20021230
■[随想][哲学] エピクテトスからマルクスへ
(政治を)ひとまず「ある範囲の人びとすべてを拘束することがらを決定すること」と定義しよう。
――橋爪大三郎「政治」、『事典 哲学の木』講談社
エピクテトスはストアの倫理をその極点にもたらした。また彼に至って倫理は哲学と外延を同じくすることになる。
エピクテトスは言う。きみが第一になすべきなのは、人生の途上において出会う物事について、それがきみの「権内」にあるのか、それとも「権外」にあるのかを吟味することだ。そして、きみはきみの「権内」にある物事のみを相手にするがよい。「権外」のことをいちいち思いわずらうのは詮ないことだ、と。
諸々の存在のうち或る物はわれわれの権内にあるが、或る物はわれわれの権内にない。意見や意欲や欲望や忌避、一言でいえばおよそわれわれの活動であるものはわれわれの権内にあるが、肉体や財産や評判や官職、一言でいえばおよそわれわれの活動でないものはわれわれの権内にない。そしてわれわれの権内にあるものは本性上自由であり、妨げられず、邪魔されないものであるが、われわれの権内にないものは脆い、隷属的な、妨げられる、自分のものでないものである。そこで次のことを記憶して置くがいい、もし本性上隷属的なものを自由なものと思い、自分のものでないものを自分のものと思うならば、君は邪魔され、悲しみ、不安にされ、また神々や人々を非難するだろう、だがもし君のものだけを君のものであると思い、自分のものでないものを、事実そうであるように、自分のものでないものと思うならば、誰も君に決して強制はしないだろう、誰も君を妨げないだろう、君は誰をも非難せず、誰をもとがめ立てしないだろう、君は何一ついやいやながらすることはなく、誰も君に害を加えず、君は敵を持たないだろう、けだし君は何も害を受けないだろうから。(中略)そこですべて不愉快な心像に対しては(中略)それは何かわれわれの権内にあるものに関係しているのか、或いはわれわれの権内にないものに関係しているのかどっちかという、この第一の、何よりも大切なもので、しらべたり、吟味したりするがいい。もし何かわれわれの権内にないものに関係するならば、「わたしには何もかかわりがない」という答がもう手もとにあるわけである。
――エピクテートス『人生談義(下)』鹿野治助訳、岩波文庫、pp.252-253
エピクテトスは紀元後55年ごろにフリギア(小アジア)のヒエラポリスに生まれた。父は不明。母は奴隷の身分であったという。奴隷として売られて皇帝ネロの統治下にあるローマへ。主人はエパプロディトス(ネロの解放奴隷)。エパプロディトスの許しを得てストア派の哲学者ムソニウス・ルフス(Musonius Rufus)に就いて哲学を学ぶ。いつの時点でかは不明だがエピクテトスはエパプロディトスから解放され自由になった。
エピクテトスにとって政治とは何だったのだろう。長い間奴隷であり、自由になった後も一介の哲学教師でしかなかった彼にとって、政治は徹頭徹尾「権外」のものだったのだろうか。
「秘密を話せ」私は話さない、それは私の権内にあるのだから。「しかしわしは君を縛るだろう」君、君は何をいうのか。私を縛るんだって。君は私の足を縛るのだろう、だが私の意志はゼウスだって征服はできないよ。「わしは君を牢獄にぶち込むだろう」この小っぽけな肉体をね。「君を斬首するだろう」いつ君に私の首だけは切られることのない首だなんて云ったか。
――エピクテートス『人生談義(上)』鹿野治助訳、岩波文庫、pp.17-18
そうだ。政治はあなたに一定の拘束力をもつ。あなたをある理由から優遇し、また冷遇する。もしかしたらあなたの首を斬り落とすことだってあるかもしれない(いままさにそうしようとしているように)。それらは決してあなたの意のままになることではない。明日あなたが斬首されるという決定をあなたはどうすることもできないだろう。しかし、あなたの「秘密を話さない」という権内の自由は、政治が要求する「秘密を話せ」という権外の力によってはじめて自由になったのではないか。権内のことどもと権外のことどもは決して混ざり合わないが、それらの間のつながり(のなさ)をどう考えるのか、考えないのか。奴隷であり哲学者であったあなたにそれを尋ねたい。
自らの意見や意欲、欲望や忌避がそのまま多くの人びとを拘束することになるような地位に生まれつく人がいる。わたしたちは幸運にも、奴隷の子であったエピクテトスとは反対に絶対的な権力者となったストアの哲学者をも知っている。最盛期のローマ帝国を治めた皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスである。エピクテトスの講義ノートを熱心に読んだというマルクスは、エピクテトスから何を学んだのだろうか。そして、自らの意見や意欲、欲望や忌避がそのまま多くの人びとを拘束することになるような自身の境遇、治世、哲学をどう考えたのだろうか。
■[単車][随想] 走り納め(未遂)
今日は今年の走り納めをしようと早起きをした。
風の冷たさが身体にこたえる季節だが、今年最後のライディングに気合いを入れ直し、Schottのライダーズ・ジャケットに身を包んだ。ガレージに眠るローライダーを外に連れ出す。朝の光に黒い車体が輝く。閑静な住宅地で早朝に爆音を響かせるわけにはいかないので、少し遠いが空き地の隣まで押していく。
そして一連の儀式。
右手で後ろ手にキーを差し込み、オンに回す。ヘッドライトとインジケーターランプが点灯する。左手でタンク下のフューエルコックをオンの位置に合わせる。透明のフューエルホースをガソリンが満たす。アルミビレットのスロットルを3回ひねり、ガスをホーリーのキャブレターに送り込む。ガソリンの香りが立ち込める。そしてセルスターターのスイッチを押す。ピニオンギアが飛び出し、フライホイールを回転させる。ギュウンギュウンギュウン……エンジンがかからない。気を取り直してもう一度。ギュウンギュウンギュウン……かからない。もう一度。ギュウンギュウン、カチ、カチ、カチ。何ということだ。チャージは万全だったはずなのだが。どうもバッテリーが死んでしまったようだ。
押しがけをする気力はない。ローライダーを押して戻り、ガレージに連れ戻す。気を取り直し、今度はFLHを連れ出す。ガレージを閉め、再び空き地へ。
そして再び一連の儀式。
FLHのバッテリーはしばらく放置していたので、セルスターターではエンジンがかからないだろう。しかしFLHならキックスターターがあるから安心だ。案の定セルスターターではかからなかった。気を取り直し、キックスタートに切り替える。キックアームに右足をかけ、全体重をかけて思い切り踏み込む。一回、二回、三回……四回目となる渾身のキックを振り下ろした瞬間、ライディングに持ち出そうと思っていた荷物がすべてローライダーのサドルバッグに入れたままになっていることを思い出してしまった。落胆。
最初にローライダーをガレージから連れ出してから、すでに30分以上が経過していた。もう気を取り直すことはできなかった。肩で息をしながらFLHを押して戻り、ガレージに連れ戻す。わたしはライダーズ・ジャケットを脱ぎ捨て、ふてくされて再び布団にもぐり込んだ。ベルクソンの『精神のエネルギー』を読んでいるうちに、再び眠りに落ちた。二度目の眠りは心地よいものだった。