エッセイ 9

           緊急時における命の選別


                          目次
             はじめに
             突発的災害時のトリアージ
             JR福知山線脱線事故の際実施されたトリアージ
             私の悔やまれる戦争中の経験
             おわりに

#はいめに
 2007(平成17)年4月23日夜、NHKの特集番組で、2年前に起こったJR福知山線脱線事故の際に実施された救急処置のことについての解説があった。この番組を視聴して私は以下に述べるトリアージのことを学んだが、あのような大災害時には、その場に居合わせる被災者群衆と救急者との間に人命の価値観について、微妙な隔たりがあることに気が付いた。そしてこのことに関連して、私が戦争中に経験したある事件との間にも一種の共通点があることを知り、これらのことを一文に留めておきたいという気持ちにかられて、このエッセイを書くこととなった。


#突発的災害時のトリアージ
  わが国では1995(平成7)年1月に起こった阪神淡路大震災の折に救急活動を実施した際、特に初期活動において欠けるところがあったという反省の上に立って、このような災害時に発生する多数の被災者のうちで、緊急処置を必要とする患者を選別することの重要性を学び、その対策としてトリアージという救急システムが構築された。このシステムが大災害時に実施されたのは後述するJR福知山線の脱線事故の折であった。
 トリアージは被災者の中から出来るだけ多くの人の命をを救うために、即刻治療が必要な重症患者を選別する作業であって、フランス語のtriage
(選別)の語をとってて名付けている。そのため医師が原則30秒以内で即決できるような、死亡から軽傷までの4段階に分けた医学的判断基準が設定されていて、診断が決まれば被災者に色の異なるタッグを附して、患者搬送者が直ちに処置できるようになっている。救急病院への搬送第一順位の被災者としては窒息あるいは出血多量などの重症者とし、その傷害者には赤色タッグを付け直ちに搬送することとし、次いで負傷などしてはいるが、基本的にバイタルサインが安定している中等度傷害者には黄色タッグを付けて搬送を待機させ、そしてて自力で歩けるくらいの軽傷者には緑色タッグを附して搬送はせず、さらに即死者や心臓蘇生を実施しても蘇生の可能性のないような者には黒タッグを付けてこれも搬送を控えるという仕組みになっている。國としてこのように被災者に付けるタッグの書式を規格化したのはわが国が初めてであるという。
 実際問題として現場では、大声で泣き叫んで痛みを訴える者もいるし、出血多量で声も出せないような重傷者もいて、まさに大混乱のさ中で、トリアージを実施する医師は大声などに惑わされることなく、冷静にしかも即時に判断を下していくのであって、特別な場合(例えば大量出血の即時止血など)以外、治療行為は一切実施しないことになっている。


#JR福知山線脱線事故の際に実施されたトリアージ
  この脱線事故の際に起こった大災害の場合には、初期の救急現場に駆けつけた医師ははほんの数人で、物凄い数の患者を、喧々囂々たる大混乱の中で、上記の基準に合わせて手際よく処理された模様で、かなりの成果を挙げたことが評価された。私はこの放送を見ながら、その場の光景を頭に描き、医師達の尽力に頭が下がる思いがした。
 放送の中で幾つかの問題が指摘されていたが、最大の問題点は、初期に設定されたトリアージ実施拠点には始めのうち集中的に被災者が運ばれてきていたが、そのうち他の場所にも大勢の被災者が運ばれてきたのに、そこは空白地点となって、混乱を招いたというのであった。要は大災害の場合には総括的な任務を持った医師の存在が求められ、臨機応変に対処しなければならないということであった。
 この特集番組を見ていて著しく気になったことがある。それはトリアージで黒タッグを付けられて亡くなった患者の御遺族が登場し、あの時もう少し丁寧に診てもらっていたならば死なずに済んだかも知れないと訴えていたのである。そしてそれに対して当時の責任者であった医師まで登場させてコメントを求めていた。私は勿論その御遺族の方の気持ちは察するに余りあると思ったが、NHKが何故このような方を番組に登場させたのか著しく疑問に思った。
 緊急事態で多くの被災者の中から、助かりそうな人なら一人でも多くの人の命を救うために、即決判断が求められる場合、医師は全ての感情を没却して真剣に事に当たったに違いない。このような医師の判断に対し、こうして後になって、感情論を持ち込むような場面を視聴者に見せる必要があるかどうか、極めて不自然だと私は感じた。
 極めて多数の被災者が存在するという緊急時に人命の価値判断を下す場合、被災者を総体的な視点から見れば、一人の者に特別な時間を掛けることが出来ないという非情とも言える判断基準が存在することを視聴者に分かってもらうのがこの特集番組の目的だったのではないか。この番組に感情論を持ち込んだことにより、問題の本質がぼかされてしまったと私は理解している。本特集番組編集者に対して反省を促したい気持ちで一杯になった。


#私の悔やまれる戦争中の経験
  私は太平洋戦争中海軍薬剤科士官として開戦前から軍務に服していたが(エッセイ4B参照)、1943年秋以降終戦まで東京目黒にあった海軍療品廠
(薬品など治療品の製造・研究を任務とする工廠)に勤務していた。東京も空襲警報が鳴り響くようになってきた頃、製造部の一部と研究部を地方都市に疎開させることとなり、終戦の年の1945年4月、私が責任者となって、薬の街富山市の富山薬学専門学校を拠点として、東京在住の総勢百数十名の工員と研究員(大部分は女子)を引き連れて富山支廠を開設した。工員・研究員達の宿舎は市内に分散して設置し、一部は市内の製薬会社に委嘱して、その工場でも仕事に従事させていた。
 疎開後東京も悲惨な大空襲に見舞われ、戦局は次第に厳しくなってきた。そして遂に8月2日0時頃、富山も米軍の大空襲にさらされた。この空襲では170機のB-29が飛来し、無数の焼夷弾
(黄リン爆弾)が投下されて市内は火の海となり、死者6,400余人、負傷者約43,800人という大被害を蒙った。
 私は始めから富山薬専の防火に当たり、至近弾を受けながらも奮闘の甲斐なく全焼、これを見届けて市内各所に分散していた工員達の宿舎を一晩中駆け巡り、二人の幼児を抱える家内のいる自宅に行くことは出来なかった。
 工員宿舎を巡っている途中、流れの強いある用水の脇を通りかかった折、用水にかかる橋の橋脚の辺りから、「助けてー!」という女性の悲鳴を聞き、もしやわが工員ではないかと思って、大声で「療品廠の人か?」と尋ねたが、返事はなかったので、私はその場を過ごして先を急いだ。その時私は療品廠の仲間達のことしか頭になかったのである。
 私は工員達を散々探し求めながら一夜明けて富山薬専の焼け跡に戻ったところ、工員達も三々五々集まってきてくれて、お互いに抱き合って無事を祝福し合った。しかし残念ながら皆で手分けして探しても遂に3名の仲間がどうしても戻ってこられず、やがて3名の方々の御遺体が見つかった。その時考えれば考える程口惜しさがこみ上げてきてき」た。やがて皆で話し合った末、協力して焼け跡から材木を集めてきて櫓を組み、荼毘に付したことを思い出す。なお幸いなことに私の家族達は神通川原に避難して、危うく全員無事なことを後刻知った。
 さてその空襲のさ中、私が工員の無事を期して彼女らの宿舎を巡り歩いている途中、「助けて!」という声を聞きながら、私は無情にも何もせずにその場を立ち去ってしまったのであって、このことについては、あの叫び声が一生頭にこびりついていている。考えてみると、あの緊急の混乱時に、尊い人命を考えるに当たって、自分は療品廠の責任者なのだという自覚が強く、関係者以外の人の命のことまで考える余裕は全くなかったことを告白する。しかしこうして平和な時代になって振り返ってみると、慚愧に堪えない気持ちで一杯である。
 

#おわりに

  以上、災害時に救急の任に当たる者が人命をどのように考えて対処するかについてのやや異なる例を二つ挙げたが、これに対して個人の立場からの考え方は、災害時であろうとなかろうと、身内ないしは最愛の人の命こそが最優先であることは言うまでもない。しかし災害時の救急処置の場合には、個人的立場の考え方を完全に度外視してかからないと、助かるべき命も助けられなくなるおそれがある。災害規模の大きさや緊急性の相違などによっては、個人的立場の考え方がどこまで抑えられるかの問題が浮上してくることは間違いない。
 極端な場合、戦争という人為的災害時にも、上述のような処置が求められる。例えば現在はこのような戦法はほとんどないが、関ヶ原の合戦のように敵味方が入り乱れて渡り合う戦場では、戦傷者に対し敵味方の選別が行われるに違いない。そして自軍が激しく攻撃されている場合には、敵味方の選別は不要で、矢張り重傷者優先が当然となる。
 私自身、東京の療品廠に勤務中、出張命令で、一時硫黄島に赴いた。その際、激しい米軍の空爆の中で、多くの傷病兵の搬送、軍医による救急治療を目撃して、手際の良さを感じたが、その時はトリアージ的な扱いが必要なほど大量の戦傷者は発生してはいなかった。戦時中私が身を以て経験した最大の戦災は前述した富山での大空爆であった。しかしその折、実際問題として大量の焼夷弾が降ってきて各所に火災が発生したので、救急活動と言えるような活動は一切できなかった。戦争とはこういうものなのである。なお富山空襲の数日後、8月6日には広島に原子爆弾が投下されたのである。
 

                     
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