私はwaiwai問題の本質は、レイシズムにあると思っている。そこには三重の意味でのレイシズムが横たわっている。本項ではその点について述べたい。

 まず述べたいのが、主に記事を執筆したライアン・コネルに代表される外国人執筆者たちである。毎日新聞側の言い分を信じれば、監視の目の届いていないことをいいことにやりたい放題をしていたわけだ。そこには会社を侮る姿勢と、記事を選ぶに当たって東洋人を小馬鹿にした考えがあるのではないか? 21世紀とはいえ、未だに一部の白人の心の奥底には東洋人を下げすみ、そこにファンタジーを見いだしたい心があるのではないのか? そして彼らはwaiwaiの記事をまとめ、タブロイド・トーキョー、タブロイド・トーキョー2を出版した。「日本人なんて、こんなにバカなんだぜ」とでもいいたいのであろうか

 しかも、これは毎日デイリーニュース(MDN)がウェッブに移行してからではない。すでに紙媒体の時代から、延々と続けられていたことだ。ライアン・コネルがMDNに所属したのが1996年。しかし、ネガティブキャンペーンはすでに17年前から?で触れたように、紙媒体時代の頃から問題は発生していたのだ。当時バブル崩壊直前、金満日本は世界中で土地を買い、遊び回っていた。「ほら、猿に金を持たせると、下品でしょうがない」と追わせたかった意図は明白だろう。この記事を読んだ英語圏の人々はなんと思ったのであろうか? ただのタブロイド記事だと思ったのか? 執筆者たちと同じような気持ちで、溜飲を下げていたのだろうか?

 waiwaiの記事の中には元ネタを越える、誇張や捏造があった。それはごく少数のサンプルを一般的日本人像に仕立て上げる、悪質な考えがある。事実と確認されていない記事がさも本当にあったことにされ、都市伝説の普遍化、意図的な語句の挿入、と枚挙にいとまがない。

 waiwaiの執筆者の中には不可思議な人たちも見受けられる。マスオ・カミヤマに代表される日本人とおぼしき名前だ。以前のエントリーでも触れたが、毎日新聞デジタルメディア局はカミヤマ・マスオについての私の電凸に対して、「把握していない」と答えた。彼は2008年6月7日まで、15年waiwaiに関わっている。そんな人物を「把握していない」とは何を意味しているのであろうか? 複数執筆者の共同ペンネームか? 電凸時、対応者へ私は言ってみた「本当のことを言ってみろ。デジタルメディア局の上層部が書いていたのではないのか?(当然彼は否定したが)」今でもこの考えは変わらない。デジタルメディア局の上層部とは限らない、社内外の人間が関与したものかもしれない。マスオ・カミヤマ以外にも日本人名執筆者は見受けられる。代表的なのはタケシ・イトウだ。彼の代表的な執筆記事として『「受験生」バカ母SEX献身の実例』が上げられる(この記事は別の外国人記者によって再配信されている)。この執筆者たちはいったい誰なのであろう。どのような考えを持って、waiwaiを執筆していたのであろうか? どのような人々にしろ、そこには日本人など猿という心持ちがあったのではないだろうか

参考:毎日新聞問題の情報集積wiki−WaiWiaの記者一覧
 二点目が、waiwaiを放置していた毎日新聞上層部、いや毎日新聞に横たわるレイシズムなのではないかと思う。彼ら7/20検証記事においてウェッブ上だから、英語版だから見逃してしまっていたと謝罪した。しかし、本当にそうなのか? 少なくともかの検証記事においては抗議のメールを開いているという。彼らは意図的に放置していたのではないのか? それは紙媒体の頃からwaiwaiには低俗記事が掲載されていたこと。メタタグに不適切な単語が並んでいたという、常識では考えられない事態からも察せられる。メタタグ事件を考えただけでも、上から下まで会社ぐるでなければあり得ない

 誰もろくに責任をとっていないことからも、そのレイシズムは伺える。役員報酬一ヶ月の返上程度で十分禊ぎは済んだという態度である。しかも責任者は申し合わせたように昇進する始末(お詫びは本当にお詫びだったか 公務員・企業の内部処分の事例集)。特にデジオたるメディア担当だった朝比奈豊新社長就任があまりにも大きく取り上げられてしまった陰に隠れてかあまり取りざたされないが、問題発覚時の代表取締役社長の北村正任が一切の責任をとっていないのは何なのであろうか? 事態を軽んじているとしか言いようがない

 また、映画『ナヌムの家』、『日出処の天子』と法隆寺に代表される捏造体質。異常に天皇陛下行幸にかみつく在日記者。奈良の大淀病院事件(少子化を促進させたいのか?)。数々の特亜諸国擁護の論調。本当に貴方たちは日本の新聞社なのかと思われる言動なのである。リベラルに社会の、また政府の批判をするのは結構なことである。政治家の不正、国民年金の問題や、昨今なら汚染米の事件など、社会悪に対してはドンドン切り込んでもらいたい。しかし本当に彼らはリベラルな視点で見ているのであろうか? 私にはそうは見受けられない。リベラルどころか極左思想集団として日本を解体したいのではないかとうがってみてしまう。妄想だと言われればそれまでだが、私にはレイシズム以外の何者でもないと考える

 以上二点は狭義の意味でのwaiwai問題である。最後に上げたいのが広義のwaiwai問題としての、ネット言論との対立である。佐々木俊尚氏の著作によれば、毎日新聞はインターネットが日本で発達した頃から、自由に情報を発信されていくことを快く思っていなかったという。氏の著書『フラット革命』によれば、1999年7月の秋葉原にて起こった「列車事故撮影事件」の頃から自由な情報の発信について噛みついていたという。人身事故が起こった現場にて、たまたま居合わせた人が、自己のサイトに事故直後模様の画像を公表したものを、毎日新聞がけしからんと噛みついたものだ。佐々木氏は当時の状況を当事者として伝えている。しかも毎日新聞側の言い分に相当の違和感を持って。個人が自己のサイトに報道的行為をして何が問題があるのかと。そして毎日新聞の当時の担当デスクは言う
「新聞には責任があるが、個人には責任がない。個人が勝手に報道しているのが問題だ。新聞
社のように倫理規定がない個人が勝手にこんなことをしていたら、歯止めがきかなくなる」
講談社刊:フラット革命 p15


 この「列車事故撮影事件」は懐かしい。私は当時リアルタイムで、この事件をはたから眺めていた。事件の記事を読み、実際掲載された画像も見、サイト運営者の主張も読んでいる。そして時のたつのと一緒に、記憶の奥底に事件は沈んでいった。まさか『フラット革命』を読むまでは噛みついたメディアが毎日新聞だったとは覚えていなかった。昔も今も変わっていないのだと感じた。実際掲載された写真には遺体など無く(搬送中の画像はあったが、それですらグロ画像ではない。サイト運営者は確か遺族感情に配慮するとしてすぐに削除したはずだ)。当時の私には、何が問題なのか全く理解できなかった。毎日新聞社の言い分は全く納得いかず、コメントを寄せた指揮者たちの発言も、実際に当該サイトを確認したのかも怪しいと思ったものだ。また、サイト運営者のが行った、報道を独占しようとするメディア(毎日新聞)の言い分に対する批判の方が的を射ていると思ったものだ。あれから9年、その頃にはwaiwaiは書かれていたのかと思えば感慨深い

 インターネットにて個人が情報を、言論を自由に発表することがメディア側(毎日新聞)としては許せないのであろう。それは今も昔も変わりがない。これは★230祭りの発端となった、「法的措置」発言(ただ騒いでいるだけなのに放置しておけばいいものの、まったく余計な発言だ)。ネット発信による様々な批判に答えることのない姿勢。そして、ネットをしていない読者にはいったい何が起こったのかわからない隠蔽体質(非毎日新聞読者にはwaiwai問題そのものが存在しない状態であろう)

そこには情報を独占しようとする、情報ノーメンクラトゥーラの姿が浮かび上がってくる。これは毎日新聞だけの問題ではない。多くの既存大メディアが抱える問題である。特に新聞・テレビが抱える問題だ。オピニオンを発表するのは大変結構なことだ。それで社会が正しくなれば申し分ない。社会の木鐸として存分に活躍してもらいたい。しかし彼らには情報ノーメンクラトゥーラとして情報を独占し、言論を牛耳り、社会を動かしているのは自分たち言論機関であるという驕りがあるのではないだろうか? ネットなどで個人が情報を発信するなどもってのほか、従うべきはお前らだ、と。ここに情報を独占する姿勢に、私はレイシズムを感じる。リチャード・ストールマンに一時期かぶれていた私は、「情報はあまねく知れ渡らなければいけない」と信じていたし、今もかなりそうだと思う(齢を重ね少しは大人になったつもりだが)。それを思えば、私の根源的な思想はリベラルなのだろう

 以上見てきたように、waiwai問題には三重のレイシズムが存在する。その舞台となった毎日新聞の体質をあぶり出したのである