2008-09-15 明後日の方を向いている人たち

http://pessicolla.blog29.fc2.com/blog-entry-49.html 厭世のコラージュ−除菌の論理
少数派が強大な敵=権力に立ち向かうには知謀を駆使した多数派工作しかないのだが、連合赤軍は自国民の人心掌握すら出来なかった大本営に学んだようだ。たとえ“結果的に”であろうとも。少なくとも、内側の問題は一旦棚上げする、といった程度の知恵すらなかったことは、革命の失敗は初めからみえていたと云えるのではないか。
1たす1は3である、みたいなアホなことを言っている連中を批判することは、「排除の論理」だの「除菌の論理」だのといった意味不明な言葉とはいっさい関係ない。
だいいち、連合赤軍などといった輩に、「自国民の人心掌握」も「革命」もできるはずはなかったのは、「武装蜂起」だの「権力は銃口から生まれる」だのといった毛沢東ばりの空語ばかりをもてあそんでいた、彼らの政治思想の貧困さにこそ原因があるのではないか。
たとえ、彼らに「内側の問題は一旦棚上げする、といった程度の知恵」があったとして、だからどうだというのだ。
たしかに、その程度の「知恵」があれば、「同志殺し」という最悪の結果は生じなかったかもしれない。だが、だとしても、あのような彼らの組織と運動は、遅かれ早かれ自壊・自滅せざるを得なかったのではないのか。
それは、なにも「国家権力」が強大だからではない。彼らの思想と理念が、しょせんその程度のものでしかなかったということの当然の結末なのだ。
そもそも、あなたのいう「知謀を駆使した多数派工作」とは、どういう意味なのだ。
陰謀や策謀、権謀術数でももてあそぼうというのかな。
現代は、権謀術数乱れ飛ぶ戦国時代などではないのだよ。
追記:(9/16)
ご本人やその周囲の人らに勘違いされては困るので追記しますが、以上の批判はけしてけして「敵」に対する攻撃などではありません。
良くも悪くも、そんなふうにはまったく思っておりません。
もちろん「敵愾心」などあるはずがありません。そんなことは、問題にもなりません。
そのように思っている人がいるとしたら、それは少々「自意識過剰」というものでしょう。
あくまで、「それは違うよ」、「それじゃダメだよ」という範囲の友好的な批判であります。
そういうわけでよろしく。
かなり典型的のようですね。
わたしのエントリより前だけど、わたしはこれを知らなくて、
見ないで自分のエントリは書いていました。
ところで、↓これは、わたしのことを言っているのかな?
(どうも、そんな感じだ。)
http://mcrash-f2.workarea.jp/archives/2008/09/15/post-170.html
それから、こんなのを見つけましたよ。
これは、「水からの伝言」の騒動を意識して、言っている感じなんだけど、
彼らは、「信頼できる敵」という感情は、持てなさそうですね。
http://kinpy.livedoor.biz/archives/51249891.html
>あたしは、本来戦わねばならない相手に勝つためにこそ、あたし自身のリソースを向けなくちゃいけないのに、
>内ゲバにかかずらってる余裕なんてないんです。
うーん、あいかわらず、ずれまくっていらっしゃいますね。
少なくとも、彼にだって一連のエントリの中で、自分の考えと立場を明らかにすることができたわけですから、
それは彼にとってけっして無意味ではないはずですね。
「論争」というものの意味は、そこにあるって何度も言ってるんですけどね。
もっとも、たんぽぽさんと同様、彼の論については、私もほとんど評価しませんけどね。
そもそも、「それは間違ってるよ」という指摘をすることが、どうして「敵対」だの「内ゲバ」だのという話になるんでしょうね。
彼の論理だと、教室で誰かの計算間違いを指摘することも、「敵」認定とか「内ゲバ」とかいう話になるんですかね。
「こちらが書きもしないことを勝手に邪推して敵愾心を燃やして」(by McRash)なんて、自意識過剰もいいとこですよ。
笑ってしまいます。
キンピーのほうがよっぽどまともですね。こういうまとまな「敵」こそ、正しく評価し、そこから学ぶべきなのですけどね。
なにをなさっているのかは知りませんが、基本的に、政治観がナイーブすぎますね。
お話になりません。
さっさと言及するのやめちゃえばいいのにと、わたしも思いますよ。
だれも、たのんでなんかいないのだし。
>どうして「敵対」だの「内ゲバ」だの
「小さな世界の正義の自分たち」と、「強大で邪悪な権力」という対立図式で、
考えが硬直すると、そういう発想になるのでしょう。
むろん、情報操作や世論操作などは現代の政治に特有なものではありますが、
基本的に普通選挙権と議会制民主主義、結社や言論の自由が保障されている
現代社会の政治を、戦国時代のような一部の武士や殿様だけが
互いに策謀を巡らしていたような時代と同一視はできないよ
という話をしてるのですがね。
どうもお分かりにならないようで。
そりゃあ、職業政治家や政党などの世界であれば、権謀術数もありでしょうが、
広い意味で「政治」というものは
そういう特殊な世界だけで支えられているわけではないのですけどね。
そんなつまらぬ権謀術数のような多数派工作で政治を変えられるなら、
誰も苦労はしませんよ。
「信頼できる敵」を持てるのは幸運なことですね。
武田信玄が死ぬとき、後継者の勝頼に「自分が死んだ後は上杉謙信を頼れ」と言ったそうです。
http://bushou.exblog.jp/2348713/
>疑似科学を疑似科学だからという理由で批判することは、やり方によっては一方の重大な科学的発見の芽を摘み取ってしまうのかもしれない
はマズイんじゃないかなあ。疑似科学は疑似科学だから批判されるのに(どうも彼は科学的な”仮説”と疑似科学を混同してるみたいですね)。TOSSなどが普段どういうことを主張してるかなどを知れば水伝は政治的にも結構ヤバイ課題だと思うのですけどね。
しかし、科学はただの素人やディレッタントの思いつきでどうこうなる世界ではありません。ウェゲナーの説も、当時は肝心の大陸移動の動因こそ解明できてなかったものの、地質や化石、生物種の分布など、いろいろなデータに基づいていたのであって、今の「トンデモ」説などと同一視してよいレベルのものではないでしょう。
どうもそのへんの理解が「わら人形」っぽいですね。
具体的な問題に対して、抽象的な一般論を持ち出すことはあまり意味がないということも再三指摘しているのですが。
http://bushou.exblog.jp/2348713/
なるほどねえ、こんなお話もあったのね。
(戦国武将には、わたしは、くわしくないのだった。)
「信頼できる敵」は、状況によっては、
「信頼できる味方」にもなりえる、ということかもしれないです。
「あちら側」の人たちは、「なんで改憲派の玄倉川さまと手を組むのだ?」
なんて、とてもご不満だったけど、「信頼できる敵」なんて発想は
とうてい持ちえないことは、すでに証明されていましたね。
「筋の通らない味方」などというものは、かえって「味方」の足を引っ張って害をなすものでしかありません。
「寛容」などという美しい言葉でそういう者まで味方扱いして引っ張りこんでいては、一緒に泥沼に足を取られて自滅するのが関の山というものですね。
「小さな世界」は自称ですよ。
(「少数派」「リベラルというせまい世界」なんて、自分(たち)で言ってる。)
しかし、自分で世界を狭くしちゃいかんですね。