「宝島30」 1993.12
母との別離が、角川春樹に何をもたらしたのか、それを理解するのはさほど難しいことではないが、しかし、どんな事情で母と生き別れなければならなかったのかという疑問に答えるのは、そうたやすくはない。
だが、『花冷え』を読むかぎり、答えは明快である″母の不倫の発覚、それこそが離婚の直接のきっかけに他ならない。
すでに明らかなように、この私小説は、少なくとも疎開先の富山を舞台にした前半はほぼ、事実に即したものである。となれば、戦後の東京での生活を中心とした後半も同様であろうと考えるのが自然である。であるならば、作者・辺見じゅんの分身である主人公の亜紀が、家庭教師・三村のもとへ出かけていった際に目撃した場面も、作者自身が体験した実話なのだろうか。
<「ごめんください」云いかけて、言葉をとぎらせた。何やら話し声が聞こえた。
音をさせずに亜紀は縁側の端に立った。
「……もう帰らなくちゃ……あら五時をすぎたの……駄目よ、……亜紀が来たらどうするの……わからないわよ、あの子勉強が嫌だなんていってるけど、気まぐれな子だから……」
きれぎれの甘やかな摂やき(ママ)であったが、母、佐久子の声に違いなかった。三村の言葉にならない呟きがうねりのようにかぶさった。
「……ア……いや、駄目って云ったでしょ……ねえいけないわ……いや……」
艶めいたあえぎが再び聞こえ、障子の影があやかしを秘めて揺れた。母の声とは信じられなかった。信じられない母の吐息が亜紀に迫るように感じられた時、亜紀ははじかれたように飛び出した>
亜紀が現場を目撃した頃には、母・佐久子と不倫相手の三村との中は、すでに周囲の人間の噂の種になっていた。その日の夜、寝つけないまま布団にくるまっていた亜紀は、以前に友達に言われた言葉を思い出す。
「あたし、いいとこ見ちゃった。あきちゃんの母さんとね、若い男の人…あれ、だあれ」
子供から脱皮して多感な季節へと足を踏み出しかけていた亜紀には、「母がこの上もなく汚く思えた」。そして自分の母が「母でなくなること」に、「憎しみ以上の敵意」どころか「殺意」すら覚えた。
しかし、母は自分の娘の胸のうちを知らない。知ろうともしない。よそよそしくなった三村をあきらめきれず、友人を介して何とか気を引こうと焦る。
<「あたし、このままじゃね、どうしても諦めきれないの……だから奥さんに相談してるんじゃないの、お願い、ね、もう一度奥さんから……ね……気持ちを聞いて欲しいの……」
「…………」
「あたしの気持ち、わかるでしょう……」
「……それで、亜紀ちゃんたちのことはどうするの……自分のことばかり考えていたってさ、少しは子供のこと……」
「……わかってるわよ……だから、奥さんに頼んでるんじゃないの……」
佐久子が声高く戦くと、嗚咽が聞こえた。襖越しに佇んでいる亜紀の存在など少しも思いやろうとしない、必死の姿勢であった>
不実なのはしかし、妻・佐久子だけではない。夫の祐次も、家に何度か訪れたことのある入村麻子という女性と深い仲にあった。父の留守中に書斎に忍び込むのを密かな楽しみとしていた亜紀は、ある日、引き出しの中にしまわれていた一葉の写真を見つけだしてしまう。
<写真を取り出した時、亜紀は一瞬、鈍痛を覚えた。それは、同じアングルで写された、祐次と、あの二、三度訪れたことのある入村麻子の写真であったからだった……その日以来、亜紀は祐次の書斎に訪れる倖せを喪った>
その後、互いに相手の不貞を知ったのか、父と母の、いつ果てるともしれない連日連夜のいさかいが始まり、やがて亜紀は「人を信じることに諦めと疑い」を抱くようになる。
<夜中にぽっかり目を覚ますと、佐久子の溜まりかねた声が泣いてでもいるのだろうか、鋭く、それでいて言葉にならない叫びで聞こえる。子供たちの目を覚まさせないために小声で云い合っていたらしい祐次が、重い口調で
「……そんなこといつまでも云い合っていたってしょうがないじゃないか……お前のしてきたことも少しは考えてみろ……」
我を忘れて声を高くさせるのが脅かされるようで、亜紀は恐わくなった>
<いつまでこんな朝のない夜のが続くのであろうか――怯えに戦く亜紀の前で、諍かいが空しい起点に終着したのだろうか、祐次が着がえも持たず家を飛び出してしまったのはそれからまもなくだった>
ある日、学校から帰宅した亜紀は、「気が狂ったように泣きわめいている」母を目のあたりにする。
<茶の間は無惨な形相をしていた。畳に投げすて、ほおり出された、花器や枯れた花、ひっくり返った食卓膳は、そのまま佐久子の感情を物語っていた。
「……訴えて……やるウ、わたしを……バカになんかされるもんかア……家庭裁判所にだって……フン……どこにだって……」
立ちすくんでいる亜紀の気配にも気づかず、佐久子の声は殺気だっていた。あおむけになった佐久子の体は崩れて、汚れた足袋の足までもがあらわな感情をむき出していた。そんな母が亜紀にはたまらなくみにくかった>
亜紀と時夫が、T県の祖父母に預けられるのは、その後間もなくのことだった。傷心の亜紀にとっては、かつては実の母以上に思慕を寄せていた祖母・しなの存在も、うとましく、信じられない大人の一人でしかなかった。
<「……あき、お前等を捨てた母ちゃんのこと、間違っても恋したらあかんで」
しなの思わず飛び出した鋭い口調が、亜紀に痛みと怒りとを与えた。
「母さんを恋しがって何で悪いんや。あたし知っとるがや。おばあちゃんな、あたしの小さい時、母さんをいじめたこと……」
「あき!いいかげんでやめんと、つめつめするで。佐久子な、な、だらな尻軽女や」
「しりがるおんなってなんや?」
「お前達な、な、子供なほおって、男を作ったり、遊び歩く女や云うんや……とうちゃんのこと少しもみんといて」
「ちがううわ、母さんだけが悪いのやないわ、父さんだって……」
その時、あきの頬にしなの手が伸び、つねられた。その痛さを感じる前に、火がついたように亜紀は泣き出した。
「あき、とうちゃんの悪口云わんのや」
「嫌いや!とうさんも、ばあさんも、みんな嫌いや!」
ここまで読み進めてきた読者なら、誰でも母の不倫は事実であっただろうと確信するはずである。『花冷え』を一読した後、私が抱いた印象も基本的には同じなのだが、ひとつだけ引っかかる点があった。後半部のほとんどが母の不倫の顛末を描くのにあてられているのに対し、父親の描写は極端にとぼしい。まるでのっぺらぼうに等しく、父の持つ男としての業や罪はほとんど描き出されていない。奇妙に思って表紙の見返しをみると、「題字・角川源義」とある。おや、と思う。両親をはじめ、自分の一族の恥部を赤裸々に描いたかに見えるこの作品は、源義に「公認」されていたわけである。「公認」してくれたものに対して筆が甘くなることは、あり得なくはない。
ひょっとすると、ここに書かれているのは、源義にとって都合のよい「事実」だけではないか、そんな疑惑が富山に行くまで、頭の隅からずっと離れなかった。
「離婚の原因は、源義にだって落ち度があるんですよ」
断定するような強い口調で、そう話してくれたのは、やはり角川家の親戚にあたる、ある年配の女性だった。仮にKさんとしておこう。
「源義は冨美子さんを離縁したとき、ミシンすら渡さなかった。女癖が悪い自分にも落ち度があったはずでしょう。おかしいですよ。私に限らず、富山の角川家の親戚には冨美子さんに同情的な人間は多いですよ。普通は自分と血のつながってる者をひいきするものです。それが逆というのは、よくよくのことだと、お分かりでしょう。源義は、冨美子さんに男がいたと私らに対しても言ってました。子供たちにもそう言い聞かせたんです。だから、子供が母親を侮辱するような小説を書くんでしょう。私らには文学なんて分かりません。私小説というものは自分の恥も身内の恥もさらけ出して書いていくものらしいけど、いまでも釈然としないんです。冨美子さんに落ち度があったかどうか、富山にいる私たちには本当のところは分からない。だけどその話は源義の創作で、彼女を追い出すためにいちゃもんをつけたんじゃないか。そういう疑いを今でも拭いきれないんですよ」
歯切れよく話すKさんだが、しかし後妻に入った照子夫人に話題が及ぶと、とたんに歯切れが悪くなりトーンが落ちた。
「……どんな事情で照子さんと源義が一緒になったか噂に聞いていないこともないけど、本当のところはよく分かりません……」
何か逃げを打つような口振りで、そう言ったあと、急いで彼女はこう付け加えた。
「でも、照子さんはいい人ですよ。自分の感情を抑えて、決してでしゃばらない人です。自分の血のつながらない三人の子供を育て上げるなんてことも、普通の人にはなかなかできることじゃありません。そういう女の人を源義はまた泣かせるんですからねえ。罪作りですよ、本当に……。考えてみれば照子さんもかわいそうな人ですよ。苦労したあげくに、自分のお腹を痛めた子供を早々と亡くしてしまったんですから……」
照子夫人がお腹を痛めて産んだ子供の死。18歳で自ら命を絶った少女の悲劇について次に語らなくてはならない。
ねむり得ず獄舎の上の天の川
ふとん一枚ほかなにもなき雨月かな
獄の中秋の日数の過ぎゆけり
春樹が詠んだ獄中句である。獄につながれた自分の身の上と、そのわびしさを、淡々と詠んでいる作品は、かつて詠んだ句の、神話や伝承の世界に飛躍して、自分や父を神話化する大仰な身振りの句風からは、およそ遠い。
向日葵(ひまわり)や信長の首切り落とす
墳(つか)山の天狼(シリウス)父にまぎれなし
栗の花日本武尊(やまとたける)の目覚めけり
長良川花は狂気の阿修羅かな
春樹の獄中句は10月半ば、『サンデー毎日』誌上に26句がまとめて掲載されたが、その発表前に、私は先の三句だけを、富山県高岡市に住む俳人・安養白翠(はくすい)氏から聞いていた。今年88歳になる白翠氏は、源義の同郷の先輩にあたる。若い頃から晩年までとぎれることなく親交を結んだ、おそらくは唯一の人物である。
「春樹の事件を聞いたとき、わしゃ悲しくて情けなくて……長生きはするもんじゃないと思った」
先にあげた三つの句は、短歌の会に出席するため、10月1日に高岡を訪れた辺見じゅんから聞いたものだという。
今までの春樹さんの句風とはずいぶん違いますよね。これ、境涯句っていうんじゃないですか。私がそう訊くと、「そう、その通り」と、白翠氏は膝を打った。
「境涯句以外の何ものでもない。源義も、いろいろ神様の知識をこねくりまわして難しい句を詠んでいたが、晩年は一転して、『軽み』のある境涯句を詠んだ。春樹もそうや。けどな、早すぎる。境涯句なんぞ、老人が詠めばいい。若いうちは、生命力旺盛なんだから、元気な句を詠めばいいんだ。春樹が50そこそこで、こんなわびしい句を詠むのかと思うと痛ましい。もっとも源義も、境涯句を急に詠みだしたのは、50代の前半で、老け込むにはあまりに早い歳やったが……」
白翠氏の言葉どおり、源義自身も「年に似合わぬ、晩年の意識が生じた」と、72年、55歳の歳に上梓した句集『冬の虹』のあとがきで記している。早すぎる晩年の意識をもたらしたものは、春樹の場合は獄につながれた経験に他ならないが、源義の場合は、後妻の照子夫人との間に生まれた末っ子の真理の死だった。
<悲劇は突然前触れもなくおとづれる。末子眞理を亡くし、鎮魂の句業がいくばくか生じた>と、源義は飾ることなく書いている。
<眞理は遅れてこの世に生を得たので、大学を卒へ嫁ぐ日までは生きながらへねばならぬと、ひそかに人生の計をたてていた……しかし、眞理の死によつて、私は終着駅を失ひ、乗換駅でまごまごし、別の目的地さがしを始めている。眞理を野辺に送つた日から気力を失ひ、何事にも手のつかぬ日々をすごした。年齢に似合はぬ晩年の意識が生じた>
源義の、痛切な痛みがひしひしと伝わってくる一文である。『冬の虹』から、いくつか句をひろってみよう。
節分の鬼面福面眞理出でよ
春雨や花をたやさず眞理と居る
聖五月いくたび家によぶことぞ
冬うぐひす業深きにや眞理消えず
<彼女が昇天した日から、仕事を終へ夜半に酒をくんでいると、二階からことことと駆け下りて来て、私に話しかける>
二階から下りてきて話しかける娘は、18歳の少女であったり、幼い頃の童女の姿であったりしたのだろう。真理の霊と交わした言葉が、そのまま五七五に固まった句もある。
二階より駆け来よ赤きトマト在り
衣かへ一と日遊べや父のもと
まづ父の雪の足型につきて来よ
「真理(まり)」という名前は、武者小路実篤の小説『真理(しんり)先生』からとられた。武者小路実篤や阿部次郎など、理想主義的な傾向の作家・文人の作品に傾倒していた源義が自ら名づけたという。
真理の死はおそらく、波乱の人生に身を置きながらも、彼の中ではたしかに灯り続けていたはずの希望の明かりの最後を意味してもいたのだろう。
しかし、その当時すでに28歳の青年だった春樹の目には、娘の死を嘆く父の姿が、痛ましいものとしてではなく、どこかしら嘘くさい、不実なものとして映っていた。俳人・金子兜太との『河』誌上での対談(79年)で、春樹は、真理の葬儀の模様を「大人のウソの茶番劇を見てる感じ」と語っている。
<角川 ……妹が18で死んだ。自殺したんです。5月21日でした。……電話がかかってきて、妹が死んだと。最初、車の事故かと思ったら、自殺だったんですね。会社を休んで行くわけです。ちっとも悲しいって雰囲気がないんですね。もう、口笛吹きながら家に入っていって、そんなに死というものが悲しいものだという観念はなかったんですね。死なれた親父にしたら、いろんなことあるでしょうけれどもね。実際、妹の死んだ理由の一つは、父に責任があったと思いますからね。だから、妹の死を悲しむ父を見ていても、えらい白々しく感じたわけです。
金子 ほほオ。あの句集(註・『冬の虹』)はどうでした、お読みになりました。
角川 読んでません。何編かの句は読んでますけどね、句集は読んでません。
金子 やっぱりその気持ちですか。
角川 やっぱりね、白々したという感じですかね。その妹の葬式のときに、大きな声で花環の注文をそこからしているわけです、印刷屋のオヤジなんかが。人の死というものに対して、妹の死に駆け付けてきた角川の重役も、印刷屋のオヤジも、そこでいいとこ見せて、点数稼ぐみたいなもんなんですよ。親父は親父で責任は自分にあるのに、その責任はとらないみたいなね。
金子 うーん。
角川 まだ角川も二十代で若かったから、断じて大人になりたくないと思ったね>
妹の死について語っているにしては、ひどく冷淡な印象を受ける。しかしよく読めば、その冷淡な態度は、対談の中で繰り返している「父の責任」に起因しているとわかる。真理の死は、父親である源義の責任である、そのことを知りつくしているがゆえに、悲嘆する父の姿に白けてしまい、葬儀にも感情移入できないのだと、彼は語っているのだ。
真理の死が、春樹の心を揺さぶっていなかったわけではない。彼は、真理の鎮魂のために映画を製作・監督している。原田知世主演の『愛情物語』(84年)は、亡き妹へ捧げるレクイエムなのである。
パンフレットの解説には、「角川監督は、かつて、自らプロデュースした映画『人間の証明』は、自分の生みの母へのレクイエムであると語ったが、この『愛情物語』は、実際に若くして自分の命を絶った自分の妹に捧げる映画だと説明している」とか書かれている。
「妹の自殺まで、商業的に利用し、映画の製作・宣伝の材料にした」と陰口を叩く人もいないではないが、それはうがった見方であると思う。この映画を、春樹は真摯につくっている。それゆえ、この作品が失敗に終わったとすら、私には思われる。
この映画は、赤川次郎の同名小説が原作だが、ストーリーは大幅に書き直されている。
原田知世演ずる美帆は、3歳の時に捨てられた孤児だが、継母の治子(倍賞美津子)によってすくすくと育てられ、16歳になる今はミュージカル・スターを夢見ている。美帆は、毎年誕生日にバラの花を贈ってくれる”あしながおじさん”を、自分の実の父親だと固く信じていて、その「幻の父」と会うために一人旅に出る。探し当てたのは陶芸家の篠崎という中年男(渡瀬恒彦)。彼は実は本当の父親ではなかったが、自分の妹を自殺で失った過去があり、美帆にその妹の面影を見て、二人で旅をしながら”あしながおじさん”捜しを手伝うことになる、と言ったストーリーである。
春樹がこの映画に投影している実人生の要素は二つある。ひとつは、継母のもとで育ったという、春樹・真弓・歴彦の三人の境遇。もうひとつは、妹を自殺で失った中年男、という自分の境遇。
ミュージカルという虚構性の強い素材に、春樹の実人生の要素が入ってくるのには無理がある。熱気の必要なダンスシーンと寒々しい家族の物語との温度差に観客は振り回される。それがこの映画の失敗の原因なのだが、ビデオを見直してみて、妹の自殺についてかなり明確に描写されていることに驚いた。
篠崎が持っている妹の写真のアップ。セーラー服の少女が卒業証書を手に微笑んでいる。ぱらりとそれが裏返しになる。
<妹、真理、享年十八歳>
その写真は、実在の真理の遺影だったのだ。
衝撃だったのは、篠崎の娘が登場する、わずか2カットの場面である。ひとつは少女が桃色の和服を着て、「すいません」と短い遺書を書く場面。書き終えると、彼女は赤い帯あげを解く。次のカットでは少女の姿は見えない。ただ、桜の花びらが散るなか、干し台で赤い帯あげが揺れているだけである。詩的な映像であり、観客はこのシーンがまさか角川春樹の実在の妹の死を描いているとは思わなかっただろう……真理は、自宅の二階の物干しで命を絶った。縊死だった。
真理は、女優の川口晶(あきら)によく似た、愛らしい少女だったという。川口晶と春樹が、映画『犬神家の一族』を製作していた頃につき合っていたことはよく知られた話である。春樹は彼女に亡き妹の面影を求めていたのだろうか。
しかし、この映画には自殺を暗示する場面はあっても、死を選ばなければならなかった妹の内面までは描かれない。わずかに篠崎が美帆に、次のように打ち明けるだけである。
「自殺だったんだよ
妹……ふたりきりの兄妹だった
何んにもしてやれなかった
”すいません”てたった一言だった」しかし、この場面になったとたん、音声が突然消え、台詞は字幕スーパーで語られるのだ。それは監督の春樹自身が口ごもってしまっているかのようにみえる。春樹は先の対談でも妹の自殺には「父に責任があった」と強い口調で言いたてるが、その責任とは何かとなると急に言いよどむ。彼を口ごもらせてしまう何らかの重い禁忌(タブー)がそこに働いているらしい。
これから青春を謳歌しようとする18歳の少女が、なぜ突然、死を選んだのか。あるいは選ばなくてはならなかったのか。
角川書店のある関係者は、「真理さんが、上の三人の兄と姉と、母親が違うということを知ってショックを受けたのでは」と推測する。だが、これは説得力に欠ける。真理にとっての実母である照子が、父・源義の後妻であることは、何も特別の秘密であったわけではない。家庭の複雑な事情を理解するのに、ある程度の歳月は必要ではあったろうが、普通に考えれば、思春期には気づきそうなものである。感じやすい年頃の少女に、それは決して小さい衝撃ではないだろうが、実母と生き別れた春樹らに比べれば、世情の落ち着いた戦後の東京で生まれ育ち、産みの母から離れることなく、物質的にも不自由せずに育ったのだから、死を選ぶ動機としては根拠があまりに薄い。
話は源義のことに戻る。
角川源義と親交の深かった志摩芳次郎という俳人がいる。俳誌『河』の創刊の時には源義の右腕として尽力した人物で、一時期は角川書店で禄をはんでいたこともある。その彼が、源義の死語に書いたエッセイ「無鶴亭雑記」の中に、興味深い記述がある。
<ぼくが角川氏とはじめて会ったのは、昭和23年頃であったろうか>
<初期の交際時代でおぼえているのは、角川氏が彼女と歩いているところを、ぼくが見てしまい、ぼくが彼女と歩いているところを、角川氏に見つかってしまい、それを機会に、親密の度が俄かに加わったという事実である。僕も角川氏も結婚歴では前科者である。
角川氏が連れていた女性は、のちの夫人であり、ぼくが一緒のところを見つかった女はぼくのいまの女房である。
角川氏は堂々としていて(というよりも、けつをまくったのかもしれない)見られた以上仕方がないといって、ボクに御馳走をしてくれた。場所は駿河台下……衆人環視のなかで、少しも悪びれずに、むしろうれしそうにさえみえた>
<そのおなじころに、角川氏の家庭にある不祥時(ママ)が起こった。新聞にも報道された。たぶん角川氏はひどい衝撃をうけ、うちひしがれているにちがいないと思った>
「のちの夫人」とは、冨美子ではありえない。冨美子と源義は、国家総動員法が発令された38年(昭和13年)、源義がまだ国学院の学生時代に東京で二人だけの結婚式を挙げているのである。親の反対を押し切っての、当時とすれば珍しい恋愛結婚であった。二人が正式に入籍するのは翌39年7月に最初の子供・真弓が生まれた直後、同年8月だった。源義23歳、冨美子20歳の夏である。
ということは、連れ歩いていた「のちの夫人」とは、照子以外にはありえない。もちろん冨美子は、志摩が二人を目撃した当時、角川夫人として天沼の家に子供達と暮らしていたはずである。「少しも悪びれず」とは、源義も図太い神経をしているものだ。
気になったのは「ある不祥事」という言葉だった。何でも遠慮なくずけずけと書く志摩芳次郎が、この点だけはさらりと触れただけで何も説明していない。それだけにひどく不自然な印象が残る。
実は『花冷え』の中にも、何のことか分からない、謎めいた記述が出てくる。離婚後、新しいお母さんとして入村麻子はどうかと、父親が機嫌をとるように亜紀にもちかけるくだりである。亜紀が抑えていた感情を解き放ち、「みんな知ってるわ。お父さんがみんな悪いのよ!」と泣き叫ぶと、父はなだめるようにこう言った。
「……亜紀……亜紀が大きくなってね。嫁にでも行くようになったら、父さんが何で母さんと別れるようになったか、本当のことを話してやるよ……」
亜紀はこの言葉をのちに思いだして、自問自答する。
「あの時の父の言葉が想起された。本当の理由……本当の理由とはどんなことであろうか」
父と母の、双方の不倫を描いておきながら、さらにそれとは別の「本当の理由」の存在が暗示され、しかもそれは作品の中でついに明かされない。これはどういうことなのだろう。
富山で人と会うたび、この疑問を持ち出してみたが、誰も答えを与えてくれなかった。
謎は謎のまま残るのだろう。そんなあきらめ気分が日に日に濃くなっていったのだが、明日は帰京するという日、ある人と出会った。名前はむろん、男性か女性かも記すわけにはいかない。角川家の親類の一人ということだけ記しておく。とりとめない思い出話が続き、そろそろ席を立とうかと思ったとき、その人がぽろりと、こう漏らしたのである。
「……あんた、知っとるけ。ほんとは知っとるんやろ」
は?何をですか。
「いや、あのことやがいね。照子さんの最初の子供のことや」
最初って、照子さんの子供は真理さんひとりじゃなかったんですか?
「あんた、知らんかったんがいね」
その人は、しまったな、という色を顔に小さく浮かべた。私は間を置かずに、その子供はどうなったんですか、と聞いた。
「……死んでしもうたがや」
死んだ?病死ですか?
「……………………」
しばらく沈黙の続いたあと、ぽつりぽつりと、その人は語りはじめた。それはまさしく、私の頭の片隅にひっかかっていた「ある不祥事」についての話だった。
悲惨な話だった。悲惨すぎてにわかには信じがたかった。思いもよらない秘密を打ち明けられた私は、取材の予定を大幅に変更しなくてはならなかった。その話の真偽を確かめるために、富山、東京、そして冨美子の故郷・岩手と歩き回った。当時の事情を間近で見て知る幾人かの人達が、重い口を開き、長い間封印してきた角川家の真実を私に語った――。
照子と源義がそもそも知り合うきっかけをつくったのは、実は冨美子だった。戦後間もなくのことである。
終戦の年、復員した源義は小さな元手から出版業を始めた。子供達も疎開先から戻り、角川家の親子水入らずの生活が再開された。
東京・天沼(あまぬま)にあった角川家の近くに、中井繁一の一家が住んでいた。「ローマ字詩運動」と社会主義を奉じていた詩人でもあったという中井は、当時は指圧師として生計を立てていた。その中井の次女が照子だった。
時折、冨美子は指圧をしてもらうために、中井を呼んでいたが、あるとき、商業学校を出たばかりだった19歳の照子を、角川書店の事務員として働かせてもらえないか、という話になった。冨美子を通じて源義にその話が伝えられ、照子は入社を許されたという。
終戦直後の物不足の時代である。富山や、冨美子の田舎の岩手から米や味噌が送られてくる角川家は、当時としてはかなり豊かな暮らしをしていた部類に入った。豊かとは決していえない暮らしぶりだった中井家は、冨美子から米や味噌を分けてもらえることに非常に感謝していたという。
そうこうするうち、様子がおかしくなる。「荻窪駅周辺で源義と照子が手をつないで歩いていた」といった噂話が近隣に広まるようになり、冨美子の耳にも入ってくる。荻窪には照子のアパートがあった。さらに、照子のお腹が目立ち始めるようになると、近所の人々も「結婚もしていないのに」といぶかしむようになる。冨美子は、源義にも、照子や彼女の親にも、噂の真偽を確かめるため、問い詰めたようだが、はぐらかされ続けたという。
おそらくは照子が子供を産む前のどこかの時点で、それが源義の子であることを、冨美子も確信したはずである。泥沼のようなやりとりが、源義と冨美子と照子の三者の間で取り交わされたことは想像にかたくない。このときに源義が、照子本人と産まれてくる子供をどう処遇するのか、照子側とついに折り合えなかったことが、決定的な悲劇を招き寄せる結果となってしまう。根本的な解決がはかられないままに時間はいたずらに過ぎ、照子は子供を出産した。
そして、その2ヶ月後、惨劇は起こった。
<愛児を絞殺 二十六日午後五時半ごろ杉並区荻窪三の一五〇和楽荘内会社事務員中井照子(二二)は道夫(一つ)ちゃんを六畳の間で扼殺、荻窪署に検挙された。取調の結果照子は一昨年七月ごろ勤務先の同区天沼二の五二二角川源義(三三)と恋仲となり、その後角川に妻子があるにもかかわらず関係を続け、本年四月道夫ちゃんを出産したが、入籍のことから悩み、思案のうえしめ殺したものと判明した>
(「報知新聞」49年(昭和24年)7月28日付)
全国紙のほとんどが、実名入りでこの事件を報じ、「朝日新聞」では、「赤ん坊をしめ殺す」の見出しとともに、照子の顔写真も掲載された。
<荻窪署では二十七日赤ん坊殺しで杉並区荻窪三ノ一五一和楽荘内、中井照子(二二)を検挙した、調べによれば同女は都内某出版社につとめるうち、同社主と関係、男児を出産したが、籍のことでもめ、さる二十六日あさ添寝中、生後三十三日の赤ん坊を絞め殺したと自供>
(「朝日新聞」同日付)
警察の手が照子の自宅と角川の家に入り、照子が逮捕されただけでなく、源義も重要参考人として取り調べを受けた。
愛児に手をかけるとはよくよくのことである。そこまで思いつめるほど、当時まだ二十歳そこそこの若い照子は精神的に追いつめられていたということでもある。痛々しいというほかに言葉がない。源義は富山の実家と相談し、子供のいなかった兄・源三の養子として引きとると提案していたというが、そういう前時代的な解決の発想自体、彼女にとって受け入れられるものではなかったのだろう。
異様なのは、むしろ事件後の経過である。
照子の身柄を、彼女の両親が受け入れるのを拒否したため、源義が預かることになった。そのため角川家の二階には照子が住み、一階では源義一家が生活を営むという異常な事態となった。本妻の冨美子としてみれば、文字通り気も狂わんばかりだっただろう。
冨美子と照子が顔を合わせれば、下手をすれば刀傷沙汰に及びかねない。そのため、照子は二階の部屋に鍵をかけて閉じこもった。食事はお手伝いの女性が下から運び、用足しは二階に手洗いがなかったため、おまるを持ち込んで済ませた。
冨美子にとっても照子にとっても、角川家の誰にとっても、これは生き地獄以外の何ものでもない。2ヶ月あまりにもおよんだ、この異常な同居生活の間、源義はいつものように会社に出社して仕事をこなし、子供達は学校へ通っていたのである。歴彦はまだ幼児だったが、春樹は小学校一年生、真弓は四年生だった。ことの成り行きのすべては天沼一帯の人々に知られ、角川家の家族は好奇の視線にさらされ続けていた。
こんな状況が続いて、神経が衰弱しなかったらよほどおかしい。ついに同年10月5日付で源義と冨美子の離婚が成立し、子供達は事件のほとぼりがさめるまで富山に預けられた。また、天沼の角川邸では、冨美子との離婚が成立する前から、源義と照子の同居生活が始まっていた。源義の公式の年譜によれば「昭和24年に結婚」したとなっている。
ちなみに冨美子との結婚と離婚についての記述は、角川源義に関するどの資料を見ても見あたらない。彼女の名前と痕跡は、『角川源義全集』その他、源義についての一切の公式資料から消されている。軽率なマスコミがしばしば春樹と歴彦を「異母兄弟」と報道することがあるが、それはこうした公式資料の不自然な記載が誤解の原因となっている。
なお、娘の身柄の引き受けを拒んだ照子の親も、後に角川家に入り、他界するまで角川の家で晩年を過ごした。
志摩芳次郎が「ある不祥事」と呼んだもの、あるいは『花冷え』の中で、ついに書かれることのなかった「父さんと母さんが別れるようになった本当の理由」とは、以上のようなものであった。
そしてつけ加えるならば、春樹が、「真理の死は父に責任があった」と断定している根拠も、おそらくはこの悲劇にある。
「真理ちゃんが自殺した理由は、自分が生まれてくる前に起こったこの事件を知ってしまったからではないかと思うんですよ」
事件について話してくれた人達のうちの一人は、私にそう言った。
「幸せいっぱいに生まれ育ったはずの彼女が、そんな出来事があったのだと知れば、どれほどのショックを受けることか。私は、それ以外に彼女が自殺を選ぶ理由なんて思いあたらないんです」
真理の自殺の原因が実際のところ何であったか、当人がこの世にいないいま、詮索しても仕方あるまい。それは誰にも分からない永遠の謎として残るだろう。だが、仮に最初の子供の非業の死が、次の子供の死に結びついているのだとしたら、照子夫人ほど「悲しい母」はいない。
ギリシャ三大悲劇詩人の一人エウリピデスは、男の裏切りに激高した女が我が子を殺す悲劇『王女メディア』を残している。黒海の都コルキスの王女メディアは、夫イアソンが自分を裏切り、新しい花嫁グラウクを娶ったため、悲嘆と怒りの果てに、グラウクとその父を焼き殺し、さらにイアソンとの間に生まれた自分の二人の息子を自らの手で殺して、イアソンへの復讐とする。
源義の二人の妻は、私にはメディアのそれぞれの分身に思える。妻の座にあった冨美子は、夫の裏切りに耐えかねて、子をおいて夫のもとを去った。照子は、「信じていた」男に裏切られたと思いこみ、我が子の命を絶った。
この二人はむろんのこと、角川家のこの悲劇にかかわったすべての人間が、深い傷を負った。
しかし、もっとも大きな災禍を被ったのは、誰だったであろうか。いうまでもなく、子供たちである。絶命した二人の子供と、母を失った三人の子供である。
この悲劇には、後日談がある。
源義と冨美子が別れるに際して、もっとももめたのは子供の引き取りの問題だった。源義の側は、三人とも引き取ることを主張した。冨美子は、三人の中で一番ひ弱でもっとも母親を必要としていた春樹を引き取りたいと考えていたが、ゆくゆくは角川家の跡継ぎとなる長男ということで泣く泣くあきらめ、結局、歴彦だけを冨美子側が引き取ることで双方が合意に達した。
これで最後の別れという日、6歳の歴彦を連れた冨美子と、娘を迎えに上京していた冨美子の母親を、源義は上野駅まで見送った。母娘が汽車に乗り、もうすぐ出発というとき、源義は「最後に一回だけ、抱かせてくれないか」と頼んだ。窓越しに冨美子が歴彦を手渡すと、源義はそのまま猛然と駆け出して逃げた。だまされた! と冨美子が思ったときには遅く、汽車は出発していた。冨美子が半狂乱になりながら赤羽経由で引き返し、天沼の角川邸に着いたときには、家はもぬけの空で、どこにも家人の姿はなかったという。
結局、その日はあきらめていったん帰郷したのが冨美子にとっては仇(あだ)となった。源義は以後、子供の引き渡しには頑として応じず、女ひとりで生きていくのに精いっぱいだった冨美子は機会を逸し、ずるずると今日に至るまでそのままになってしまった。
もし源義があの時、約束通り素直に母子を上野駅で見送っていたら、角川書店を再建しようとする歴彦新社長の今日の姿はなかったはずである。
あるいはもし春樹を渡していたら――。メディア界の風雲児、角川春樹の存在はむろんありえなかったろう。しかしどちらが春樹本人にとって幸福であったかは、私にはわからない。
花あれば西行の日と思ふべし
源義が晩年に詠んだこの句は、彼の代表句として知られている。
あの<悲劇>から歳月が流れ、源義も逝った。彼の命日である10月27日は、秋燕忌と呼ばれ、最近では俳句の季寄せ(歳時記)にも登場するようになった。
毎年、欠かさずに法事を行ってきた春樹だったが、85年は函館での映画のロケが長引いて帰京することができなかった。秋燕忌の当日の早朝、徹夜の撮影現場から戻ってきた当時43歳の彼は、鏡の中をのぞきこんだときに、ある「発見」をする。
<撮影現場から戻ると、ホテルの洗面所に入り、髭を剃ろうとした。なにげなく鏡に映すと、そこに父の貌があった。58歳で永眠した父を少しだけ若くした貌は、むろん私自身なのだが、まるで双子の兄弟のように瓜二つだったのである。そのことに、私は強いショックを受けた。
私は大学入学まで、明らかに生別した母親の特徴を受け継いでいたからである。ある日、父は私に、
「おまえは俺の子ではないかもしれん」
私の行動が父の意に添わなかったことに原因はあるのだが、しかし、父の吐いたこの言葉を、かなりの間、私は許すことができなかった。
父の命日に、父の貌を自分の中に見たということは、何らかの寓話なのだろうか?>
「おまえは俺の子ではない」という心ない言葉は、母親の不倫によって生まれてきた、父とは血のつながらない忌むべき子供、ということだ。そういわれた春樹は、母を侮辱された怒りと、ひょっとすると本当に父と血がつながっていないのではないかという不安と、二重の苦痛を味わったことだろう。だからこそ長い間「許せない」と憎んでいた父と、43歳になって自分とが瓜二つであると気づいたことは二重の苦痛が最終的に消滅しただけでなく、父との和解の時が近づいたことをも意味している。
あの悲劇が起こり、母と生き別れにならなければならなかった7歳の年から、この時点で36年の歳月が経っている。癒されるまでにそれだけの時間を費やしたということに、彼の負った傷の深さがあらわれている。
春樹のいう「寓話」は、「みにくいアヒルの子」が、自分が何者であるかを悟ると同時に、怨念が浄化されてゆくことを暗示しているのだろう。それは血脈の証明である。
しかし、「鏡の中の貌」に、私たちは別の暗喩を読みとることもできる。父に似ていなかった息子が、父に似てきたということは、彼が、父親と同じような人生をいつのまにか歩んできた、その歴史の証しであると。それは血の宿命のせいばかりではない。人生における本人自身の選択の堆積でもある。
大きな犠牲を払って二人目の妻との家庭をもった源義だったが、多情の血はおさまることなく、幾人かの愛人をつくり、最後には草村素子と半同棲の日々を送った。素子の葬儀の日、彼女の夫と並んで参列した源義は人目もはばからずに涙をこぼし続けた。
春樹もまた父以上に多情多恨の遍歴を重ねた。結婚と離婚を繰り返し、三人の女にそれぞれ一人ずつ子供を産ませもした。しかし、どの家庭にも根をおろすことなく、彼は次々と愛人をつくり、そして捨てた。その<無頼>を特権化する根拠が、彼の体を流れる<聖なる血>だった。
春樹は前出の父の句に応えて、「先師に遺句集『西行の日』あり」と書き添え、こう詠んでいる。
西行忌遺句と残れよ聖家族
忌まわしい悲劇の記憶は、時間とともに彼の中で聖化され、血族を神聖視する神話の起源となったのかもしれない。
しかし、彼は知っていただろうか。父が最後に愛した女性が、神聖悲劇を大きな身振りで語る男たちというものを、こんな冷ややかな目で見つめ続けていたことを。
神話おほかた愛の争ひ建国日