2008.10.16 Thursday
連載コラム「いまここを紡ぐ」(第172回)心の故郷としてのゴーバル(その1)――ありのままの私へ帰る
「なぜゴーバルはあんなにも居心地がよいのか。」
1か月間、この問いを考えている。 9月7日の入佐明美さんの「講座・言葉を紡ぐ」に、岐阜のゴーバルから石原潔さん・真木子さん夫婦と桝本進さん・尚子さん夫婦の4人が参加。 入佐さんも、ゴーバルの4人も、ネパールで医療奉仕活動をしていた医師の岩村昇さん(1927〜2006)の弟子であったのだ。「講座」のあとの交流会で、私は気づいた。 交流会が盛りあがり、「ゴーバルに行きたい」というひと3人と、9月19日、20日と2日間うかがうことになった。私も仕事を休みにして、「小さな旅」に参加。 ゴーバルは、1980年に岐阜の恵那山(2190メートル)の近くの旧恵那郡串原村(現恵那市串原)に生まれたアジア生活農場である(http://homepage2.nifty.com/gobar/)。 ゴーバルは、ネパール語で“牛糞”。ネパールのひとびとは、牛糞を大切にしている。土間の床や壁を牛糞でつくるし、燃料にもなる。その牛糞を屋号にしたことでわかるように、「大地に根ざし、大地に立って、大地を慈しんでともに生きてゆきたい」という願いが、現在も満ちている生活共同体である。 知りあったきっかけは、松沢弘陽さん(当時・北海道大学法学部教授)。松沢さんは私の師匠の藤田省三さん(1927〜2003)の親友で、丸山真男の弟子仲間である。その松沢さんから1993年に、藤田省三さんの『私たちはどう生きるか?』(論楽社ブックレット創刊号)を「ゴーバルの石原潔さんに送ってほしい」という依頼ハガキがあった。送付したら、石原さんから返事が来て、交流が始まっていったのだ。 論楽社がゴーバルに“デヴュー”したのは、1994年9月。いまからちょうど14年前だ。論楽社のホームスクールの卒業生たちと恵那山登山をかねて、初訪問。富田譲治くん(当時・信州大学経済学部)が突如としてブルーハーツの「リンダリンダ……」を歌いだしたのが忘れがたい。熱唱だった。 あれから私は何回ゴーバルをおじゃましたか。しだいに私の中で、岐阜のゴーバル、鳥取の徳永進さんの「こぶし館」「野の花診療所」、岡山の長島愛生園の3か所が“心の故郷”になっていった。 いまは仮に、「心の故郷を素の自分に出会いなおすところ」と定義してみたい。 この16年間、私は自炊孤食の生活である。こういう生活を私が好んでいるのでない(笑)。気づいたら、そうなっていただけである。私は子どもが大好きだし、「大家族がええなあ」と心から思っていた。 まあ、「人生すべてお与えもん」であるから、私は自分のいまの人生を受け入れているが。 でも、ゴーバルの長テーブルで20人くらいでごはんをなごやかにいただいたりすると、休んでいた素の自分自身の感覚が湧いてくるのがわかる。自分がありのままの私に帰っていくんだ。 うらやましいのではない。そうではなく、私が実現させられなかった道を“もうひとりの私”がしっかり歩いてくれるという喜びが湧いてくるのである。私の片思いかもしれないが(笑)、そういうどこか兄弟のような近しさをゴーバルの石原さん、桝本さんに感じる。 9月20日にお別れするときに、桝本進さんが「もう1泊していかないの?」とポロッと言ってくれた。こういう自然な言葉って、とってもうれしい。 (10月16日) |