箴言4:26 どう足を進めるのかをよく計るなら あなたの道は常に確かなものとなろう。

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2008-10-23 00:04:59

神の家とは

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今回も「検索」をして見たいと思います


1テモテ3:15


それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。


創世記28:17


彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ


創世記28:22

私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」    (十分の一献金の事ですね)


ヨシュア記9:23

今、あなたがたはのろわれ、あなたがたはいつまでも奴隷となり、私の神の家のために、たきぎを割る者、水を汲む者となる。」


歴代誌下3:3

神の家を建てるために、ソロモンの据えた礎は次のとおりである。長さは先代の尺度のキュビトにしたがって六十キュビト。幅は二十キュビト。  (新共同約では神の家神殿になってました、両方とも教会のたとえですも)


詩篇 42:4 新共同42:5

私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。


詩篇52:8

しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。


 オリーブの木とは  ローマ11:17

もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、

ローマ11:24

もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。


我々です。


詩篇55:14

私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。


詩篇135:2

主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。


イザヤ2:3

多くの民が来て言う。「さあ、主の、ヤコブの神の家上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。


マタイ18:12 山

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹をに残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

山と神の家そして羊 (山 神の家 教会) (羊クリスチャン)と言う事がわかりますね。


ヘブライ人への手紙3:6

しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。


私たちが神の家なのです。 


1コロサイ3:16 

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

りかけがあります。 神殿も神の家教会なのです。


3:17


もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。


と、言う事で胸を張っていきましょう。 

創世記4:15

主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。


創世記4:24  カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」  


カインでさえこうなのですから。

2008-10-22 23:52:19

からし種とパン種 エレミヤの部屋から転載 http://www.geocities.co.jp/

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通算No.28 からし種とパン種のたとえ

テキスト:テキスト: マタイ13:31ー32
”イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」”

このマタイ13章の2つのたとえを理解していきたいと思います。

これらの2つのたとえは天のみくにー教会のあゆみについて書いてあります。教会がどのようなものから始まり、どのようなものになるのかについて書いてあります。

このたとえをどう解釈するかはその人が教会のあゆみをどうとらえるかによってことなります。もっと具体的に言うと、その人が教会が世の終りにどうなるのかと思っているのかにより解釈が異なるのです。すなわち、教会は終末には良いものになっていると思う人と、そうではなく悪いもの、さばきの対象になると思う人ではこれらのたとえについて解釈が異なってくるのです。

このからし種とパン種のたとえについて多くの注解書はこれを教会が発展、成長することのたとえだと書いてあります。

しかしJ.N.Darby, W.ニー兄弟らの見解は異なります。彼等はそうではなくて、これらのたとえは教会の中に罪が増え広がる、教会が当初のかたちから変質してしまう、それをたとえていると読みとっているのです。

からし種のたとえ

からし種とは小さな種です。しかしこれは信仰を意味します。ルカ17:6のみことばの通りです。
”しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。”

だから、小さなからし種は、教会が当初は小さなもの、しかし真の信仰を持った集まりとして始まったことをさすのでしょう。

しかし、成長していくにつれてこのからし種にある変化がおこります。

大きくなるにつれてそれは大きな”木”になったのです。これは何か特別な変化を示します。もし、からし種が野菜のまま大きくなったのなら、特に問題は感じられません。そこには本質的な変化はないからです。

しかし、野菜と木は全く別の種に属するものです。神は創造の時、植物もそれぞれ種類に従って区分して作られました。木と野菜とは別の種です。そして、からし種はその種の区分を超えたのです。これは大げさないいかたをすると何か異常なことです。

からし種の本来の種の区分は野菜です。そして、それは小さいけれど純粋な信仰を象徴するものです。だから、もしからし種が野菜のまま大きくなったのなら、そこには質的には変化はなく、ただ量的に増えたことを意味します。ただ祝福だけがあるといえるでしょう。

しかし、別の種に変化したということは当初の純粋な信仰も変化したことを暗示していないでしょうか。

だから、これは教会が全く違う種類のものへと変化したことをさすのです。
イスラエルの王朝の歴史を見てもわかるように、神の民の歩みは当初の純粋なものから、時とともに変わっていくことがありえます。

そして鳥がその木に宿るようになります。鳥がとまるといっても良い意味をあらわすとはかぎりません。同じ章にたねまきのたとえがあります。そのたとえの中にも同じ鳥が出てきます。この鳥はみことばの種を奪い取ってしまう鳥です。敵の働きをあらわすのです。また黙示録には鳥に関してこのような表現をしています。

黙18:2
”大バビロンは倒れた。そして悪霊のすまい、あらゆる汚れた霊どものそうくつ、あらゆる汚れた憎むべき鳥どものそうくつとなった。”

ですから、このたとえの意味していることはこのようなものです。教会は当初小さな、しかし純粋な信仰を持つ集まりとして始まった。しかし、成長して、規模が大きくなるにつれて、本質的な変化をなすようになり、信仰ーからし種とは別のものに変化してしまった。そしてその上に鳥ー悪霊をさすかーさえ宿すものになってしまった。

パン種のたとえ

もう一つのたとえ、パン種のたとえについてみていきます。

聖書の中でパン種は一貫して罪を象徴しています。

Iコリ5:8
”ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。”

カラ5:9
”わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。”

また、聖餐式でもパン種のないパンを食べます。私たちがパン種のない者、罪のない者となることを示すためにそうするのです。アブラハムにしてもイサクにしてもヤコブにしてもまた他の旧約の聖徒にしても彼等がパンを食べたり、ささげる時は必ず、パン種のないパンを食べたり、ささげています。旧約聖書の中では例外なくパン種のないパンについて語っているのです。

旧約聖書に一箇所だけ、例外的にパン種のあるパンを食べることについて書いてある箇所があります。しかし、それは神が頑固な民への皮肉として書いてあるものです。いわば反語的な表現なのです。

アモス4:4、5
”ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。神である主の御告げ。”

新訳約聖書でもこの原則は同じです。パン種については、パリサイのパン種、サドカイ人のパン種というように誤った教え、罪と関連して語られています。決してパン種をいれることをすすめたり、良いことだとは決して述べていません。

ですから、パン種が広がるという記述を読んで何か良いこと、成長について考える人は聖書の考え方と全く違ったことを主張しているのです。

このパン種のたとえを教会の成長、発展を示すと解釈する人達は神の聖書における原則を無視して人間的な考えでものごとを見ています。

他の全ての箇所で、パン種は罪、間違った教えをさすのに、どうしてこの箇所でだけ、同じパン種が良いことをさすといえるのでしょうか。聖書のなかで、同じパン種がある時は罪をさし、ある時は良いことをさすというのなら、神は全く無原則の神だということになります。

ですから、私たちの理性、心情では認め難いことですが、この箇所は教会にパン種が、すなわち罪がいき渡ることをさします。それがどのような罪、パン種なのかは特定されていません。しかし教会は大きくなるが、罪が行き渡る、そのことについてこのたとえは述べているのです。

同じマタイ13章には他にもいくつかたとえが書かれていますが、その主旨、結論はからし種やパン種のたとえと似たようなものになっています。

たねまきのたとえは同じ種が4種類の異なった地に落ち、結果として実を結んだのは1種類の種だったというたとえです。要するに実を結ばない地が3種類もあるということです。

毒麦のたとえも畑に育つのは良い麦ばかりでなく毒麦もはえることをさしています。

魚のたとえもそうです。良い魚ばかリでなく、悪い魚もとれるということです。

麦や魚はクリスチャンをさします。ですから、これは教会に関する警告なのです。

神がこれらのたとえでいわれていることはこういうことです。教会の始まりは確かに純粋なものよいものであったが、時が過ぎ、成長するにつれ、教会の中に罪も増え、毒麦も生え、悪い魚も増えるということです。世の終りの時には、毒麦が焼かれ、区分がありますが、それまでは教会が良い麦も悪い麦も、信仰も不信仰も、また聖さも罪も混在した状態で続くということです。

そして、毒麦や魚のたとえでは世の終りには、毒麦が火で焼かれると書いてあります。これは終末における教会へのさばきを暗示しているようです。ペテロが書いているように、さばきは”神の家から始まる”からです。

我々はこれらの状況の中で主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上 ー

2008-10-21 20:30:40

2 仕事と働き 2テサロニケ3:6~17 

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2テサロニケ3:6~17(新改訳) 


6兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。


7どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、

8

人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。

9

それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに       模範を示すためでした。


10   私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。


11ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。

12  こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。

14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。

15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。


16どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。


17

パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。


こんばんは、今日もイエス様に召されたものとして見て行きますね 今日は「検索」をしてみたいと思います。


6兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。

7どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、


6 歩み

ローマ6:4

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

ガリテヤ5:16

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

エペソ5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

エペソ5:8

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい

コロサイ3:7

あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。




8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。

9

それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに       模範を示すためでした。


1テサロニケ2:9

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

1テサロニケ3:10

私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。


1テモテ5:5

ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も
、絶えず神に願いと祈りをささげていますが      (ほんとうのやもめは、身寄りのない人は、望みを神に置いているクリスチャンの型 他のやもめとの対比を見てくださいね)




10   私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。


ヨハネの福音書6:27 働き

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働き
なさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」




11ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。

1コリ9:9~10 仕事

モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事
をするのは当然だからです。  

(ここでは牛がクリスチャンで、仕事、耕す事、脱穀する事も、クリスチャン関係の事だと理解できます。)

追伸(まだまだ今日検索した同じ言葉は聖書に沢山あります、検索して見てください)

12  こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。

14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。

15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。


16どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。


17

 パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。


そして、2テサロニケ3:2には

また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。


とあり、信仰のことが語られているのが理解できます。 エレミヤの部屋をよろしく!私なんて蚤にすぎないですhttp://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/


愛を持って、クリスチャンの信仰の歩みをお手伝いして下さいね。それと私の最初の記事の動画を見てください(クリスチャンの方は) 

2008-10-21 11:20:59

山のたとえ エレミヤの部屋から

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No.101 山について

テキスト:ヘブル人への手紙 12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。

本日は”山について”という題でメッセージしたいと思います。聖書には度々山についての記述があります。このことばに託されている意味を見ていきたいと思います。

さて、テキストでは、”シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム”について書いてあります。
ここから山について見ていきたいと思います。”生ける神の都”は真の神の民の集まり、教会です。また、”天にあるエルサレム”も同じです。だとしたら、”シオンの山”も同じく神の民の集まり、教会をさすといえないでしょうか。

山の一つの特長はそこに木が生えることです。


”ハガイ書 1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。”

木にはオリーブ、いちじく、ぶどうと色々ありますが、これらは皆神の民を象徴的に表す木です。家も教会をさします。何故なら、普通の家の中に、父母、子供がいるように、教会にも神の家族である、兄弟姉妹、また、父母や子がいるからです。

聖書の中で、教会は重要な位置を占めているので、それをさすことばの種類は多いのです。家は神の家族を考えた時の教会の象徴であり、山は神の民をあらわす木が生える所としての教会の象徴です。

このことがわかってくると聖書の他のことばも開けてきます。


”マタイの福音書 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。”

神の民に関して語る時、山の上にある町といいます。


”マタイの福音書 18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。”

99匹の羊は神をすでに信じている信者です。信者はどこにいるでしょう。教会にいます。それで羊は山ー教会に残されると書いてあるのです。


”マルコの福音書 13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。”

山はたとえであり、教会をさします。人々は教会に逃げるのです。


”ルカの福音書 23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。”

本当に崖崩れのように山が倒れかかったら、人は死んでしまいます。これはたとえであり、山ー教会へ助けを求めている人々のありさまを示します。


”ヨハネの黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。”

小羊なるキリストは聖徒の教会に居られます。ですから、小羊は”シオンの山の上に立って”いるのです。


”ガラテヤ人への手紙 4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。”

ここではシナイ山がエルサレムー神の民の教会であると語られています。山は教会なのです。


”ヨハネの黙示録 8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。”

火が燃える山が海に投げ込まれるとは教会に対するさばきをさします。


”ヨハネの黙示録 6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。”
”ヨハネの黙示録 16:20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。”

山が移されたり、見えなくなるということは、終末の迫害の中で、教会が解散させられたり、中止されたりすることをいうと思えます。

この山ということばを通して語られる主の語りかけを受けていきたいと思います。

ー以上ー

2008-10-20 17:16:16

世のパンとイエス様のパン

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世の中を良くするなら彼らのことを応援してくださいね。 独立党 http://dokuritsutou.main.jp/
しかし、真実を言う事はいつの時代も大変なんですね   世の中の事が聡くなるきっかけになります
08.10.18



ヨハネ6:32
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
ヨハネ6:33
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
ヨハネ 6:34
そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
ヨハネ 6:35
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

我々はイエス様のパンを第一にしましょう。
霊的に聡くなるきっかけに エレミヤの部屋をhttp://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/ どうぞよろしく。
 
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