「編集者という病い」

「編集者という病い」(見城徹/大田出版)

→カリスマ編集者にして幻冬舎社長の書いたこの著作を読むまえに、
このところの疑問を整理したい。
いったい編集者というのはなんなのだろうか。
というのも、いま編集者の価値がバブルのように上がっていると思うからだ。
編集者は出版のプロフェッショナル。
書物を上梓したいと思ったら、どうにかして編集者と縁故を作らなければならない。
編集者はプロだから、なんでもわかっている。
原稿の修正を編集者から求められて、
にもかかわらず不可能なものは出版界で生きていけない。
昨今流行している安手の小説作法マニュアルでひんぱんに説かれていることである。
とにかく編集者は偉いらしいのだ。
ならば、編集者とはどのような人物なのだろうか。
編集者の最高峰として知られる見城徹の著書を読んだのはこのためである。

正直に白状すると、編集者がどうして偉いのかよくわからない。
編集者と作家志望者の相違はなんだろうか。
要は、出版社の入社試験に合格したかどうかに行き着くのではないだろうか。
わたしは文学部だったから周囲に出版社へ就職したものが幾人かいる。
かれらは面接官の受けがよかったというだけではないか。
(就職氷河期ゆえ、なかには多くのコネがあったのだろうが、残念ながら詳細は不明)。
出版社に入社した。だから、偉いというのだろうか。
読書量といっても、たかが知れていると思うのだが。
一般的に編集者は忙しい。古典を読んでいる暇などない。新刊を追うので精一杯。
ときには新人のつまらぬ創作を読まなければならないこともある。
この点、作家志望者は時間がある。
古今の名著を読むことが可能。ところが、立場は正反対。
多くの新人作家が編集者の掲載許可を得られず消えてゆく。
編集者とは、いったいどのような存在なのだろうか。

見城徹に聞いてみよう。

「彼ら(=新人作家)と会って話をして、
作品の構想を練ることの方が何十倍も楽しいからね。
“経費”を使えるのも僕だけだったから、食えない連中が毎日、集まるんですよ。
メシを食わせてやって酒を飲ませて、深夜にはタクシーチケットを渡してやる。
才能への投資ですね。
それが編集者としての役割の根本でもあるんです」(P260)


なるほどと編集者の役割を理解した。
わたしだって何回もただ酒、はしご酒をのませてもらったら対応が変わろう。
酒宴のたびに「ヨンダさん、才能ありますよ」なんていわれたら、いい気分だ。
たとえ人受けがいいだけで苦労知らずのお坊ちゃん編集者から原稿を添削されても、
まあ許せなくはないだろう。
実際、見城徹は作家の原稿に朱筆を入れるのが大好きだったという。
添削された作家としても、連日連夜ご馳走になっていたら文句はいえまい。
すばらしい人間関係ではないか。
個人事業主の作家は、出版社のカネでたらふくのみくいができる。
創作の才能がない編集者は原稿を添削することで自尊心を満足させる。
なかにはわざと初稿のレベルを落とした作家もいたであろう。
意図的に編集者にアドバイスを出してもらう作戦だ。
後日、作家はサラリーマンを「さすが編集者はプロですね」と持ち上げる。
ただ酒にありつくためばかりではない。編集者から嫌われるのだけは避けたい。
少なくともわたしが作家だったら、こういうテクニックを使うだろう。

余談だが、いまの文学衰退は、この関係の崩壊したことが原因ではなかろうか。
不況で経費が落ちないため編集者は新人作家の胃袋をもてなすことができない。
そのくせ高学歴で就職も成功した編集者のプライドは高い。
作家の原稿にいちゃもんをつけたくなる。反抗する作家は使わなければいいだけの話。
この点から考えると、編集者にとって若い女性がいちばん御しやすい。
もしやこれが近年の新人作家の状況ではあるまいか。
いや、さすがにこうまで腐敗はしていないのだろう。
芥川賞作家、大道珠貴の指摘によると、編集者は美男美女が多いらしい。
このため性格の悪い編集者はいないと大道はいう。
少なくとも大手出版社は、である(以上は講談社「東京居酒屋探訪」による)。

カリスマ編集者の見城徹に話を戻そう。
編集者は若いころに大御所作家の怒りを買ったことがあるという。
吉村昭の原稿を真っ赤にして送り返したら、絶縁状をもらったとのこと。
見城徹は、つかこうへいが直木賞を受賞したのを自分の手柄のように誇る。
なんでも「鎌田行進曲」には、そうとう見城の手が入っているという。
作品の季節をも変えさせたと自慢している。
つかこうへいも小劇場時代から資金提供してもらっている編集者には逆らえまい。
作家は直木賞を一度しかもらえない。見城徹は直木賞を6度も取ったことがあるという。

あの中上健次でさえ4歳年下の見城徹に頭が上がらない。
中上はどこでだったか、自分の原稿を一字一句とも変えられたくないと主張している。
ところが、見城徹にかかると、
中上は自分の朱筆(添削)をもっとも感謝していた作家のひとりとなってしまう(P276)。
これが中上健次のおべっかだと気づかない見城徹はおめでたいというのか。
まさにこれこそ「編集者という病い」である。

「後年、僕は何度も個人的に中上健次に金を貸したけれど、
いつでも『文学の王がお前に金を借りてやる』と威張っていた」(P92)


ファンならだれでも気づくことだが、中上健次のカネ遣いは異常なほど荒い。
どう考えてもこの作家の難解な著作は売れるわけがないのにである。
なるほど見城徹という大きなスポンサーがいたのである。
中上健次と見城徹は、作家と編集者の関係の手本なのか。
それとも反面教師なのか。軽々しく答えの出せない問題のひとつだ。

本書の感想をまだ書いていなかった。
ひと言でいおう。人間は勝つことで失うものがある。これしかない。
見城徹はまだ人生で一度も大きな挫折を経験したことがないのだ。
出る勝負ごとに勝利をおさめている。負け知らずである。
通常、人間は勝つことでなにかを獲得すると思っている。
だが、幻冬舎社長に教えられたのは、むしろ勝利は喪失であるということだ。
勝つことで失ってゆくものがある。反対にいえば、負けることでしか得られぬものがある。
なんとかして勝ちたいと万策をめぐらしても人間世界では負けることがある。
このとき人間は絶望のふちでいろいろなものを学ぶ。
人が古典を読もうと思うのはこのようなときであろう。
敗北、失敗は、勝利よりもよほど(ビジネスならぬ人生では)豊饒なのではないだろうか。
「編集者という病い」の感想である。
本書では、おなじエピソードがたびたび繰り返される。
何度もおなじ自慢話を繰り返す成功者をあなたはよく知っているだろう。
見城徹もその仲間に加えていただきたい。
人間としての幅の狭さが、むしろ哀れなのだけれど、
本人が気づいていないのは成功者の典型といえよう。
毎日のように著名人と朝まで酒をのみ、読むのは新刊本ばかりだと、
こういう浅薄な俗物が完成するのだろう。
本書から得た教訓を繰り返す。人間は勝つことで失うものがある。

最後にこれを書いておかねばならない。
万が一にも、わたしが出版界の最底辺にでも参加を許されたら、
いの一番に削除するのはこの記事である。
業界の大御所にたてつくのは損でしかない。
これは一見すると編集者批判のようだが、わたしはそこまで芸術家肌ではない。
商売人を父に持つわたしは、幸運にも出版業界にまぎれこめたら、
いさぎよく編集者の奴隷になるつもりである。
シェイクスピアも読んだことのないような年下の編集者から原稿を添削されても、
ぺこぺこ頭を下げながら訂正します。
編集者のお車を洗浄します。引越のお手伝いします。
肩もみます。暑中見舞い、年賀状だします。
いうまでもなく、あとがきで名前を出して最大限の感謝をいたします。
まさかいないとは思うのですが、このブログをお読みの編集者先生、
どうか生意気だと思わないでくださいませ。
我われブロガーはみなみな先生の下僕のようなものですから(笑)。

結論:「文壇=子どもの学芸会」

裏で操っているのは編集者。担任に好かれた学童が主役をはるようなもの。
親が実力者の子どもも、学芸会で活躍が可能。
子ども同士がかりに喧嘩しても大人が登場すれば解決する。
学芸会の優秀賞を取るのは実のところ生徒ではない。担任教師の名誉なのである。

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