桜井淳所長の考古学に対する論理構造-究極の研究対象はローマ帝国の形成期から衰退期まで-
テーマ:ブログ桜井淳所長に拠れば、小学生や中学生の頃、群馬の強い空っ風にさらされて関東ローム層の畑の中から縄文式土器がむき出しになっていた隣町の尾島町の外れの畑の中の壷等の土器を拾い集めたり、通っていた木崎中学校の校庭の土器発掘現場(社会科の先生(歴史的出土品の勾玉を腰に下げていました)や群馬大学等の発掘の専門家に拠れば、土器が埋まっているところは、校庭の土が乾燥せず、埋まっている土器の関係で排水せず、土がいつも湿って変色しているところがひとつのめやす)の見学や出土された土器等を眺め(桜井所長は、当時、歴史的出土品の勾玉が欲しいと念願していたそうです)、考古学への興味を持ちつつも、そのような方向に進まず、ごく普通の進学コースを歩み、その後、紆余曲折を経て、茨城県那珂郡東海村の原研に就職することになり、住居は、原研から1km南西にあった権現山寮でしたが、そこは、すぐ隣接して、敷地内に歴史的遺跡である奈良時代の前方後円墳があり、そこで数年間生活し、結婚を契機に水戸郊外の団地に移り、原研に通勤していましたが、趣味として、魏志倭人伝に記載されている弥生時代の3-4世紀に実在したとされている邪馬台国の存在に関心を持ち、魏志倭人伝の記載内容からすれば、表面的には、邪馬台国は、いまの北九州と解釈されるものの、詳細な記載内容の定量的な解釈からすれば、さらに南に位置し、九州よりはるから南方の太平洋上となり、魏志倭人伝の記載内容の解釈や信頼性が議論の対象となっており(佐伯有清『邪馬台国論争』、岩波新書, 2006)、さらに、邪馬台国は、北九州や九州地方ではなく、近畿地方、それも奈良県桜井市三輪山近く(いまのところ有力説)という解釈もあり(このことには、必然性はなく、まったくの偶然です)、いまだに、邪馬台国がどこだったのか、決着が付いておらず、さまざまな説があり、なお、興味は尽きませんが、日本の考古学ばかりでなく、趣味としての究極的な研究対象は、紀元前500年から紀元500年にかけてのローマ帝国の形成と衰退であり、エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』(東京書館, 2004)を繰り返し熟読・吟味するなど、同時代の文化・技術・建築様式・服装・おしゃれ等文明論的考察をしており、特に、ローマ帝国の国教となったキリスト教と今の世界がキリスト教を中心とした年号で統一されていることに強い関心を持っており、ローマ帝国の形成と衰退とキリスト教の歴史的考察を進めることが、最終的・究極的研究対象と位置付けており、いま、そのような方向に進みつつあるそうです(桜井所長に拠れば、もう大学に在籍することなく、趣味として、楽しみつつ、自身で、研究を進めるそうです)。