「宝島30」 1993.11
長男・太郎のホモ・セクハラ、弟・歴彦の追放劇、そして社長・春樹の逮捕。これら一連のスキャンダルは、一見偶然に角川書店を襲った災難かのように見える。どのマスコミも、曖昧に春樹のワンマン経営が生んだ結果と決めつけるだけで、事件を一本の線で繋ぐことはできなかった。ところが、実は、それは、60年に及ぶ「角川家の一族」という骨肉相争う大河ドラマの必然的クライマックスだったのだ!多くの人々を飲み込んできたその激流に今、初めて挑む。
「捜査事実上終わる――芸能界への波及なし」
角川春樹(51歳)の麻薬事件について、そういう見出しの記事が朝刊に載った9月20日に、この稿を書き出そうとしている私は、そうとう間の悪い人間に違いない。
もう角川春樹のコカイン・スキャンダルは事実上、終わってしまっている。裁判はこれからだが、少なくとも、せっかちな世間の意識の上ではそうだ。捜査の終着点が見えれば野次馬的な興味は半減する。事件発生と同時にマスコミの集中豪雨のような報道が続いていたが、報道量は今日あたりを境に一挙にしぼむことだろう。
しかし、大騒ぎの末に、いったい何が解明され、どんな結論が残されただろうか。私が知るかぎり、膨大な報道量に比して、もたらされた事件の分析や総括はいたって平坦で奥行きのないものだ。
最大公約数はそんなところだろう。
だが、同族経営=悪という紋切り型の図式は、少なくとも出版界では成立しない。大手出版社で同族経営でないのは文藝春秋くらいのものである。それでは文藝春秋以外の出版社がすべてワンマン会社で、スキャンダルにまみれているかといえば、寡聞にしてそんな話は聞かない。同族経営だから不祥事を生むという図式は必ずしも成立するわけではないのである。
「呪われているとしか思えない」
角川書店のある若手社員は、困惑の表情を隠さず、そう嘆息した。
「わずか一年の間に、三つもの事件が連続したんですからね。しかもそのたびごとに次元が低級になってゆく。恥ずかしくてしょうがないですよ。僕ら一般社員は何も知らされていないから、事件が起こるたびに右往左往する始末。今でもわけがわからないというのが、正直なところです」
わけがわからない、というのは、率直な本音だろう。この一年間に角川書店を舞台として連続した一連のスキャンダルは、改めて振り返ると、異様さ、不可解さだけが浮かび上がってくる。
もう一度、整理してみよう。
最初の事件が起きたのは、昨年の9月だった。春樹の実弟で副社長の歴彦(つぐひこ)氏(51歳)が、突然、辞任(9月14日付)。その後、彼が育て上げた角川書店の子会社(株)メディアオフィスの社員約70名のほぼ全員が辞表を提出し、歴彦氏が新たに設立した(株)メディアワークスに走るという騒動にまで発展した。
第二の事件は、『週刊文春』が今年の2月にスッパ抜き、「ハグして」「たろママ」が一躍流行語にまでなった、春樹の長男・太郎氏のホモ・セクハラ事件である。
そして第三が、今回のコカイン密輸事件。
これら三つの事件は、それぞれに性格を異にする。
第一の事件は血を分けた兄弟である社長と副社長の決裂を中心としたいわゆるお家騒動。
第二の事件は、太郎氏による個人的な人権侵害事件。
そして第三の事件は、社長・春樹と数名の、個人的ではあるが、れっきとした刑事事件。
表面的に見る限りでは、三つの事件に共通項は見出せない。いちばん不可解なのは、事件が連続して起きたこと以上に、それぞれの事件がバラバラで、その間に何の因果関係も関連性も見出せないことにある。
では、事件が集中して続発したのは、単なる偶然なのだろうか。しかし、コカインを運び込んだ池田被告が、税関でたまたま偶然に摘発され、その結果、予想もしていなかった大物・角川春樹の逮捕に至ったのであるとするなら、春樹の姉の作家・辺見じゅん(54歳)は、月刊誌『短歌』10月号誌上でこのような歌を謡う必要はなかったはずである。
<露踏みて奸計に落ちしも自らの咎とし受けむと誰にし告げむ>
一連の事件の深層の事情を知りうる立場にある彼女は、弟は「奸計」に落ちたのだと、歌の形を借りながらもはっきり表明している。
では、誰が、どのような「奸計」をめぐらしたのか。それも、何のために?
「捜査のとっかかりは、角川書店内部からの告発です。これは間違いない」
そう断言するのは、ある大手新聞の千葉支局の記者である。
「去年の秋以降、『社長がコカインをやっている』との情報が千葉県警にあったそうです。それも複数。幹部クラスしか知り得ない詳しい情報が含まれていたというから、役員レベルからのリークであることはほぼ間違いないでしょう」
すると、7月9日の、成田での池田の逮捕は、当初報道されたような、税関職員による偶然の摘発ではなかった?
「そういうことですね。県警の狙いは最初から角川春樹だった。そのために綿密な内定を行ない、アメリカの捜査当局とも連携して、万全の体制を敷いていた。最近、日本でも麻薬がらみではデリバリー(泳がせ捜査)が可能になりましたからね。池田は出国するときからマークされていたフシがある。池田が予定どおりコカインをロスで入手してアメリカを出国するとき、日本と連携していた向こうの当局は、池田がコカインを所持していることを税関で確認し、そのまま見逃して飛行機に乗せ、県警へ連絡したようです」
念のため、他社の記者にも確認するが、つかんでいる内容はほぼ同じ。幹部クラスからと思われる内部告発は、去年の後半から今年初めにかけて、複数のルートからあったという。また、情報リークは千葉県警だけでなく、警視庁にもあった。
ある大手新聞の警視庁クラブ詰め記者はこう語る。
「去年、警視庁宛に角川書店内部からと思われる匿名の告発文書が届きました。角川春樹がコカインを常用していることや、社内の人間が定期的に”運び屋”をやっていることなど、側近しか知り得ないようなことが書かれていたようです」
去年の秋といえば、「第一の事件」である歴彦副社長辞任劇が起きた直後の時期に相当する。となると、すぐに思い浮かぶのは、歴彦副社長側が報復として、コカイン情報をリークしたのではないか、という疑惑である。春樹派対歴彦派という権力抗争の構図があり、抗争に敗れた歴彦派によって春樹がさされた、と考えると実にわかりやすい。
しかし、ちょっと待って欲しい。話を急ぐようだが、事実はそう単純ではない。というのも、取材を進めるうちにわかってきたことなのだが、この時期にリークされた情報は、麻薬だけではなく、当時はまだ表沙汰にされていなかった太郎氏のホモ・セクハラ・スキャンダルの情報も、春樹氏の女性関係の情報もあった。その中には、明らかに春樹の側近から流出したとしか考えられない情報も含まれていたのである。
たとえば、逮捕された坂本恭子容疑者とは別の、角川春樹のもう一人の愛人といわれる女性Sさんについての情報。映画関連の仕事についている彼女と春樹は、内縁の妻同然の関係だった坂本恭子の目を盗み、短時間のデートをたまに楽しむ間柄であったらしい。驚くのは、Sさんとの関係についてながされたその情報の、ディテールの克明さである。何月何日の何時に、どこのホテルにチェック・インしたか、電話で連絡をとるときは、どういう暗証番号を用いるか、どこの銀行の口座に月々いくら振り込まれるか、その金額に至るまで伝えられていたのだ。
複数の確かな人物から、私は同じ情報を確認している。これが事実であれば、これだけ詳細な情報は、春樹の側近中の側近しか知り得るはずはない。
事実かどうかの検証については、こういう逸話がある。情報を入手したある雑誌記者がSさんに面会を求め、問いただしたところ、最初は噂を全面的に否定していたが、細かい情報を突きつけると青ざめ、絶句してしまい、最後にはせめて名前だけは書かないで欲しいと哀願されたという。
結局、Sさんの話は記事にならなかった。すでに彼女は春樹氏とは別れ、別の男性との結婚を控えているという。犯罪の容疑者でも何でもない私人のプライバシーまで強引に露出する権利はマスコミにはないから、これは当然の判断だったと思うが、それはともあれ、この一例をとりあげても春樹の側近がリークしたという説はほぼ間違いないと考えていいだろう。
しかし、それではなぜ?何のために?
話は、昨年にさかのぼる。
アメリカの南カリフォルニア大学(USC)卒業というふれこみで、春樹の長男・太郎氏が角川書店に入社してきたのは昨年4月のことだった。ヴァージン・アトランティック航空に入社したのが一昨年9月だから、わずか半年強で”他人の飯を食う修行期間”を切り上げて、父親の会社に入ってきたことになる。ちなみに太郎氏はUSCを卒業したと称してはいるが、これはかなり怪しい。当初、父親のコネで国内の大手広告代理店への入社が決まりかけていたが、卒業証書を提出できず、内定はご破算になったという。入社資格に大卒を条件とするか否かはその会社の自由だから、太郎氏が角川書店に入社することには問題はなかったのかもしれない。しかし、入社後の扱いは、社長の息子といえど、異様なものがある。
出版人としての基礎的な知識や経験がゼロなのはもちろんのこと、社会人としてもまだヒヨッコでしかないこの25歳の若者のために、父親は総務部の中に国際課を新設してやり、いきなり課長のポストを与えたのである。おかしいといえばおかしいが、これだけなら、よくある社長の親馬鹿という笑い話程度ですんでいたかもしれない。しかし、「太郎は日本一の語学の使い手」とか「太郎は角川書店の救世主」などと常日頃から吹聴していたという春樹は、どうも本気でそう思い込んでいたらしい。形だけのポストをあてがったのではなく、ハリウッドでの角川映画製作に関する使途不明金の調査という重大な<特命>を担わせて、アメリカの「カドカワ・プロダクションUS」に送り出すのである。
「今にして思えば太郎の入社が、すべての事件の幕開けでした」
古参社員のA氏は苦々しげに当時の事情を語った。
「”調査”というのは表現としては穏当すぎる。現実には”大粛清”です。太郎の役割は大粛清の切り込み隊長でした。まず手始めが、米国での映画製作の現地責任者の菅原比呂志氏。彼をまず切り捨て、返す刀で米国への送金を担当していた本社の経理担当役員の上田常務を切るのです。上田さんは歴彦副社長の片腕といわれた人で、この人を切ることが、次の歴彦氏追放へのステップとなっていったんです」
「第一の事件」と先に書いたお家騒動劇のはじまりである。最初の標的となった菅原氏は、角川映画初の生え抜き社員監督として、88年の『僕らの七日間戦争』でデビューした人物。もともとは春樹の信任もあつく、その後、角川映画のハリウッド進出計画のために、日本側の現地責任者として起用され、「カドカワUS」の社長の座についていた。
そんな子飼いの部下の首を、春樹は息子の手であっさりはねさせた。アメリカ入りした太郎氏は、日系の女性会計士・デラルコ陽子氏とともに、この「カドカワUS」の経理を調べ上げ、「映画製作に関する使途不明金が発見された」として本社に報告。角川書店は菅原氏を解任し、横領で告訴した。これに対して、菅原氏は名誉毀損で逆に角川サイドを告訴するという泥仕合となる。どちらのサイドに非があるのか、現時点では断定できないが、ただ、太郎氏の渡米時点ではすでに、角川春樹にとってハリウッドでの映画製作が重荷となっており、事業を精算して撤退する腹づもりだったことは確かである。
太郎氏がこの「カドカワ三文オペラ」の舞台に登場した当時の背景を説明しておこう。
90年、春樹は日本映画史上空前の製作費を費やした超大作『天と地と』を製作した。自らメガホンをとったこの作品で、50億円の興行収入を上げたにもかかわらず、製作費がオーバーして30億円近い莫大な赤字を出してしまう。この失敗がつまづきの石となった。出資した企業に充分な配当ができなかったために、当然ながら次回は製作費を調達するのにも苦労するようになる。
そんな逆風にもかかわらず、角川春樹事務所はハリウッド上陸を強行する。映画製作を目的とした「カドカワUS」の設立。もう一つは、米国映画会社「トライトン・ピクチャーズ」に出資しての映画の買い付けだった。「角川映画はいずれ、世界を制覇する」と豪語しての、鳴り物入りのハリウッド進出だったが、しかし結果は無惨だった。
全世界での配給を前提にハリウッドのスタッフ、キャストで製作した第一弾『ルビー・カイロ』は、二十世紀フォックスに配給契約を破棄され、事実上、日本国内市場中心の公開となり、35億円近くにものぼった総製作費のうち、3分の1も回収することができずに終わってしまった。ハリウッド進出第二弾として予定していた『恐竜物語』も、約10億円もの先行投資をしていたものの後が続かず、結局、製作を断念するはめとなる。太郎氏が乗り込んだ段階で、最終的に現地法人を解散し、アメリカから撤退するという絵はすでに描かれていたといっていい。菅原氏はスケープゴートに仕立てられたのではないか、という見方が強いのはそのためである。
一方、映画の買い付けでも角川はトラブルに巻き込まれた。当初、角川事務所はトライトンに300万ドル出資したが、さらに300万ドルの追加支援を要請され、角川グループの本体である角川書店が、角川事務所に貸す形で19回に分割して送金せざるをえなくなった。金を食うばかりで何の実績も上がらないトライトン社との提携は、後の角川春樹自身が「現地の悪徳プロデューサーと、悪徳弁護士にだまされた」と悔やむだけの結末に終わる。
問題は、これだけ巨額の赤字を出した責任を、誰に、どうとらせるのかということだった。そういう場面で、太郎氏は角川に入社してきたのである。そして、のちに太郎氏を「セクハラ」で訴えることになる新入社員のS氏も5月に社命を受け、太郎氏の付き人としてアメリカに飛んだのだった。
太郎氏のセクハラ事件はひとまずおくとして、90年から92年の3年間にかけて角川映画の出した巨額の赤字のツケを回された角川書店本社では、何が起こっていたのか。
本社のベテラン編集者の一人、B氏はこう語る。
「もともと角川書店は、春樹社長、歴彦副社長の2人が車の両輪となって引っ張ってきた会社なんです。2人とも毀誉褒貶の激しい人物で、社長はワンマンで傍若無人、副社長はケチで労務管理が厳しいといわれてきた。その反面、社長の斬新なアイデアとカリスマ的なリーダーシップ、そして副社長の堅実な経営手腕が互いの欠点を補い合って会社に成長をもたらしてきたんです。このことは衆目の一致するところでしょう」
問題は両者のパワー・バランスである。今までは春樹社長の主導してきたメディア・クロス路線、エンターテインメント中心の文庫の大量販売路線がまがりなりにも当たっていたからよかったが、近年、この路線の業績が急速に悪化してきた。映画だけでなく、文芸誌、文庫の売り上げも低迷が続く。逆に、歴彦氏が育ててきた『ザ・テレビジョン』『東京ウォーカー』『シュシュ』といった情報誌分野、そしてメディアオフィスの『コンプティーク』をはじめとするコンピューター・ゲーム・マニア向けの雑誌群は急成長し、大きな利益を生み出すに至る。こうなると、自然にパワー・バランスが崩れる。
「従来の春樹路線の行く末に危機感を抱いていた歴彦氏は、自分の業績を背景に、兄に忠告を申し入れていた。春樹は表面上は受け入れていたようにみえましたが、内心不満と不安を抱いていたのでしょう。そういうところに、兼ねてから『俺の後継者』と広言してはばからなかった息子の太郎が入ってきて、怪しくなってきたパワー・バランスをいっぺんにひっくり返す大騒動が起きるんです。いってみればあの事件の本質は、春樹・太郎による逆クーデターなんですよ」
「カドカワUS」の菅原氏に次いで、第二のスケープゴートにされたといわれる上田眞吾氏は、勤続38年になる生え抜きのベテラン。メディアオフィス、ザ・テレビジョンの役員を経て、91年3月に本社に戻り、取締役経理部長を務めた。92年6月の株主総会で常務に昇進している。
この上田氏を、7月の定例部長会議(役員が部長を兼ねるケースの多い角川書店では、この会議が最高議決機関)において、本来は出席資格のない太郎が激しく吊し上げた。”罪状”は「トライトン社との契約がすでに切れているにもかかわらず、不必要に送金し続けた」というもの。しかし、上田氏は社長命令に忠実に従って業務を続行していたにすぎず、契約打ち切りの情報は与えられていなかった。
席上、一方的に責め立てられた上田氏は、ほとんど弁解することもでず、見かねた歴彦氏がかばおうとすると、太郎氏は、自分の叔父であり副社長でもある歴彦氏に対しても猛然と食ってかかったという。この吊し上げの約一ヶ月後、上田氏は辞表を提出して静かに角川を去る。常務昇進からわずか二ヶ月しか経っていなかった。
しかし、辞任に追い込んだだけでは飽き足らなかったのか、角川書店は「辞任」ではなく「解任」扱いとし、さらに去ってゆくものの背中に石を投げつけるように、背任横領容疑で上田氏を告訴するに至った。
「……あの一件については、なにも話したくないですね……」
事件から一年あまり経つというのに、電話の向こうから聞こえてくる上田氏の声は、鉛のように重かった。辞任以来、マスコミの取材はほとんど断っているという。とりつくしまもない様子ではあったが、それでも電話口で粘ると、重い口を開いてポツリポツリと口数少なく語ってくれた。
「一番最初から、狙いは私ではなく、副社長(歴彦氏)だとわかっていました。話しても無駄だと思って、何も言いませんでしたよ……。もともと、僕が本社の経理部長に任命されたのは、社長と副社長のトップ会談での結果なんです。近々、株の上場も考えているし、財政管理の建て直しをお前がやれ、と言われたわけです。お金の管理はたしかに杜撰でした。だいたい、普通の会社なら社費でコカインをこっそり買うなんてことは、そもそもシステム上不可能なことですよ。出張申請は担当課長・部長のハンコがもらえてはじめて上に上げられるものでしょう。それが角川では、いきなり社長のハンコ一つで金が自由に引き出せる。こういうことはワンマン企業でなければありえない。副社長が私に、本社へ行けと命じたのは、そういう体質を改善させようとしたのでしょうが、社長にはそれが面白くなかったのでしょうね」
腹心を切られて、もはや抵抗しても無駄だと悟ったのか、歴彦氏自身も上田氏辞任の半月後にあっさりと身を退く。その後にメディアオフィス社員の大半が彼の後を追ったのは先にも書いたとおりだが、この歴彦氏追放劇で大活躍したのも太郎氏だった。
彼は、先のデラルコ陽子女史をアメリカから呼び寄せ、彼女とともに、盆休みで社員が不在のすきにザ・テレビジョンとメディアオフィスに乗り込み、帳簿を徹底的に洗って、株の売買で約5400万円の損失があったこと、そして社費で湯島の歴彦氏のマンションを「購入」(歴彦氏側は借りただけと主張)したことを「発見」する。こうした「活躍」ぶりが認められてか入社わずか半年後、25歳にして取締役・国際部部長兼社長室長にまで昇格してしまう。彼はこの半年間、出版人としての生産的業務にはほとんど関わっていない。やったことはといえば主としてスターリン政権下の秘密警察のような「粛清」なのだ。
興味深いのは、湯島のマンションの件である。これは歴彦氏の愛人疑惑と結びつけられて、追い出しのための材料に使われたらしい。お家騒動が決着をみた後の10月9日、「粛清」後初の記者会見で、春樹はこう語っている。
「会社が喰いものにされていたのは事実で発見が遅れたら明年は角川書店はなかった。調査していく過程で女性問題も発覚し、経営者としては大きなマイナスで、その資格はないが身内のことでもあり、これ以上お話しする気もない。しかし、実態が分かるにつれ、背筋がぞっとした」(『新文化』92年12月17日付)
歴彦氏の「女性問題が発覚」したから「経営者としての資格がない」というならば、自分自身はどうなのか。愛人の坂本恭子の存在を例にあげるまでもない。春樹本人の女性関係の派手さは、今回の事件で初めて明らかになったわけではない。
歴彦氏に愛人がいたかどうか、その愛人のためにマンションを購入したのか、それはとりあえず問題ではない。仮に事実であったとしても、そういうふるまいは角川家の一族の中の論理では許容されてきたのである。重要なことは自分にとってかけがえのない血肉を分けた弟であり、「車の両輪」の片割れでもあるような歴彦氏を、何としても追放しなければならない根拠が、どこをどう探してみても見当たらないということなのだ。
<驚くべき事実が、本業の経理を洗うことによって明らかになってきた>
92年10月27日に東京大神宮会館で行われた創立48周年記念式典のパンフレットの巻頭に、春樹はこう書き記している。
<角川グループ乗っ取りの内部からの陰謀である。詳しく書く気になれないが、その事実を前にして、私は愕然とした。私が本業以外のことに熱中していた3年の間に、グループ全体に危機が寄せていた>
「乗っ取りの陰謀なんてありえないことですよ」
前出の古参社員のA氏は一笑に付す。
「先代から会社を引き継いでから十数年、この間につちかわれた春樹社長の権力、存在感の大きさたるやどれほどのものか、外部の人には想像もつかないでしょうね。昔はともかく、現在、面と向かって、同じ目線の高さで話をすることのできる人間なんて誰もいないですよ。たまに社長が来る、というだけである種の緊張感が社内に走る。
まず、総務の人間が出迎えのために玄関先でウロウロし始める。そうすると社員はエレベーターの使用を自然に避けるんです。社長と同じハコに乗り合わせるのは恐れ多いという感じで。偶然、若手社員と私が社長と同じエレベーターに乗り合わせてしまったことがあるんですが、そのとき、その若手はビクビクして、『あの、ご一緒させていただいてよろしいんでしょうか』(笑)。そもそも役員からしてイエスマンばかりですしね。
唯一、社長に意見できる存在が歴彦副社長でしたが、それでも相当に気を遣い、遠慮した物言いしかしていなかった。力関係に差がありすぎましたよ。春樹社長は『歴彦が会社乗っ取りをたくらんだ』と言っていましたが、そんな言葉、社内の人間なら誰一人、真(ま)に受けていないと思いますよ」
歴彦氏にきわめて近い筋のある関係者は、「副社長が相当の危機感を持っていたのは確か」と話す。
「もし社長が自分の忠告を聞き入れない場合は、自分が育てだザ・テレビジョンやメディアオフィスを角川グループから独立させることも、ひょっとしたら考えていたかもしれない。でも、本社を乗っ取るなんてことはそもそも不可能ですよ。持ち株比率だって、春樹社長が31・4%でタントツだし、佳子夫人、太郎さんの分まで含めると39%になるんだから。それに対して歴彦氏はわずか4・9%。それに先代の頃に採用された社員はともかく、春樹社長になってから採用された人間は、多かれ少なかれ、社長のカリスマ的魅力にひきつけられて入ってきたんですから。人心の掌握力という点でも、歴彦さんは勝負にならないもの。乗っ取りを謀ったのは、むしろ社長のほうじゃないですか。歴彦さんを追い出した後、彼が育て上げた角川書店のドル箱、ザ・テレビジョンとメディアオフィスを本社にちゃっかり吸収合併しちゃったんですから」
調べれば調べるほど、春樹という人物が分からなくなってゆく。自分が生み出した赤字を埋めるために、黒字のグループ企業を吸収合併する必要があり、また、赤字の責任を転嫁するスケープゴートが欲しかったのだとしても、それだけの理由で血肉を分けた実弟をバッサリ切り捨てることができるものだろうか。血族に対するこの酷薄な仕打ちの「謎」は、太郎氏に注がれた盲目的なまでの溺愛ぶりに対比してみるとき、いっそう不可解なものとして浮かび上がってくる。
冒頭にも触れたことだが、この「謎」は、単に「ワンマン支配」というだけでは説明がつかない。
危機に陥った会社を再建するため、ワンマン経営者が人員整理などの強硬な荒技を用いるということは、善し悪しは別としても、「会社再建」という目的に対する目的合理性に貫かれているかぎり、理解可能ではある。しかし春樹の不可解さは、一方で冷酷なまでに合理的な打算のもとに切り捨てを行ない、他方でトラブルメーカーの太郎氏を重用するという合理性の一切ない人事を行なっていることにある。
太郎氏の傍若無人ぶりについてのエピソードは事欠くことがない。
たとえばメディアオフィスの社員が退職する際にも、恫喝まがいの騒ぎを起こしている。昨年10月20日、引き継ぎ業務を行なっていた総務部次長(当時)の女性Wさんを部下5人とともに取り囲み、吊し上げているのである。この事件後、「メディアオフィス従業員一同」の名前で、春樹社長に抗議文が提出されている。
<(前略)角川太郎氏は「うそつき」「したたかな女だ」となじり、続けて意味不明に「ひきずり降ろしてやる」などと激高し始めました。このためW氏が恐怖を感じ、退室してエレベータに乗ろうとすると角川太郎氏はエレベータ前で両手を広げて威嚇し、「懲戒解雇だ」「次に会うのは法廷だ」等の暴言をはき、W氏の人格を著しく傷つけました。このような人権を無視した事件が、いつ起こるか分からない状況では恐怖のため、正常な業務引き継ぎは出来ません(後略)>
セクハラ事件も、むろんのこと言語道断の行為である。被害者が告訴に及んで事件が明らかになったとき、世間の関心はもっぱら「ホモセクシュアル」であることに集中したが、ホモであること自体はむろん犯罪ではない。合意のもとの性愛行為であれば、他人がとやかく言う問題ではないだろう。犯罪的なのはホモ云々ではなく、権力を利用して行為を強制し続けたことだ。S氏が要求を拒むと「上司の疲労をねぎらうのも部下の仕事だ。お前はこれくらいのことしかできないだろう」「誰もお前のことは信用してないのだから、角川にはいられなくなるぞ」と怒鳴り散らしたり、時には蹴ったり殴ったり、飲み物を頭からかけるなどの暴行にも及んだ。嫌がるS氏の使用済みの下着を要求したり、トイレに入っている姿を強引に撮影したり、さらには、耐えきれなくなってノイローゼ気味になったS氏が会社を休むと家にまで押し掛けるなど、その執拗さは常軌を逸している。
事件発覚後、課長に降格された太郎氏はアメリカへ渡ったが、事後相談のために後を追った役員三人に対して、「やめてもいいんだけど、僕がいなくなったら会社はつぶれるよ」とうそぶき、挙げ句の果てに「大学院で3年間勉強するつもりだから、課長待遇ということで給料を振り込んでくれ」と平然と言ってのけたという。
彼は自分が何者であるのか、自分が今どういう立場に立っているのか、理解できていないのではないか。誰が彼をそこまで増長させてしまったか。いうまでもなく、父・春樹である。
春樹は、月刊『現代』(79年4月号)の「21世紀への手紙」という企画広告のページで、父から息子へ送る手紙として、こう書いている。
<(前略)人生は究極のところ戦いしかない。(中略)私はお前に喧嘩もできない人間になってもらいたくない。神社の中にある滝に打たれながら、私はお前が誰よりも強い人間になって欲しいと念じている。21世紀になっても、人間の戦いは続けられていくだろう。勝つことだけが善なのだ。
「我が吾子よ戦い尽くせ冬浅間」
以前はどうだったかは知らないが、角川入社以後は父の望みどおり、息子はふるまってきた。外部のライバルに対してではなく、内部の部下、同僚、上司に対して激しく牙を剥いて「戦い尽く」してきたのである。
太郎氏が入社以来一年弱で角川書店に与えたダメージは、計り知れない。経営者として、会社の発展を考えるならば、春樹は彼を重用すべきではなかった。太郎氏が社長の御曹司であろうとも、ヒラの一社員として入社していたら、セクハラを可能にする分不相応な権力もなく、事件は起こらなかっただろう。一から仕事を覚えさせ、時間をかけて経験を積ませていけば、角川グループの後継者に相応しい器に成長していたかもしれない。そういう手順を父・春樹は踏まなかった。厳しく息子を導くことも、時には乗り越えるべき岩山として立ち塞がることも彼は怠った。これは太郎氏本人にとっても悲劇だったに違いない。
溺愛も度をはるかに越せば、一種の狂気に転化する。「狂気」や「野性」をたびたび売り物にしてきた春樹だが、イエスマン揃いといわれる重臣たちも、この本物の「狂気」に、かつてない不安と恐怖を覚えたはずである。ある役員の一人は、ホモ・セクハラ事件の収拾にあたっていた3月頃、疲れ果てて「自殺も考えた」とまで、周囲にもらしている。
春樹のコカイン・スキャンダルについての情報は複数のルートをたどって外部に流出した、と書いたが、取材をすすめるうちに、そのうちの一つのルートを特定することができた。多くを書くわけにはいかないが、そのルートに関係した人物は私の取材に対して、春樹のコカイン吸引の事実を、少なくとも2、3年前から知っていたことを認めた。
もし春樹が、太郎氏を重用し、歴彦氏を追放するような暴挙に出なかったら、このスキャンダルがこのタイミングで表沙汰になることはなかっただろう。いつか暴露される日が来るとしても、この時期ではなく、秘密はいましばらくは保たれたに違いない。
一連のスキャンダルの因果関係は、ここにおいてもはや明らかである。第二、第三の事件は、第一の事件の必然的な反動として起きたものなのだ。王様の乱心に心底怯えた家臣の密かなる造反だったのである。
社内問題を社内で解決できず、外部のマスコミや警察の力に頼った角川の役員・社員を、不甲斐ないと外から批判するのはたやすい。しかし過去に春樹に異議を申し立てたり、逆らった者は、ことごとく切られるかホサれている。彼らとすれば、外圧をたのむより他に手がなかったのだ。そこまで追い込んだ春樹の「狂気」の大きさこそ、事件全体が醸し出す、この異様さ、不可解さの源泉である。結局、すべての核にあるものは、角川春樹の「狂気」の謎であり、彼を含む角川家の一族の謎なのである。
吉本隆明氏は、俳人・角川春樹をかつて論じた際、春樹の俳風の特異な傾向として、「神話や説話の世界への自己同化のはげしいナルチシズム」と「近親や近縁にたいする際立った聖化の情念」の二点を指摘している。
この二つの特徴は、俳句にかぎったことではない。エッセイやインタビューで自分について語るときも、ヤマトタケルのような神話・伝説の主人公や、上杉謙信といった歴史上の英雄に自らをなぞらえるのをひどく好む。
そのためか、角川春樹を中心とする、角川家の一族の物語は、どこか現実感を欠いていて、神話かファンタジーめいて映る。たとえば歴彦氏追放劇は、どこか現実感を欠いていて、神話かファンタジーめいて映る。たとえば歴彦氏追放劇は、聖書の創世記の「カインとアベルの物語」を容易に思い出させる。弟アベルが神ヤハウェに祝福されるのを見て嫉妬した兄のカインは、野原に誘い出してひと突きで弟を殺してしまうというあの話だ。その罪のためにカインはヤハウェから「地上の放浪者にならねばならない」と言い渡され、エデンの東へと去ることになる。
しかし、春樹・歴彦の2人の葛藤劇において、神ヤハウェの祝福に相当するものが何であったのか、それがわからない。父・源義はすでに他界している。父の注ぐ愛情の不均衡ではないことは確かである。
兄の春樹にとって、前半生最大のテーマは父との愛憎入り交じる相克だった。家父長として絶対的な権威を振りかざす父に、少年期から青年期にかけて激しく反逆し続け、勘当されること4回を数えた。源義は、息子の成人後も、厳父然とした態度を崩さなかった。
65年に角川書店に入社した23歳の春樹は、3年後に『世界の詩集』の企画のヒットによって、編集部長に抜擢される。しかし、その後に出した『日本の詩集』は大失敗で、今度は一転してヒラに降格された。その時の屈辱を春樹はエッセイ「友よ また会おう」の中で、「無能な二代目として白眼視されるから、周囲に対して繊細すぎる敵意を抱いていた」とつづっている。
しかし春樹は打ちのめされたままに終わらず、父に逆らって出版した『ラブ・ストーリィ』の大ヒットで、再び自分の地位を築き上げる。源義は息子に対して過酷だったといわれるが、実は信賞必罰であった。成功すれば正しく報い、失敗すれば厳正にペナルティーを果たした。息子も、父におもねらず、自分の力で父を超えようとし、生きる場所を獲得していった。
まるで精神分析学の教科書に書いてあるような、古典的なオイディプス・コンプレックスの葛藤劇を源義・春樹父子は演じ続けたのである。
他方、弟の歴彦氏は、源義との間にそこまで激しい父子の相克のドラマを演じた様子はない。ときに源義は春樹に対する苛立ちから、腹立ちまぎれに「春樹には角川書店を継がせない。歴彦にあとを継がせる」と言うこともあったという。
もし春樹の父子相克のオイディプス劇が、弟殺しのカインとアベルの物語に取って代わる可能性があったとしたら、この昏い青春時代だったろう。しかし、春樹はカインにはならず、オイディプスの道を歩き通した。父・源義の遺産を受け継いで守旧するだけでなく、創造的破壊を繰り返し、映画という新領野を切り開き、流された王子がついに玉座につくという物語を完結させたのである。
そういう人物が、なぜ今になって、遅れてやってきたカインのように「弟殺し」におよんだのか。そして、なぜ息子をスポイルし、自分が経てきたオイディプス的ドラマの機会を、彼から奪い取ってしまうのだろうか。
「角川映画の第一作は、本当は赤江瀑さんの原作の「オイディプスの刃(やいば)」になるはずだったのよ」
開店前のあわただしい仕込みの時間をさいて、カコさんは、思いがけない話を聞かせてくれた。
「母の不倫をきっかけに殺人事件が起こり、最後は異母兄弟が殺し合うという話なんだけど、社長(春樹)は、自分がすごくやりたかったテーマだって言ってた。事務所のテーブルにはシナリオが置いてあったもの。でもシナリオの出来が良くなくて、かわりに『犬神家の一族』になったのよね。弟の歴彦さんと決裂するっていう予感がその頃からあったかどうか知らないけど……」
最初の角川映画に予定されていた作品が、兄弟殺しの物語だったとは……。「弟殺し」の衝迫を、彼はやはり身の内に抱え続けていたのだろうか。
「歴彦さんの追放には、やっぱり私も驚いた。昔は本当に仲良かったわよ。歴彦さんも社長を兄貴、兄貴って慕っていたし、立てるところはちゃんと立てていたし。彼は兄さんとは違って沈着冷静で大人って感じの人。
社長はそれに比べて喜怒哀楽がものすごく激しい。人を信頼するときはものすごく信頼するんだけど、それがちょっとでも裏切られると、絶対許せない、ってなってしまう。純粋なところと猜疑心の強いところが同居してるんでしょうね。今度の事件でも、出てきたら誰が告発したのか徹底的に調べると思う。絶対」
カコさんはかつて角川映画の音楽プロデューサーであり、同時に春樹の「愛人」でもあった。彼女の本名は大塚一枝、1947年福岡生まれ。角川から公私ともに離れ、銀座でバーを切り盛りしている”カコママ”は、今でこそ飾りっ家のないショートカットにジーパン姿だが、17の頃には歌手としてデビューしたこともある。春樹との出会いは、銀座のクラブ「順子」でホステスとして勤めていた74年のことだった。
「知り合ったのはちょうど『犬神家の一族』が完成した頃で、彼はこの映画に自分の家族の物語を重ね合わせているんだ、というようなことを言っていたと思う。あの人は自分のこと、自分の一族のことをテーマにしたいっていう欲求がすごく強くあったのよ。第二作の『人間の証明』も、生みの母に捨てられた青年の話だったし。社長も生みの母と生き別れているでしょ。お母さんへの想い、ものすごく強かった。それから、亡くなった妹の真理さんへの想いも強かったわね。春樹さん、すごく可愛がってたんだ、って言ってた。原田知世ちゃんの『愛情物語』は真理さんへのオマージュとして作ったのよ」
春樹は「映画はショー・ビジネス」とドライに割り切っているかのようにふるまってきたし、世間も角川映画は商業主義的なエンターテインメントと受けとめてもきた。ところが実は、春樹本人にとって映画は、俳句と同様に私的な情念の表白であり、血族の物語を塗りこめて神話化する媒体だったのだ――。
出会いからまもなく、九段の角川事務所兼一人暮らしの自宅代わりにしていた春樹のマンションで二人は半同棲を始める。この当時、春樹は結婚・離婚を繰り返し、三人の夫人・元夫人に、それぞれ一人ずつ子供を生ませていた。春樹をめぐる、そんな女性関係の渦の中に、彼女も足を踏み入れてゆく。
やがて、角川書店系列の吉倉興業が出資したクラブ「高倉」が銀座にオープン。そこのママにおさまるとともに、角川春樹事務所の役員にも就任。「高倉」は角川映画関係者が打ち合わせを兼ねてたむろする”夜の角川事務所”として毎晩にぎわった。
「昼間は映画の仕事、夜はお店で、店が終わると一緒に家へ帰るわけでしょう。ほとんど24時間、社長と一緒に過ごしてた。ものすごく優しい人でした。私に手をあげるようなことは一度もなかったし。出張や何かで離ればなれになっているときは、国内にいようが海外だろうが、一日7回も8回も電話をかけてくるし」
二人は、千代田区六番町のマンションに移り住む。カコさんのお母さんと娘さんも一緒だった。実は彼女は、73年に婚約者を交通事故で亡くしている。そのとき娘はまだ生後二ヶ月だった。
「マンションの10階に私たち二人が住んでいて、私の母と娘は4階に住んでいたの。暮らし始めたときには娘は3歳くらいで、別れたときは娘が思春期にさしかかった頃だった。娘はとっても彼になついていたわよ。彼も血がつながっていたわけじゃないんだけど、私の娘のこと、とても可愛がってくれたわ。何で籍を入れなかったかって?私にその気が全然なかったもの。だって私の前の三人の女性を見てたから。腹違いの子どもが三人もいて、どの女性と籍を入れるかゴタゴタしてたし。私には娘がいるでしょ。もし私が彼と結婚したら、うちの娘をそういうゴタゴタに巻き込むことになるじゃない。それはやっぱりいやだったし、それに、彼をそういう泥沼の関係から楽にさせてあげたかった、ということもある。私には、彼がいて仕事があってお店があれば、もう十分すぎるほどだった。それ以上、何も望む必要ないでしょ。
彼が家に帰るのは年に2回。正月は角川家の一族が集まるので杉並の実家に、奥さんの佳子さんと太郎さんのもとへはクリスマスだけ帰っていた。後は一年中、私と一緒。8、9年はそんな同棲生活が続いたんじゃないかしら」
クリスマスは、太郎氏の誕生日であった。春樹はその「聖なる日」をこう詠んでいる。
<聖菓切る時に無頼を遠くして>
身振りの大きい彼の句風としては珍しい、無防備なセンチメント――。
「太郎さんのことは、昔からものすごく溺愛していた。一年のほんの何回かしか会わないでしょ。だから親としての後ろめたさがあって猫可愛がりしたんだと思う。でも、社長は惜しみなく愛情を注いでいるつもりだったろうけど、私は、それは冷たさの裏返しだったと思う。私の立場でこんなことを言うのもおかしいんだけども、家族のことが気になるんだったら一週間のうち半分ずつにするとか、そういうやりかただって、あるといえばあるでしょ。でも、やっぱりそうはしなかったし。
基本的には冷たい人なんじゃないかな。そうでないと、人を切る、なんてできないでしょ。今回の歴彦さんのこともそうだけど、あの人はずいぶんいろんな人を切った。私自身もバッサリと切られた。あの人のやり方って、ある日突然ボタンを押して抹消する、って感じなのよね。男と女がじたばたしたあげく、ついに破局を迎えたっていうよりも、あっさり消されたっていう感じだもの。
昭和59年の1月15日。今でもハッキリ日付を覚えてる。突然、事務所に呼び出されたの。そうしたら角川書店や角川春樹事務所の人たちが十数人も詰めかけていて、そんな中で社長は『お前は俺のいない間に浮気しただろう』と切り出したのよね。もう、悲しいとか腹が立つとかいうよりも、呆然としてしまった」
コカイン事件直後の報道の洪水の中に、「角川容疑者、日本刀で首切り落とそうと!!殺害寸前だった」と報じたスポーツ紙があった。二人の別れ話の模様を誇張して書いた記事だった。
「そんな事実は全然ない(苦笑)。弱い人だから社長室に守り刀をいつも置いていたけど、それに手をかけるなんてことはなかった。そこに来ていた人たちも、私たちの別れ話の証人というか立ち会い人ということで社長に呼び出され、仕方なくやって来ていただけ。
社長は次々、根岸吉太郎とか松田優作とか十数人もの男性の名前をあげて、『こいつとはやったのか。こいつとはどうだ』って問い詰めたの。みんな映画関係の仲間よ。もちろん誰とも何もなかったわよ。でも、私は一言も弁明しなかった。なんていうのか、開き直っちゃったというか、すごく白けた気分だったの。で、最後に、『お前は何か言うことはないのか』って言われて、居合わせた皆さんに向かって、『どうも本日は休日にもかかわらず、私事でお呼びだてして申し訳ありませんでした』って一言謝ったの。
それで終わりよ。泣きもしなかった。怒りもしなかった。悔しさが込み上げてきて涙が出てきたのは、うちへ帰ってから。なんでこんなことになったのか、あの当時はまったくわからなかった。
前触れなんて、まったくなかったのよ。その日、私を呼び出すまで疑ってる気配なんか、これっぽっちも見せなかった。みんなを集めて、その日初めてそんな態度を見せたの。私のこと、興信所で調べていたらしいって後で知ったんだけど、だったら何もないってわかったはずなのに……」
不意打ちは春樹が人を切るときの決まり作法なのだろうか。振り返ってみれば、二人が蜜月だった時代が映画プロデューサーとしての春樹の黄金時代だった。世間の目にはどうあれ、彼女は、春樹にとって「家族」であり、仕事の「パートナー」でもあった。歴彦氏を切ったのと同様に、彼は自分の人生のかけがえのない一部を、自らの手で切り落としたのである。
「社長は、本当は凄く気が小さい臆病な人。だから、別れるときも一対一で話し合うことができなかったのよね。普通、男と女って、相手を疑ってヤキモチを焼いたり、別れ話を切り出そうとするときは一対一で話をするものでしょ。それならば、どんなにドロドロしても、私はちゃんと話し合えたと思う」
その日を境に角川春樹事務所も店もきっぱりとやめ、母子三人でマンションを出た。銀行から借金して始めた小さな店には、今も当時の仲間や知り合いが飲みに来る。
「社長とはあの日以来いっさい連絡を取り合ってなかったんです。電話があったのは別れてから6年後。飯でも食おうか、と言う。で、会ったら、また付き合おうって言うのよ。お前男いるのか、って訊くから、おかげさまで十数人います、って答えたの。もちろん嫌味よ。あのとき十数人と浮気したって疑われたことの皮肉を言ったのよ。でも、あの人、皮肉がわからないの。全然顔色も変えず、じゃあ、そいつらと明日別れるように、って言うのよ。私が首を振ると、じゃあ徐々に切っていけばいいじゃないか、って言うの(笑)。あのねぇ、私はあんたじゃないっていうのよ、まったく。
その後、2、3回は店に顔を出したこともあるけどそれっきり。もちろん付き合いはない。恨むという気持ちもない。あまりにもばっさり切られたんでかえってそういう気持ちにならないんだと思う。それに付き合っている間、ものすごくいろいろな意味で勉強させてもらったし、付き合っているときはすごく優しくされたし、いい思い出がいっぱいあるから、ばっさり冷酷に切られたあの人とは別人だったような気がするのよね……」
それにしても、と思う。それがたとえコインの表裏の関係にあるとしても、一人の人間の中に、情の深い優しさと、極端な酷薄さとが、どのようにして同居しているのだろう。その分裂はどこからやってきたのだろうか。
「……先代に似ているのかもしれない」とカコさんは言う。
「社長と出会ったときにはもう亡くなられていたから、一度もお会いしたことはないんだけれど、話しに聞くかぎり、よく似ているなと思う。先代もすごく喜怒哀楽の激しい人だったって、彼は言ってた。あの人ほど極端じゃないでしょうけど、カッとなって、あいつとは絶交だ、と言って絶交しちゃった人、何人かいたみたい。女性関係も色々あったらしいし……。先代の話を聞いていると、つくづくそっくりだなと思う」
角川春樹という一大の梟雄は、常に父・源義との対比において語られてきた。民俗学者で高潔な「文士」の父と、古い秩序や価値の転倒をはかる「放蕩児」というイメージ。出版人としても、その理念や業績においてまったく正反対に位置すると評され、マスコミが春樹の強引な「角川詳報」を批判するときには、決まって源義の筆になる「角川文庫発刊の辞」を引用して、「原点に帰れ」と諭すのが常だった。
しかしそのイメージの対照は、果たして真実のものだったろうか。
<米飾るわが血脈は無頼なり> 春樹
次号において、「無頼の血脈」と春樹が呼んだ父と子の血族の実像を探る。