鳥居正宏のときどきLOGOS

EU宗教政策諮問委員会(Y.S.E.E.)メンバー、アムネスティ・インターナショナル会員、社会民主党党員の鳥居が、政治・社会・文化・国際問題などについて、時々に感じることを個人的に書き綴ります。 (C)無断転用・無断転載不可。全ての記事の著作権は鳥居正宏にあります。

多くの人は、仏教のことを「多神教」だと考えています。なぜなら、実に多くの仏・菩薩や神などが、その教えのなかに存在しているからです。

しかし、よくよく考えると、仏教は仏陀(ゴーダマ・シッダールダ)という、歴史上実在した1人の人間の頭脳の中で構成された宗教で、(正統な)仏教の教えの内容は、ただの一歩も仏陀の頭脳の中(で展開された教え)から踏み出してはいません。一歩でもそこから踏み出せば、その瞬間に仏陀の教え=仏教ではなくなるからです。

このような視点で見ると、仏教は、仏陀という、たった1人の人間の頭脳から発展した宗教に間違いないのですから、「まぎれもない一神教」だと私は考えています。

仏教だけに限らず、仏教と同じく「宗祖」「開祖」という人間が存在している宗教は、その教えのなかに、たとえいかに多くの神仏が内包されていようとも、その教え(教義・教学)は「宗祖」「開祖」という、たった1人の人間の頭脳から発展しているのですから、それは間違いなく「一神教」だといえるでしょう。

では、多神教とは何かというと・・・日本の八百万の神々への信仰(天皇を神とする国家神道を除く)や、古代ギリシアの神々への信仰のように、超人的な自然のチカラ、自然の摂理を神格化し、その信仰は自然発生的に生まれ、発展し、体系化された(宗祖・開祖が居ない)宗教だと考えています。

かつて、使徒パウロが、キリスト教布教のために、西暦200年頃にアテネを訪れ、熱烈なる布教活動をしましたが、古代ギリシアの多神教を信仰していた当時のアテネ市民は「たった1人の人間の思索による宗教など、我らの偉大なる自然の神々の力と比べれば、足元にも及ばない」と完全に相手にしなかったそうです(「使徒行伝」第17章、パウサニアス 第1巻、他)。

その後、ギリシアはローマ帝国の支配下に屈し、西暦380年に、ローマ帝国によって国教をキリスト教と定められ、さらにその後、ローマ皇帝テオドシウスによって、「異教禁止令」「異教神殿破壊令」などが発せられるに至り、ローマ帝国という強大な帝国の力によって多神教が禁じられ、暴力的(多神教の神像や神殿が徹底的に破壊され尽くし)かつ強制的に、国家権力によってキリスト教を押し付けられたのです。

多神教が、自然との共生と大自然の力を畏怖して構成されているのに対し、一神教は、たった1人の人間の頭脳の中で構成されたということを、私たちは見抜かなければいけないと思います。

そして、イスラエルとパレスチナなどの紛争は、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の一神教どうし、すなわち宗教的エゴイズムどうしの衝突のうえに、様々な政治的・経済的利権が絡み合っているのだと、私は考えています。

宗教の分野のみに限らず(特定のイデオロギーによる独裁的政治体制をも含む)今の世の中には、多神教の精神がもつ、大らかさと包容力が求められているのではないでしょうか?

私のような多神教(古代ギリシア多神教)の信仰者からみれば、一神教どうしの対立や(日本にもある)宗教政党の独善的な政治行動は、とても愚かに思えてしまいます。この私の感覚は、おそらく、かつてパウロの熱烈な布教活動を全く相手にしなかった、当時のアテネ市民と同じものではないかと感じています。

私は、市民が、自分の信仰は18歳か20歳になった時点で、自分の意志で(もちろん先祖代々の信仰を受け継ぐもよし、無宗教を選択するもよしとして)選ぶことが理想的だと考えています。生まれた時から死ぬまで、先祖代々の信仰や、両親の新興宗教の信仰を自動的に強制されることを防ぐ目的で。これこそが「信教の自由」ではないかと。



【2008年8月9日追記】
上記記事中に「使徒パウロが、キリスト教布教のために、西暦200年頃にアテネを訪れ」とありますが、月の子さんからのコメント欄での指摘を受け、再度調べましたところ、これが誤りであることに気づきました。

パウロが布教のためにアテネを訪れたのは、1世紀半ば頃です。西暦200年頃にアテネを訪れたのは、このパウロのアテネ布教の様子を記したパウサニアスでした。

ここに誤りを訂正するとともに、誤りをご指摘くださいました月の子さんに感謝を申し上げます。



テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

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コメント

なるほど。

 こんばんは。久しぶりのコメントです。

 一神教を神格化するということは、個人崇拝となるという記事ですね。まさしく、カルト宗教ですね。個人崇拝は、個人を崇拝するものですから、極めて危険です。その個人が死んでいなくなればカリスマは存在しなくなるわけです。ところが、三大宗教は、古典であり、教祖が死んでも、その「教義」は存在しています。ですから、教義自体に宗教性があるんでしょう。まさに、超人類、超自然、超歴史というような神聖観念が教義内容の根幹になっているんでしょうね。しかし、そのような宗教が人間精神を捉えて離さないわけです。三大宗教は最大の古典ですからね。要するに、人類は自然、人類、歴史法則を認識する科学的な認識を土台として、超自然、超人類、超歴史というような認識もする存在だということなんでしょう。しかし、あくまでも宗教は科学を前提しており、科学無くして宗教は存在し得ないということを明確にせねばならないんでしょうね。科学と宗教の区別と関連というものです。

  • 2008/07/20(日) 22:32:25 |
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  • 東西南北 #-
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まさに、仰せの通りですね。


東西南北さま
こんばんは。
鳥居でございます。
コメントをありがとうございます。

科学(とくに自然科学)と「本来の」宗教は、密接な関連があり、互いに補完しあう存在でなければならないと考えています。

古代ギリシアを例にすれば、当時の人々は、人間の力をはるかに超越した凄まじい自然の力と、妙なる自然の摂理、そして美しい自然の調和にこそ「神々」の存在を感じ、そしてその神々の営みを観察・研究することによって、文学、哲学、歴史学、化学、物理学、天文学、数学、医学、疫学など、全ての学問の源泉が生み出されました。

「万学の祖」といわれるアリストテレスが成したことは、ただ1つ、彼は神々の営みを延々と解き明かそうとして生涯を終えました(アリストテレス『形而上学』)。

まさに、東西南北さまのおっしゃるとおり、「あくまでも宗教は科学を前提しており、科学無くして宗教は存在し得ない」と私も全く同じ考えを持っています。

特定の個人や、歴史上の人物を、同時代もしくは後代の人間が勝手に神格化(カリスマ化)して、これを盲信したり、軍人戦没者を勝手に神格化して信仰したりする「行為」は、私は「本来の宗教に対する冒涜」であると考えています。

そして、私は科学(と言いますか、全ての学問)は、もとを辿れば宗教的観察から出発したのであり、そして宗教は、科学(そして全ての学問)によって、しっかりと裏打ちされていなければならないと考えています。

私は、個人(カリスマ)崇拝や、英雄崇拝は、「狂信」「盲信」の類であり、ほんらいの宗教とは似て非なるものだと思っています。

たいへん意義深い、貴重なコメントをいただき、心より感謝を申し上げます。

  • 2008/07/20(日) 23:18:27 |
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  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
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鳥居さんへ。

 早速、丁寧なお返事ありがとうございます。東西は、鳥居さんの哲学である自然法と社会法という認識を支持しています。死刑廃止論の根拠に自然法を位置付けているし、暴力革命を否定する根拠にも自然法を位置付けていますね。つまり、人間という人類は、すべて平等に生きることが科学である、という認識、確信。他方、社会法は人類の観念が作り上げたものであり、自然法に絶えず打ち破られていくのであり、社会法は自然法を前提して存在しえない。これは先に東西が述べた「あくまでも宗教は科学を前提してしか存在しえない」と言うことと同義だと思います。しかし、実際には、自然法を打ち破る社会法は存在しているし、科学を打ち破る宗教も存在しています。こうした現実社会の中では、自然法、科学をますます強調していく理論と実践が必要なのだと考えます。なお、鳥居さんが主張している「本来の」宗教というものは、まさに自然、人類、歴史そのものの内部に潜む「摂理」なのことなんだ、と思います。つまり、それは超自然、超人類、超歴史な神聖観念ではなく、自然、人類、歴史そのものということなんだと思います。そして、自然、人類、歴史そのものの内部に潜む「摂理」「法則」を認識していくことが科学だということです。自然、人類、歴史に潜む「摂理」「法則」を認識するということは科学であって、宗教ではないと考えます。宗教とは、超自然、超人類、超歴史な神聖観念つまり、宗教的な想像力であって、自然、人類、歴史に合致する観念は科学的な想像力だと思います。想像力という場合にも、科学的なものと宗教的なものが存在するという科学と宗教の区別と関連が必要な認識だと思います。科学は想像力を否定するというような俗論があるからです。科学が否定するのは想像力ではなく、科学を否定する想像力なのです。科学を前提する宗教的な想像力は人類の精神文化であって、本来の宗教なのです。口先では科学を否定しないと言いながら、その現実において、科学を否定する死刑執行、戦争、暴力革命、殺人・自殺のような宗教的な行為こそ完全に否定せねばならないわけです。

  • 2008/07/21(月) 00:05:58 |
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  • 東西南北 #-
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恐縮です


東西南北さま
鳥居でございます。

たいへん意義深いお返事をありがとうございます。恐縮です。

ずいぶん以前の話なのですが、とある日蓮仏教系の巨大新興宗教の幹部(関西青年部長)の人と話しをしていて、その内容が宗教論議になったとき、その青年部長さんは、

「願いとして叶わざるはなし」
「この信心は、不可能を可能にする信心」

だとおっしゃり、私をいわゆる「折伏(しゃくふく)」しようとされました。そこで、私はその青年部長さんに、

「ほんとうに“願いとして叶わざるはなし” “不可能を可能にする信心”なのならば、人間の死亡率を99%にすることはできますか?」

「なにも死亡率を0%にしろとは言っていない。99%でいいんですよ。たったの1%、人間の死亡率を減らすことができますか?」

「人間というか、生きとし生けるものの死亡率は100%です。いつか必ず絶対に死ななければならない。これは偉大なる自然の摂理です。私はこの死亡率100%を全面的に受け入れています」

「しかし、あなたはいま、あなたの信仰は“不可能を可能にする”とおっしゃいました。確かにそうおっしゃいましたよね」

「では、人間の死亡率を99%にすることができるのでしょう。あなたは、千年生きられるのですか。人類全員が千年生きろとは申しません。ただ、ほんとうに不可能を可能にできる信仰なのならば、あなたがいま、そう断言されたのだから、せめてあなたにだけでも、千年生きていただきたい」

と問い詰めたところ、その青年部長さんは「話にならんわ」といって、プイと部屋を出て行かれました。

どっちが話にならんのでしょうねぇ(笑)

この上記の関西青年部長と私との宗教論議を終えて、私は、おそらく、記事中にも書いていますように、西暦200年頃にキリスト教を布教しようと、息を巻いてアテネに乗り込み、アテネ市中のあちこちで熱烈に説教をしたパウロに対して、当時のアテネ市民がした冷淡な反応と同じ事をしたような気がしました。

科学的にできないことは、宗教によってもできないのです。科学にできないことを宗教に求めることは、私は間違いであり、それは宗教ではなくて、低俗な「狂信」「盲信」の類だと考えています。

  • 2008/07/21(月) 00:36:19 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
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国教

暑いですね。年寄りには堪えます(笑)。

ちょっと話がそれるかも知れませんが、先日の鳥居さんに対する誹謗中傷事件に関するエントリーの中で初めて「ギリシア教」の存在を知りました。

それより以前から、Y.S.E.E等の文字は目にしていたのですが特に深く考えたり調べたりせずにおりました。
「ギリシア教」についても初めは何となくギリシア正教のことかな、と言う程度の認識でした。小生の知的レベルがわかるようで誠に恥ずかしい。

御紹介のサイトを覗いてみたのですが、ギリシアでは憲法でギリシア正教が国教と定められているとのこと。驚きました。信教の自由という観点から問題ではないかと思うのですが。そのあたり一般国民の間ではどう捉えられているんでしょうね。

EUに加盟するには死刑を廃止しなければならないわけですが、憲法で特定の宗教を国教と定めることは問題にはならないのでしょうか。死刑の問題に劣らず人権に関わる重大な問題だと思うのですが。

  • 2008/07/21(月) 15:14:31 |
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  • DH #7ZMTsHOU
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信教の自由は大切なことですね


DH さま
こんばんは。
鳥居でございます。
鋭いコメントをありがとうございます。

ギリシアでは、歴史上ローマ帝国の支配下に屈し、西暦380年にローマ帝国によってキリスト教を国教と定められていらい(この時点で、ギリシア史では古代は終わります)、現代までの1628年間にもわたって、キリスト教(東方正教会=ギリシア正教)を国教としているのです。

ですから、現代ギリシア人にとっての東方正教会は、生活の一部となっていて、まるで空気のように、無意識的かつ、欠かすことのできない存在となっているのです(これは、私の友人で、アテネ在住の生粋のギリシア人が言っていた話です。その友人も、もちろん敬虔な東方正教会の信者です)。

しかし、古代以来の多神教は、おもにギリシアの山間部やエーゲ海の小さないくつかの島で、細々と伝承されてきました。

そして1980年代になって、古代以来の多神教を信仰するメンバーの小さなコミュニティがギリシアの各地にでき、信教の自由と、(宗教的)思想・信条・言論・表現の自由を求めて、活動するようになりました。

また、ギリシア以外でも、ヨーロッパ各地や北米でも、古代ギリシアの多神教を研究しよう、見直そうという、コミュニティや学術団体が組織されてゆきました。

このような状況を受けて、1997年に、これらギリシア各地や諸外国の古代ギリシア多神教にかかわる組織をゆるやかに統合する目的で、古代ギリシア多神教に関する国際連合体として、アテネに、Supreme Council of Ethnikoi Hellenes (ギリシア民族宗教者最高評議会=Y.S.E.E.)が設立されました(「Y.S.E.E.」または「YSEE」というのは、ギリシア語で「ギリシア民族宗教者最高評議会」の各単語の頭文字をとった略称です。また、「ギリシア教」というのは、便宜上の通称で、公の呼称ではありません)。

そして、Y.S.E.E.は、古代ギリシア多神教に関する研究と、古代遺跡の学術的な研究・保存、古代の宗教的儀式など、無形文化財の研究・復原などに関して、たくさんの大学や学術研究団体と連携を取って、積極的に関与・援助をしてきました。

こうしたY.S.E.E.の社会的・文化的活動がギリシア政府やEUに認められ、いまではY.S.E.E.は、ギリシア政府およびEUにおける宗教政策の諮問委員会の1つとなっています。

Y.S.E.E.が結成されてから、まだ10年余りです。ギリシア憲法を改定し、信教の自由を勝ち取るまでには、まだまだ時間がかかると思いますし、Y.S.E.E.としても、さらなる文化的・社会的活動が必要だと思っています。

最後に、EUにおける信教の自由の件ですが、EU諸国の多くがキリスト教の国であり、現状では、国際法・国内法に反した宗教弾圧が行われていない限り、対応は各国に任せているというのが現状のようです。

ギリシアでも、東方正教会信者やギリシア島嶼部の一部のイスラム教徒とY.S.E.E.とは、小競り合いはあっても、ギリシアという「国家」が、Y.S.E.E.に対して宗教弾圧を加えているわけではないので、EUとしては問題にならないわけです。

ギリシア政府は、幸いにも宗教に関しては寛容で、憲法では東方正教会を国教と定めてはいるが、文化財の学術研究や保存整備に貢献しているY.S.E.E.を積極的に認め、政府の諮問機関としていることは、上述の通りです。

やはり、このようなところにも、ギリシア人特有の「おおらかさ」といいますか「いい加減さ」が現れているのでしょう。異質のものを理由なく排除しないという、古代から受け継がれているギリシア人の性格、ギリシア人気質に、私はとても好感を持っています。

Y.S.E.E.について、もう少しだけ詳しく歴史的に書いた日本語での記述が、

http://www32.ocn.ne.jp/~amnesty/ellinas.html

にあります。私のホームページ『アムネス亭』のなかの1ページです。もしよろしければ、こちらもご覧になってください。

  • 2008/07/21(月) 18:09:33 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
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仏教は一神教か多神教か?
私は仏教には神は不在と受け止めてますので、前記の問いには答えはないと思います。
勿論、絶対神と言う意味ですが…
しかし、さりとても不思議な事にユダヤ、キリスト、イスラムは同じ絶対神への信仰ながら、まあ随分と喧嘩をするもので…
日本も仏教伝来時は蘇我氏と物部氏でかなり遣りあった事はあれど、やはり根本には神道が生きていますかね。
現代ではもう何でもありで、新しい宗教が出てきても、「あ、いらっしゃいませ」ってなもんですから。
この何でもありってのは気に入ってます、私は。

  • 2008/07/23(水) 22:16:40 |
  • URL |
  • レン #mQop/nM.
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仏教における神


レン さま
こんばんは。
鳥居でございます。
コメントをありがとうございます。

「一神教」「多神教」という宗教学上の分類でいうところの「神」は、「信仰上の主たる対象」という意味で、「神」という意味ではないのですから、ここでは「仏(諸仏)」も範疇に入ります。

また、多神教には「絶対神」は存在しないことが原則です(ギリシア神話でも、ゼウスは「最高神」ですが「絶対神」ではなく、相対的に他の11神と同じ立場に居ます)。

逆に、仏教では、天台宗の三大経典である「妙法蓮華経(法華経)」や「無量義経」「観普賢経(普賢観経)」などの経典や「摩訶止観」などの仏典、そして伝教大師(最澄上人)の論文「守護国界章」などを見ると、全ての仏は、久遠実成の釈迦仏=絶対仏の様々な断片を説いたにすぎないもの。と解釈していますから(天台宗延暦寺流の解釈ですが)、この点では、仏教は一神教だと言えなくもありません。

また、密教では、天台流でも真言流でも、大日如来が絶対仏で、他の諸仏・諸神はすべて大日如来の権化(化身)だと説いていますね。

さて、仏教でも、たとえば、古くは迦楼羅神、阿修羅神、緊那羅神などの古代インド神話上の神々が「仏法の守護神」として初期仏典(上座部仏典)に登場します。

また、新しくは、私の本棚の「日本書紀」をひも解いてみると、レンさんが述べておられる、大連(おほむらじ)の物部守屋一族と、上宮厩戸日嗣皇子(うえのみやのむまやとのひつきのみこ=聖徳太子)および大臣(おほおみ)の蘇我馬子一族が、仏教伝来時に争ったくだりでは、厩戸日嗣皇子は、大臣蘇我馬子とともに自ら請願を立て、

「今若使我勝敵必当奉為護世四王起立寺塔」
もしいま、我を敵に勝たしむれば、必ずや護世四王がために寺(寺塔)を建てん

と祈り、護世四王(こせしのう)=四天王(提頭頼托天=持国天、毘楼勒叉天=増長天、毘楼博叉天=広目天、毘沙門天=多聞天)の、金光明経による、護法諸神(古代インド神話の護世神)を招請(勧請)しています。

【以上 「日本書紀」 巻第廿一 (崇俊天皇即位前紀) 『国史体系』 版 「日本書紀」 後編 1990)】


ちなみに、この厩戸日嗣皇子(聖徳太子)の請願によって立てられた寺が、大阪市の四天王寺です(うちから徒歩15分)。

閑話休題。
このように、仏教においても、古代インド神話から引き継いだ、「天部」「十二神将」などの護法神=神様がたくさん居ますね。

私は、仏教にも、とても興味があります。私は、学生時代に天台宗(延暦寺流の)教学を学んだことがあります。

でも、仰せの通り、多神教のおおらかさ、何でも吸収する包容力、何にでも対応する柔軟性は、いまの硬直した「一神教」のような人間社会には必要でしょうねぇ。

  • 2008/07/24(木) 00:19:36 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
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反論を書きました・・・

鳥居さん、すいません。「禁止ワード」が引っかかって、コメントが投稿できなかったので、自分のブログに反論のエントリーを書かせてもらいました。
そこでも書きましたが、決して鳥居さんの言いたいことを真っ向から否定するような反論ではなく、部分的に注意を促すようなつもりで書いたものです。ぶしつけだとは思われるでしょうが、なにとぞご了承ください。もちろん、こちらに対する反論も謹んでお受けします。
それにしても、何が「禁止ワード」だったんでしょう?

問題点の整理


レイランダー さま
こんばんは。
鳥居でございます。
コメントをありがとうございます。

※レイランダーさんに、このお返事のコメントを書いている途中で、プロバイダのサーバートラブルのため、約1時間ほど接続ができなくなってしまいました。ですから、サーバー復帰後、数箇所加筆・訂正をしていますので、最初から読み直していただければ幸いです。

レイランダーさんの反論を読ませていただきました。

私のブログでは、風俗関係の用語しか禁止ワードに設定していません。

レイランダーさんの反論文中には、私が設定している禁止ワードは一言もありませんでした。ですから、goo側のフィルタ(検閲)による禁止ワードで弾かれたのかと思います。

では本題として、私の個人的な見解を簡潔に述べさせていただきます。

まず、一神教には、致命的な部分が2つあります。

1つめは、一神教には宗祖・開祖が居ます。キリスト教のイエス、ユダヤ教のモーセ、イスラム教のムハンマド、仏教の仏陀など。

彼らは、自己の宗教的体験から、それぞれに唯一絶対の神(仏)と、何らかのかたちで交流(啓示、契約、預言、悟達)をしました。

その宗教的体験は、彼ら「だけ」のものであり、彼ら「個人」の頭脳(もしくは精神)によるものです。そして彼らは、その宗教的体験をもとに、それぞれの唯一絶対の神(仏)を弘めました。

私は、一神教は「宗祖・開祖が1人だから一神教」だとは述べていません。唯一絶対的な神を信仰するのが一神教です。しかしその特質として、一神教には宗祖・開祖が居ます。

すなわち、一神教の特徴として、「歴史的に実在の人物の“きわめて個人的”な宗教的体験」をもとに教義が展開されて行くのです。

そして、その一神教の信者となった大衆は、本来、その教義に忠実であれば、全ての人が宗祖・開祖と同じ宗教体験(宗祖・開祖の追体験)ができなければ、科学的に普遍的な教えだとは言えないにもかかかわらず、その体験をする人は、皆無だと言うことです。これが1つめの致命傷です。

2つめは、この1つめの致命傷を解消するために、神(仏)は、唯一絶対で、人間世界とは隔絶した世界に居て、人間の意志では関与できないと説きます。

そして一神教であるが故に(唯一絶対の神を信仰しているが故に)、異質のものは排除しようという強い働きが起こるのです(ローマ皇帝テオドシウス1世の「異教禁止令」、同2世の「異教神殿破壊令」など)。この働きは「原理主義」の中核をなすものです。

では、なぜ、キリスト教のイエス、ユダヤ教のモーセ、イスラム教のムハンマド、仏教の仏陀といった普通の「人間」だけは、宗教体験を通して、人間世界とは隔絶した、人間の意志とは関係のないところに居る神(仏)と交流できたのかという自己矛盾が一神教には浮かび上がります。

その自己矛盾を解消するために、「三位一体」や、「神の子」「預言者」、「悟り」という、教説が登場し、彼ら宗祖・開祖を特別視(神性化・カリスマ化)してしまうのです。

一神教は、ここまでして(単なる一個人の人間を神性化し、カリスマとして祭り上げることまでしなければ)、自己矛盾が解消できなくて、その教義は成り立たないのです。

これに比べて、多神教は、信仰する全ての人間が「神々」即ち偉大なる自然の摂理、自然の力と、いつでも交流できる接点を持っており、神々は常に人間とともにあります。したがって、多神教は最初から科学的に普遍的であって、宗祖・開祖などという、「神(仏)」と「人間」との間に“介在”する、神性化・カリスマ化された「特別な人間」は必要ありません。

よって、一神教よりも多神教のほうが、科学的であり、自然の理に適っていると言うこともできるでしょう。

「民主主義」という政体は、古代ギリシアが「多神教の世界」であったからこそ、発明されたのです。発明できたのです。それは、ホメーロスやヘシオドスに語られる、「天上での神々の会議」を、そのままそっくり人間世界に移植しただけのものだったからです。

これに対して、キリスト教を国教と定めたローマ帝国の皇帝は、王権神授説に則って、独裁的な政治をしました。キリスト教が一神教であるが故に。

最後に、私は、パレスチナ問題を宗教の視点からのみ述べました。

レイランダー さんは、宗教と政治と両方の視点で述べておられます。レイランダーさんも私も、見ている方向は同じだと思いますが、いかがでしょうか?

  • 2008/07/26(土) 22:19:51 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
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お返事ありがとうございます

遅くなってすいません。
(まず「禁止ワード」の件ですが、gooのフィルタとは関係ないです。僕のgooブログからのトラックバックではなく、単なるコメント書き込みですから、そもそもgooを通っていないのです。といって、何が原因か、見当もつかないんですが。)

「問題点の整理」と題されたこのたびのコメントですが、確かに、ますますおかしなところがはっきりしてきたように、僕には思えます。

 まず、一神教が「歴史的に実在の人物」によって始められたのに対し、多神教は(エントリー中では)「自然発生的」とおっしゃっていますが、これはレトリックの問題に過ぎないと思います。
 雷が落ちて、木が裂け、炎が出た。それを見て「畏怖」の感情を抱いたのも、歴史的に実在の人物です。長年に渡ってその畏怖が人々に共有されてきた挙句、徐々に「神」として祭る宗教的な形態を編み出していたとしても、そこにはその都度人間の関与があったわけです。「自然発生的」という言い方をすると、いかにもそこに人為が入り込んでいないように聞こえますが、そんなわけは絶対にない。
 多神教を編み出した「歴史的に実在の人物」が存在しないように見えるのは、それが「歴史」以前の太古の出来事だったから記録に残っていないということに加え、特に有力な1人ではなく、何となく大勢の人間が何世代にも渡ってようやく今で言う「宗教」の形式に整えていったからでしょう。
 太古であり、文字文化の発達以前であるがゆえ、経典のような形で残されづらいということ。裏を返せば、一神教の成立には文字文化という背景があったのでしょう。文字を介して、それまでにはなかった深い思索が可能になった面があるのだと思います。また、鳥居さんは盛んに多神教と自然との結びつきを言われるけれど、太古の昔であれば、条件としてそれだけ濃厚な自然に囲まれていたのですから、当然と言えば当然です。対してセムの一神教の成立地である北アフリカ〜メソポタミアは、世界でもっと最も早く都市文明が発達したところです。自然と距離を置くようになった人間の中で生まれた宗教である、ということですね。
 だからこそ、宗教としての基本的な発生構図は、どちらも同じではないか、というのが僕が反論で述べたことです。一神教では、確かに1人の開祖の啓示や悟りが前面に出るわけですが、社会の側にそれを受け入れる下地が十分にあってこそ、つまり似たようなことを感じ・考える人が潜在的にたくさんいてこそ、宗教として成立し、広めることができる。その意味では、一神教だって「自然発生的」だと。

 後にそれをさらに広めるために教団が設立され、権威を高めるために権力と結びつき、異教徒を暴力的に屈従させるようなことが行なわれるとしても、それは一神教だから原理としてそうなる、のとは違います。歴史上そのようなケースが一神教によって行なわれてきたのは、単純に「歴史」時代以降は一神教がそれだけ広まって、力をつけていたからで、「歴史」以前には多神教だって似たような権威志向を持って人々の上に君臨していたはずです。

>「民主主義」という政体は、古代ギリシアが「多神教の世界」であったからこそ、発明されたのです。

 そうでしょうか。アテネの市民は異郷から連れてきた奴隷たちを省みず、神々と交信できるのは自分達だけだという一種の選民思想に酔っていたのではないでしょうか。「ホメーロスやヘシオドスに語られる、「天上での神々の会議」を、そのままそっくり人間世界に移植しただけのもの」が民主主義だなんて、いくら何でも・・・・むしろそれ以前から脈々とあった、共同体の素朴で民主的な運営方法の慣習が、ホメーロスらの文学に反映したのではないでしょうか。
 本題から外れるのでこれ以上はやめておきますが、たとえばアニミズムのシャーマンである卑弥呼はエキセントリックな暴君だったかも知れない、ということもあります。これらはしかし、多神教自体が問題なのではなく、宗教を利用する政治の問題です。逆に一神教の場合、唯一絶対の神を垂直に置くことによって、人間はみな平等であるという思想を萌芽させ、育てるきっかけになったようなところがあるかも知れません。だけど、そんな思想を踏み潰そうとする一神教の権力者はいくらでもいた(いる)わけで、それも結局は政治の問題です。
 宗教の問題と、宗教を利用する政治の問題を分けて考える必要があると思いますが、鳥居さんの書かれている中では、どうもそれがごっちゃになっていて、都合のいいところだけ多神教に牽強付会しているように思えて仕方ないのですが。

 さらに納得がいかないのが、一神教の開祖たちの宗教体験は彼ら「だけ」のものであり、その体験を普通の人間が共有できないということ、なおかつ、それゆえ一神教は「科学的ではない」という部分です。
 開祖の宗教的体験、たとえば天使の訪問を受けたとか空を飛んだとか、その他もろもろの空想じみた経験を、普通の人間が同じようにできなければならないという「教義」が、一神教の聖典に書かれているなんて聞いたことがありません。ただ、開祖らのその体験を「信じよ」と書かれているだけではないでしょうか?今日、何十億もの人間はその「信じる」ことによって体験を共有しているだけではないでしょうか。
 また、宗教的体験とは、そのようなアクロバティックな経験だけを指すのではなく、宗教を通じて人生の意味を知るとか、死の恐怖を和らげるとか、命を慈しむといった行為全般につながるようなものを指すのではないでしょうか。その意味では、多くの一神教の信者は、日々それらを学ぶ機会を、彼らの宗教を通じて持っていると思います。

 また、宗教を論じるのに「科学的でない」などという言葉が出てくること自体、驚きです。宗教の本質は、科学とは一線を画するもののはずです。科学的に説明がつくなら、それは科学的なのではなく、単に「科学」です。宗教ではありません。
 多神教の方が「自然の理に適っている」としたら、それはそのような。一種の自然科学だということです。僕はそのような自然科学が好きです。でもその自然科学が、じゃあなぜ鳥居さんというかけがえのない個人がこの世に生を受け、そしてやがて絶対に死ななければならないのか、説明してくれますか?
 宗教とは、そういうことに答えるために生まれたものではないでしょうか。その意味で、多神教は多神教の、一神教は一神教の深い思索の歴史というものが積み重ねられてきました。それらはどちらも、人類の財産ではないでしょうか。


 長々と失礼しました。まだ言い足りているわけではありませんが、長く書いても問題をいたずらに広げるだけかも知れませんので、ここらでやめておきます。

 最後にイスラエル/パレスチナ問題に関して。

>私は、パレスチナ問題を宗教の視点からのみ述べました。

 二つ言います。
 一つは、パレスチナ問題を、宗教の視点からのみ述べるのであれば、本来「問題」など存在しない、ということ。ブログにも書きましたが、パレスチナではイスラエルの建国以前、一神教の三派が平和に暮らしていました。パレスチナ人なら誰もが知っているこの現実を無視するのは、宗教の視点ではなく政治の視点によるものです。そのような視点をばらまくことは、有害です。
 二つに、宗教の視点のみを考えても、「一神教どうし」の抗争という捉え方は間違っています。ユダヤ教徒のすべてがイスラエルの建国を推し進めたシオニズムを肯定しているわけではなく、まさに「ユダヤ教の宗教的原則から」反対するユダヤ教徒もいるからです。創価学会が仏教のすべてを代表しているわけではないのと一緒で、イスラエルやそのシンパがユダヤ人のすべてではないのです。

簡潔に回答・反論を


レイランダー さま
こんばんは。
鳥居でございます。
コメントをありがとうございます。

まず「禁止ワード」については、どういう事なのか私にも解りません。もしかしたら、FC2サーバに一時的に不具合が発生していたのかもしれません。申し訳ありません。

それでは、レイランダー さんからのご質問とご意見に関して、簡潔に回答・反論をいたします。

> 多神教を編み出した「歴史的に実在の人
> 物」が存在しないように見えるのは、それが
> 「歴史」以前の太古の出来事だったから記
> 録に残っていないということに加え、特に有
> 力な1人ではなく、何となく大勢の人間が何
> 世代にも渡ってようやく今で言う「宗教」の形
> 式に整えていったからでしょう。

上記のレイランダー さんのご意見の論拠を示してください。単なる想像、思い込みでは困ります。

多神教は、特定の小さな集団における地母神や守護神(それは、自然に対する畏怖心から自然発生的に生まれた信仰)がその濫觴で、やがて、それがより広範な地域に広がり、ある1つの信仰を共有する集団が出来上がり、それが都市国家へと発展したものです。例えば、ギリシア神話のアテナ神は、元々は城郭や宮殿の守護神であったのが、アッティカ地方に弘まり、アッティカの中心都市のアテーナイの守護神として成長しました。同じように、古代ギリシア社会では、オリュンポス12神という神々を信仰することによって、「ギリシア人」とみなしていました。

【以上の出典文献】
1.『世界宗教史 2』 ミルチア・エリアーデ 筑摩書房 2000
2.『古典期アテナイ民衆の宗教』 ジョン・D・マイケルソン 法政大学 2004
3.『神話学講義』 松村一男 角川書店 1999



> アテネの市民は異郷から連れてきた奴隷た
> ちを省みず、神々と交信できるのは自分達
> だけだという一種の選民思想に酔っていた
> のではないでしょうか。

その論拠は?想像や思い込みでは困ります。

「奴隷」というと、すぐにアメリカにおける黒人奴隷を想像しがちですが、古代ギリシアの場合は、「奴隷」は社会的役割分担の1つと認識されていました。ですから「奴隷」というよりも、むしろ「労働者」「無産階級」「プロレタリアート」と言うほうが正確で相応しいものです。

古代ギリシア社会での奴隷は、労働と生活を都市国家及び雇い主から保障され、安定した収入を得、アメリカの黒人奴隷のように悲惨な環境で酷使されることはありませんでした。あくまでも、人間としての尊厳は保たれていました。

また奴隷でも、社会的功績があれば、都市国家は奴隷であった者を一般市民階級とすることがありましたし、功績がなくとも、奴隷が一般市民階級になることを表明すれば、一定の手続きと審査をへて、誰でも市民になることができました。

【以上の出典文献】
1.『ギリシア人が来た道』 トマス・ケイヒル 青土社 2005
2.『古代ギリシア人』 ポール・カートリッジ 白水社 2001



> 「ホメーロスやヘシオ ドスに語られる、「天上
> での神々の会議」を、そのままそっくり人間
> 世界に移植しただけのもの」が民主主義だ
> なんて、いくら何でも・・・・むしろそれ以前か
> ら脈々とあった、共同体の素朴で民主的な
> 運営方法の慣習が、ホメーロスらの文学に
> 反映したのではないでしょうか。

ホメーロス以前の共同体の慣習がホメーロスらの文学に反映しているという証拠を示してください。単なる想像や思い込みでは困ります。レイランダーさんが言われていることは、歴史的に証明されていないことです。もし、レイランダーさんが、この問題をレイランダーさんが言われる通りに証明できる文献などをお持ち、もしくは知っておられるのでしたら、教えてください。歴史的大発見です!

ホメーロスやヘシオドスは、古典期古代ギリシア人にとっては、実生活の上では、生活規範であり、また、宗教的には「バイブル」に相当するものでした。

ですから、ホメーロスやヘシオドスで語られている「天上での神々の会議」を規範として民主政が誕生したと考えるほうが、科学的です。

【以上の出典文献】
1.『古典ギリシアの精神』 フリードリッヒ・ニーチェ 筑摩書房 2001
2.『ギリシア神話の世界観』 藤縄兼三 新潮社 2000



> また、宗教を論じるのに「科学的でない」な
> どという言葉が出てくること自体、驚きです。
> 宗教の本質は、科学とは一線を画するもの
> のはずです。科学的に説明がつくなら、それ
> は科学的なのではなく、単に「科学」です。
> 宗教ではありません。

「宗教の本質は、科学とは一線を画するもの」という論拠を示してください。単なる想像や思い込みでは困ります。

レイランダーさんは、神学、神話学、宗教学、哲学(宗教哲学)は、科学ではないとおっしゃるのですか?

これには、たいへん驚きました。大学の教養課程で何を学んでこられたのでしょうか?

宗教とは、いかなる宗教であっても、それは哲学であり、科学です。

宗教を信仰せず、宗教学や神学などの勉強をしたことのない人、または、最近ブームのスピリチュアルなる「偽装宗教」や、宗教学に根差さない新興宗教などに心奪われている人は、「宗教とは心の安らぎであり、死の恐怖から逃れるため」云々・・・と言うが、「本物の宗教」を「真剣に信仰」し、神学や宗教学などを少しでも勉強した人ならば、宗教とは、生活規範であり、「如何に生きるか」を説いた人生哲学であり、自然科学でありかつ社会科学でもある人間科学であることが理解できるはずです。本物の宗教を真剣に信仰したことのない、そして神学や神話学、宗教学、宗教哲学を知らない「外野の人」には理解できないでしょうが。

【以上の出典文献】
1.『日本仏教基礎講座』 雄山閣 1979
2.『仏教史概説』 平楽寺書店 1987
3.『論集 日本仏教史』 雄山閣 1986
4.『仏教経典の世界』 自由国民社 1991
5.『ギリシア宗教発展の五段階』 ギルバアト・マレー 岩波書店 1992
6・『アリストテレスの神論』 水地宗明 晃洋書房 2004

一神教の宗祖・開祖は、人々を自らと同じ精神的境地へと導くことを意図したのではないでしょうか?

こう仮説を立てると、宗祖・開祖の教え(教学)に忠実であれば、誰にでも宗祖・開祖と同じ精神的境地が得られなければおかしい。宗祖・開祖と同じ宗教的体験ができなければおかしい。そうでなければ、その宗教は科学的ではなく、普遍的でもありません。

繰り返します。
仏教においても、古代ギリシア多神教においても、ローマカトリックにおいても、東方正教会においても、イスラムにおいてもユダヤにおいても、その信仰を真剣にしている人は、そしてそれぞれの信仰について、真剣に学んでいる人にとっては、それぞれの教義・教学は、哲学であり、人間科学だと証言しています。

【以上の出典文献】
1.『仏教経典の世界』 自由国民社 1991
2.『ギリシア宗教発展の五段階』 ギルバアト・マレー 岩波書店 1992
3.『アリストテレスの神論』 水地宗明 晃洋書房 2004
4.『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』 井沢元彦 徳間書店 2006
他 多数


総じて、レイランダーさんは、宗教を真剣に信仰されたことがなく、外野席から、ご自身の主張の論拠を示さずに、単なるご自身の思い込み、勝手な想像で、信仰による宗教的確信もなく、神学、神話学、宗教学、宗教哲学という科学的ロジックにも則ることもなく、ただただ私に反論したいがために、その目的のためだけに、ご自身が言いたい事を非科学的かつ破綻したロジックで述べているだけの「反論」をされているように見受けます。

学者の私に反論を挑んでおられるわけですから、今後は、今回私が示しましたように、キチッと論拠を示しての反論をしてください。神学、神話学、宗教学、宗教哲学、歴史学などの「科学」的論拠とそのロジックをシッカリ示してください。

持論の論拠を示さずに、他者(私)の言説を「ますますおかしい」と述べ、反論に成っていない反論(論拠を示さずに、ご自分の言いたい事だけを言いっぱなしにすること)をされるのは、「いいがかり」に等しいことですよ。

論拠を示してください。勝手な想像や思い込みではなくて、神学、神話学、宗教学、宗教哲学、歴史学などの科学に基づいた、科学的なロジックを述べてください。

でないと、レイランダーさんのご主張は、そのすべてが、ご自身の勝手な思い込み、勝手な想像の産物だと第三者には認識されるようになります。

可及的速やかに、レイランダーさんのこのたびのご反論の論拠と科学的ロジックを示してください。よろしくお願い申し上げます。

  • 2008/07/30(水) 19:15:40 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
  • [編集]

「可及的速やかに」ですって?

「可及的速やかに」って、簡単に言えば「できるだけ早く」ってことですよね。
 お断りします。
 早くしなければならない義務なんて、僕にはありません。大事な問題であればこそ、むしろじっくり考えたい。当たり前でしょ?
 そちらの都合が何かあるなら、その旨おっしゃればいい。そうすればそれこそ「できるだけ」協力しますよ。普通に大人だから。
 やぶからぼうに「可及的速やかに」になんて、大上段に構えた言葉を投げればこっちが萎縮するとでも思いましたか?無学の徒のくせに、学者である私にイチャモンつけるなんて。ほら、私はいくらでも「論拠」を挙げられるんだ。おまえはすぐにこれだけ並べられるか?一体今まで私の読んできた文献の何十分の一を読んだというんだ?とっとと答えられないんならダメだな、しょせん一般人よ。ほれ、答えてみい・・・・っていうわけじゃありませんよね?
 僕は権威とか専門家と称する人の、その手の脅しなんか屁とも思いませんよ。 

 逆に、そちらのレスは最初のものも今度のものも、ずいぶん手早く書かれているように見えるんですが、本当に僕が書いたことをちゃんと読んでくれてるんでしょうか?イスラエル/パレスチナの問題について、明らかに思い違いをなさっていることを指摘したのに、的外れな応答をされるので、もう一度言わねばなりませんでした。
 あるいはまた、多神教は「自然発生的」(それゆえ一神教より優れている?)という鳥居さんの言説に対して、僕は「自然発生的」と言ったって人間のやってることなんだから人為なのであって、広い意味では一神教だって「自然発生的」だし、多神教だって人為的でしょうということを、2度に渡って提起したわけです。
 もちろん、この場合の両者の「人為」の内容はずいぶん違うことくらいわかっています。片や特定の(歴史に名が残るような)個人ではなく多数の、しかも非常に長い生成期間を通じて醗酵してきたような信仰、片や1人の「開祖」による宗教体験・直感を中心に、ごく短期間に教団の形成にまで至るような。比べれば、前者の方が「自然発生的」に見えるのは当然です。しかし、それは信仰の中身と共に、それが形成される社会の時代背景が影響している、一言で言って「都市文明」以前の宗教と「都市文明」以後の宗教、というような違いではないか。

 それに対するお答えがこれ。

>多神教は、特定の小さな集団における地母神や守護神(それは、自然に対する畏怖心から自然発生的に生まれた信仰)がその濫觴で、やがて、それがより広範な地域に広がり、ある1つの信仰を共有する集団が出来上がり、それが都市国家へと発展したものです。・・・

 なんすか、これ。学者先生は、これが答えになっているとお考えなんですか?
 僕はここに書かれていることが「おかしい」なんて全然思いません。そんな問題提起した覚えがない。「それは、自然に対する畏怖心から自然発生的に生まれた・・・」っていう、その「自然発生的」の中身を、「厳密に言えばこういうことではないですか?」と、一神教との接点を想起させる形で問うているだけです。
 違うところがあるなら、「言いたいことはわかるけど、ここが違うよ。だってこういうことがあるから・・・」とか何とか説明なさってくれればいいと思うんですが。
 でもって、これだけの話にわざわざ「出展文献」なぞ添えて。
 文献名を出せば、それが「論拠」になるんですか?この本にそう書いてある、それが「科学的なロジック」を満たしているということ?

>今後は、今回私が示しましたように、キチッと論拠を示しての反論をしてください。神学、神話学、宗教学、宗教哲学、歴史学などの「科学」的論拠とそのロジックをシッカリ示してください。

 嫌です。僕自身が鳥居さんにそんなものを要求していないのですから、僕がそれを要求される義理はないです。僕は、そんな大学の特別の教養課程で学ばなければ語れないような話ではなく、自分自身の生き方の質に関わる問題として、これからも精一杯言葉を尽くしていくだけです。
 これはもう、本当にひどい話だと思うので、自分のブログの方でいずれ取り上げます。

 ちなみに、僕について「信仰による宗教的確信もなく」とありますが、それは本当です。僕は宗教を信じません。「信じない」ことに確信を持っている人間ですから。だからといって信じている人のことを、それがどんな宗教であれ、軽んじたり見下したりはしません。これが僕の基本的な態度です。

*さらにおまけですが、聖徳太子に関しては、実在の人物ではなかったということが現在の歴史学では定説になりつつあるそうです。御存知ないようなので。
 参考資料:東京新聞社説
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008021002086566.html

第三者様からのご意見も頂戴いたしたく


レイランダー さま
こんにちは。
鳥居でございます。
コメントをありがとうございます。

さて、これまでの、レイランダーさんと私との一連のやりとり(レイランダーさんのほうから、私の記事に「反論を書きました」と、威勢良く私に議論をふっかけた時からのやりとり)について、一連のレイランダーさんと私とのやりとりを読まれた、第三者様からの客観的なご意見も頂戴いたしたく存じます。よろしくお願い申し上げます・・・と言っても、すでに過去の記事となっていたものを、レイランダーさんのほうから私に「反論」をふっかけてきて、レイランダーさんが、わざわざ蒸し返したので、誰も見ていないかもしれませんね。

以下、本題。

まず、私は、レイランダーさんと議論をする前に、レイランダーさんがおっしゃっていることの論拠を示していただきたいと申し上げています。

レイランダーさんの言っておられる事を裏付ける文献を示してください。ということです。これが議論の基本であり、学問の「いろはの“い”」です。自説を裏付ける文献・資料・史料などを示せない人は、反論どころか、議論をするスタートラインにも立っていない。スタートラインにも程遠いものです。これ、議論の常識です。

しかも今回の議論は、レイランダーさんから私に「反論」をふっかけられたものです。レイランダーさん、あなたのほうから私に議論をふっかけておきながら、そのあなたが議論のスタートラインに立たないのは、卑怯ではありませんか?

これまでのレイランダーさんの言説には何一つ論拠がない。レイランダーさん自身が言っていることの論拠を示す事ぐらい、簡単なはずです。「あなたが言っていること」なのですから。

それとも、レイランダーさんは論拠なしに、単なる勝手な想像と思い込みだけで、私に議論をふっかけてきたのでしょうか?それならば、レイランダーさんは「いいがかり」をして喧嘩を売っているだけの事なので、話になりません。それは、議論を始めるスタートラインにすら、あなたは立とうとしていないのですから。レイランダー さん、いま、あなたがしている事は、まるで「いちゃもん」をつけているチンピラと同じことですよ。

はたして、誰が、論拠のない言説に、コンセンサスを得ることができるでしょうか?

いままでレイランダーさんがおっしゃった事の論拠を示すぐらい簡単な事でしょう。

それに、今回のレイランダーさんのコメントにも、論拠はただの1つも示されていません。あなたは議論のプロセス(方法論)をご存知なのですか?大学でいったい何を学んでこられたのでしょうか?

聖徳太子の件については、聖徳太子が実在しなければ、日本書紀に「厩戸(日嗣)皇子」と記されている人物は、いったい誰なのでしょうか?

ご指摘の新聞コラムの内容は、

「聖徳太子なる、超人的な人物は存在しなかった。しかし日本書紀に記されている厩戸皇子は実在した」

というものです。

私も、この説を支持しています。今までは「厩戸皇子=聖徳太子=超人的(官位12階や憲法17条を定めた。三経義疏を書いた。同時に何人もの人の話を聞いて適切に答えた等)」という学説が流布していましたが、これは私も十数年前から疑問を抱いていました。私も厩戸皇子(聖徳太子)にまつわる当時の初期仏教とその社会背景に関するいくつかの論文を書いているので(「日本初期伽藍の展開」 『古文化論叢』 明新印刷 1997 など)。

しかし、厩戸皇子は実在し、法隆寺(若草伽藍)や四天王寺を創建したことは間違いない。厩戸皇子は実在の人物です。

レイランダーさんは、聖徳太子にまつわる学史・学説の流れをご存知なく、新聞のコラムの一節だけを単純に短絡的に捉えて、聖徳太子は居ないと、短絡的に言われている。

レイランダーさんが言っておられる事は、まるで、小・中学生や高校生の言説のようです。もう少し、学説の流れを勉強してください。大学で何を学んでこられたのか、不思議です。学問の学史と方法論をレイランダーさんは、全て無視されている。勉強不足だと思いますよ。

これでは、文字どおり「話になりません」よ。議論以前の問題です。あなたから議論を私にふっかけておきながら、あなたは議論のスタートラインにすら立とうとしていないのですから!

レイランダーさんの言説には、最初から一貫して、学問の方法論がありません。

再び繰り返します。

まずは、いままでレイランダーさんが私に述べてこられた事の「論拠」だけを示していただければ良いのです。

何も、新しい仮説を立てろとか、このままレイランダーさんの論拠を示さないで、無謀かつ無意味な議論を進めようなどとは思っていません。

いままでレイランダーさんが私に述べてこられた事の「論拠」だけを示していただければ良いのです。ご自分が言った事の論拠を示すことぐらい、大学の1回生でも、数十分もあればできることです。ですから私は「可及的速やかに」と申し上げました。まるまる1日もかかる作業でもあるまいし。

いままでレイランダーさんは、ご自身の言説の論拠もなしに、私に議論を挑んでこられたわけではないでしょう。万が一、そうであれば、文字どおり「話になりません」。学問の方法論から勉強をしなおしてください。

かなりキツイ事を述べましたが、レイランダーさんのほうから、私に議論を挑み、私の言説に対してレイランダーさんのほうから「反論」をされているので(しかも、レイランダーさんの反論は、まったく論拠を示さない「反論」)、私は大学の講師として、学者として、自分の教え子に対する対応と同じように厳しい対応をさせていただきました。

学問は、そんなに生易しいものではなく「時間との勝負」という側面もあることは、レイランダーさんも大学で学んでこられたはずですよね。

レイランダーさんは、「レイランダーさんのほうから」私に議論をふっかけておき、私の言説に対する「反論」をされておきながら、私がレイランダーさんのその「反論」の論拠を示してください。というと、レイランダーさんは「嫌だ」「嫌だ」と言って、逃げてしまうのですか?

そうだったら、最初から私に議論を挑まないで下さい。迷惑この上ない。

議論をふっかけてきたのは、あなた、「レイランダー」さんからですよ。そして最後にあなたは「嫌だ」「嫌だ」と逃げ回って、挙げ句の果てに「自分のブログで問題にする」というのは、卑怯の謗りを免れ得ないものではないでしょうか?

レイランダーさんが、いままで私に言われてきた言説の「論拠」を示してください。私に議論をふっかけてきたのは「レイランダー」さん、あなたのほうからですよ。

レイランダーさん。あなたから私に議論をふっかけておりながら、あなたはその議論をはじめるスタートラインには「嫌だ」と言って立とうとしない。これはいかがなものか?

追伸...
レイランダーさんには、信じられないようですが、私は、私の蔵書文献(約1000冊)については、どの本に何が書いてあるかの概要は、全て私の頭の中に入っています。でないと仕事になりませんから・・・。

それと、あなたの言葉遣い。オトナとしての最低限のルールは守りましょう。あなたの品位が疑われますよ。

  • 2008/08/01(金) 10:10:16 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
  • [編集]

聖徳太子の件、とか

なるほど、ここは先生の教室で、万人に開かれたwebではなかったのですね。気づかなくて失礼しました。学生さんの受講の邪魔にならないように、そおっと出て行きます。
ただね、僕は実際チンピラでして、言葉遣いが悪いとか大人気ないとか卑怯とか言われることをちっとも恐れちゃいないのですよ。実生活でも、web上でもね。
相手が悪かったですね、先生。

聖徳太子の件なんですが、僕がこの東京新聞の記事に惹かれて読んだ文献を教えましょう。読んだのが比較的最近だし、他にあまり同種の本を読んだことがないんで、これくらいならすぐに挙げられます。

『聖徳太子の真実』大山誠一 編(平凡社)

これによると、実在の厩戸皇子というマイナーな貴族を元にして「聖徳太子」像が作られていったそうですが、その厩戸さんは立派な私邸を作ったくらいで、お寺の創建とはほとんど関係なかったみたいですよ。
これで「論拠」になりますか、先生?
あと、別に本買わなくても、web上で検索すればこの辺の情報は結構見つかると思うので、そちらもご参考に。

残念ですが、お話になりませんね


レイダンダーさま
こんばんは
鳥居でございます。
コメントをありがとうございます。

残念ですが、レイランダーさんとは、話になりませんね。

レイランダーさん。あなたから私に議論を吹っかけて来ておきながら、あなたは、あなたの自説の根拠(論拠)を全く示さない。私が論拠を示してくださいと再三お願いしても、「嫌だ」「嫌だ」と言って、あなたは逃げ回る。

すなわち、あなたのほうから私に議論を吹っかけて来ておきながら、あなたはその議論のスタートラインに立つ事を「嫌だ」といって拒否されているのですよね。

これでは、話になりません。

それから、聖徳太子に関する基本文献は、『日本書記』の「敏達天皇即位前紀」から、「用命天皇」、「崇俊天皇」、「推古天皇」までの記述です。

歴史物語として、聖徳太子に関する様々な憶測・推測・推理を、一般の人が楽しまれるのならば良いですが、あなたのように、学者に対して議論を吹っかけるような乱暴なことをしでかすのならば、基本文献はしっかりと目を通してその内容を理解しておいてください。

新聞のコラムや、歴史物語のような概説書は、専門家に議論を吹っかける論拠とはしません。なりません。きわめて失礼な事ですよ。

大学の教養課程で、学術文献の取り扱いの基本を学ばれませんでしたか?

今後は(私に対してのみならず)、今回のようにレイランダーさんが、専門家に議論を吹っかける時には、その学説にまつわる基本文献(原典)は、レイランダーさんが必ず理解しておくように気をつけられたほうが良いと、忠告をさせていただきます。でなければ、あなたの品位、学識、常識を疑われかねません。恥をかくことになりますよ。

けっきょく、レイランダーさんは、あなたのほうから私に対して議論を吹っかけて来ておきながら、私が「さあ、議論をしましょう」という姿勢を見せ、「あなたの説の根拠(自説の論拠)を示してください」と言ったとたんに、あなたは逃げ出しててしまわれたという事ですよね。
残念です。

  • 2008/08/02(土) 23:29:35 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
  • [編集]

根拠は?

かつて、使徒パウロが、キリスト教布教のために、西暦200年頃にアテネを訪れ、熱烈なる布教活動をしましたが、古代ギリシアの多神教を信仰していた当時のアテネ市民は「たった1人の人間の思索による宗教など、我らの偉大なる自然の神々の力と比べれば、足元にも及ばない」と完全に相手にしなかったそうです(「使徒行伝」第17章、パウサニアス 第1巻、他)。

上記の、使徒パウロが西暦200年頃にアテネを訪れて布教していたというのは、何を根拠にしておられますか?
パウロの活動は33年頃〜58年頃です。パウロがそんなに長生きしたというのは初耳です。
なお、使徒行伝の17章のどの部分が「たった1人の人間の思索による宗教など、我らの偉大なる自然の神々の力と比べれば、足元にも及ばない」にあたりますか? 使徒行伝はルカ福音書の著者が書いたと言われていますが、パウロの手紙とは大きくズレがあり、「史実」ではありません。使徒行伝の著者の周辺の教会へ向けて書かれたもので、それをそのまま「ホント」として受け入れるのは「学」ではありません。信仰心から受け入れるのであれば、それはご自由に。

挨拶すらできない人に・・・。


月の子 さま
こんばんは。
はじめまして。
鳥居正宏と申します。

まず、社会人の基本である、相手に対して最低限のマナーの挨拶すらできずに、しかもその上に、不躾なイヤミたっぷりのコメントをよこしてくるような、常識のない人には、私は回答する気になれません。

悪いですが、社会人としての挨拶の仕方から勉強をしなおして、一昨日に出直してきてください。ご両親のあなたに対する躾を疑います。

また、仮にあなたがクリスチャンであれば、「キリストの教えは、こんな不躾で失礼な人間をつくってしまうのか」と、イエス様の教えをも疑ってしまいます。

一昨日出直してきてください。

記事中の誤りのご指摘(醜いイヤミたっぷりのご指摘)には、感謝いたします。

  • 2008/08/09(土) 21:58:13 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
  • [編集]

この記事へのコメント締め切りのお知らせ


たくさんのコメントをお寄せいただき、誠にありがとうございました。

現在、記事掲載日から日にちもたち、お寄せいただいたコメント数も増え、また起こっておりました議論も収束いたしましたので、これをもちまして、この記事に関するコメントは締め切ります。

(ブログ管理者 : 鳥居正宏)

  • 2008/08/13(水) 19:14:54 |
  • URL |
  • 鳥居正宏 #h0j/NQls
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ナクバ60年を問う?〜「パレスチナの民族浄化と国際法」

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08年7月20日 日曜日  憂楽嘲(ごまめの翁)ブログの目次

08年7月日 曜日  憂楽嘲(ごまめの翁)ブログの目次 1・サンプロ出演の民主党の三人{/arrow_r/}(ここからお入り下さい) 2・ユーロ高{/arrow_r/}(ここからお入り下さい) 3・新聞の切り抜き{/arrow_r/}(ここからお入り下さい)

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Pallas Masahiro Thorii

Author:Pallas Masahiro Thorii



鳥居正宏の『アムネス亭』



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