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連載コラム「いまここを紡ぐ」(第172回)心の故郷としてのゴーバル(その1)――ありのままの私へ帰る
 「なぜゴーバルはあんなにも居心地がよいのか。」
 1か月間、この問いを考えている。
 9月7日の入佐明美さんの「講座・言葉を紡ぐ」に、岐阜のゴーバルから石原潔さん・真木子さん夫婦と桝本進さん・尚子さん夫婦の4人が参加。
 入佐さんも、ゴーバルの4人も、ネパールで医療奉仕活動をしていた医師の岩村昇さん(1927〜2006)の弟子であったのだ。「講座」のあとの交流会で、私は気づいた。
 交流会が盛りあがり、「ゴーバルに行きたい」というひと3人と、9月19日、20日と2日間うかがうことになった。私も仕事を休みにして、「小さな旅」に参加。
 ゴーバルは、1980年に岐阜の恵那山(2190メートル)の近くの旧恵那郡串原村(現恵那市串原)に生まれたアジア生活農場である(http://homepage2.nifty.com/gobar/)。
 ゴーバルは、ネパール語で“牛糞”。ネパールのひとびとは、牛糞を大切にしている。土間の床や壁を牛糞でつくるし、燃料にもなる。その牛糞を屋号にしたことでわかるように、「大地に根ざし、大地に立って、大地を慈しんでともに生きてゆきたい」という願いが、現在も満ちている生活共同体である。
 知りあったきっかけは、松沢弘陽さん(当時・北海道大学法学部教授)。松沢さんは私の師匠の藤田省三さん(1927〜2003)の親友で、丸山真男の弟子仲間である。その松沢さんから1993年に、藤田省三さんの『私たちはどう生きるか?』(論楽社ブックレット創刊号)を「ゴーバルの石原潔さんに送ってほしい」という依頼ハガキがあった。送付したら、石原さんから返事が来て、交流が始まっていったのだ。
 論楽社がゴーバルに“デヴュー”したのは、1994年9月。いまからちょうど14年前だ。論楽社のホームスクールの卒業生たちと恵那山登山をかねて、初訪問。富田譲治くん(当時・信州大学経済学部)が突如としてブルーハーツの「リンダリンダ……」を歌いだしたのが忘れがたい。熱唱だった。
 あれから私は何回ゴーバルをおじゃましたか。しだいに私の中で、岐阜のゴーバル、鳥取の徳永進さんの「こぶし館」「野の花診療所」、岡山の長島愛生園の3か所が“心の故郷”になっていった。
 いまは仮に、「心の故郷を素の自分に出会いなおすところ」と定義してみたい。
 この16年間、私は自炊孤食の生活である。こういう生活を私が好んでいるのでない(笑)。気づいたら、そうなっていただけである。私は子どもが大好きだし、「大家族がええなあ」と心から思っていた。
まあ、「人生すべてお与えもん」であるから、私は自分のいまの人生を受け入れているが。
 でも、ゴーバルの長テーブルで20人くらいでごはんをなごやかにいただいたりすると、休んでいた素の自分自身の感覚が湧いてくるのがわかる。自分がありのままの私に帰っていくんだ。
 うらやましいのではない。そうではなく、私が実現させられなかった道を“もうひとりの私”がしっかり歩いてくれるという喜びが湧いてくるのである。私の片思いかもしれないが(笑)、そういうどこか兄弟のような近しさをゴーバルの石原さん、桝本さんに感じる。
 9月20日にお別れするときに、桝本進さんが「もう1泊していかないの?」とポロッと言ってくれた。こういう自然な言葉って、とってもうれしい。
(10月16日)
| 虫賀宗博 | いまここを紡ぐ | 10:42 | comments(1) | trackbacks(0) |
質問ですが、なぜ心の安定を海外に求めるんですか?
日本の過去から掘り起こしても問題が無いでしょう
そもそも「ゴーバル」等と外来語を使う必然が感じられません、使うなら直接的に牛糞小屋って言ったらどうです?
その土地に住む人々は古来からの工夫によって適した文化を環境として作っているのですから、外からの文化を自分だけの思想で取り入れるのは構いませんが、他者に押し付けないでください
| emanon | 2008/10/17 12:56 AM |










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