鹿屋市の国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」で1958年9月に創刊された文芸同人誌「火山地帯」が155号を発刊し、50周年を迎えた。初代主宰は在園の作家、島比呂志さん(1918~03)。島さんは作品を通じ国のハンセン病政策への憤りや、差別・偏見のない社会実現を終生訴え、84歳で他界した。ハンセン病問題告発の原点とも言える「火山地帯」。半世紀を経て大隅半島の台地に「文学」の根をしっかりと下ろしている。【新開良一】
「わが同人諸氏は、火山を爆発させて、地球を変形させ、そこに巨大な文学碑を建てようというのである」
43ページの創刊号で島さんが宣言した発刊の辞だ。なんとも壮大な言葉--。喜びと期待に満ちあふれる創刊号は随想4、小説3編が収められた。
同人は入所者ら26人、購読会員23人。初めのころは、患者強制隔離政策や差別・偏見を世に問う題材が多く、島さんの代表作の一つ「奇妙な国」も59年の6号で発表された。
117号から編集発行人を務める鹿屋市立図書館長、立石富男さん(59)は、誌名について「そのころ桜島がよく爆発していたからとか言われているが確かなところは不明。雑談の中でいつのまにか決まったみたい」と話す。
立石さんと島さんの出会いは81年6月。立石さんは職場のサークル誌などに寄稿していたが、中央文壇での評価も高かった火山地帯入りを希望。自信作の小説を島さんに見せたところ赤ペンで真っ赤。「打ちのめされた感じ。島さんの顔を見られなくて顔を上げれなかった」と振り返る。だが、その作品は同10月発刊の48号に掲載された。
立石さんは「赤ペンはその時だけ。島さんから推敲(すいこう)とテーマを持つこと大切さを気づかされ、その後の創作の良薬となった」と感謝する。
島さんの指導は妥協を許さず、誰に対しても厳しかった。「物書きは、はがき1枚でもおろそかに書くな」「誰にも負けないテーマを持たなきゃ、プロになれないよ」--。そうした徹底した指導が芥川賞候補2人を育て、全国が注目する同人誌にまで高めた。
98年、島さんは116号を最後に編集発行人を引退。翌99年に51年間暮らした敬愛園を退所して北九州市で社会復帰。多くの人に惜しまれて03年3月死去した。
同人は現在、九州内外の25人(星塚敬愛園入所者はゼロ)で年4回発行。重責を担う立石さんは「島さんの遺志を継ぎながら、私なりのカラーも出したい。そしていい書き手を探したい」と静かな情熱を燃やす。
毎日新聞 2008年10月12日 地方版