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「宝島30」 1993.12

前後編企画・誰も書かなかった「角川家の一族」


角川春樹
地獄の家の秘密

その1


春樹が自らの「狂気」の源だとする「無頼の血脈」とは?それをたどる筆者の前に現れる恐るべき真実の数々! 父・源義の乱れた「女性関係」、「妻妾同居」させられた春樹の実母の悲劇、春樹の異母妹の突然の「自殺」、そして、角川家が必死に隠し通してきた忌まわしき「惨劇」!


「10月27日 快晴――父が死んだ」

 そんな書き出しから、角川春樹は「父へ」という短いエッセイを始めている。

<父の血圧は異常に下がり、蝋燭の火が消え入るような心細い息を吐き続けていた。生と死が肉体の中で戦っていた。生は死に圧倒され、心臓に直接注射器が打ち込まれ、思わず神に叫んだにもかかわらず、食い入るように見続けていた心電図は、午前11時58分、遂に空しく黒い直線を描き出した。外は清々しい秋の街だった>

 1975年(昭和50年)、家族に看取られ、静かに息を引き取った角川源義(げんよし)のベッドの周辺には、大勢の友人・知人・親戚などから寄せられた見舞いの鼻や品々が飾られていたはずである。その中には、二日前の土曜日に宮中から届けられた花もあった。源義の妻・照子の筆による「看病日誌」にはこうある。

<10月25日(土曜日)……宮内庁の車で皇太子よりメッセージとお花。美智子妃殿下より御殿の秋の花々を竹の篭にみずからいけられて届けられる。野菊、りんどう、紫式部と主人の好きな野の花ばかり。>

 華やかな死、という言葉は適切な修辞ではないかもしれない。死そのものは誰にとっても、華やかであるはずがない。そうであっても、ついそう形容したくなる、死に際というものがある。

 出版社の創業社長として成功し、文学博士号を取得して大学の教壇にも立ち、俳人としては『河』という俳誌の主宰として、1,700人からの門弟の上に立つ。そんな功なり名をとげた男が、皇室をはじめとする各界著名人からの見舞いの花々に包まれ、家族に看取られながら息をひきとる。世俗的成功を熾烈に求めた男の最後としては、これ以上は望むべくもない臨終のあり方である。新聞は彼の「偉大」な業績を讃えてその死を報じ、政府からは正五位勲三等瑞宝章が授与された。

 しかし、そんな「偉大な男」に、もうひとつの貌(かお)があったことはほとんど知られていない。




招かれざる見舞客

 入院中の源義に面会を求めたおびただしい数の見舞い客の中に、F子さんという女性の姿があった。F子さんは、病床にある源義を囲む角川家の人間から歓迎されない、おそらくは唯一の見舞い客だった。

 彼女は、この一年前の8月3日、子宮ガンで亡くなった女流俳人・草村素子女史の残した長女である。草村素子は、雑誌『河』の創刊(1958年12月)から編集発行人を引き受け、自宅をそのための作業場に提供して、長年『河』の屋台骨を支えてきた女性である。その遺児が、源義の病気見舞いをはばかられるのには、理由があった。

 草村素子が、源義の晩年の「愛人」だったためである。

 二人の仲は、『河』の関係者にも、角川書店の関係者にも公然の秘密であった。源義は悪びれもせず、草村宅から会社へ車で出社した。二人の関係は、出逢いから死別まで、10年あまりに及んだ。

 源義の容態が危ないといわれていたとき、ひと目、死に目に会いたいと願っていたF子さんを、病室まで手引きしたのは、『河』の同人だったCさんという女性だった。

「F子さんが、会いたがっていただけでなく、源義先生の方も彼女と会いたがっているのを知っていましたから」とCさんは語る。

「F子さんと妹のH子さんは、子どものときから、ずっと源義先生をお父さんのように慕っていたんです。本当のお父さんが別の女性に走って家を出てしまっていたので、父親がわりの存在だったんです。草村先生のお宅であぐらをかいてくつろぐ源義先生のお膝に、ちょこんと乗っかっていた姿は忘れられないですよ。死に目に会えないのでは、あまりに不憫でしょう。でも、角川家の家族の皆さんのお気持ちも分かっていましたから、悩みました。照子さんはじめ皆さん、草村さんが憎いあまり、『河』の人間まで敬遠しているほどでしたから」

『河』の同人の中では、角川家の人間に、例外的に受け入れられていたCさんは、迷った末、結局F子さんを連れて行く。

「看病なさっている照子さんたちが病室を外すわずかな時間を狙って、それも、目立たないよう、他の『河』の同人の女性たちと一緒に行きました。病室に入ると、源義先生はF子さんを見て、『おお、来てくれたのか』と言って、本当に嬉しそうな笑顔を見せたんですよ。良かった、と思いました。後は私たちは外へ出て、二人だけにしてあげました。妹のH子さんは地方に嫁いでいたので、同行できず、あとでひどく残念がっていました。」

 角川春樹を語るはずのこの文章を、父・源義の今際の際における、ささやかな逸話から始めたのは、ほかでもない。角川春樹の人生に決定的な影響を与えた父・源義について、私たちはあまりに知らなすぎると言いたいためである。




父・源義は無頼の人であった

 角川書店は昨年来、春樹の実弟・歴彦(つぐひこ)副社長の追放劇、春樹の長男・太郎のホモセクハラ事件、そしてコカイン密輸事件と、世情を騒がせ続けてきた。これら三つの事件は、角川春樹の乱心と、それに怯えた家臣たちの静かな謀反であり、その不可解さは最終的には春樹という人間のはらむ「大いなる狂気」に収斂される――前号において私はそう述べた。

 では、角川春樹が自ら命名した、その「大いなる狂気」とは何か。

 わたしは前号の拙稿の最後で、春樹の詠んだ句を引いた。

米飾るわが血脈は無頼なり

 源義と春樹、この親子は、少なくとも世間の目には対極に位置する性格の人物として映じてきた。高潔な文士と、価値紊乱(びんらん)を謀る無頼の問題児。父子の間で激しい葛藤の歴史があったこともよく知られている。

 しかし、その「問題児」自身は、自分に流れる無頼の血を、父からひきついだ角川の血であると言いきっているのである。

<父は無頼の人であった。しかし、私は父の無頼性を憎んだことは、一度もない。私のほうが、はるかに無頼であったからである>

 春樹が居直るかのように誇示する父譲りの無頼の血とは何だろうか。




春樹の姉の私小説『花冷え』

 洪水のような角川の事件報道の中で、誰からも注目されず、言及されることもなかった一冊の本がある。タイトルは『花冷(はなび)え』。七曜社から1964年に発刊された長編の私小説である。

 この作品が世人の注意を引くことがなかった理由は、版元の七曜社自体がすでに存在しないためばかりではなく、著者が「清水真弓」という本名を使っていたからだろう。その後、「辺見じゅん」というペンネームを名乗る。言わずとしれた大宅賞作家であり、角川春樹の姉である。

 この小説の存在を教えてくれたのは、源義が主宰していた俳誌『河』に一時期、同人として籍を置いていたある女性だった。

「春樹さんのことを理解するためには、源義先生と、ひいては角川家一族の歴史を知る必要があるっていうのは、あなたのおっしゃる通りです」と、彼女は言った。

「私は断片的にはいろいろな事情を知っています。でも私の立場からはお話しできません。その代わりと言ってはなんだけど、ひとつヒントをさしあげましょう。真弓さんがずいぶん昔に書いた『花冷え』っていう小説があるんです。そこには、あなたの知りたいことがいろいろ書かれています」

 30年も前に出た本である。入手するのにひどく骨が折れた。データベースで辺見じゅんの著作を調べても出てこない。やっと手に入れ、一読し、驚き、唸った。三代にわたる角川家一族の歴史の空白を埋める手がかりが、そこにはぎっしりつまっていたのである。

 この小説は、戦中・戦後の時代を背景に、亜紀という少女の幼少期から初潮を迎えるまでの物語で、大きく二幕に分かれている。

 前半は、亜紀が疎開したT県の片田舎の父の実家が舞台。その北村家の旧家で彼女は、父の兄、安一の嫁に対して鬼のようにいびり抜く祖母・しなの姿を見る。

 後半は戦後の東京で、父母のもとに帰ってからの話である。亜紀を待っていたのは恋い慕う「幻の慈母」ではなく、浮気をしているらしい夫への苛立ちを亜紀たちにぶつける一人の女だった。さらに亜紀は、家庭教師の学生と母の不倫の現場を目撃してしまう。

 一般には、これはある一人の少女の成長過程を描く教養小説(ビルドゥングズ・ロマン)として読まれるだろう。しかし、作者が角川春樹の姉であること、彼女と春樹が幼少期に富山の父・源義の実家に預けられていたなど、いくつかの予備知識を持っていた私には、この作品が、フィクションの体裁を借りたノンフィクションとしてしか読めなかった。

 亜紀は辺見じゅん(真弓)本人。大学教授の父・裕次は、角川源義。不倫をして家を出る母・佐久子は、生みの母の冨美子。甘ったれでひ弱な弟・時夫は春樹その人だろうと、頭の中で置き換えて読みすすめた。そうすると、これは角川家の家族史のまたとない貴重な史料に思われてくる。しかし、これが実話であるとするなら凄まじい話である。

 まず、祖母・しなの極端な二面性。

「三千世界にな、あきちゃんより可愛いもんな、おらんちゃ……」

「亜紀ちゃんな、なあ、おばあちゃんにとって、眼ん中にいれても痛あない程可愛いがや」

 祖母は毎晩添い寝をしながら、溺愛している亜紀にそう囁き続ける。

 亜紀には慈母のようなしなだが、長男・安一の嫁・くみには、鬼のような仕打ちを加える。安一にとってくみは、五人目の妻だった。それまでの四人の嫁は、姑のしながいびり抜き、追い出してしまったのだ。くみも、ついに耐えかねて、安一の留守中に家を出る。五人目の妻にも去られたことを知ると、安一は激しく荒れ狂い、母・しなを殴りつける。

 第二の山場は、主人公の父と母の愛憎劇である。歌舞伎の「居所がわり」のように場面は一転し、戦後の東京の山の手の典型的な中産階級の家が背景に描かれる。前半の舞台となった北陸の旧家の湿り気を帯びた暗さとは、それは鮮やかな対比をなす。老婆のようなプレ・モダンと、幼いモダンの対置と言ってもいい。しかしモダンな核家族にも、愛憎劇は侵入する。不在がちの父とヒステリックな母。ここでの対立は熱のない冷戦である。

 不倫に走った母は最後に家を出る。ところが、信じていた父までが「愛人」の入村麻子という女性を後妻に迎えようとしたため、亜紀はさらに傷つき、激しく反発する。

 物語は、北陸の旧家の祖父母の死でしめくくられる。その葬列の光景を前近代の終焉の暗喩とみなすこともできるだろう。

 葬儀が終わり、主を失った家に戻ってきた少女は、幼い頃、祖父にお仕置きのために閉じこめられた懐かしい蔵の中に入る。かび臭く、生温かい闇の中に孤独な身を浸し、静かにうずくまるところでこの物語は閉じられる。

 この小説の、文芸作品としての純粋な評価は文芸評論家に委ねるとしよう。ここに繰り広げられた家族の愛憎と相克の劇の、何が事実で何がフィクションか、どこにどれだけ仮構や誇張が混じっているのか、という一点に私の関心は絞られた。

 私は『花冷え』の全文コピーを携えて、角川源義が生まれ育ち、春樹らが幼少期の一時期を過ごした富山へ向かった――。




富山の鬼姑

 源義の生家のある水橋は、今は富山市に取り込まれているが、市街の中心地からは離れた静かな田舎町である。戦前は、水橋村だった。北陸本線の富山駅から鈍行で二駅目の「水橋駅」を降りると、すぐ目の前に源義のかつての生家がある。この屋敷は今は角川家とは無関係な人の手に渡っているが、水橋の地一帯には、角川姓の家が数多く点在している。たどっていけば、みんな親類縁者である。

 私は、この小さな田舎町を中心に、富山県内の親族や、ゆかりの人々を訪ねてまわった。取材に応じることをためらう人もあれば、驚くほど率直に語ってくれる人もいた。源義を子どもの時からよく知っているという年配のMさんは、そうした一人だった。

「あの小説、私も読みました。細かい点はともかく、大筋はほとんど事実の通りですよ」

 口ごもることもなく、意外なほどあっさりと、Mさんは話をしてくれた。

「何カ所か事実と違うところはありますよ。たとえば、源義の兄貴の源三さん(小説の中では安一)の嫁が五回代わっとることになっとるけど、本当は四回。源三さんは亡くなりましたけど、四人目のお嫁さんの文子さんは、今も水橋の隣町で健在です。でも、八重(やい)婆さん(小説ではしな)の嫁いびりが凄かったことは本当。登場人物の会話のやりとりなんかも、事実そのままという感じですわ。東京の家での雰囲気までは、私ら富山の者(もん)にはわかりませんけど……」

角川家の血筋に連なる別のある人は、

「八重ばあさんは、そりゃもう、きつい人やった」と、顔をしかめた。

「とにかく、お嫁さんをいじめていじめぬくんよ。えらい猜疑心の強い人で、やれ店の会計の帳尻が合わない、何かモノがなくなった、そのたびに大騒ぎして、嫁の実家は貧乏やからこっそり持ち出したに違いないと疑う。それをお嫁さん本人にも、家の人や近所の人にもふれて回るんです。本当のことを言うて、みんな八重婆さんは”鬼婆”やいうて眉をひそめてたがいね。ひどい話をいっぱい聞きましたよ。お嫁さんをこそ泥扱いするだけでなく、若夫婦の寝室の戸を、夜中にいきなり開けたりとか、子供が生まれないのは嫁に問題があると言いふらしたりとか。結局、お嫁さんが家を出される最終的な理由はいつも石女(うまずめ)ということやったから」

 石女というのはしかし、よくいえば誤解、もっと率直にいえばいいがかりにすぎなかった。離縁された三人の女性は、それぞれに別の家へ嫁ぎ、子をなしている。最初の嫁が再婚し、子供を出産したとき、お祝いにかけつけた八重は、母子を前に涙ぐんだという。

「この子が、源三との間に生まれておったらなあ……」

 元嫁にしてみれば、何を今さらという心境だったろうが、そのときの様子を見た人の話では、姑だったときには「鬼婆」のようだった八重が、別人のような表情を見せていたという。おそらく彼女は、嫁となった女性その人を憎んでいたのではなく、息子の嫁、という関係性そのものを憎んでいたのだろう。

 前述の小説『花冷え』では、しなくみを呼びつけて、延々と苛む様子がリアルに描写されている。

<『なんや、その眼な。それがわてに向ける眼か?安一のことを不具や云うて!……子な満足に埋めん恥な安一のせいにして、不具なのは、くみと違うか?」

 そのとき、しなの眼に怪しい光が宿り、しなの白っぽい乾いた唇に嗤いがのぼった。それは七十に近い老女の貌ではなく、妙に華やかであった。くみはくちびるをわななかせると、

「……わては、あんさんのこと……そんだらこと人様に云うたことありません。そんだらこと思うたこともありません。それをわてが子な産めんから云うてなんも、そんだらこと云うて……いじめたり、毎夜、離れの廊下でわて等のこと……」

 その瞬間、しなの手からキセルが飛んだ。キセルはきちんと重ねられたくみの右手に命中し、くみは思わず前かがみになって、その手を左手で押さえた。

「ふん、くそだらめ!だらな(注・馬鹿な)こといわんして!」>

「八重さん自身が、若い頃は、お姑さんにいじめられてましたからねえ」

 と、やはり年配の親族の一人が言う。

「源三郎さんのお母さんのシナさんという人も、きつい人でしたから。『嫁にいじめられた』と言っては風呂敷に茶碗やら何やら包んで、家を出るんです。いかに嫁の八重さんに自分がいじめられているかと周りに訴えるわけなんですよ。近所では『風呂敷婆さん』と呼ばれてました。あの当時、水橋の名物の『三婆』の一人に数えられていたんです」

『花冷え』にもまったく同じ「風呂敷婆さん」が、「さき」という名で登場する。以下はさき婆さんのいじめのために、身重のしなが河に身投げまでしたことがあると、近所の人のうわさ話を亜紀が立ち聞きするくだりである。

<「そうやな、わて等子供自分やったけど、よう覚えとる。風呂敷ばあちゃん云うて、おさきさんのこと、からかうたもんや、しなさんと喧嘩すると、蔵さ入り、嫁入り当時の道具をかたっぱしから風呂敷につめ込んでな、町の親戚中、『しなが、わいをいじめた』ゆうて歩いたもんや。わし等子供の頃やったけど、しなばあちゃんな、あの蔵さ入って、涙こぼしてくるのをみたもんや。そん時の苦労な身にしみとるがに、何でああ嫁ないじめるんやろうか」

「苦労しとるからや。自分な、あない苦労したから、嫁こにもそうさせるのや>




「どいつもこいつも殺してやるわ!」

 話がややこしくならないようにするため、角川家の系譜をここで整理しておこう。

 現在の当主・春樹につながる角川家は、四代前の初代・源三郎にまで遡る。

 初代・源三郎は、黒部の谷一族の出身で、当時の角川家の当主・角川源平の養子となった。その後、実子が源平に生まれたため、源三郎は妻・シナとともに分家し、初代となる。このシナが『花冷え』の中に「さき」という名で出てくる風呂敷婆さんである。

 二人の間に生まれた長男は、初代の名を継いで、二代目・源三郎を名乗る。彼の妻が白川家から嫁いだ八重であり、「しな」のモデル。この二代目・源三郎は、貧困から身を起こした立志伝中の人物である。初代が若くして亡くなったため、七人兄弟の長男として彼は、文字通り身を粉にして働いたという。最初は魚の行商人だった。実直に働き、倹約に努め、やがて米穀商を始め、一時は「北陸一の米問屋」といわれるまでになる。行商時代の天秤棒は、角川家の家宝とされ、源三郎から源義、そして春樹へと手渡されている。

 ちなみに、角川書店の創立記念集会では、この「家宝の天秤棒」が壇上に飾られる。創業者の労苦を忘れるな、という戒めのシンボルであると同時に、一部上場をうかがおうとする株式会社・角川書店が、どこまで発展していっても角川家の個人商店の延長にすぎないことをそれは象徴してもいる。会社はそもそも<社会の公器>のはずであり、とりわけ社会的影響力の極めて大きいマスコミにおいては、社会性や公共性に敏感でなければならないはずだが、兄弟対立や溺愛する息子の理不尽な重用など、私的な血族の愛憎劇がその中に投げ込まれ、社員や取引先の関係者を振り回し続けてきたのは、そうした家業意識に根ざしている。

 角川家の系譜に話を戻そう。

 二代目・源三郎と八重の間には6人の子供が生まれ、2人は夭折し、4人が成人した。上2人は女子で、3番目が長男の源三、末っ子が次男の源義だった。したがって、本来は源三が嫡子であり、角川家三代目を継ぐ立場にある。しかし跡目を相続したのは、源義だった。いったいどういう事情があったのか。

「一言でいうと、源三さんは親との折り合いが悪かったんですよ」と前出のMさんは、少し言いにくそうに話す。

「最終的に”廃嫡”のような形となったのは、源三の乱暴がおさまらなかったからです。夜中に騒ぎが起こり、源三郎さんの弟の源吉さんが駆けつけるなんてことが、よくありました。源三郎さんから連絡が入るんですよ。源三が暴れてしようがないから助けてくれって。最近では、家庭内暴力なんて珍しくないですが、年老いた親を殴ったり足蹴にしたりなんてことは、昔の教育を受けた人間では考えられないですよ。しかも十代の反抗期ではなくて、分別盛りの中年男がやるんですから。そのためついに親子の縁を切る形になって、次男の源義が家を継いだんです」

 顔をしかめて話すMさんだが、しかし源三にも同情すべき点はあると付け加える。

「もしも、八重さんが源三さんの嫁をいびらず、嫁を何回も代えることがなかったら、こんなことにはならなかったでしょうねえ。特に三度目に来たお嫁さんは、源三のお気に入りで、夫婦仲はすごくよかったから。八重さんが生木を裂くようなことをしなければ、あるいは源三も荒れなかったかも……」

 ふたたび『花冷え』を引こう。源三がモデルの安一が、五度目の妻も家を出たと知って荒れ狂う場面である。

<それっきり、くみの姿は北村家から消えた。その夜遅く、雨戸をけりあげる異様な物音を耳にし、亜紀はかたわらのしなをゆり起こした。叔父の安一のような声がしたからだ。

 しなは、褞袍をはおると玄関口に出た。苫もなく「ギャッ」というしなの叫び声がし、亜紀は飛び起きた。

「ひ、ひ、ひと、ごろし」

 ただならぬしなの叫びに、祖父は起きあがると、裾をからませて飛んでいった。

「や、やすいちな、わてを……ひ、ひとごろし!」

 しなの声は夜を引きさくようだった。

「こ、このくそババア、くみを、どこへやった!くみを、くみを返せ!」

 伯父の眼は大きく飛び出し、異様な光を放っていた。何やら言葉にならない喚きの中で、しなの足腰を下駄で踏みつけ、左手はきちんと束ねられたしなの髪を引きむしっていた。亜紀は信じがたい光景を呆然と瞶めていた。この鬼のような形相は伯父の安一とは思えなかった。気弱で、のんびり屋の伯父が気がふれたとしか思えなかった。

「安、安、ばあちゃんな、何をすんがか!」

 飛びかかった祖父の躯が、黒いかたまりのように玄関の敷居に投げ出された。

「どいつも、こいつも俺をだらにしやがって!みんな、殺ろしてやるわ!」

 その声は殺気立っていた。恐怖で立ちすくんでいた亜紀は悲鳴をあげると外に飛びだした……恐怖のなかを、火鉢の蹴飛ばされる音がし、灰が部屋中に飛んだ。続いて障子のたおれる音と共に、古い柱時計が不気味な音を立てて畳の上に落ちてきた>

<その夜以来、安一の姿はなかった。しなは、一ヶ月近くも寝込んでしまい、座敷で耳をよほどひどくこすぎ廻されたのか、右耳の端が少しちぎれ、それ以来、その耳が遠くなった……その日の凄まじい凄惨な光景は幼い亜紀の心に根強い傷痕となった。

 玄関口から、座敷にかけて残された、しなのどす黒い血や、引きむしられた髪の毛が、暗色な映じかたで記憶の裡に残ったのであった>




角川家の一族

 正直に書こう。私は『花冷え』を最初に一読したときには、このくだりはフィクションだろうと思っていた。源三の嫁が五回代わったという話しも、そのために源三が暴力を振るうこの凄惨な修羅場の描写も、作家・辺見じゅんの卓越した想像力の産物だろうと考えていたのである。

  しかし、富山の地に来て、それがほぼ事実を下敷きとしたものであるとわかると、驚くというよりも、暗然たる気分になった。

「角川家の内情は詳しいことはわからない。ただ、小さい村でしたから、源三さんの嫁が何回も代わったことはみんな知っている」

 水橋在住の元郵便局長、滝川弥左衛門氏はそう語る。俳号は汀草。俳人仲間として、源義とも、源義の師匠筋に当たる金尾梅の門とも親交があった。目は不自由だが、矍鑠(かくしゃく)としていて、記憶力も口調も93歳とは信じられないほど確かである。

「ただ、公平な立場でいえば、そういうことは、この土地では珍しいことではなかった。嫁の立場は本当に弱かったものです。私の知るかぎり隣町の滑川では、七回嫁を代えたという話もあります。嫁を出すのにたいした理由はいらない。落ち度があろうがなかろうが、『家風に合わん』などと、抽象的な理由で一方的に追い出してしまう。それを嫁自身も、嫁の実家も泣き寝入りしてしまう。周囲も許容する。何しろ古くからの因習ですから。今ではできんだろうが、戦後しばらくまでは当たり前だったと思います。もちろん、昔でも、常識のある人間なら心密かにかわいそうと同情したものですが、でも今のように人権というものが通らなかった。封建的な家制度が強かったんです。角川家一族だけがおかしかったとは考えんほうがいいでしょう」

 角川春樹という人物の「狂気」を知ろうとするとき、父・源義と、角川一族の理解を欠かすことはできないと私は書いた。しかし、さらにいえば、角川家一族の理解も、風土と時代という遠景から切り離してはありえない。

 改めていうまでもなく、民法が戦後に改正されるまで、日本の家族制度における家父長制は法的にも文化的にも絶対的な基盤を成していた。北陸は、わけても前近代的なイエ意識の強い土地柄であったといえるだろう。そこに富山独特の風土、県民性が加味される。

 富山県民は質実、勤勉で蓄財の才にたけ、貯蓄率も極めて高い。富山に足を運んだ人なら、誰でも気づくことだが、個人の住宅が概して広く大きい。富山県民が持ち家率日本一であるという統計的事実は、イエ意識の存続と切り離して考えることはできない。

 この土地の人々にとって、財産とは何よりもまず家である。その財産を守るために、イエ意識が強化される。そしてその家の中で、イエをめぐって血族のドラマが展開されることになる。

「もうひとつ、大きな家の主人なら、使用人や下女に手を出すことは当たり前だった」

 と滝川氏は語る。

「子供を産ませても、金をつけて外へ出してしまう。認知もしないし、その後の面倒もみない。それが黙認されたものでした。大きな問屋や商家の主人、代議士など、いくらでもそんな話がある。私は大正初めの頃、県内のある男爵家の家に下宿していたのですが、複数の妾と彼女らの子供が屋敷の中にたくさんおるんで、誰がどういう関係やら分からん有様だった。あの自分はそれが許されたんです」

 角川映画の第一弾であり、春樹を一躍、時代の寵児に押しあげた『犬神家の一族』(76年)を思い出す。閉ざされたイエの中で、どろどろとした血族の葛藤が繰り広げられる横溝正史の世界は、虚構ではなく、少なくとも角川春樹本人にとってはすぐ身近にある現実の世界だったのだ。




おじゃこ源義

 古い因習が支配する世界では、絶対的権力を振るう表の主役は、いうまでもなく男の家長である。しかし、血縁の強固なしがらみを裏から支える陰の主役は「母」の存在である。「母」は、古いイエの中でヨソ者として極端な抑圧下におかれる「嫁」と、専制的な抑圧者としての「姑」に役割が分離され、非抑圧者が抑圧者に転化して同じ怨恨のドラマを反復していく。イエという制度が、時に般若の形相をした「鬼婆」を再生産してゆくのだ。それは、血縁のしがらみの負の側面である。

 しかし「母」は、「般若」の一方で「慈母観音」の顔も持つ。八重は、その双面の母の典型のような人だった。

「源義はお母さん子だったからねえ。本当に甘えん坊だった。小学校に上がる直前まで、八重さんのおっぱいをのんでたくらいですから。八重さんも源義を猫可愛がりしてた……」

 遠い昔を知る角川家の親戚の一人Aさんは、そう述懐する。

「源義を可愛がってたのは、八重さんだけではない。源三郎さんもそうです。富山の方言では次男以下を”おじゃこ”という。源義は四人兄弟姉妹の末っ子で、次男でしょう。だから源三郎さんは源義のことを話すとき、目を細めて『うちのおじゃこ』と言うてね、可愛くて仕方がないと言った様子でした」

 源義もまた、往事の思い出をエッセイ「雉子(きじ)の声」にこう記している。

<私は母親っ子で、いつまでも母のおっぱいをすっていた。母の乳房はしなびていた。おっぱいが出るはずもなかったが、何かしら私にはこころよかった。親戚の人たちは私をひやかした。私はむきになって、牛乳を乳房に注射すればいいんだと主張した。私は大きくなっても、母に添い寝されていた。大学に入って帰省した私に、母はそばに寝るように云った。小さいときからの習慣だった>

 母親の情愛を必要としない子供など、この世には存在しない。ただ、その必要量にはおのずと個人差がある。自ら「末っ子で弱虫で甘えん坊だった」という源義の場合は、人並みはずれて母からの情愛という滋養分を必要とした。そして彼は、幸いなことに求めれば求めただけ、得ることができた。それは生涯、変わることがなかった。

 八重は夫・源三郎の没後、家財を整理し、源義を頼って52年(昭和27年)に上京、約1年間の同居生活を送る。この時期、杉並の角川家にしばしば出入りしていた源義主宰の俳誌『河』の同人の一人は、八重のありし日の姿を、こう話す。

「源義先生は、その頃禁煙なさってたんですよ。すると、お母様の八重さんは急に禁煙するのは体に毒だからといって、毎日、昆布を小さな四角に切って先生にお出しするんです。口さみしいのを、昆布でまぎらわしなさいということでしょうけど、小さい子供におやつをあげる母親のようで、微笑ましかったですね。そんなときは、あの怖い先生が可愛く見えました。お母様にとって源義先生は小さくて可愛い頃の源義のままなのでしょうね」

 そういう母を喪ったときの悲しみは、源義にとっていかに大きかったか。

 53年(昭和28年)4月、夫・源三郎の一周忌の法要のため帰郷した八重が、急逝した。「私の魂は狂うばかりだった」と、母を失った当時36才だった源義は「雉子の声」の中で書いている。強靱の妄想めいた言辞をしばしば口にする春樹と違い、堅苦しいほどに分別のある大人然とした振る舞いを崩さなかった源義が、母の死に際しては、狂気の淵をのぞいたことを、率直に綴っているのである。

<私は毎晩毎晩、お経をあげた……涙がとめどもなく流れるばかりだった。私は記憶喪失症になった。母の死という衝撃のせいだ。早く忘れた方がいいと言われた……忘却どころか、母とあることだけが、私の日々の生活だった>

亡骸(なきがら)を菩提寺に葬った折り、信心深かった父が生前に母に高野山へ参詣する約束をしていたと聞き、源義は築地の西本願寺別院で告別式を行ったあと、分骨を抱いて高野山に上り、その後に西本願寺の納骨堂に分骨を収めた。それほどまでに手厚く葬ったのに、源義に憑(つ)いた母の幻影は消えることがなかった。その後、イタリアに出張した源義は、旅先で倒れ、高熱の中で、「母の現身(うつしみ)をよみがえらせる」という妄想にとりつかれる。

<高熱の幻想は母がまだ生きているのだと信じさせた。いや母が死んでいないのに、焼いたのだという後悔だ。それには、西本願寺――高野山――小平霊園――母の死の場所という手続きで母のお骨を持って行けば、母の現身(うつしみ)が再現するんだ。どうしたら坊さんからお骨を奪い返せるだろう。その企てに焦慮した。私の魂は狂うばかりだった。早く東京へ帰ろう。母の待つ東京。ナポリの海を真下にして、狂気の私は高熱にうなされつづけていた>

 母の喪失は、誰にとっても大きな痛みである。しかし、その喪失の形は、万人に等しくあるわけではない。現義の場合、それは十二分に与えられ続けた果ての、自然な終わりだったといえるだろう。

 では、春樹の場合はどうだったか。




春樹の「根元的な孤独」

「春樹は、真弓や歴彦と違って、本当に甘えん坊のお母さん子でした」

 東京における幼少期の春樹をよく知る、ある女性はそう語る。この場合の”お母さん”とは、もちろん産みの母の冨美子夫人である。

 「『お母ちゃま、お母ちゃま』と言っては冨美子さんに、いつもまとわりついて離れないんです。母親の姿がちょっと見えないと、泣き叫んで大騒ぎになり、しまいにはお漏らししてしまう。今では親子のキスなんて珍しくないかもしれませんが、春樹は家に帰ってくると、『ただいま』と言ってまずお母さんのほっぺたにキスするんです。『やあねぇ、汚いでしょ』と冨美子さんが言うと、『だって、お母ちゃまのこと、大好きなんだもん』と言う。それくらい甘ったれ屋さんの男の子でした」

 そんな『甘ったれ屋さん』の目の前から、ある日突然、「お母ちゃま」は姿を消してしまった。母の愛を人並み以上に必要としたという点で、源義と春樹は瓜ふたつであるが、その失い方はまったく違った。

『花冷え』の後半部に、母子の別離のシーンが描かれている。源義とおぼしき父・祐次と、冨美子がモデルと思われる母・佐久子の破局が決定的となったとき、主人公の亜紀は、今度は弟の時夫と一緒に再び日本海沿いのT県の旧家へと送り出されることになる。

<「亜紀……時夫……

 暗い、汚ごれた改札口の傍で、佐久子が又、二人の名をくり返した。

「お母ちゃま、お母ちゃまは、僕たちの後に来るんだね……お父ちゃまと来るんだね……そんときね、ほら、僕の電気機関車ね、あれ、かならずもってきて頂だいね」

 赤みのない頬に女の子のような時夫の紅い口許が又、同じことを呟いた。

「ほんとだよ、ほんとに忘れて来ちゃいやだよ」

 佐久子の顔が、涙でくしゃくしゃになっていた>

「お母さんを恋しがってましたよ。三人とも。特に春樹ちゃんは」と水橋在住のEさんは言う。角川家の血筋につながるEさんは、源三郎・八重夫妻の住んでいた旧家の近所に住んでいたこともあり、毎日のように春樹と一緒に遊んだ思い出があるという。

「お天気のいい日はいいんです。子供ですからね、メンコしたり、鬼ごっこをしたりして、気が紛れるんです。でも、雨が降ると家の中で遊ぶでしょ。そうすると、やっぱりお母さんのことを思い出すんです。部屋の隅に三人がかたまって、真弓ちゃんの膝に春樹ちゃん、歴(つぐ)ちゃんの二人が頭をのせて、ぼろぼろと泣いているんですよ。そのときの姿、今でも目に焼きついています」

 そう語りながら、Eさんの目がみるみるうちに潤(うる)み出す。

「ある日の夕方、三人の姿が見えなくなったといって八重婆さんが血相変えて、うちへすっとんで来たんですよ。大人たちが青ざめておろおろしているとき、私、その日の昼のことが頭にひらめいたんです。真弓ちゃんが線路を指さして、『東京の方向はどっち?』とたずねたんですよ。私は『こっちだよ』と指さして教えてあげたんです。そのことを思い出して『ひょっとしたら線路づたいに東京へ走っとらなかろうか』と言うと、『そんなだらな(馬鹿な)こと言われんな!』と怒られたんです。

 でも父が、『もしかしたら、そうかもわからんぞい』と言って、みんなで北陸本線の線路づたいに東京方向へ走っていったんですよ。白岩川の鉄橋を越えて、上市川の少し手前に来たあたりで、枕木を下駄で踏む足音が聞こえてきたんです。姿は見えないけれど、田舎だから静かでしょ。カタン、コトン、という音がきこえてくるんですよ。もう夕暮れにさしかかってました。私は大人たちと一緒に、『真弓ちゃーん!春樹ちゃーん!』と大声で呼びながら走りました。そうすると、カタンコトン、という足音がカタカタカタと早くなる。追いつかれたら東京へ帰れなくなると思ったんでしょう。手を繋いで走る三人の背中が見えました。真っ赤な夕日を背中いっぱいに浴びて、懸命に走っていくんです。どんな思いであの子たちは駆けているんだろうと思うと、私、胸が一杯になって、涙がぽろぽろこぼれてしまって……。今でも思うんですよ。お父さん、お母さんと離れて、どんなにつらかっただろうって……」

『花冷え』の中の記述を借りれば、「ひ弱で甘ったれ」で、いつまでもおねしょが治らず、「知能の発達が遅れているのか」と思うほど幼稚な男の子であった幼児期の春樹は、誰よりも母の愛と温(ぬく)もりを必要としていたはずである。父母の離婚によるその突然の喪失は、どれほど酷な負担を彼に強いただろうか。

 母と幼児の、肌と肌の触れ合いを、心理学用語でマザーリングという。マザーリングが欠如した場合、子供の情緒に大きな影響が現れるといわれている。春樹が時折、爆発させる「思い出したような癇の凄まじさ」とは、母の愛を求めても与えられないことへの激しい苛立ちの奔出に他ならない。

 春樹という人の、弟の歴彦の追放にみられるような突発的な攻撃衝動や、極端なナルシシズム、あるいは自分を戦国武将の生まれ変わりだと言ってみたり、「地球を滅亡から救う九人の救世主の一人」と自称したりする、自我のとめどない膨張妄想癖などを見ていると、その淵源は幼少期に負った傷と、マザーリングの欠如にあるのではないかと思えてならない。

 3年前の90年49才のとき角川春樹は、『日経ビジネス』(12月3日号)インタビュー記事の中で、こう語っている。

「私の孤独は、いわゆる”近代の孤独”とは違う。寂しいとか疎外を感じるといった相対的なものではないんです。もっと絶対的な孤独、癒されるすべもない根元的なものなんです。敢えて言えば釈迦やキリストの孤独もそうしたものだったかもしれません」

 釈迦やキリストの孤独と同じものであったかどうかはともかく、母を喪失した幼少期に彼の中に棲みついた孤独は、癒しようのないものであったことは間違いないだろう。

(後編その2へ)

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