2000年 6月分 放映リスト

2000年6月7日(水)第10回
坂本龍馬 幕末の日本を動かす 〜薩長同盟成立の時〜

2000年6月14日(水)第11回
吾輩は小説家である 〜夏目漱石・東大辞表提出の時〜

2000年6月14日(水)第12回
蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件
〜実録・大化改新(たいかのかいしん)のクーデター〜

2000年6月28日(水)第13回
戦火の中でアニメが生まれた



第10回
坂本龍馬 幕末の日本を動かす
〜薩長同盟成立の時〜

放送日

放映日:平成12年6月7日(水)21時15分〜21時58分 総合
出演者
松平 定知 アナウンサー
小田切千アナウンサー

○ スタジオゲスト
西木正明(作家)
番組概要

その時:慶応2年(1866)1月21日

出来事:龍馬立ち会いの下、薩長同盟が成立する
 幕末の流れを変えた風雲児、坂本龍馬。土佐を脱藩した龍馬は、一介の浪人の身でありながら、当時犬猿の仲だった二つの巨藩の間を奔走し、奇跡ともいえる「盟約」を結ばせることに大きな役割を果たした。「薩長同盟」の成立である。この同盟により、時代の流れは一気に倒幕・維新へと傾くことになる。 この同盟成立に至るまでには、龍馬の必死の努力と、挫折の繰り返しがあった。 龍馬はいかにして薩摩と長州を結びつけたのか?桂久武の上京日記や桂小五郎の自叙伝など、関係者の目撃談を徹底検証し、薩長同盟が締結された瞬間と、その時龍馬が果たした役割を描く。
番組の内容について
  • 「今日のその時」薩長同盟の締結日について
    ( 慶応2年1月21日) 1月22日と21日という説があるが、今回は「国史大辞典(井上勲)」に記されている21日説を採用。 
  • 龍馬の手紙
    「今にては日本第一の・・・国のため天下のため・・・」
    文久3年(1863)3月20日 
    ※閲覧不可  京都国立博物館
    〒605−0931
    京都市東山区茶屋町527
    075−541−1151
  • 龍馬の手紙
    「日本を今一度せんたく」
    文久3年(1863年)6月 
    ※所蔵先は上に同じ、京都国立博物館 閲覧不可
    ※薩長同盟成立まであと3年は、長州征伐からではなくこの手紙からの年。
  • 龍馬の手紙「長州に桂小五郎あり」について
    慶応元年9月9日、家族へあてた手紙。
    「長州に人物無しと雖も桂小五郎あり」という一文を要約。
    高知県立歴史民俗資料館
    高知県南国市岡富町八幡
    1099−1
    рO88−862−2211
  • 三吉慎蔵日記について
    下関市立長府博物館所蔵の模写を撮影。木戸孝允文書に記載されている文言とは異なる。
    下関市立長府博物館 山口県下関市長府
    рO832−45−0555
  • 18日の薩長会談の日記について
    1月18日に初めて会談が開かれたとするのは桂久武の「上京日記」による。 当日の様子を知る参考文献は、「坂本龍馬と薩長同盟」芳即正(高城書房)
    ※なお、今回は取り上げなかった「国事」に関する諸説についても記されている。
    ※所蔵は個人蔵
  • 桂小五郎の言葉 「談に及ばず」「辞て去らん」
    宮内庁書陵部所蔵「木戸家文書」=明治になって記された桂小五郎の自叙伝。 現物は閲覧不可。なお、原文を読めるものとしては、「木戸孝允文書」がある。
    宮内庁書陵部
    東京都千代田区千代田1−1 
    рO3−3213−1111
  • 西郷隆盛の「帰国」について
    桂久武の「上京日記」による。参考は、「坂本龍馬と薩長同盟」芳即正(高城書房)
    ※所蔵は個人蔵
  • 龍馬が桂のもとに到着した後の会話について
    「誓約スルモノ無シ」「天下ノ為二・・・」「口ヲ開ク能ワズ」「敢テ責メズ」 これらは、全て、宮内庁書陵部所蔵「木戸家文書」
    =明治になって記された桂小五郎の自叙伝より。現物は閲覧不可。なお、原文を読めるものとしては、「木戸孝允文書」がある。
    宮内庁書陵部 東京都千代田区千代田1−1
     рO3−3213−1111
  • 薩長同盟の6箇条が記された桂小五郎の手紙
    宮内庁書陵部所蔵。閲覧不可。なお、原文を読めるものとしては、「木戸孝允文書」がある。(上に同じ)
  • 大政奉還の絵について
    明治神宮聖徳記念絵画館所蔵。
    新宿区霞ヶ丘9番地明治神宮外苑
    рO3−3401−5179
  • 「幕末京都の古地図」
    京都府立総合資料館
    京都市左京区下鴨半木町1−4
    рO75−781−9101
  • (京都・御所(京都御苑)、禁門の変の戦場) 「蛤御門」
    京都御所の西側中央に現存している門
    。 京都市上京区京都御苑 見学は誰でも可能。
  • (下関市竹崎町、桂小五郎に和解を説いた場所) 白石正一郎邸跡
    下関市、JR下関駅西口、国道191号線を新地町山ノ田方面 に向かって徒歩4〜5分
  • (長崎、亀山社中跡)
    長崎市伊良林2丁目 
    095−828−1454
    見学可能。土、日、祝日のみ
  • (薩摩藩邸跡)
    かつての薩摩藩邸は、現在、同志社大学の構内となっている。 薩摩藩邸の門が、今でも残されている。 地下鉄烏丸線「今出川」駅下車すぐ。 (龍馬の足取り、エピソードについて)
  • 勝海舟と、神戸海軍操練所について
    ※参考は、国史大辞典「勝海舟」「海軍操練所」。歴史群像「坂本龍馬」学研
  • 勝と龍馬が目撃した差し違えについて
    「維新土佐勤王史」の記述による  
    ※坂本龍馬日記(上)菊池明・山村竜也
  • 西郷隆盛との出会い
    維新土佐勤王史から抜粋。 参考文献は坂本龍馬日記(上)菊池明
  • 龍馬が薩長同盟を決意した時期
    同志らとの交流から思い立つという説採用(冨成博氏)。慶応元年の閏5月に桂小五郎に出会う旅の前か、あるいはその時に思い立ったことは事実その間の龍馬の行動をみると、中岡慎太郎ら(あくまでも中岡のみではない)同志らと大坂や京都で出会っている。 ※参考 坂本龍馬日記(上) 。坂本龍馬研究「薩長連合の歴史を考える」冨成博 (非売品、龍馬研究の会報から)
  • 桂と龍馬との出会いについて
    坂本龍馬日記(上)を参考「回天実記」「海西雑記」「維新土佐勤王史」より
  • 西郷が長州へ来なかった理由について
    参考「幕末維新奔流の時代」青山忠正(文英堂)。
  • 5万の幕府軍が進軍
    (第二次長州征伐) 家茂が入京したことから。5万の数字は西郷への手紙による。 研究は富成博氏
  • 薩長同盟7ヶ月前について
    龍馬が西郷のいる京都へ向かった時期から(慶応元年6月15日「海西雑記」より)
  • 龍馬の20日の行動について
    伏見寺田屋→薩摩藩邸→桂の宿舎(小松帯刀邸)→薩摩藩邸 ※明確な経路は不明ですが、桂小五郎の宿舎が小松帯刀邸とした経路を取り上げました 参考文献:桂久武の「上京日記」 冨成博「薩長連合の歴史を考える」(坂本龍馬研究、会報)。 「龍馬がゆく」司馬遼太郎。「坂本龍馬と薩長同盟」芳即正(高城書房)
  • 「坂本龍馬の肖像」「龍馬の書簡」
    高知県立歴史民俗資料館 高知県南国市岡富町八幡1099−1
    рO88−862−2211
  • 「西郷隆盛の肖像」
    尚古集成館
    鹿児島県鹿児島市吉野町9698−1
    рO99−247−1511
  • 「勝海舟の肖像」  個人蔵
  • 「中岡慎太郎の肖像」個人蔵  
  • 「坂本龍馬の書簡」
  • 京都国立博物館
    〒605−0931 京都市東山区茶屋町527 075−541−1151
  • 「幕末京都の古地図」
    京都府立総合資料館 京都市左京区下鴨半木町1−4
    рO75−781−9101
  • 「薩摩藩の歴史」
    鹿児島県歴史資料センター黎明館
    鹿児島県鹿児島市城山町5−1
    рO99−222−5100
  • 「坂本龍馬の歴史について」
    霊山歴史館 京都市東山区清閑寺霊山町
    рO75−531−3773
  • 「坂本龍馬の墓」
    京都霊山護国神社
    京都市東山区清閑寺霊山町
    (JR京都駅から市バスで「東山安井」下車徒歩8分) рO75−561−7124
番組内で使われた資料などの所蔵先一覧
-
参考文献
  • 主な参考文献
  • 「坂本龍馬日記上・下」菊池明・山村竜也(新人物往来社)
  • 「坂本龍馬と薩長同盟」芳即正(高城書房)
  • 「薩長連合の歴史を考える」冨成博氏の龍馬研究会報
      рO88−823−8837(龍馬研究会)
  • 「歴史群像 坂本龍馬」(学研)
  • 「坂本龍馬大辞典」 「木戸孝允」冨成博(三一書房)
  • 「西郷隆盛」田中惣五郎(吉川弘文館)


第11回
吾輩は小説家である
〜夏目漱石・東大辞表提出の時〜

放送日

放映日:平成12年6月14日(水)21時15分〜21時58分 総合
再放送:平成12年6月16日(金)15時00分〜15時43分  BS2
    平成12年6月18日(日)7時45分〜8時28分   総合
     ※近畿ブロッ クのみ
出演者
松平 定知 アナウンサー
中條誠子アナウンサー

○ スタジオゲスト
関川 夏央(せきかわ なつお・作家)
明治の作家をテーマにした作品多数あり。
夏目漱石を主人公にした「坊ちゃんの時 代」 (共著)など。
番組概要

その時:明治40年3月25日

出来事:夏目漱石、東京帝国大学に辞表を提出し、朝日新聞専属作家となる

 明治40年(1907)3月25日 夏目漱石、東京帝国大学に辞表を提出する」日本を代表する文豪・夏目漱石。
英文学者だった漱石は明治40年、東京帝国大学を辞め、作家へと転身する。漱石の生きた明治時代、大学教授の地位は権威ある高いものだった一方、作家という職業の認知度と経済的な安定度は低いものだった。東大の講師をしながら執筆した『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』の発表後、漱石は大学を辞めてしまう。その背景には「西洋文明」を受容し「役に立つ人間であれ」という課題を背景に追わされた苦悩があった。人にレールを敷かれた人生から自らを解放したいという願望の元、東京帝国大学教授という将来を保証された「地位」を捨て、不安定な「作家」の道を選んだ夏目漱石の決断の時を描く。

番組の内容について
● 番組の内容について
  • 夏目漱石の著作本について
    岩波書店より「漱石全集」(全28巻・別巻1)刊行。
    そのほか新潮文庫やちくま文庫、角川文庫などからも文庫本が刊行。
  • 番組オープニング、エンディング
    出てきた漱石の著作本、および「吾輩は猫である」(全3巻)は、漱石の初版本を復刻したもので、日本近代文学館から刊行されている。
  • 番組中に引用した夏目漱石の文章について
    イギリス留学中の日記
    『吾輩は猫である』
    大正3年の講演『私の個人主義』
    明治40年5月4日に東京朝日新聞に掲載された『入社の辞』
    ※いずれも岩波書店「漱石全集」に所有されています。
    「日記」は岩波文庫から『漱石日記』として、「私の個人主義」は晶文社の「21世紀の日本人へ」シリーズ『夏目漱石』でも読むことが出来る。
  • VTRに出てきた場所などについて
    冒頭のリポートに出てきた「夏目坂」→新宿区喜久井町。「夏目坂」の碑があります。
    東京大学→文京区本郷。加賀藩邸時代からの「赤門」。漱石の小説「三四郎」からその名がつけられた「三四郎池」など。
    松山時代の漱石の下宿「愚陀仏庵」 →松山市。県立美術館の一角に復元されています。 通常は、室内への立ち入りはできません。
    東北大学附属図書館→仙台市青葉区川内。漱石の蔵書や日記、大学時代のノートなどの資料を所蔵。
    インターネットで漱石自筆資料の映像にもアクセスできます。 http://www.library.tohoku.ac.jp/library-j.html
    (東北大学附属図書館ホームページ)
  • 東北大学で漱石の日記や洋書の解説をしてくれたのは
    仁平道明さん(東北大学教授・国文学)
  • 漱石の旧居が移築されている「明治村」
    〒484-0000愛知県犬山市1番地
    0568-67-0314
    漱石が、ロンドンから帰ってきた明治36年から、明治39年まで住んでいた住居。
  • 当時の「お金」が現在の金額でいくらに相当するかの換算について
    換算法については、専門家の意見を採り入れ、当時の生活と現在の生活において、価値が大きく変動していないと思われるものを基準にしました。ホテルなどのパーティ(会食)にかかる費用、明治40年ごろ:2円。現在:15000円。これを基準にして、漱石の時代のおよそ7500倍の金額が現在の価値に相当するというかたちで換算しています。
  • 漱石の肖像写真
    全て日本近代文学館および神奈川近代文学館から借用
  • 漱石卒業時の名簿 ・東京大学所蔵(東京大学史料室)
  • 漱石が松山時代に書いた(俳句の)句稿
    神奈川近代文学館所蔵
  • 漱石の留学辞令
    神奈川近代文学館所蔵
  • イギリス留学時の漱石の日記
    東北大学附属図書館所蔵
  • 「吾輩は猫である」が掲載された「ホトトギス」(明治38年1月号)
    神奈川近代文学館所蔵(連絡先上記)
  • 漱石がロンドンから親友・正岡子規に宛てたハガキ
    個人蔵
  • 「坊ちやん」の原稿
    個人蔵
  • 「坊ちやん」の頃漱石が書いた手紙 『森田草平宛書簡』
    個人蔵
  • 明治維新頃の写真 ・川べりの写真(江戸橋)
    PPS通信社
  • 大通り(明治6年の銀座)
    石黒コレクション保存会
  • 少年漱石が読んでいた教科書『小学読本』
    国立国会図書館所蔵
  • 正岡子規肖像写真
    NHK
  • 高浜虚子肖像写真
    NHK
  • 島崎藤村肖像写真
    NHK
  • 坪内逍遙肖像写真
    早稲田大学演劇博物館
  • 島崎藤村の小説「破戒」、坪内逍遙の小説「当世書生気質」の書籍写真
    近代日本文学館
番組内で使われた資料などの所蔵先一覧
-
参考文献
  • <主な参考文献>
  • 漱石世界の案内
    「新潮日本文学アルバム・夏目漱石」(新潮社)
  • 漱石の評論・研究など
    「漱石とその時代・第1〜第3部」江藤淳 (新潮社)
    「世紀末の予言者・夏目漱石」小森陽一 (講談社)
    「漱石を読みなおす」小森陽一 (ちくま新書)
    「朝日新聞記者・夏目漱石」(立風書房)
    「街道をゆく・本郷界隈」司馬遼太郎 (朝日文芸文庫)
  • 漱石を主人公にしたフィクション
    「坊ちゃんの時代」 関川夏央/谷口ジロー
      (双葉社/アクションコミックス)
  • 漱石自身のエピソードが綴られているものに以下のものがあります。
    「道草」夏目漱石(新潮文庫ほか) ※自叙伝的小説。
    「漱石の思い出」夏目鏡子 述(文春文庫)※鏡子夫人の語る漱石。
    「漱石全集/別巻」(岩波書店)※漱石の友人・知人達の語るエピソード集 )



第12回
蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件
〜実録・大化改新(たいかのかいしん)のクーデター〜

放送日

放映日:平成12年6月21日(水)21時15分〜21時58分 総合
再放送:6月23日(金)15:00〜15:43、BS11   
     6月25日(日)7:45〜8:28、総合テレビ関西ブロック
出演者
松平 定知 アナウンサー
黒崎めぐみアナウンサー

○ スタジオゲスト
門脇禎二(かどわきていじ)京都府立大学名誉教授
番組概要

その時: 645年6月12日

出来事:中大兄皇子、中臣鎌足ら、蘇我入鹿を暗殺
 飛鳥で権勢を誇った蘇我入鹿(ソガノイルカ)が、中臣鎌足と中大兄皇子によって殺された入鹿暗殺事件。大化改新のきっかけになったというこの事件は、通常独裁政治に走る蘇我氏を鎌足らが討ち、新しい国家建設への第一歩となったという解釈で語られる。しかし最近の研究では、蘇我氏は決して残虐非道ではなく、国際情報を取り入れ最新学問である仏教を推進した開明的な氏族であったといわれている。 何故入鹿は殺されなくてはならなかったのか。暗殺の舞台となった飛鳥板葺宮(アスカイタブキノミヤ)、蘇我氏の大陸との結びつきを示す難波津(ナニワノツ)などの発掘研究成果と、研究の進む日本書紀などの文献資料を合わせて読み解きながら、大化改新の真実に迫る。
番組の内容について
  • 蘇我入鹿が暗殺された乙巳(いっし)の変の絵巻物
    「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」より 江戸時代成立 番組で使用した蘇我入鹿(そがのいるか)、蘇我蝦夷(そがのえみし)肖像画はこの絵巻物から抜粋した
  • 中臣鎌足(なかとみのかまたり)画像
    平安時代以降成立 所蔵先:談山神社(たんざんじんじゃ)
    〒633−0032 桜井市多武峰 
    рO744−49−0001
  • 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)想像画像
    「中大兄皇子と中臣鎌足」より。 昭和初期の作品
    所蔵先:伊勢神宮徴古館農業館
    〒516−0016 伊勢市神田久志本町1754−1
    рO596−22−1700
  • 日本書紀神楽岡(かぐらおか)本
    所蔵先:天理大学附属天理図書館
    〒632−8577 天理市杣之内町1050
    рO743−63−1515(代)
    室町時代の写本だが、内容は同図書館所蔵の国宝と変わりない
  • 鎌足家伝(かまたりかでん)
    ただし一般には「藤氏家伝(とうしかでん)」の名で知られている
    所蔵先:(財)水府明徳会 彰考館徳川博物館
    〒310−0912 水戸市見川1−1215−2721 
    рO29−241−2721
  • 蘇我馬子肖像
    「聖徳太子勝鬘経講讃図(しょうまんきょうこうさんず)」より
    所蔵先:叡福寺
    〒583−0995 南河内郡太子町太子2146
    рO721−98−0019
  • 伝天武天皇御画像
    所蔵先:金剛寺
    〒639−3635 吉野郡川上村神之谷
    рO7465−4−0632
  • 聖徳太子肖像、山背皇子(やましろのおうじ)肖像
    「聖徳太子二王子像」より
    所蔵先:宮内庁侍従職御物係
    〒100−8111 東京都千代田区千代田1−1
    рO3−3213−1111
  • 蘇我・物部の戦いの図
    「聖徳太子絵伝」より
    所蔵先:四天王寺
    〒543−0051 大阪市天王寺区四天王寺1−11−18
    рO6−6771−0066
  • 藤原京模型
    制作:(株)京都科学
  • 伝飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡
    飛鳥寺は奈良県明日香村内にあり、見学可。
    飛鳥寺:〒634−0103 明日香村飛鳥飛鳥寺
    рO744−54−2126
  • 鹿島神宮
    茨城県鹿島市にあり、番組で紹介した亀の甲羅は宝物館にあり見学可。
    鹿島神宮:〒314−0031 鹿島市宮中2306−1
    рO299−82−1209
  • 暗殺現場となった飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)再現CG
    奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所で制作した「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)エビノコ郭」CGに、一部修正、加筆して新たに制作した。建物は板葺き、堀立柱形式で当時の建築様式になっている。
    建築監修:元奈良国立文化財研究所所長 鈴木嘉吉(かきち)氏
    CG制作:(株)ヤマネ 「飛鳥浄御原宮エビノコ郭」CG 
    所蔵:奈良県立橿原考古学研究所所附属博物館
  • 同時代の復元衣装
    「四天王寺ワッソ」で使用している衣装を使用して、髪型などは当時のものに近づけた。 肖像画とは食い違いがあるが、「まげ」を結い、合わせ襟の唐風の衣装になるのは天武朝の衣装改革以降であり、「みずら」を結い、丸襟の再現が当時のものに近いと考えられる。
    風俗監修:京都橘女子大教授 猪熊兼勝(いのくまかねかつ)氏
    衣装所蔵:四天王寺ワッソ事務局
    髪型再現:(有)ミナミ美容室
  • 暗殺現場の再現
    「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」に見られるように、日本書紀の記述から後世の人が想像した現場は大極殿(だいごくでん)の内部での暗殺だった。しかし考古学の調査では後世の大極殿に該当する建築様式は、当時まだ建築されていない(鈴木嘉吉氏の教示による)。 また中大兄皇子は槍を、鎌足は弓矢を構え、いずれも屋外用の武器で、建物の内部での戦闘に不向きのものである(猪熊兼勝氏の教示による)。 こうしたことから、蘇我入鹿の暗殺現場は屋外であったと考えられている。 日本書紀にある中大兄皇子や鎌足らが隠れた「脇」を、鈴木嘉吉氏は建築様式上「脇殿」と呼ばれるものであると解釈しておられ、今回の再現ではこのお考えに従ってCGとドラマを制作した。 庭での人物の配置については、書紀や家伝に記された、蘇我入鹿(そがのいるか)、蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)、古人皇子(ふるひとのおうじ)以外にも数人の大夫(まえつきみ)がいたことが考えられる(門脇禎二氏の教示による)。 しかし、その詳細を記した記録がないので、記録にある上記の3人を映像で表現するにとどめた。 また内容は全て、「鎌足家伝」の記述に従って再構成したものである。
  • 難波宮下層の外交官舎跡
    いわゆる難波宮下層遺跡と言われる一連の遺跡群で、前期・後期2つの遺跡が重層する難波宮(なにわのみや)の、さらに下から出土している。 柱列の並び方から、住居とも倉庫とも考えられず、何らかの官舎的な建造物が存在していたと 考えられている。
    黒田慶一1988「熊凝考−難波郡と難波宮下層遺跡−」(『歴史学と考古学』高井悌三郎先生喜寿記念論文集)を元に位置を特定し、CGを作成。 ただし建築物の形式については発掘調査から明らかにすることは出来ず、 復元されたCGも同時代の建造物(例えば飛鳥板蓋宮)から類推したものである。
  • 鎌足は無位無冠の中流官人だった
    「『大化改新』史論」(上)p236参照。書紀には「神祇伯(じんぎはく)」に任ぜられた、との記述があるが、門脇氏説によれば後世の官職名で当時は存在しない。 当時の婚姻慣習で、相手の女性は同じような身分の氏族の出身者に限られた。鎌足の第1婦人は車持氏(くるまもちうじ、運送関係を扱った)の娘であり、従って鎌足は連性(むらじせい)クラスの中流官人と考えられる。
  • 白村江の読み方
    教科書の記述では最近“はくそんこう”“はくすきのえ”並列を採っている。 “はくすきのえ”は、日本書紀の古代仮名使いから来た言葉で、中国の旧唐書や新唐書では白江(はくこう)、朝鮮の三国史記では白沙(はくさ)と称され、定まった呼称がない。 こうしたことから最近の辞書では(吉川弘文館『国史大辞典』など)、日本書紀にのみ見られる特殊な読み方である“はくすきのえ”に拘らず、“はくそんこう”と単純に音読みにする。番組でもこれに従った
  • 難波宮の建造年代を652年としたこと
    改新の詔が蘇我入鹿暗殺の翌年の、646年に発せられたと書紀は記す。 これが難波に於いてであり、646年に難波宮が存在ないとおかしいという説もあるが今回は、改新の詔が発せられたのは以前からあった大郡宮(おおごおりのみや)であるとする門脇氏の説をとった。 日本書紀にも、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が建造された記述は 652年のところにある。従って番組ではこの年代に従った。
番組内で使われた資料などの所蔵先一覧
-
参考文献
  • <主な参考文献>
  • 門脇禎二「『大化改新』史論」(上)(下)思文閣出版 
    …事件の経緯と大化改新を鋭く分析
  • 門脇禎二「飛鳥古京 古代びとの舞台」吉川弘文館
    …蘇我氏とは
  • 川崎康之編「日本人物大系 @古代」朝倉書店
    …青木和夫氏の「藤原鎌足」の項
  • 宇治谷孟(つとむ)「日本書紀」全現代語訳(下)講談社学術文庫833
    …簡明に書紀について知る
  • 坂本太郎他「日本書紀」(下)岩波書店
    …書紀注釈
  • 沖森卓也他「藤氏家伝 注釈と研究」吉川弘文館
    …鎌足家伝(藤氏家伝)注釈
  • 村山孚(まこと)「孫子・呉子」徳間書店
    …「六韜(りくとう)」を含む古代中国兵法書解説



第13回
戦火の中でアニメが生まれた

放送日

放映日:平成12年6月27日(水)21:00〜21:42 総合テレビ
再放送: 7月2日(日)07:45〜08:28  総合テレビ(近畿のみ)
・衛星放送での再放送は祝日編成のため、ありません。
・また5月8日以降の再放送は一切 ありません。
出演者
松平 定知 アナウンサー
中條誠子アナウンサー

○ スタジオゲスト
小野 耕世(おのこうせい)【映画評論家】
戦時中のアニメ、海外のアニメに詳しい。桃太郎海の神兵のリバイバル公開時のパンフ(昭和59年)にも解説を執筆。
著書に「中国のアニメーション」など
番組概要

その時:昭和20年4月12日

出来事:アニメ「桃太郎海の神兵」公開の時
手塚治虫が「桃太郎海の神兵」を見た映画館→大阪松竹座
(現在大阪松竹座は演劇用劇場となっており、映画上映は行っていません)
 昭和20年4月12日、焦土の中で一本のアニメーションが公開された。
セレベス島メナド落下傘奇襲作戦を題材にした、長編アニメ「桃太郎海の神兵」。 これを公開当日、大阪松竹座で見た手塚治虫は「日本でもついにこんな見事な作品が作れるようになったか!」と涙し、一生に一本でよいから漫画映画を作る決心を固めたという。 「その時」日本は世界にも稀なアニメーション大国へと歩みはじめる。
番組では、日本アニメの父・政岡憲三と、監督・瀬尾光世の師弟を主人公に、国産動画の胎動と急速な展開を遂げたその後を展望。本格的アニメ誕生に至る「その時」を描く。
番組の内容について
  • 紹介されたアニメ
    『桃太郎海の神兵(同時収録;くもとちゅうりっぷ)』
    松竹SHVベストセレクション \3,800税別
    松竹ホームビデオから発売中 
    松竹株式会社ビデオ事業部03-3542-5551
    ☆その他の作品は現在簡単には見ることは出来ません。
  • 番組中紹介したアニメ作品
    F東京国立近代美術館フィルムセンター(F)、プラネット映画資料図書館(P)、松竹株式会社映像版権部(S)、ウォルトディズニーテレビジョン(D)、虫プロダクション(M) 各社にご協力いただきました。
    以下、タイトル前のアルファベットは提供先を示します。
    P『兎と亀』
    作画・演出:山本早苗 1924(大正13年) 製作:北山映画製作所
    F『つぼ』
    監督:山本早苗 1925(大正14年) 製作:山本漫画製作所
    F『難船ス物語第一篇猿ヶ島』
    監督:政岡憲三 1930(昭和5年)製作:日活太秦漫画映画部
    F『お猿の三吉・突撃隊の巻』
    作画・監督:瀬尾光世1934(昭和9年)製作:日本マンガ・フィルム研究所
    F『アリチャン』
    作画・演出瀬尾光世動画:持永只仁1941(昭和16年)製作:芸術映画社(公開昭和17年)
    F『桃太郎の海鷲』演出、撮影:瀬尾光世 1943(昭和18年) 製作:芸術映画社
    F『くもとちゅうりっぷの原作 『よい子強い子』
    横山美智子 文昭社(昭和14年9月18日)
    S『桃太郎海の神兵』
    脚本,撮影,演出:瀬尾光世 影絵:政岡憲三1945(昭和20年)製作:松竹株式会社
    D『ファンタジア/2000』 より「魔法使いの弟子」
    (この作品のみ1940年版ファンタジアと同内容です)5月7日まで東京、大阪などで上映中。 F東京アイマックスシアター
    M『鉄腕アトム』
    タイトル(放映年1963年:日本初の30分テレビアニメシリーズ)原作・監督・脚本:手塚治虫 製作:虫プロダクション
    M『ジャングル大帝』
    (放映年1965年:日本初のカラーテレビアニメシリーズ)原作:手塚治虫
    第三話「動物学校」より監督:永島慎二 脚本:石郷岡豪・雪室俊一 製作:虫プロダクション
  • 写真などで紹介した政岡アニメ作品
    『難船ス物語第二篇海賊船(海の冒険)』
    監督:政岡憲三1931(昭和6年)製作:日活太秦漫画映画部
    政岡の屏風‥‥ 原画が貼ってあります。
    『力と女の世の中』
    監督:政岡憲三 動画:瀬尾光世他1932(昭和7年)製作:松竹蒲田映画/政岡映画製作所(日本初の本格的トーキーアニメ作品)
    『仇討ち烏』
    『ギャングと踊り子』
    監督政岡憲三 動画:瀬尾光世他1933(昭和8年)製作松竹蒲田映画、政岡映画製作所 
    ☆上記3本はフィルムは現存していないようです。
  • 政岡憲三(1898〜1988)
    アニメーション作家。大阪市西区生まれ。セル画の功績大。 日本アニメの父と称される第一人者。代表作『難船ス物語第一篇猿ヶ島』1930(昭和5年) 『力と女の世の中』1932(昭和7年)『べんけい対ウシワカ』1939(昭和14年) 『くもとちゅうりっぷ』1943(昭和18年)『桜(春の幻想)』1946(昭和21年) 『すて猫トラちゃん』1947年(昭和32年)。
  • 政岡憲三の墓(人魚姫)
    埼玉県・越生町・地産霊園内
  • 戦後の政岡憲三の挿し絵
    『小学三年生』(小学館)昭和27年 1,2,3,6,10,11月号 瀬尾光世(1911〜)アニメーション作家。本名徳一。姫路市生まれ。 戦後は童画家・瀬尾太郎として活躍。代表作は『お猿の三吉・防空戦の巻』1933(昭和8年)『アリチャン』1941(昭和16年:日本初マルチプレーン撮影)『桃太郎の海鷲』1943(昭和18年)『桃太郎海の神兵』1945(昭和20年)。現在川崎市高津区在住。
  • 瀬尾太郎の本
    資料提供:大阪国際児童文学館 『講談社の一年生文庫10いたずらこぶた』(昭和27) 『講談社の一年生文庫45はなぶらちゃん』(昭28)『講談社の漫画絵本おもちゃのサーカス』(昭30) 『講談社の幼児絵本三匹のこぶた』『りきぞうさん』大日本雄弁会講談社 (昭和30) 『講談社の一年生文庫はなとこぐま』(昭和32)『小学館の育児絵本67かちかちやま』(昭和41年) 『ぴーたーうさぎのぼうけん』ポッター・光吉夏弥編 光文社 (昭和31年)
  • 参考にした映画資料
    資料提供:阪急学園池田文庫 『キネマ旬報』「我が邦に於て漫画映画は育つかどうか」日本動画研究所 政岡憲三1939(昭和14年)3月1日号 『映画』「くもとちゅうりっぷ」紹介「漫画が動くまで」昭和17年8月号映画宣伝連合会刊 『映画評論』 「日本漫画映画のために」今村太平 昭和18年3月号Vol.3 No.3 『映画旬報』 「最近の漫画映画」今村太平 昭和18年3月1日号 No.74
  • 写真提供
    ●日劇の写真(昭和11年&昭和17年) 社団法人映画文化協会
    ●手塚治虫肖像写真 写真家・江成常夫 手塚プロダクション資料室
    ●焼け野原の大阪 毎日新聞社フォトバンク
    ●政岡憲三肖像、自宅、女形 上田嘉奈女(政岡憲三の妹)
    ●政岡憲三の写真 木下敏雄(キノプロ社長)
    ●戦前の松竹動画研究所 熊川正雄(政岡憲三の弟子・アニメーター)
    ●戦前の大阪松竹座外観 松竹関西演劇資料室
    ●その他、番組のほとんどの写真は 渡辺泰氏(アニメーション研究家)から拝借したものです。
  • スタジオで紹介した冊子
    資料提供 豊田善敬(堺市) 『銃後の大阪』第6号 昭和19年8月15日大阪市役所市民局軍事課発行(戦地に送られていた慰問用冊子)「まんが映画くもとちゅうりっぷ」政岡憲三書き下ろしのカラーページ
  • 番組に関する時代背景についてのデータ
    1898 明治31年10月5日 政岡憲三、大阪市西区に生まれる
    1911 明治44年9月26日 瀬尾光世、姫路市飾磨町に生まれる
    1917 大正6年 日本で初めてのアニメーション「芋川椋三玄関番の巻」が作られる
    1930 昭和5年 政岡憲三第一作『難船ス物語第一篇猿ヶ島』公開
    1931 昭和6年 満州事変
    1932 昭和7年 政岡憲三、政岡映画製作所設立 瀬尾光世、政岡のもとに弟子入り
    1933 昭和8年暮 瀬尾光世 上京、独立
    1936 昭和11年 日本で最初のニュース映画専門劇場が東京・日劇に出来る
    1937 昭和12年11月 政岡憲三、日本動画協会設立
    1939 昭和14年3月1日 政岡憲三 「我が邦に於て漫画映画は育つかどうか」をキネマ旬報に発表
    1939 昭和14年10月14日 映画法施行
    1941 昭和16年 政岡憲三、松竹に入社 松竹動画研究所製作課長
    1941 昭和16年12月8日 日本軍、真珠湾奇襲
    1942 昭和17年1月11日 日本軍 オランダ領インドネシアセレベス島メナド付近に落下傘降下作戦
    1942 昭和17年2月12日頃 瀬尾光世、海軍省から「桃太郎の海鷲」製作命令
    1942 昭和17年2月15日 日本軍・山下中将とイギリス軍司令官パーシバル中将との会談
    1942 昭和17年8月 ガダルカナル、アメリカ軍侵攻
    1943 昭和18年3月25日 「桃太郎の海鷲」公開 興行収入64万円(現在の10億円以上)

    1943 昭和18年
      2月1、4、7日

    ガダルカナル、日本軍撤退
    1943 昭和18年4月15日 「くもとちゅうりっぷ」公開 監督官庁からクレーム文部省推薦得られず
    1943 昭和18年10月18日 学徒出陣 神宮外苑にて壮行会挙行
    1944 昭和19年1月 瀬尾光世、松竹入社
    1944 昭和19年7月9日 サイパン陥落
    1945 昭和20年3月10日 東京大空襲
    1945 昭和20年4月12日 「桃太郎海の神兵」公開 手塚治虫、大阪松竹座にて感涙
    1945 昭和20年 8月15日 終戦 その後「桃太郎海の神兵」プリント焼却
    1963 昭和38年 1月1日 日本初の30分テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」放送開始
    1970 昭和45年 日本初の30分カラーTVアニメシリーズ 「ジャングル大帝」放送開始
    1982 昭和 57年 松竹大船撮影所にて 「桃太郎海の神兵」オリジナルネガ発見
    1984 昭和59年8月 東京国立美術館フィルムセンターにて「桃太郎海の神兵」リバイバル上映
    1988 昭和63年11月23日 政岡憲三死去(90歳)

  • 撮影協力
    株式会社大船撮影所、株式会社映像鎌倉、北野天満宮 松竹不動産
  • 松竹動画研究所のビル
    現在の東京・歌舞伎座の隣、文明堂銀座店のビル
番組内で使われた資料などの所蔵先一覧
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参考文献
  • 参考文献
    『日本アニメーション映画史』 山口且訓・渡辺泰共著・プラネット編 有文社 1977
    『夢をつむぐ 大衆児童文化のパイオニア』 尾崎秀樹 光村図書 1986
    『帝国の銀幕 十五年戦争と日本映画』 ピーター B. ハーイ 名古屋大学出版会
    『観たり撮ったり映したり』 手塚治虫 キネマ旬報社 1995
    『映画を作りながら考えたこと』高畑勲 徳間書店 1999
    『アニメーション入門』森卓也1966 
    『劇場アニメ70年史』アニメージュ編集部編
    『松竹六十年史』松竹株式会社
    『日本映画史』1〜4 佐藤忠夫 岩波書店
    『日本アニメの飛翔期を探る』細萱敦 読売新聞社、美術館連絡協議会2000 円









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