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2008-10-15

自殺を止めようとすることこそが傲慢だ

生き方のtipsの一つとして、「自殺を止めようとすることこそが傲慢だ」という視点を持つことがだいじだ。そうした視点を持つことによって、自殺にまつわる感情のねじれは驚くほどに解きほぐされる。

まず止めようとする側。自殺を止めようとすることを「良くないこと」だと感じるから、自殺を止めなくなる。それでよしんば自殺されても、後悔しなくなる。仕方ないと思うようになる。

一方止められる側。最初は、相手に止めてもらえないことに不満を感じるだろう。だけれども、その理由が「自殺を止めるのは傲慢だ」という彼の信念の欲するところによることを知れば、絶望の度合いは薄くなる。少なくとも見捨てられたわけではないというのは、気持ちをだいぶ楽にしてくれる。


自殺というのは、してもいいけどしてはいけないことだ。そうして、世の中のほとんどのことは、してもいいけどしてはいけないことである。

多くの人は、そこのところを経験的に、ほとんど直感で分かっている。けれども、知識をこじらせると、そこの部分が分からなくなる。見えなくなってしまう。そうして真実を見誤るようになる。

本当に真剣に考え抜くと、その先にある真実が見えてくる。「してもいいけどしてはいけない」ということの意味が、ストンと腑に落ちるようになる。

そうした世界の矛盾した様相というものをとことんまで突き詰めた人が世の中にはいて、それはゲーデルでありバッハでありエッシャーだ。「ゲーデルエッシャーバッハ」という本には、そうしたことが書かれている。中でもゲーデル数学的にそれを証明してみせたのだから凄い。この世が矛盾しているということは、ゲーデルがすでに数学的に証明しているのだ。


世界が矛盾していることが分かれば、議論など全くの無意味だということが分かるだろう。必要なのは正しいか誤りかという答だけであって、あるいはそうした結論を出すこと自体を意味のないものとして諦めるかだ。だから、ぼくは議論をしないのである。





ところで、以前に書いた「なぜ自殺をしてはいけないか?」という記事に対して、id:takoponsさんから言及されたのが、その中でtakoponsさんはこんなふうに書いている。

自分の命は借りものなのだ。借りたものは返さなくてはならない。だから今すぐ返すのである。イエス・キリストも「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られた。

↑という「だから」もアリでしょ。


しかしこれは「ナシ」である。なぜなら、命というのは借りたものであるけれども、貸し主は、それを返してもらうことを望んでいないからだ。そうした「矛盾」した要求をしているのだ。だから、返さずに最後まで使い切ることが正解である。


「自分の命は借りもの」だとすると、「俺は借りた覚えがない。だから返す」または「借りたものは返さなければならない。だから返す」という理由で自殺する人のことまでは止められないよね?


これは論点がずれている。ぼくは、「自殺をしてはいけない」と言ったが、自殺する人を止めようとはしていない。最初に述べたように、自殺を止めようとすることは傲慢で良くないと思うからだ。だから、自殺する人のことを止められるとも思ってないし、また「止められない」ことを悪く言われても返答のしようがない。


それから、takoponsさんは自死念慮のある人に対して――

「僕はまだ生きていたい。生きていても良いんだ」と思ってもらえるような対応が理想。

絶望を希望に変えるのが難しい世の中ではあるけれど。


と語っているけれども、これは理想ではない。本当の理想は、希望や絶望からは離れた地点で生きていくということだ。なぜなら「希望」も「絶望」もコインの裏表なので、希望が良くて絶望が悪いなどということはなく、どちらもこじらせれば自殺につながる危険性があるからだ。

だから、希望や絶望は人生のスパイスだくらいに割り切って、そことは距離を置いた生き方をすることが肝要なのだ。そうした調味料には頼らずに、いざとなれば素うどんでも美味しく食べられるくらいの割り切りや逞しさを求めることこそが、最も適切な対応なのだ。


参考


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