切り裂きジャック |
第2の犠牲者発見を再現する当時の新聞 |
先日、何気なくテレビをつけたら、いきなり「切り裂きジャック」の犯行現場が眼に飛び込んで来た。『フロム・ヘル』という映画である。ああ、これも「切り裂きジャック」の映画だったのか。近年の映画にとんと興味のない私は知らなんだ。ごめんよ、ジャック。知らなんで。 1888年8月31日未明のことである。ロンドンはホワイトチャペル付近の裏路地を巡回していた巡査が仰向けで倒れている女性を発見した。喉を切り裂かれている。腸が飛び出している。性器にも刺し傷がある。この界隈では顔のメアリ・アン・ニコルズという42歳の娼婦だった。 9月8日、45歳の娼婦アニー・チャップマンが次の犠牲者となった。やはり喉を切り裂かれ、腸が肩まで引きずり出されている。その上、子宮と性器、膀胱が切り取られている。凶行はエスカレートしていた。 9月30日には二人の犠牲者が出た。まず、午前1時頃に44歳の娼婦エリザベス・ストライドが切り裂かれた。その僅か45分後に43歳の娼婦キャサリン・エドウズの無惨な遺体が発見された。それはさながら屠殺場で、はらわたがひと塊、右肩のあたりに店を開いていたという。 |
メアリ・ジェーン・ケリーの遺体 |
そして11月9日、メアリ・ジェーン・ケリーが最後の犠牲者となった。彼女も他の犠牲者と同じく街娼だったが、25歳と若く、しかも犯行は屋外ではなく彼女の自室だった。そのために時間的余裕があったのだろう。犯人は思う存分に切り裂いた。当時の新聞は惨状をこのように記述している。 「喉元を深く切り裂かれて、首がもげかけている。両乳房は切り取られて、左腕は首と同様に皮一枚で胴体に繋がっている状態だ。鼻は削がれ、額の皮は剥かれ、大腿は脛まで裂かれてめくれている。腹部は縦に切り裂かれて、内臓が抜かれて空洞になっており、肝臓は両脚の間に置かれていた。剥がされた皮膚や切り取られた乳房、鼻などはテーブルの上に積み上げられ、片手は腹の中に押し込まれていた」。 ここには書かれていないが、引きずり出された腸が額縁に飾られていたそうである。壮絶なる血と肉のパノラマ。真っ赤な夜のブルースだ。これを最後に「切り裂きジャック」の犯行は途絶えた。彼の正体は今日もなお謎のままである。 |
イーストエンドの貧民窟 |
「切り裂きジャック」はいったい誰だったのか?。その謎に迫る前に、まず現場となったイーストエンドについて語らなければならない。 そんな地域であるわけだから、殺人事件は日常だった。強欲な売女が死ぬほどドツかれ、あるいは刺されるなんてことは当たり前だった。だからメアリ・アン・ニコルズが殺された時も警察はさほど驚かなかった。たしかにいつものとは違うが、どうせすぐ捕まるだろうと高を括っていた。そして、食肉工場が近いことから、そこで働く皮エプロンの男を探していた。 |
犯人からの手紙か? |
どうやらトンデモない殺人鬼がいることに気づいたのは、アニー・チャップマンが殺されてからのことだ。新聞各紙は「皮エプロン」の噂で持ちきりになったが、検視官は「皮エプロン」の犯行ではないことを指摘した。 「子宮が何処にあるのか。取り出すのがどれほど難しいのか。更に、傷つけずに取り出すにはナイフをどう使ったらいいのか。これらをよく理解している者の手で切除されている。不馴れな者なら子宮の位置を知らないし、見つけたとしても何だか判らない筈である。単なる家畜処理人には不可能である。死体解剖に習熟した者の仕業に違いない」。 そこで思い出されるのがバークとヘアの事件である。彼らは解剖用の死体を医者に売るために殺人を繰り返したが、本件も標本欲しさの犯行ではなかったか?。事実、事件の数ケ月前に或るアメリカ人が病理学研究所を訪れ、大量の子宮標本の入手を依頼していた。柔らかな状態で保存されているものならば1個につき20ポンドも支払うという。この話を知った医師か医学生の犯行ではなかったか?。 医師による犯行の可能性が指摘された数日後、エリザベス・ストライドとキャサリン・エドウズが立続けに殺された。エリザベスは臓物を摘出されていなかったことから、おそらく通行人の邪魔に遭ったのだと思われる。そこで目的を遂げるべくキャサリンを襲ったのだ。 「ユダヤ人はみだりに非難を受ける筋合いはない」。 犯人が書いたものかは不明だが、その可能性は十分にある。しかし、警視総監のサー・チャールズ・ウォーレンは「ユダヤ人に対する偏見を助長する恐れがある」と写真も撮らずに消させてしまった。この行動が「警視総監は誰か尊きお方を庇っていたのではないか?」と勘ぐられる要因となるのであるが、これについては後にじっくりと検証することにしよう。 こうした有名事件が起こった場合、私が犯人なのですと名乗りを挙げたり、イタズラの犯行声明文を書き送ったりする困った輩が現れるものだ。本件の場合もそうだった。しかし、中には「本物か?」と思わせるものもあった。9月27日の消印でセントラル・ニューズ・エージェンシーに送られた手紙だ。 「親愛なる編集長殿。 この3日後に殺害されたキャサリン・エドウズの耳は、切り取られてはいなかったが傷つけられていたのだ。そして、この手紙により犯人の名は「切り裂きジャック」に確定するのである。 |
犯人からの葉書か? 犯人からの手紙か? |
予告通りにエリザベス・ストライドとキャサリン・エドウズが殺害された翌日の10月1日の消印で第2の便りが届いた。今度は血が付着した葉書である。 「先の手紙はガセネタではないのだよ、編集長殿。明日になればこの小粋なジャック様の仕事ぶりにお目にかかれるだろう。今度は二本立て(double event)だ。最初の獲物にはちょっとばかり騒がれて、思い通りには行かなかった。警察に送る耳を切り取る暇がなかったよ。この仕事が終わるまで手紙を公開しなかったことを感謝する。 「二本立て」殺人については10月1日の朝刊で既に報じられていたので、犯人でなくてもこの葉書を書くことはできる。しかし、まだ公表されていない「切り裂きジャック」を名乗っていることから、先の手紙と同一人物によるものであることは間違いない。 2週間後の10月16日、ホワイトチャペル自警団の団長ジョージ・ラスクのもとに小包が届いた。中には切り取られた腎臓と1通の手紙が入っていた。 「地獄より。 鑑定の結果、45歳ぐらいのアル中の女性の腎臓であることが判明した。つまりキャサリン・エドウズから摘出されたものである可能性があるのだ。しかし、一方で医学生か何かのイタズラである可能性もある。DNA鑑定などない時代のこと。その真相は不明のままである。 そして11月9日、メアリ・ジェーン・ケリーが惨殺された。その遺体の凄惨な状況にロンドン中の市民が震撼したが、切り裂きジャックはこれを最後に二度と現れなかった。 |
ドクター・クリーム |
以後、100年以上の月日が流れた。その間、様々な人物が嫌疑をかけられてきた。ルイス・キャロルやエレファントマンの名前まで挙がっているが、ここでは信憑性のあるものだけを紹介するに留めよう。 ●ドクター・クリーム ●ドクター・スタンレー(仮名) |
モンタギュー・ジョン・ドルイット ジェイムズ・メイブリック |
●モンタギュー・ジョン・ドルイット 「ドルイットは医師で良家の出身。メアリ・ケリーの殺害事件の後に失踪、その遺体は12月31日にテムズ川で発見された。水中に1ケ月ほどあった後に浮上したとみられている。 ドルイットがメアリ・ケリー殺害の直後に自殺していることは、当時の大方の見解「切り裂きジャックはメアリ・ケリー殺害後、自殺したか完全に発狂して施設に収容された」と一致する。 ●ジェイムズ・メイブリック |
クラレンス公 サー・ウィリアム・ガル |
●クラレンス公 ●サー・ウィリアム・ガル この説は1973年にBBCのプロデューサーであるポール・ボナーが、ジョセフ・シカートというヒッピーから聞いたものである。彼はビクトリア朝の画家ウォルター・シカートの息子であった。 とりあえず、サー・ガルが実行犯との説は成り立たないことを明記しておこう。彼は87年、つまり事件の前年に脳卒中で倒れて、身体の自由が利かなくなっていたのである。 では、真犯人は誰なのか?。 「切り裂きジャックの仮説の多くが、犯人は『ひとかどの人物』だったとの誤った論理に基づいている。その悪名ゆえに、彼をまるで大スターに匹敵する犯罪者だと考えがちである。しかし、連続殺人者の心理をヴィクトリア朝の人々よりも遥かによく知っている我々の知識に照らし合わせると、切り裂きジャックは『ひとかどの人物』などではなく、取るに足らない人物だということが判る。そして取るに足らない人物だからこそ、殺人者になったのだろう」。 私もこれに賛成である。故に私が考える「最有力候補」は、メアリ・ケリーと同棲していたジョセフ・バーネットということになる。しかし、この結論はあまりにつまらないので、今後も主流になることはないだろう。 |
参考文献 |
『切り裂きジャック』コリン・ウィルソン+ロビン・オーデル著(徳間書店) |