと分かって踏み抜いたのだから。
こいつは一歩退いて、眠るディープ・ドラゴンのほうを向きやった。
いまだ一度も目を開けていない深淵の森狼は、あの日から変わらず眠り続けている。一年前より大きくはなったし、丈夫にもなったろう。だが起きない。
鳴くことはなく、口を開くことすらないこの獣が、吠えるのを見たことがある。
いや。と、こいつは声に出さずに自分の返事を確かめた。歪みを直そうなどと大それたことを思っているわけではない。
そうではない。ただ、自ら直ろうとしている歪みは助けを求めて声をあげる。それを信じる理由が自分にはある。と思っている。
逃げるわけではなかったが視線をもどさないまま、こいつはつぶやいた。
「いろいろと、難しいのは分かっています――分かっているつもりで、きっとまだ足りないんだろうってことも」
「名前で呼ばなくなったわね」
突然、そいつは話を変えた。
思わず目をぱちくりして見やると、そいつは根負けしたように笑っていた。
「あの子のことをよ。なんだかわたしもつられて、名前で呼びづらくなった」
「……ここでは、わたしの知ってる名前じゃないから」
「そうかしら。今じゃもう、魔王ってほうが知れ渡っちゃって。わたしの弟の名前は忘れられてしまった」
言うなり、ソファーから立ち上がる。
こいつが慌てて手を貸すと、その手を取って、そいつは言った。
「行きなさい。考えてみたら、わたしは止めるばかりで、誰も送り出したことがなかった――止められないと分かってる相手までもね」
「?」
見上げる。が、そいつはそれ以上なにも言わなかった。
2008.10.06.
片付けるのは一瞬、散らかるまでは数日かかる。のになんで散らかってるほうが多いんだろう時の不定期連載。
翌朝に、発つことにした。
申し合わせたわけではないのに見送りが集まったのは、そいつが声をかけていたのだろう。
大勢ではない――ここでの生活で知るようになったあいつという魔術士に、その生徒になっているあいつ。あいつは少し遅れるらしい。あいつはおざなりな別れのやり取りをすると、さっさと屋敷にもどってしまった。あいつもそれに従った。
あとはもちろん、そいつだ。そいつは首を傾げるような仕草で、こいつの準備した旅装、鞄、顔を順番に見ていって、最後に頭の上に乗せているディープ・ドラゴンを撫でつけた。
他に持っていく物は、剣だ。こいつは鞘に入った長剣を肩にかけた。一年前は、郊外の旅でもこんなものを持ち歩くのは奇異の目で見られたものだが――今ではおかしいとも思われない。武器はすっかり品薄だという。
しばらくぶりに会うあいつは、こちらを見て、怪訝そうに顔をしかめた。
「背、伸びた?」
真顔で、そんなことを言ってくる。こいつはうめいた。
「普通そういうのって、わたしがあんたに言うもんじゃないの? まあちょっと伸びたかもね」
目算で比べてみると、同じくらいだった背丈が、わずかに変わったようではある。
見比べるためにしばらく見つめ合っていたが、やがてそいつがどこか物言いたげに微笑んでいることに気づいた。つぶやいてくる。
「ぼくもいずれ、追いかけるよ」
「分かった」
こいつは同意したが――
そいつの眼差しが変わらないのを察して、促した。
「なにかあるの?」
「本当はまだ話せないことだけど……」
そいつは小声で囁いて、耳元に顔を近づけてきた。
「やっぱり言っておくよ。ぼくはトトカンタにもどる」
2008.10.07.
元来ペプシ派だったわたしなのに、ペプシNEXよりコカコーラZEROのほうが好きだと気づいてショックを受けたものの、多分人生で一番どうでもいい衝撃だろうなと思った時の不定期連載。
ただの里帰りという話でもなかろう。こんな折、内緒話は暗いものばかりだ。剣呑な気配を覚えながら、こいつは囁き返した。
「あそこは安全なんでしょう?」
少し離れて相手の顔色を探る。そいつは落ち着いていたが、やや青ざめて見えた。
「状況が変わったんだ。理由は分からないけどマスマテュリアが氷解した。地人自治領がどちら側につくかによっては、厄介なことになる」
「なら、わたしも――」
「大丈夫。トトカンタの同盟支部が残ってるし、アレンハタムからの支援も受けられるからトトカンタは丸腰じゃない。おかげでこれは好機にもなるかもしれないんだ」
そいつは落ち着かせようとしてか、両手を広げてみせた。
「この状況で困るのは王都の側だ。行軍可能なルートが突然現れたのはどちらにとっても同じだけど、最悪の事態でもトトカンタの防備ができればタフレムは挟撃されない。逆に貴族連盟は、どうあってもキムラックから騎士団の一部を呼びもどして対応するしかない」
つまり、キムラック側が手薄になるということでもある。
追い風といえば追い風だ。わずかなものかもしれないが。
もっとも、トトカンタの安全が守られるならの話だ。だが不安の先回りをするように、そいつは話を続けた。
「状況が変われば今よりもっと厭戦ムードが高まる。停戦の目が出てくるよ。大丈夫。あいつとぼくも行って、トトカンタを守る。お母さんやお姉さんも」
真剣な顔をして話すそいつに、こいつはうつむいた。
「ごめん。頼むわね」
「こっちこそ、頼むよ」
そいつはそう言って、遠い目を見せた。どこを見ているわけでもないだろうが空を見ている。
「ぼくはまだ旅立てる気がしないから」
2008.10.08.
なんか血文字っぽく見えてしまうのはわたしだけでしょうか時の不定期連載。
(旅立てる……時か)
こいつは答えずに、胸の内で噛み締めた。
あいつが声をあげるのが聞こえた。見ると、あいつが来たらしい――《塔》でも最高位のこの魔術士はあいつに軽く触れ、あいつの軽口に眉を上げてから、こちらに近づいてきた。靴箱ほどの大きさの木箱を差し出して、口を開く。
「あいつとあいつからの餞別を預かってきた。まあ、わたしも含めてだ」
「そ、そんな人たちから?」
いきなり出てきた名前に、さすがに気後れする。
確かに知らないことはないが、ほとんど話したこともない相手だ。覚えられているとすら思っていなかった。
が、そいつは笑みを浮かべる。
「あいつは、わたしなどより君のほうを買ってるような口ぶりだよ。あの戦闘に参加した者については、特別なんだろう」
箱を受け取って、訝しむ――これから発とうという時に渡されるにしては、随分と嵩張る上、かなり重さがある。
かけてある紐を解いて、蓋を開けた。汚れた布にくるまれた塊がひとつ入っている。その形から、こいつは理解した。
包みを手に取る。そいつがそれを見守りながら、箱だけ取りもどした。
こいつが包みを剥がすと、案の定、見覚えのある武器が姿を現す。
一言呪文を唱えて空箱を手の中に消し去り、そいつはその武器の名前を口にした。
「ヘイルストームだ。紛失した試作品とは違うものだが。小口径で射程も短いものの、紛れもない狙撃拳銃として設計されている」
狙撃拳銃は、いわゆる格闘戦ではなく、数メートルの距離で人間を殺傷することを目的に開発され、そして完成を見た武器だった。
最新鋭の武装として騎士隊はこれを使用している。かつては当たり前とされていた、魔術士の対非魔術士への優位性を、完全にとはいかずとも大いに崩しているという。
「弾数は八発だ。予備の弾薬はないし、整備の道具も入れていない。使わずに済むに越したことはないが、騎士軍のことを考えるとな。必要になるかもしれない。扱い方は、訓練していただろう」
「……知ってたんですか」
こいつはつぶやいた。
2008.10.09.
こぬか雨ってなんでか言いたくなる言葉だと思う時の不定期連載。
そんなことはどうでもいいとばかりに、そいつは続ける――もっとも、内心で憤慨していたとしても顔色が変わらないのがこの人物の癖ではある。
「あいつの尻ぬぐいで備品名簿の改ざんをしていたのはわたしだ」
そう言って、話を終えた。
「整備できないのだから水に濡らすな。濡らしたら、もう使うな」
そいつらしいといえばそいつらしい、はなむけの言葉だ。
『あの人』のことはなにも言わない。実のところこの一年、そいつの口からその話題が出てくることは一度もなかったくらいだ。しかし情報の面で最も支援してくれたのもそいつである。
下がるそいつと入れ替わりに、あいつが進み出て近寄ってきた。
なにがあったわけではない。ただ、世話になったこの魔術士の瞳を見て、こいつは唐突に瞬間を悟った。
(今だ)
この時が来た。
ひとりで旅立つ時が。
喜びでも恐れでもない。ただそれを迎え入れる。
そいつが口を開いた。
「みっつめの条件はね」
と、唇に苦笑を滲ませて、少しだけ中断した。
「あいつ、会ったらぶん殴っておいて。できないっていうのなら、家に帰りなさい」
「分かってます」
こいつも笑みを返して、手に持ったままだった包みを鞄に押し込んだ。
鞄を肩に背負うと、それが旅立ちの準備だった。一年間かかったものの、最後の準備はただこれだけだ――旅立つと決めること。
「赤ちゃん、見たかったです」
そいつのお腹を見下ろしてそう告げると、そいつもまた同じ膨らみを見て表情を緩めた。
「全部終わってから見に来てくれればいい。そのほうがわたしも、てんてこまいになってるところを見られずに済むし」
2008.10.10.
ちょっと小休止で、しばらく雑談でもしようかなと。いまいち不定期になってないですし。
今回はあいつについて、思い出話というか、あれこれです。
あいつを思いついたのは『鉄拳』に出てくるミシェールというキャラの2Pカラーを見てなんですが、まあそんなこと言ってピンと来る人はまずいないと思います。
大した思いつきではないです。ああ、足の長い露骨な美人とか出てきてもいいよね程度の。
しゃがみから立ち上がりの間にキックボタンの技がお気に入りでした。いやどうでもいい話ですが。
ちなみにうちのATOK、『わたしは』と入力すると第一候補に『わたしは2でひたすら返し技』って出るんですよね。ずっと前からです。
これなんなのかなーと長年疑問だったんですが分かりました。鉄拳2の話題です。マジどうでもいい話ですが。
話をもどすと、こいつ近辺の登場人物全般に言えることなんですが、『オーフェン』シリーズでは、時間を遡った番外編で本編とは違う立ち位置を確保してしまうというパターンが多かったです。
名前だけの死人だったあいつとか。読者の方から『どうして死なせてしまったんですか。なんで生き返らないんですか』という声が随分あって困ったのを覚えています。なんでって言われましても……
ともあれ、そんな感じで影も形もなかった姉が突然ひとり増えてしまったわけですから、随分ヘンテコなことにもなりました。
変なことといえばこいつの家です。なんでか部屋が数十もあることになってます。
いや、どんな大邸宅なんだよという感じですが。多分、十数部屋と書こうとして間違えたんだろうと思います。
名前の元ネタはご存じの通り(?)、とあるミステリの登場人物。そういう付け方したキャラ、他にも何人かいますね。
このシリーズの登場人物らは、名前が相当カオスです。わりと意識して統一感なくつけてました。
まあ舞台の文明的な背景みたいなのからして無茶苦茶ですし、そのほうがかえって自然かなーと……
さて、今回のこれでああいったことが判明したあいつですが、実はかなり初期からの隠しネタでした。こっそりこうでした的な。バレ方も含めて。
明日は、緑がどうのこうのという思い出話。の予定。
2008.10.11.
緑色です。
そういえばこのサイトも満遍なく緑色です。緑色は目に優しいっていいますけど本当でしょうか。
まあ昨日の話の、困った関連で思い出したことなんですが。あいつの目の色のことです。
当時、これについても本当に何度も何度も読者の方々からお便りいただきました。
設定の中に『アレ族の目は緑色』みたいなのがあるんですが、まあそいつの目の色についても緑(碧色、だったかな? まあとにかくそんな色)と書いてしまったので、「これはそいつもアレ族ってことですよね」と言われ続けました。
なんで困ったのかというと、わたしにはさっぱりそんな気がなかったからなのです。昔過ぎて記憶が微妙ですが、多分なかったはず。
どうしてこういうことになってしまったのか。
伝統的に(?)いわゆるティーンズ系お話では、キャラクターの目と髪の色っていうのが何故か、もんのすごく重大視されたのです。
まあ昔の、ファンタジー系のブームの頃の話なので、今でもそうなのかはよく知りません。
同業の方には、描写っていうのは髪と目の色を書くことだ、なんて冗談で言う人もいました。
でもあながち冗談でもなかった感じです。それぞれ個性づけで違う色をつけていったら、色鉛筆の見本みたいなことになってしまうなんてこともあったくらいで。
わたしは2でひたすら返し技わたしも気をつけて、人物が登場するごとに色を書いたりはしていたんですが、あんまり深くは考えないので、あいつに関してはそんなことになってしまったわけです。
すぐ否定すれば良かったのかもしれないですが、なんか「おい、お前って目が緑だよな」「そうですね。でもアレじゃないですよ」とかいう会話も如何なものかとためらってたら、やっぱりアレなんだなみたいな印象がどんどん強くなっていってしまったようで。本当に最後の最後まで言われ続けました。「いつアレになるんですか?」って。
そのたんびに、ああ申し訳ない。違うんだよと念じていたわたしです。
あんまり言われるんで、もういっそそうしてしまおうかと思ったこともありました。まあお話上の齟齬があって、結局やらなかったですけど……
わたし的には、やっぱりやらないでおいて良かったと思ってるんですけど、みなさんはどうなんでしょう。アレであって欲しかったんでしょうか。
あいつのことというと、そんなことばっかり思い出すのでした。
うーん。なんか2日続いたせいで、わたし困ってばかりいたみたいだな。
困った関連で思い出してしまったから続いただけで、そんな毎度困ってはいなかったですよ。
本当に困ってたのかっていうのも微妙ですし、そもそもどれもわたしが考えなしに書いてたのが原因ですし……
明日は、じゃあ、困ってなさげな話題をなんとか思いついて、書きます。
思いつかなかったら、うーん、
この御方が一年後どれくらい丸くなるかについて語ります。
2008.10.12.
丸い! まばゆいほどに!
あまりの丸さに今日はもうこれだけでいいんじゃないかと思いましたが、名前の話が出てきたんで。
実を言うと、大半の奴らは思いつきの語感で名前つけてました。
あいつとか、magicのもじりだというのは嘘です。家庭用洗剤というのも実は嘘。というか冗談でした。
なんとなく印象に残りそうな語感を探すと、自然ともじりっぽくなったりしてました。大陸(今じゃ島か)の名前もそう。意味からつけることはほとんどありません(まったくないわけでもないですが、その場合はかなり露骨でしたね)。
部長刑事とか、意識して女性名をつけたのではなくて、思いついた名前がそういえば実在の名前だなあなんて感じでした。
語感でつける場合、フルネームで思いつくことが多いので、名前だけ呼ぶと変な感じがしたりします。バスコ・ダ・ガマを「おい、ガマ!」って呼ぶ違和感みたいな。まあこれガマだからですかね。思い切って「ダ!」とか呼んじゃえばかえって気にならないかもしれません。
フルでも「バスコだが、マ!」だとわけ分からないですしね。なんの話でしたっけ。
名前で思い出しましたが、このシリーズでは、家名は相続財産の名前であって、人を示すものとしてはあんまり使われないなんて設定でやってました。
だからコンスタンス三等官であって、マギー三等官ではないんですね。
こいつの場合、家名まで入れた変な愛称の付け方していたのは、地元の名士で有名だったからです。そんな場合はそういう付け方をすることもある……なんて風に考えてたんですが、他に例が登場しなかったですね。まあ愛称だから、決まりがあるってのも変ですが。
名前には変則もあって、たとえば相続権を二重に持っていて「名前・家名・家名」になる人もいれば、単に好きずきで名前を長くする「名前・名前」な人もいます。
9月19日のあいつは、別に死んだ友人の財産を乗っ取ったわけじゃないし、家名なんて必要ないのに名乗ってるわけです。
このあたりは作中で、はっきりとは説明する機会がなくて、わりと混乱の元だったみたいです。
2008.10.13.
銃器について。
なんでかわたしは、イスラエルに惹かれるみたいです。
そんなわけでアサルトライフルといえばTAR-21です。
ディスカバリーなチャンネルの、最強兵器がどうのといういつものやつで紹介された時、現地の人がアメリカ人の紹介者に試射させて「へー、アメリカ人が撃ってもわりと的に当てられるもんだネー」的な素敵コメントしていたのが印象的でした。
そして彼いわく、「連射性能はもちろん良いよ。まあカタログスペック的にはね。でも実際ライフルを使う時にフルオートで撃つ奴はいないだろ。こいつが本当に優れてるのはまず撃ちたい時に必ず弾が出ること。そして遠すぎない距離で当てやすいこと」
これで学んだってわけではないですが(この番組見たの最近ですしね)、わたしが現実性を感じる銃器のスペックっていうのは、そのあたりが一番ピンときます。
彼らにとっては現実性どころか現実ですから、単に感心して済むような話でもないんでしょうけどね……
ものすごく話が逸れました。
とにかくまあシリーズでも銃器が登場するわけですが、これも妙な設定をしたおかげで結構混乱を呼んでしまっていたようです。
作中で登場する一般的な「拳銃」は、銃身がなくて、間近で発砲する道具ということになってます。
弓矢や大砲の進化として登場した現実の銃と違って、鈍器や刃物から発展して発明されたものです。
だから長銃は存在していなかったし、遠方から狙って撃つという発想も(一般的には)ないという設定でした。
これは作中の舞台では人間たちが、もっと進歩した別の生き物から文明を与えられたという背景があるからという考えでした。
狩猟をすっ飛ばして農耕・牧畜に至ってしまったというわけです。
また合戦のような大きな戦闘の経験もあまりなかったことから、広大な領域での戦術がそれほど発展しなかったというのも理由のひとつです。
人間にとっては弓矢で事足りたし、人間の教導者となった異種族にはもっと凄い魔術の力があったので、必要とされなかったわけですね。
ただ人間の魔術士が力を増すにつれて、それに対抗する武器の重要性も増大して、次第に研究されて10月8日みたいな発明に至ったということです(まあ例のあいつの研究が盗まれて完成したんですが)。
何メートルかの距離で敵を突然殺傷し得るというのがそんなに恐れられてるのは、今までは不意打ちでもないとそれがほとんど不可能だったからです。
で、将来的にはさらに中・遠距離からの攻撃に発展することが予想されているというわけです。
まあ、ちょいと無理のある話ではあるんですが、現実との差別化としてそんな感じでやってました。
なお、デザートイーグルは好きになれないわたしです。ハンドガンはSIG
PROだなー、やっぱり。なにがやっぱりなのかはよく分かりませんが。
2008.10.14.
当時、他に多かった質問っていうと……
あとなにかあったかなー。あ、あいつの☆印ってなんなんですか? とか。
あれはまあ草河先生が、(作中ではいまいち少ない)可愛い系レギュラーのためにくっつけてくださったんだろうと思います。
その後、あれが制服になっておっさんたちにもみんな☆がついてたので笑いました。
草河先生はその手のネタには必ず突撃されるので面白いですよね。寡黙で真面目そうな方なんですが。懐の深い人です。
イラストの話が出てきたので、せっかくだからそのへんのことなど。
ティーンズ系のこういう文庫にはイラストがたくさんついているのがお約束で、作家なんかよりイラストレーターさんのファンだ、なんて人も多かったんじゃないでしょうか。
作家とイラストレーターさんの関わり方については、やはり(?)気にかかった方もおられたようで、質問とかもされた……いや、というか、よく誤解されてたなあって感じかもしれません。
他の方がどうされていたのかは知らないですが、わたしの場合は、イラストに関わるということはまずなかったです。
原稿を編集部に渡してあとはお任せです。キャラクターのデザインだとか、場面選びだとか、わたしは一切なんにもしてません。
実際のところ本になるまで、どんな絵になるかというのはまったく知らずにいました。
別に関心がないとかではないんですが……わたしには絵心もないし、プロに任せるって感じですね。
これはどの作品も例外なくそうでしたし、これからもきっとそうだろうと思います。
ともあれ、雑談のネタもさすがに尽きてきました。
思い出せばもっとあると思うんですが。さすがに10年くらい前のことなのでパパッとは出てこないです。
こんな話って滅多にしないし、一週間くらい続けようと思ってたんですけどねー。さて、どうしたものか。
2008.10.15.
電話しながら更新してます時の不定期連載。
荷物は、心配していたほど重くはなかった。
タフレム市を出て、難民キャンプに立ち寄って顔見知りに別れを告げてから先に進む。
様子を確かめながら進むため、何日かをかけた。以前――一年以上前――に通った道とは違うし、同じ場所を通ったとしても様子はまったく違ったろう。まだ騎士軍はタフレム近郊まで至っていないものの、小競り合いは毎日のように起こっているという。
「ひとけがないと、距離感も分かんなくなってくるわね」
郊外の荒れた土地を眺めて、こいつはつぶやいた。
独り言ではない。頭に乗せたままのディープ・ドラゴンを見上げる。
「本当に北に進んでんのかな……ちょっと休憩しようか」
道の脇にあった、岩の陰に腰を下ろす。
地図を広げてみるものの、これまでと同じく――『多分正しいような気がする』ことが確認できるだけだ。
「地図なんて結局、信じる気がないなら意味ないのよね」
少し口を尖らせて、地図帳を鞄にもどす。
携行食を取り出して、少し口に入れてから水を含んだ。一息ついて立ち上がる。じきに日が暮れるだろうが、今日はもう少し進むつもりだった。
タフレムを出てから雨は降っていない。それが救いだった。しかしもうすっかり秋も暮れて、日を追うごとに気温は下がっていくだろう。
一時間ほど歩いて、廃屋を見つけた。戦闘跡こそないが、不穏な情勢に街へと引き上げた誰かの家だろう。家具はひとつも残っていないが、壁には日焼けがその輪郭をつけていた。
幸い、まだ扉の鍵は生きている。屋内に誰もいないことを確かめて、こいつは元は居間だったらしい部屋に荷物を置いた。久々に、多少は気を緩められそうだった。
毛布を取り出して、その上にディープ・ドラゴンを寝かせる。また道を確かめようと地図を出そうとしたところで、こいつはその手を止めた。
足音だ。外。まだ近くはない――が、遠いはずもない。
ひとりやふたりではない。こいつは身を隠して窓に近寄り、外をのぞいた。
十人ほどの集団が、この廃屋に近づいてきている。全員男。それも、武装している。
(騎士だ)
汚れたガラス越しにだが、そいつらの武器が山賊などのものでないことは一目で分かった。そして普通、魔術士はあんな人数では行動しない。
そいつらが近づいてくるにつれ、会話も聞こえてきた。
「そこは廃屋だろう?」
「ああ。でも変だろう。戸が閉まってるのは」
「前から閉まってなかったか?」
「どうだったかな……多分、開いてた」
こいつは舌打ちした。窓から離れて鞄の中に毛布とディープ・ドラゴンをいっしょに入れて、肩に担ぐ。
2008.10.16.
知らない間に足の指の爪が割れていて絨毯が血だらけでゾッとした時の不定期連載。
ちらと窓を見やる。そいつらがなにをするかは予想がつく。まず、窓から中をのぞくだろう。不審があれば踏み込んでくる。逃げ場はない――裏口がどこにあるか分からないし、それがそいつらの死角にある保証はない。
天井に梁がある。こいつは荷物を肩に引っかけたまま跳び上がると、梁に手をかけて、逆上がりの要領で身体を持ち上げた。梁の上に横たわって息を潜める。
窓に、ぼんやりとだが人影が映った。中をのぞいている。
「誰かいるか?」
「いや……」
こいつは視線だけ動かして、戸口のほうを見やった。自分は鍵をかけていただろうか。記憶が覚束ない。鍵をかけていたら――アウトだ。そいつらは武装を整え、戸を破って入ってくるだろう。まったくの大間抜け、迂闊だった。まだ街中の気分が抜けていない。
ばたん! と音を立てて戸が開いた。
騎士がひとり、身体半分ほどを乗り入れて、中を見回す。
ただじっと、こいつはそれを見定めた。手はゆっくりと、鞄の中を探って硬い塊に触れる。
『弾数は八発だ』
あいつの言葉が耳に蘇った。
百発百中でも足りない。それに、言うまでもなく――拳銃は最大でも最小でも敵を殺戮しかできない武器だ。
殺す?
そんなことが可能かどうか。想像などするのは馬鹿らしい。
それでも、そいつらはこいつを苦もなく殺すだろう。安直に想像し得る、最も残虐な方法で。そいつらがとりわけ残虐であるから――ではない。そんなことではまったくない。それよりももっと恐ろしい。そいつらにはそれが仕事だからだ。敵、あるいは不審者に脅威を与えることが。
頭上から騎士を見下ろして、こいつは拳銃の包みを取り出した。そいつが、ちらとでも上を見上げたら終わりだ。少しの物音、わずかな気配、ちょっとした臭いでも嗅ぎつければ。そしてあるいは、本当にただの気紛れででも。
そいつが気づいた素振りを見せれば、自分は間違いなく発砲する。
弾が当たるかどうかは分からないし、見届けることもあるまい。銃声を聞いた他の連中が一斉に踏み込んできて、こいつを蜂の巣にする。運が良ければ即死だ。悪ければ、難民たちと同じ経験をすることになるだろう。
だが。
「誰もいないぞ」
騎士はそう言うと、出て行った。
そいつらの気配が完全に消え去るまで、こいつはその場からまったく動かなかった――指一本、髪一筋すら。やがて梁から飛び降りて、荷物をまとめ直して廃屋から抜け出す。外はもうすっかり暗くなっていた。
(もうこんなところまで、騎士軍が)
息を止め、こいつは足早に駆け続けた。
2008.10.17.
血が止まった後の傷跡にもゾッとして二度お得な時の不定期連載。
こんな土地でまだ商売が続けられるということは、まともな酒場ではあるまい。
それは想像がついた。タフレム市からさらに離れ、武装盗賊の縄張りだ。騎士軍の支配地にも近づいているため、騎士たちもまた新しい客層ではあるだろう。
離れた場所からその酒場を眺めながら、こいつは、汚れた髪を掻き上げた。まだ店に近づいてはいないが、遠く身を潜めてもいない。ボロボロの看板が軒下にぶら下がっているが、屋号のようなものはすっかり掠れて読み取れない。
最後に、こいつは身の回りを確かめた。鞄は左手にぶら下げて、いつでも落とせる。剣は腰だ――これはなにより目立つ武器。拳銃はズボンのポケットに押し込んで隠し持っている。騎士のように、左手で取り出せる位置にしまった。眠ったままのディープ・ドラゴンには鞄に入っていてもらおうかとも思ったが、いざという時には鞄を捨てることもあり得るため、懐に入れた。
意を決して、歩き出す。
酒場に入るまではなにもなかった。反吐と体臭の入り交じった酸い悪臭に慣れるため、入り口で立ち止まる。店の中は思ったよりも大勢がひしめき合っていた。
混んでいたのは、かえって幸いだったかもしれない――こいつが店に入っても、入り口近くの連中は目を丸くしたものの、店内の大半はこいつのことに気づいていない。
なるべく目立たないように、酔っぱらいの間を通り抜けていく。
目的の人物は奥にいる――というのは直感だった。店内の奥まった暗がり。どれだけ客がいるのに、そこだけ人払いされたようにぽっかり空いているスペースを見つけて、立ち止まる。
それまで騒がしかった店内が、急に静まったことに、こいつは気づいた。
こいつが見つめているのは、ひとりの男だった。こちらには背中を向けている。というより、ほとんど床に倒れ込んでいる。みすぼらしい格好は汚物にまみれて、髪もぼさぼさ、完全に酔いつぶれている。
2008.10.18.
カッパドキアって名前で得してるよなあと、ふと思った時の不定期連載。あとギョレメ国立公園も。
死んでいるのかもしれない。
そんなことはまったく信じていなかったが、それでもこいつはそう思った。
「……そいつになにか用かい?」
客のひとりが、背後から声をかけてくる。
こいつはうなずいた。
「ええ」
「なら、そいつが何者なのか教えてくんねぇかな。金もねぇくせにずっと居座ってやがってよ」
ちらと、肩越しに見やる。赤ら顔の大男だった。客だと思ったが、どうやら店の人間だったらしい。ただし酔っぱらっていることには違いなかったが。
「なら、追い出せばいいでしょ」
そうしたら、こんなところに入らなくても良かったのに――と胸中で付け加える。
男は、別の客たちと顔を見合わせて、苦笑いした。
「そうしようとしたさ。最初はな」
「またもどってきた?」
「いいや。まったく動かせねぇんだ――そこから」
そいつは恐らく、こいつが仰天するのを期待したのだろう。
が、こいつはまったく驚かなかった。
店の客たちを眺めやる。そいつらが余計な手出しをしてこないことを目の色で確認した。明らかにそいつらは、ここに倒れている男を恐れている。
剣の柄に手をかけて、こいつは前に進み出た。
「『サンクタム』」
呼びかける。
「……わたしを覚えてる?」
なんの反応もない。
変化もない。
2008.10.19.
ニラレバと咄嗟に言えない自分に今まで気づかなかったのはニラレバ好きじゃないからあんまり食べないからです時の不定期連載。
こいつは剣を抜いた。
「おい!」
さっきの大男だ。赤い鼻をさらに赤くして、
「ここじゃ刃傷沙汰は――」
その目立つ鼻先に、こいつは切っ先を突き付けて黙らせた。
「こいつを連れ出して欲しいでしょ?」
「あ……ああ」
「なら黙っていて。あと、道を開けてちょうだい」
出口を視線で示す。
男たちは呆気に取られながらも、左右に分かれて道を作った。
こいつはゆっくりと、倒れている男に向き直った。
「わたしを覚えてる?」
繰り返す。
サンクタムには意識すら回復させた様子もなかったが、そのまま続けた。
「わたしは覚えてるわよ……あなたのことを」
床に倒れたまま、身体を動かすこともなく、その男はただ目だけを見開いた。
たったそれだけの動作だ。視点も定まらず、ぼんやりと虚空を彷徨っている。
「お前は……あいつ?」
男は、うめいた。長く酩酊していた者らしい、朦朧とした声音で。
そいつが飛び起きるか、隠し持った武器でも取り出すか、あるいは他のなにをしようとしたにせよ、脳の下した命令が手足に伝わったようには見えない。
それでもこいつは剣を下げなかった。
男の目がようやく自分を見つける――いや、少なくともこちらを向きはした。理解できたのかどうかは定かではない。取り憑かれたようにそいつは繰り返した。
「あいつか……?」
似てるだろうか? あいつとわたしとは。
そんなことをこいつは自問した。
そうかもしれない。ともあれ、一年前は。だがそれは、そいつらが似ていたからだ。正反対だが似ていた。この男と、あの人は。
2008.10.20.
わたしが苦手なのはレバーであってニラではないです時の不定期連載。
そいつが起き上がるのを待つ、じりじりと無駄に長い時間を、こいつは待ち受けた。呼吸の許される隙をなんとか探す時間とも言えたし、平衡を失った酔っぱらいに見切りをつけるかどうか葛藤する時間とも言えた。ただ実際には、どちらも論外だった――酒場の悪臭はひどいものであったし、自分の旅には、この酔っぱらいがどうしても必要だったからだ。
こいつはその男の一挙手一投足を見守った。ぞっとしたなにかが背筋を這っていく。床に倒れていた時には、そいつは間違いなく酩酊状態だった。だが立ち上がってこちらを見るその眼差しは、もう正気にもどっている。
一歩、こいつは後退りした。
やや遅れて、男は前に進み出た。
その一瞬で、こいつは少々混乱気味に、いくつかのことを同時に思い浮かべた――『わたしだったら、その方法は取らない』『使わずに済むに越したことはないが』『ぼくもいずれ、追いかけるよ』『まさかあいつの言ってたぶん殴っとけって、こいつのことじゃないわよね?』
背を向けて、全速力で出口に走る。
無数の罵声、いや悲鳴が聞こえた。
幸い、外に逃げるのを邪魔はされなかった。半分壊れた扉に突進して、薄暮の迫る荒野へと飛び出す。
その時に、自分が剣を持っていないことに気がついた。
「…………?」
言葉もない。いつ、どのタイミングで剣がなくなったのかまったく理解できていなかった。
しかも、もうひとつ失策を犯した。そんな疑問にいちいち付き合って足を止めてしまった。
無我夢中で、こいつは横に跳んだ。身をかわしつつ背後を見やる――自分の剣が振り下ろされ空間を裂くのが見えた。
2008.10.21.
微妙な寒さだし微妙な暑さだなーと思っていたら扇風機の調子が悪くなってさらに調整が難しい時の不定期連載。
つまずいたが、転ばずに済んだ。こいつは片足でなんとか勢いを受け止めて、剣を携えた男へと向き直った。
ポケットから拳銃を取り出す。左手に構えた銃を標的に向け、引き金を引いた。銃声が鼓膜を打ち、反動が肘を折る。弾丸がどこにいったかは知らない。
どのみち男は既にその場所にいなかった。こいつは左右を見回した――どこにもいない。一瞬で見失った。
「当てる確信のない時には――」
トン、と背中になにかが触れた。
男は淡々と話を続ける
「撃たないことだ」
自分に触れているものがなにか、こいつはしばらく考えて、確信に至った。背面から、ちょうど心臓の位置だ。剣の切っ先が――痛みから想像するに――少なくとも一センチほどは突き刺さっている。
わざと止めているのは分かっていた。傷の痛みに腱引きつらせながら、こいつは両手を挙げた。酒場の扉が揺れているのが見える。野次馬のひとりも顔を出してこないのは奇妙だった。中に二十人はいたはずだ。それが全員、店の床に伸されているのだろうか? あの一瞬だけで?
かなり耐え難いはずの背中の痛みですら、気の遠い夢現の錯覚に思えてくる。
卒倒しかかっている――と認めて、こいつはなんとか意識を繋ぎ止めようと、唇を噛んだ。
ここまでは特に計算外のことではない。敵わないのは分かっていた。こうまで手も足も出ないのはともかくとして。
「ええと」
探るつもりで、言葉を選ぶ。
「正直、あなたのこと、なんて呼べばいいのやら」
「さっき呼んだろう」
男は、面白くもなさそうに言ってきた。
それでも話には応じてくれた――こいつはつぶやいた。
「あいつってところね……わたしにとっては」
声が震える。
痛みがすぐに消えることもなかったが、剣が足下に放られた。こいつはそれを拾い上げ、振り向いた。
さっきと同じく、見た場所にその男の姿はないのではないか。そう思ったが、そいつはいた。なんのことはない姿勢で突っ立って、こいつを見下ろしていた。
「どうでもいい。俺にとっては、俺は俺だ」
そいつが、半眼でそうつぶやくのが聞こえた。
2008.10.22.
今さら言うのもなんだけど横書きって違和感あるなーと思う時の不定期連載(って、書いてる時はいつも横書きなんですけどね)。
まったく予想のつかないものを計画に組み入れるというのは、いかにも馬鹿げたことだったろう。
それはあいつに言われるまでもなくこいつにも分かっていたことだったが、なら、どうできたっていうの? とも思う。
やりようなら、なんとでもなったでしょうよ――やはりあいつの声が聞こえたような気がして、こいつはなんとなく首が竦まるのを感じた。あいつの『客扱いしない』は文字通り、脅し文句でもなんでもなかった。
焚き火を囲んで向かい合っているそいつを前にして、こいつはいくつかのことを確認した。ひとつには、少なくとも殺されはしなかったということ。もうひとつは、現状、殺される気配はないということ。
あとのことはそれに比べれば、些細なことだった――果たしてそいつが協力してくれるのかどうかも含めて。そいつについてはあいつからも聞かされて、それなりの知識を得た。貴族連盟に使われるフリーエージェント。あの人と同じ師にも学んで、こと人を殺害する技にかけては至上と目される。
「覚えているのかと言ったな」
話しかけられて、こいつはぎょっと背筋を伸ばした。
まさかそいつから口を開くとは思ってもいなかった。そいつは倒れた朽ち木に腰掛け、じっと火を眺めている。
こいつは咄嗟になにか言おうとしたものの、声を出す準備ができていなかった。咳払いのような音を漏らしつつ、とにかくうなずく。
そいつは火に視線を注いだままだ。うなずいたのも見えていなかったはずだ。それでも話を続けた。返事などどうでも良かったのだろう。
「お前は確か、ディープ・ドラゴンの使い魔だった」
「ええ」
胸に鈍痛を覚え、つぶやく。
そいつはようやく視線を上げた。
「奴らは絶滅した。それはなんだ?」
「ディープ・ドラゴンよ」
脇に置いた毛布の上で丸まっている黒い塊を示して、こいつは告げた。
2008.10.23.
このところよく着てるパーカー、ファスナーの重いところがちょうど左手の指関節にゴツゴツ当たって地味なダメージを与えてくる時の不定期連載。
だが、そいつは即座に否定した。
「違うはずだ」
「どうして?」
言い返しながら、意識は手のとどくところにある剣と、ポケットの拳銃に向かう――怯えのせいだ、とこいつは認めた。まだ言い争いにもなっていない。にも関わらず、危機を感じずにいられない。
(あいつは、よくこんなのと一緒にいたわよね)
そんなことを思う。
それを知ってか知らずか、そいつは愛想笑いのひとつもなく、ただ続ける。
「奴らは絶滅したからだ」
言い方に我慢ならず、こいつはうめいた。
「あなたがなにを信じようと別にいいけど、奴らなんて言わないで。この子たちは、大陸を守るために犠牲になって――」
「奴らというのは」
そいつの冷たい声が簡単に言葉を遮る。
「ドラゴン種族すべてのことだ。結界が失われれば終わりだということを、奴らは知っていた。どうせ終わりだということを知っていたなら、犠牲にさほどの意味があるか?」
そいつの声に感情はなかったが、嘲弄の気配は無視のしようもない。
こいつはディープ・ドラゴンの背中に指を置いた。
「終わってない」
炎の向こうにある男の顔を睨みつける。
「現に、なにも終わってない。わたしたちは生きてるし、この子もここにいる」
「いつ終わるか分からない。明日かもしれない」
「そうよ? 当たり前でしょう?」
「…………」
そいつは笑みを浮かべたわけではなかったろうが、唇の傷跡が、それを思わせる形にわずかに動いた。
2008.10.24.
この1行目を埋めるのにやたら時間がかかる時の不定期連載。
あるいは単に苛ついているようにも見える。目の前の男を怒らせるのがどういうことか、本能が警告を発してくる。が、こいつは踏み込んだ。
「あなたは、まるで間違ってる」
「まるで?」
「なにもかも、あいつのことも、あいつのことも――全部よ!」
火が弾けた。
実際に焚き火が吹き飛んだのだろうが、見えた火花は、眼球の中に発生したものだろうか。こいつは身体が投げ出されるのを感じた。遅れて、横面を殴られたのだと理解する。転倒するほど強く。
転がって、起き上がる。踏み越えてきたそいつに蹴散らされて焚き火は四散していたが、灯りは残っていた。先ほどまでこいつの座っていた場所にそいつが立ち、そして――寝ているディープ・ドラゴンの背中に靴の踵を乗せている。
「やめて!」
悲鳴をあげる。
そいつはただ冷淡に、つぶやいた。
「立場を弁えてから大口は叩くべきだな」
「やめて……」
拳銃を手に取ろうとするが、指が震えて掴めない。脳震盪を起こしているのか、自分が今起きているのか寝転がっているのかもよく分からなかった。
だが、そいつがゆっくりと足をどけるのはなんとか見えた。息をつく。吐きそうになっていると気づいた。
そいつはそのまま爪先で蹴って薪を集めると、元の場所に帰っていった。こいつは這うようにしてディープ・ドラゴンに取り縋った。抱きかかえて、そいつと向き合う。
殺し屋は先ほどよりもくつろいでいる様子だった。朽ち木にもたれ掛かって、遠くを見ている。
「あの当時――」
まるで何十年も昔の話であるような口調だった。
「俺は、やるべきことをやろうとしていた。超越を」
「超越?」
随分と唐突な言葉に、訊く。
2008.10.25.
しばらくまた小休止なんですが明日から書くネタがさっそくないなーとか思ってる時の不定期連載。
そいつは明らかに無視したが、話した内容は、返答を兼ねていた。
「歴史を飛び越えて未来を託されたあいつ……人造人間であるあいつに、あいつ。御立派な人間側の俗物、あいつを入れてもいい。この連中をも踏み越え、最終の超人に。魔王に」
こちらを見据え、そいつは話を続けた。
「誰もがそれを望んだろう。超人となった俺は永遠にこの大陸を守るはずだった」
と――決して叫び出すほど強くはないが、声を大きくする。
「いったい誰がこの混乱を望んだ? 戦争を? 変化を? 奴は超越に怖じ気づいて、なにも負わずに投げ出した。その結果がこれだ」
そう言って、そいつは口を閉じた。
反論を促している……のだろうが、こいつはなにも言わなかった。
やがてそいつは、明らかに侮蔑の視線を送ってから、締めくくる。
「……なにも言わないのか。あいつと同じだな」
つまり、あいつのことはこうして支配したのだ――直感的に、こいつは感じ取った。
思わず、つぶやく。
「あなたは怖がってる」
そして相手を見やった。
理解した事柄に怒りを感じたのとは関係ない――それはまた別の話だ。
そいつもまたこちらを見ている。まだ殴りに来ていない。
(来るなら来ればいい)
ディープ・ドラゴンを抱えて、身を屈める。殴られるのは防げないかもしれないが、今度は守る。
言うべきことを、こいつは頭の中でまとめた。結局のところこれは、この情報を聞かされてからずっと疑問に思っていたことだった――どこに行けばこいつに会えるのか。
「あの人を怖がってる。だから、命令を受けたのにそれもしないで、こんなところにいたのよ」
「俺を動揺させたいのだろうが、違うな」
箒で埃でも払うように、そいつはさっと手を振ってみせた。
「見当違いな話だ。奴を恐れる理由はひとつもない」
「本当に?」
じゃあなにを怖がってるの?
目に力を込めて、突き返す。
今度は、さっきほどは通じなかった。
殺し屋は、空を見上げた。砂塵の影が通り過ぎる夜空を。
「奴は魔王ではないのだから、殺せる。自業自得だ」
力みのない小さなつぶやきが、そいつの確信を物語っていた。