日本経済がまさしく正念場を迎えていた2001年4月。歴史に選ばれるかのように誕生した小泉内閣に、民間出身の大臣として入閣し、構造改革を推し進める司令塔として小泉総理を最後まで支えた続けた竹中平蔵氏。
退任後は、古巣の慶應義塾大学に戻り、政策専門家の育成に尽力するとともに、グローバルセキュリティ研究所の所長にも就任、建設的に政策批判を行う「ポリシーウォッチ」のチームを発足させている。
政策を研究する立場の経済学者が、実際に政策を実行する側に立ったとき、国務大臣として見てきたものは何だったのか。そして、民間人に戻った今、見えてきているものは何なのか。その希有な体験を踏まえて激動の5年5カ月を振り返り、これからの日本の行く末について、力強く語っていただいた。
Profile:竹中 平蔵(たけなか へいぞう)
1951年和歌山県生まれ。1973年3月一橋大学経済学部卒業後、同年日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に入行。1977年からの同設備投資研究所勤務を経て、1981年ハーバード大学へ留学。1982年大蔵省財政金融研究室(現財務省財政金融研究所)に出向し、主任研究官となる。1987年大阪大学経済学部助教授に就任(〜89年1月)。1989年日本開発銀行を退職して渡米、ハーバード大学・客員准教授及び国際経済研究所客員フェローに就任。1990年 慶應義塾大学総合政策学部助教授、1996年同教授。
2001年小泉内閣で、経済財政政策担当大臣、2002年金融担当大臣・経済財政政策担当大臣、2003年内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策)を歴任。2004年参議院議員として内閣府特命担当大臣(経済財政政策)・郵政民営化担当に就任。2005年総務大臣・郵政民営化担当大臣を歴任し、2006年9月14日、小泉内閣の終焉とともに辞職。2007年現在、慶應義塾大学教授、グローバルセキュリティ研究所所長、 社団法人日本経済研究センター特別顧問、アカデミーヒルズ理事長、株式会社パソナ 特別顧問・アドバイザリーボードを務める。経済学博士。
主著書は近著の「構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌」(日本経済新聞社)のほか、「研究開発と設備投資の経済学」「対外不均衡のマクロ分析」(東洋経済新報社)、「日米摩擦の経済学」(日本経済新聞社)、「民富論」(講談社)、「竹中教授のみんなの経済学」「あしたの経済学」「やさしい経済学」(幻冬舎)、「「経済ってそういうことだったのか会議」(日本経済新聞社)などがある。
「研究主体」が「研究客体」の立場へ:<第1回>
小泉内閣発足と同時に、経済財政政策担当大臣に就任したのは2001年4月26日でした。それまでは、学者として政策を研究する、たとえるなら昆虫学者でしたが、いきなり研究される側の政府の責任者、いわゆる昆虫になったわけです。「研究主体」の昆虫学者が、「研究客体」の昆虫という立場になったときに思ったことは、知的な立場でモノを言ってきた人間が、本当に役に立つのかということが今、まさに問われているということです。就任の記者会見では、学者代表として、しっかりやらなくてはいけないと決意を述べたことを思い出します。
2001年当時の日本経済は、ロンドン「エコノミスト」誌が、「サッド・オブ・ジャパン(Sad of Japan)」という特集を組むほど危機的な状態でした。記事には、「日本が不良債権を償却(ライトオフ)しないならば、世界が日本をライトオフするだろう」と書かれていて、日本発の世界恐慌もあり得るという懸念と、不良債権処理を10年間放置してきた日本に対する苛立ちが示されていました。そんな状況の中、初の内閣改造で、2002年9月に金融担当大臣の兼務を命じられました。就任当時の不良債権比率は、8.4%。なんとしても不良債権を処理しければ、どんな政策をやっても始まらないと思っていましたので、本気で処理を加速していくことを表明しました。すると、今まで不良債権の処理が遅れていると言っていた多くの評論家やメディアが掌を返したように反対の立場に回ったのです。竹中バッシングが日に日に過激さを増していきました。それを乗り切る原動力となったのは、小泉総理です。小泉総理は、毎日私を総理官邸に呼ぶか、時間がないときは電話で、「竹中さん、誰が何と言おうと絶対に自分の考えを曲げるな。自分の信じた政策をやってくれたらいい。」と言葉をかけてくれました。それから、献身的に尽くしてくれた家族やスタッフがいたからこそ、病気になることが許されない極限状態の大臣の責務を全うできたのだと思います。
大臣在任中の5年5カ月で政策研究者として為し得たかったことは大方実現できたと思います。不良債権処理や郵政民営化もですが、マクロ経済研究者の立場から手掛けたかった、マクロ経済運営と財政運営を一体化するルールを作ることもできました。それまでは経済運営は経済企画庁(現内閣府)、財政は財務省でしたから、12月末の予算決定の時に、同時に政策も決まっていたのですが、それぞれオープンに議論すべきだとして、政策は6月に議論して「骨太方針」に取り纏め、残りの12月まで半年間で予算を決めることにしたのです。一本化されたことで、日本はようやく経済運営で先進国になったのだと思っています。地味な分野の仕事でしたが、非常に大きな一歩でした。この「経済財政諮問会議がマクロと財政の両方のバランスを見る」というシステムは、もちろん安部内閣にも受け継がれています。
慶應義塾大学/グローバルセキュリティ研究所内にてインタビュー
編集:鈴木 佐知子
取材後記
大臣時代に国会答弁で見せていた険しい表情とは打って変わって、始終、穏やかな笑顔で、インタビューに応じてくださった竹中教授。大臣を辞してから一番大きく変わったことは「民間人として自由に発言できるようになったこと」だとおっしゃっていました。金融担当大臣就任から1カ月でまとめ上げた「金融再生プログラム」発表当日、体力、気力も充実し、ストレスとは無縁だと自負していたのに、「突発性難聴」を発症したというエピソードをお聞きして、大臣としての5年5カ月がいかに激務だったかをあらためて思い知りました。