最近、言葉の重みが失われていると感じてなりません。国会では与野党論議がにぎやかですが、言葉の背後に「思い」が見えてこない。何年も繰り返されてきた同様のフレーズに「また言っているよ」と思っている方も少なくないのでは。
言葉の重みが失われることは公共理念や価値観の崩壊にもつながります。言葉は物事の重要さを位置付け、人と人、人と社会とをつなぐ絆(きずな)でもあるからです。言葉の重みはそれを発する人の重みでもあります。不特定多数が集う病院や役所で回りを省みず身勝手な要求を繰り返したり、緊急時でもないのにタクシーを呼び寄せる気分で一一九番、一一〇番通報をする人。無理難題を学校に要求するモンスターペアレンツといわれる親も増えています。こうしたことが進めば、われわれの諸先輩が長い時間をかけて築き上げてきた社会を根本から崩していきます。
言葉の背後には、その人が発したい、発さざるを得ない切実な「思い」が有るはずです。ある感動に包まれる体験や危機に直面したとき、人はその経験を近しい人に表現しようと一生懸命言葉を探します。ここにはもちろん誠実さが伴います。それがなければ言葉はうつろでしかありません。言葉を裏付けする「感動」も失われているのが今の社会だとすれば、思いやりも面白みも無い社会と言わざるを得ません。
こうした状況が一朝一夕に回復されることはありませんが、それに取り組むのは言論活動に携わる新聞の大きな役割の一つだと思っています。
(笠岡支社・河本春男)