日本から見た対日新思考(覚書)

横浜市立大学 矢   晋 2003.11.23

1部 90年代後半の中国外交へのコメント

1.ショプロン・ピクニック10周年

個人的な体験から始めたい。1999年夏休みの40日をブダペストで暮らした。途中、ワルシャワとザグレブにそれぞれ数日でかけたほかは、ハンガリー科学アカデミー世界経済研究所の日本・東アジア・東南アジアセンターの研究者たちとの意見交換に用いた。私の研究テーマは「ハンガリーと中国との経済改革の比較研究1」である2

人口1000万人のハンガリーと13億弱の中国とは、比較の対照として不適当と思われるかもしれない。確かに両者は国土の大きさや地理的位置、経済構造と社会構造、民族の構成、国家機関の構造、自前の革命を行った中国に対して、ソ連から革命を輸出されたハンガリーといった具合で、どれをみても安易な対比を許さないほどに違いは大きい。にもかかわらず、1989〜90年の政治革命以前のハンガリーと現在の中国は、いわゆる現代社会主義国としての共通の特徴を刻印されていた。それだからこそ80年代を通じて、中国の改革派エコノミストたちは、ハンガリー・モデルの研究に大きな努力を注いだ。いま代表的な例を挙げれば、一つは于光遠ミッションである。于光遠(後に中国社会科学院副院長)調査団は1979年11月25日から12月22日までハンガリーを訪問し、経済改革を調査研究した。この視察団には劉国光(のち中国社会科学院経済研究所所長)、蘇紹智(当時中国社会科学院マルクス・レーニン主義毛沢東思想研究所所長)も参加していた。これら3人が中国の経済改革において大きな役割を果たしたエコノミスト群像のなかで代表的人物であることはいうまでもない3

もう一つの例を挙げよう。1984年3月、朱鎔基もハンガリーを訪問している。当時の朱鎔基の地位は国務院国家経済委員会の筆頭副主任であった(その後、1998〜2003年国務院総理を務めた)。このような人事の往来を一瞥しただけでも、中国の指導部がハンガリーの経済改革の行方に大きな注意を払っていたことの一端がよく理解できるであろう。

1989年の春から初夏にかけて、中国では天安門事件が起こり、東欧ではこれとは対照的に民主化が成功した。そのシンボルは「ベルリンの壁」の崩壊であった。実はコンクリートの壁、チャーチルのいう「鉄のカーテン」は東西両ドイツ間にのみ存在したのではない。その壁は、旧チェコスロバキア(現チェコとスロバキア)、ハンガリー、旧ユーゴスラビア(現スロベニア)まで6000キロに及ぶ有刺鉄線として両陣営を引き裂いていたのである。ベルリンの壁が89年11月に崩壊する直接的契機となったのは、オーストリア国境に近いハンガリーの町ショプロンで開かれた「ヨーロッパ・ピクニック」であった。「ヨーロッパ・ピクニック」とは、きわめて慎重に計画された奇策であった。ハンガリーは東欧圏のなかでも西側への「ショーウインドウ」として、カダール体制のもとでも、他の東欧圏には見られない自由を享受していた。この結果、バラトン湖周辺の避暑地に多くの旧東独市民が避暑にでかけ、そこへ同じく避暑にきた西独市民との間で、国境を越えたデートの場をハンガリーは提供していた。ハンガリーは東独からの観光客を兄弟国として受け入れる。しかし兄弟国としての仁義から彼らを西独へ出国させることはしない。これが約束事であった。当時ハンガリー国内には6万人のソ連軍が駐留、これらの軍隊が動けば、1956年の「ハンガリー動乱」の二の舞である。3月に行われたネーメト・ミクローシュ首相(1988年11月から90年5月まで首相。その後、欧州復興開発銀行副総裁)とゴルバチョフ大統領との会談で、ハンガリー側はオーストリアとの国境すなわち有刺鉄線を開けても、ソ連軍駐留部隊が黙認する意向だというゴルバチョフの腹を読み抜いて、「ヨーロッパ・ピクニック」を決断する。そしてこのピクニックこそが東独市民の越境を黙認し、ベルリンの壁を崩す契機を作る。この歴史を想起しながら私は、一方で朝鮮半島情勢を考え、他方でコメコンを離れてEU加盟を急ぐハンガリー、チェコ、ポーランド情勢、はては折からのコソボ問題など東欧情勢の理解を深めようと努めた旅であった。

 

2.ポスト冷戦期の東アジア「疑似緊張」

さて、東欧の東アジア研究者から私が尋ねられたのは、台湾海峡の「疑似緊張」(あるいは人為的に作られた緊張)の問題、悪化する日中関係、朝鮮半島の情勢などであった。彼らの共通の関心は、東欧において脱冷戦が比較的順調に進展したのに対して、東アジアの情勢は緩和とは逆にますます緊張しているのではないか。それはなぜか、であった。これらの質問に答えるために、私は帰国後、少し資料を集めて分析してみた。

一つのデータは、中国の公式報道に登場した「日本軍国主義」批判のキーワードである。20008月の日中コミュニケーション研究会シンポジウムで発表した報告から引用する

これは『人民日報』CDロムから、日本イメージを象徴するキーワードとして「軍国主義」を選び、1990年代におけるその頻出度数を数えたものである。記事のタイトルあるいは本文のなかに「軍国主義」の4文字が少なくとも1度は現れる記事数を数えた結果が第1図のごとくである。1995年は軍国主義というキーワードが『人民日報』に踊ったピーク年である。95年は中国からみて、抗日戦争50周年にあたり、これを記念するキャンペーンが行われたのは、自然な成行きだが、問題はキャンペーンの行き過ぎあるいは偏向であった。

旧ソ連が199112月に解体した当時、ケ小平氏は「冷静観察、沈着対応、韜光養晦、決不当頭」の「十六文字」をもって対応策を指示した。1992年の南巡講話を契機として改革開放路線が復活し、199394年を経てひとまず危機管理を終えたところで、1994822日、満90歳の誕生日を契機として、ケ小平は完全引退を決意した。19949月の144中全会は「以後、政策の決定に関与しない」というケ小平の申入れを確認し、江沢民体制がスタートした。江沢民は天安門事件直後に総書記に就任したとはいえ、94年のケ小平完全引退までは、基本的にケ小平の決裁に依拠していたのであるから、言葉の真の意味での江沢民体制は1995年からスタートしたと見るのが妥当である。

旧ソ連の解体とその直後に行われた江沢民体制への移行にともなう政治的環境のゆえに、反軍国主義キャンペーンが行われたと解釈すると、この間の中国政治の基本的な潮流が理解しやすくなると思われる。旧ソ連の解体に伴う動揺という事態がなかったとすれば、95年のキャンペーンがあのような民族主義的偏向に陥るのを避けることができたはずだ。

 3. 愛国主義教育が鬼子を生む

1990年代末から21世紀初頭にかけて、「下からのナショナリズム」に新しい潮流が生まれた。それはインターネットの普及に伴い、新たなメディアを利用する形で「大衆の声」「世論」が登場したことである。これらは「大衆」の声の一部であること、世論の一部であることは、明らかだが、これをあたかも「広範な大衆」「世論のすべて」と誤解することは、きわめてミスリーディングな結果をもたらす。「人民網」は2000年以来検索できるので、以後2003年9月13日までの時点で、『人民日報』と「人民網」を比較すると、顕著な相違が認められる。「人民網」という新たなメディアがスタートした2000年以来、日本人への蔑称である「日本鬼子」を煽り、「日本軍国主義」批判を声高に続けているのは、『人民日報』本紙よりは、むしろ「人民網」である。近年は『人民日報』は日本批判のトーンを落とし、代わりに「人民網」が煽動的な書き込みを許している。ここでは日本人に対して「日本鬼子」と侮辱的表現を繰り返しながら、一部の日本人が「シナ人」を使った途端に、猛烈に反発する者が少なくないが、彼らは国際感覚を、少なくともバランス感覚を欠いていると言わざるをえない。むろん「シナ」の語源が「秦」であるとする解説は無意味であり、相手が不愉快に思う表現は避けるのが礼儀にかなった作法である。中国人が「シナ人」を耳に接して不愉快に思うのと同様に、日本人は「日本鬼子」あるいは「小日本」の言い方を不愉快に思う。したがってこの種の蔑称はお互いに避けるのが文明的な作法であろう。

日本のマスコミにおいても、新聞本紙よりは「週刊誌」が煽情的な見出しを掲げる例が多い。中国では日本型の週刊誌の代わりにネットへの書き込みが類似のガス抜き作用を果たしているように見受けられる。いずれにせよ、世論の動向を見きわめるうえで、インターネット上の声を分析する必要性はますます大きくなりつつある。しかし、これはメディア本体部分の統制と表裏一体の事柄であり、本体における統制の堅持と他方でのガス抜きは姑息な対応であろう。加えてこの種のガス抜きの場に現れた意見を世論そのものと見るのもミスリーディングであることはいうまでもない。世論のありかを知るためには、やはり正しい、あるいは客観的な世論調査の方法に基づいた調査が必要であり、この面でも日中協力が期待される。 

 

4.江沢民時代の功罪

江沢民の治世は89年以来の13年間ではなく、95年以来の7年間と見るべきである。ここで一つ指摘しておきたいのは、愛国主義教育の功罪である。天安門事件や旧ソ連解体という政治的激動を踏まえて、1994年から「愛国主義教育運動」が展開された。その「実施要綱」によると、この運動は単なる「学校教育への指示」ではなく、マスコミをも含めた「全社会的な愛国主義ムードの醸成」を中共中央が企図したことが分かる。党中央の1994年8月の指示がこの運動の根拠である。この指示は天安門事件直後のケ小平語録「愛国主義教育が足りなかった」ことが天安門事件のような学生運動をもたらしたとする解釈に基づいて、いわばケ小平の指示の形でスタートしたが、その展開と帰結は、ケ小平の改革開放路線にかなりの悪影響を与え、ケ小平路線を歪曲するほどのものとなった事実を指摘しなければならない。これはまさにケ小平体制から江沢民体制への移行期の現象であり、ケ小平指示から出発しつつも、ケ小平の思惑を越えて暴走したのではないかと私は理解している。

当局による愛国主義キャンペーンが暴走し肥大化したこと、あるいはねじまげられた背景として、中国社会の変化も指摘できるであろう。90年代半ばから、伝統的な茶館が復活し、チャイナドレスがファッションとなり、中国人であることの誇りを自覚した意識が生まれる。私見によれば、その契機は実に旧ソ連の解体に他ならない。旧ソ連の解体は、中国指導部にとっては、まことに憂慮すべき体制の危機として意識されたが、民衆にとっては、消費生活を謳歌しはじめる契機でもあった。なぜか。人民元は改革開放以後、一貫して切下げを続けてきた。米ドルに対しては約5分の1に、円に対しては、約10分の1に切り下げられた。94年1月の外貨兌換券の廃止による交換レートの一本化は、この切り下げ過程の最後の一撃であった。しかし、これを契機として人民元は下げ止まり、貿易収支は確実に黒字を確保できるようになり、外国からの直接投資も増加傾向に転じて、中国の外貨事情は好転した。それだけではない。旧ソ連の崩壊は、ルーブル価値の暴落をもたらし、これと連動していたベトナム通貨を危機に陥れた。以後、ベトナム当局は、一転して中国モデルを導入するようになり、中国ベトナム国境貿易は活発化した。この過程で人民元は初めて、実質的な切り上げ感覚を感じることになる。およそ20年の人民元購買力低下過程が逆転して、購買力の上昇過程が始まった。南方ではベトナムとの国境貿易を契機としてドンに対して人民元の強さが実感され始めた。私は1992年にハノイを訪問し、この動きを実感した5。北方では、シベリアとの国境貿易あるいは北京秀水街で大量の繊維製品を買いあさり、シベリア鉄道経由でロシアに行商する人々の活躍を通じて人民元の強さが実感され始めた6。中国の人々が誇りを取り戻す契機として、人民元の交換レートが強含みに転じたことは大きな意味をもつと私は観察してきた。一方で市場経済の勝者たちの経済生活の安定を生み出し、他方で国有企業のリストラなど敗者をも大量に生み出したのが経済計画システムから市場経済システムへの移行期の現象であった。このような社会の大転換こそがナショナリズムの土壌であり、そこには健全なナショナリズムと排外主義的民族主義が共存していた。

 

5. 抗日戦争50周年キャンペーンの背景

このような民衆の「下からの自信の回復あるいは中国意識への回帰」は、一方では当局による上からのナショナリズム教育を支えるものとして機能し、他方では、当局のコントロールを越えて、独自の中華ショービニズム的傾向へと流された。ここから狭隘な愛国主義、民族主義的情緒に溺れる偏向が生まれ、特に国際協調自体をも否定する排外主義的傾向に彩られた。

こうして90年代半ばの中国は、

(1)旧ソ連解体と「蘇東波」への対応、

(2)ポストケ小平期の権力の空白、

(3)市場経済化への移行のひとまずの成功、

といった大気候のもとにあった。

1995年に展開された「抗日戦争50周年キャンペーン」は、まさにこの大きな文脈のなかで考察されるべき事態である。これは旧ソ連で動揺する中国共産党にとって、恰好の「自信回復」キャンペーンの契機を与えるものとなったが、特に注意を要するのは、このキャンペーンの帰結である。中国共産党は由来、民族独立の闘争を主たる課題として掲げてきたことからして、「愛国主義あるいは振興中華」の呼びかけは、いわばその創立とともにあったが、同時に「万国の労働者、団結せよ!」のスローガンに代表されるように、「プロレタリアートの国際主義」をもう一つの根本的原則として堅持してきた。

しかし、旧ソ連東欧の解体という現実のなかで、むしろ国際主義を主張することは、中国における兄弟政権の崩壊を暗示することにもつながらざるをえないのは、論理的必然だ。これを避けるためには「中国の特殊性」を強調する方向へシフトせざるをえなかった。こうして生まれたものが「国際主義なき愛国主義」、「国際主義を忘れた愛国主義」にほかならない。愛国主義は他方での国際主義の精神に裏付けられて初めて健康なものたりうるが、国際主義を欠いたとき、それは中華ショービニズム(排外主義)と同義である。意識するしないにかかわらず、中国共産党の90年代後半のキャンペーンが狭隘な愛国主義、そして民族主義に流されたのは、論理的必然とみることができよう。

 

6.中国外交への三つの疑問

この意識的な愛国主義教育と意識せざる民族主義路線へ外交が偏向した結果、次の三つの外交的誤りが引き起こされたと私は分析している。

第一は、マケドニア問題を扱う国連安全保障理事会で拒否権を行使した点である。台湾問題の重要性は十分理解しているつもりだが、果たした拒否権の行使に値する課題であったかは大いに疑問である。中国のこの行動は、米国をして安全保障理事会の運営困難を認識させた。こうして米国は中国の拒否権行使を予想しつつ、その事態を避けるために、国連決議なしにコソボ問題を処理する方針を固めた。他方、中国は極度に民族主義的偏向に陥ったミロシェビッチ政権を支持して、NATO軍の介入に反対した。このような形を変えた「米中代理戦争」のなかで、ユーゴの中国大使館「誤爆」事件が発生したのではないか。

私の理解によれば、これは「誤爆」ではなく米軍による意図的な「挑発」であった。中国がどこまで米国と対抗する意志があるのかをテストしたものと見てよい。「誤爆」に対して北京の学生たちは、在中国米国大使館への投石という形で抗議した。米国大使が籠城を余儀なくされた投石事件は、米国のテレビで広く放映され、「天安門事件に続く第2の暴挙」として、中国の対外イメージを著しく傷つけ、中米関係を大きく後退させた。しかし、3年後、マケドニアはふたたび中国との関係を回復した。小国マケドニアに振り回された一連の騒動劇は、元の木阿弥に終わった。当初の時点で大局を見通す余裕があれば、ボタンのかけ違いによるトラブルの連鎖反応は避けえたはずであった(ただし、この経緯からして1999年夏の北戴河会議を契機に親米一辺倒路線への反省が生じたのは、当然のこととはいえ、妥当な軌道修正であった)。

第二は、1995年6月6〜12日の李登輝訪米に対する過剰反応である。クリストファー国務長官と銭其琛外交部長との約束に反して、米国が李登輝訪米を許可したことに対して、外交的抗議等を行うことは必要だとしても、7月21〜26日の台湾海峡におけるミサイル演習および96年3月8〜15日のミサイル演習、12〜20日の実弾演習、18〜25日の陸海空合同演習がほんとうに必要であったかは、はなはだ疑問である。米軍は空母インディペンデンスと原子力空母ニミッツを台湾沖に派遣し、「疑似緊張」が作られた。

この台湾海峡の疑似緊張は総統選挙における李登輝の得票率を「5割未満の予想得票率」

から「54%の実績」へと、少なくとも5%引き上げる結果をもたらした。李登輝への警告を意図したものが、実際には警告にはならず、2000万余の台湾民衆を脅えさせ、結果的に李登輝を支持する効果しかもたらさなかったことの教訓は大きい。李登輝のパフォーマンスあるいは挑発に踊らされ、過剰な対応を繰り返したことが逆効果をもたらしたものと見てよい。これを奇貨として国内態勢固めに利用したのだとすれば、短慮であったことはいうまでもない。

第三は、1998年の江沢民訪日の悪影響である。1998年は平和友好条約20周年にあたり、春に胡錦濤が訪日し、秋には江沢民が訪日し、国家主席と副主席2人の訪日によって、日中関係を従来の2国関係からより高いレベルに引き上げることが目指されていた。単なる2国間関係を越えて、リージョナル(東アジア)、グローバル(地球規模)な関係の一構成要素としての日中関係という意欲的なパートナーシップが目標とされていた。しかし江沢民訪日は、失敗に終わり、日本における広範な「中国嫌い」現象を引き起し、これが中国に反映して、中国の「反日ムード」を助長した。江沢民がなぜこのような対日強硬スタンスを採用したかについては、いくつかの忖度が可能だが、要するに江沢民の親米反日路線の一つの帰結であったと見て大過あるまい。

1998年6月にクリントン大統領が日本の頭越しに訪中し、中米関係は大幅に改善された。この中米関係改善の自信のうえに、「単なる従属要素にすぎない日本」が「韓国並みの謝罪をしないはずはない」とする誤った日本認識から出発した高圧外交が1998年訪日失敗の根本的原因であったと私は愚考している。

 

7.小泉靖国参拝—---もう一つの解釈

以上、三つの例に典型的に現れたような民族主義的、大国主義的外交スタンスが残した悪影響、特に日本や台湾に与えた否定的な中国イメージは決して小さなものではない。2001年に就任した小泉首相は、2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日の3回にわたった靖国神社を参拝したが、これはいわば中国民族主義に対する反発として繰り返された側面が強いことを指摘しておかなければならない。すなわち小泉首相は、少数派閥のリーダーとして総裁選に立候補したとき、多数派橋本龍太郎元首相が日本遺族会会長を務めていた経緯からして、遺族会票を獲得するための、純国内的なマヌーバーとして靖国参拝を公約せざるをえなかった。しかしひとたびこれが発表されると大きな対外的波紋を巻き起こし、特に図1のグラフから明らかなように、軍国主義批判の新たな高まりを招いた。これによって、小泉パフォーマンスは一躍注目の的となった。彼はいわば中国側の重なる抗議のなかで「もはや参拝を辞めるわけにはいかない」ところまで追いつめられたとさえいってよい。小泉はかならずしも信念に基づいて参拝を繰り返したのではない。参拝という公約があまりにも大きな政治的行為に変化したために、公約の修正が不可能になったにすぎない。小泉自身は首相就任以前に靖国問題に深い関心を抱いていた形跡はない。この文脈で、逆説的だが、小泉の靖国参拝を最も激励し、背中を押したのはまさに中国当局による強硬な、かつ繰り返された参拝批判にほかならない。

小泉首相の就任当時、中国では小泉=中曽根の亜流説も広範に流布された。小泉、中曽根双方にこの種の印象をふりまくパフォーマンスが見られたことは確かだが、私自身は小泉と中曽根の違いにむしろ注目していた。果たして、2003年11月の衆議院議員選挙に際しては、小泉は中曽根に対して引退勧告を行い、両者の政治的ライバル関係を白日のもとにさらした。政界の深層の分析はもとより一寸先は闇だが、とりわけ外国政治の分析において予断と偏見をもって分析に代えるのは、危険である。

さて遺族会に戻るが、日中戦争敗戦以後50余年の過程で、遺族会は高齢化し、その政治的影響力は日々減退しつつあった。こうして歴史から次第に影を薄くしつつある存在に強烈な光をあて、日本ナショナリズムを刺激した対日政策が賢明なものであったとは到底考えられない。靖国問題はこうして眠りつつあるものが突然呼び起こされ、このような構図で中国民族主義と日本民族主義の対決の争点と化した。1986年の中曽根書簡以後約10年首相の参拝はなく、橋本首相は誕生日に参拝したものの、翌年中止した。現在はこれらの経緯とは相当に異なる局面が現れている事実を直視する必要があろう。

こうして、江沢民時代の民族主義に傾斜した近隣外交政策のもとで、日中関係、台湾海峡両岸関係は、著しく悪化した。むろん、これには一連の過程があり、相手側の対応(あるいは挑発)による部分が少なくない。中国の諺に「片手で拍手はできない」というのは蓋し名言だ。海峡両岸関係は李登輝の訪米パフォーマンスという挑発に乗せられ(あるいは乗った形で)高圧政策が強行され、これに相手側はいよいよ反発する。そのような連鎖反応の繰り返しを経て、悪化の一途をたどった。日中関係もほとんど同じである。一方の挑発に相手側が過剰に反応し、さらなる挑発を招く。その過程で本来ならすでに忘れられていた政治家が相手の罵声を声援に代えて復活するといった悲喜劇が繰り返された。

2002年は国交正常化30年の記念すべき年であったが、小泉首相の訪中はならなかった。国交正常化以後30年、双方の首脳の訪問がその意に反して実現できないのは、初めての事態であった。このような不正常な関係を打開する必要は、日中双方の関係者の間で広く認識されていたとみてよい。この状況のもとで登場したのが馬立誠論文、時殷弘論文、馮昭奎論文であるとすれば、これはまさに「水到渠成」の成行きであった。

 

8.日本の自衛権の範囲について

ポスト冷戦期の東アジア情勢のなかで、日本の自衛権の範囲についての議論が高まり、自衛隊の海外派兵を含む諸活動が改めて見直されている。この場合、すべての議論を「平和憲法擁護」、すなわち護憲の立場から出発すると、日本はひたすら軍事力増強への道、すなわち軍国主義復活の道を歩んでいるかのような日本像が描かれる。私は平和憲法を否定し、改憲を主張するものではないが、問題点の所在を検討するための交通整理を試みておきたい。日本の平和憲法は国際法の許容する自衛権と比べると、明らかにきわめて狭い範囲に限定されている。すなわち国際法は(1)個別的自衛権、(2)集団的自衛権、(3)集団的安全保障の三つのカテゴリーについて固有の権限を認めている。日本国憲法は「個別的自衛権」を認めているが、その範囲は「必要最小限」に限定している。集団的自衛権にわたるものとしては、1999年に周辺事態法が成立し、テロ特別措置法が2001年に時限立法として成立し、2003年7月イラク特別措置法案が衆議院を通過した。集団的安全保障の面では、Peace Keeping Operation法すなわち平和維持作戦のための法律は1992年に成立したが、これはPeace Keeping Forcesとは異なり、戦闘部隊への参加を含まない。

これに対して中国はすでにカンボジアなどで国連PKF部隊に参加している。このほか、国連安全保障理事会では常任委員会の一員であり、拒否権をもつ。また核兵器を保有し、これを運搬するロケットを保有し、2003112110月に有人宇宙衛星神舟5号を打ち上げたことはいうまでもない。かつて核兵器さえも実戦配備に至らなかった段階において、米国と安全保障条約を結ぶ日本が仮想敵国として重要な位置を占めていると中国が警戒の念を深めていたことは、容易に予想できる事柄である。しかし、一方で核兵器の性能を向上させ、有人宇宙衛星を打ち上げる技術力をもち、なおかつ米中関係を著しく改善させた中国が5070年代のイメージで日本軍国主義批判を主張するのは、かならずしも正当性があるとは思えない。現実には有効な報復力を備えるに至ったのであるから、一国レベルでの軍事力は日本よりもはるかに強く、中国が日本の軍事力に脅威を感ずるのは、合理的ではない。ただし、ここで日本の軍事力は問題にしていないが、米国の支援を受けた場合に脅威だというのがホンネのはずだ。もしそれならば、中国こそが米国と良好な外交関係を構築することによって、安全保障を図るのがスジであり、日本の軍国主義なるものを想定してこれを非難するのは、スジ違いもはなはだしい。要するに49年に成立した中華人民共和国政権が米国の封じ込め政策のもとにあった時代の恐怖感から成立した国際情勢観にいまだに束縛されているのは、時代錯誤というほかない。要するに、東アジア世界においては、中国はすでに政治的経済的面だけでなく、安全保障の面でも大国であり、これに独力で対抗しうる国家は存在しない。中国はすでに強者であるからには、弱者であった時代に身につけた劣等感や被害者意識から解放されるべきである。この場合、最も必要なのは、隣国日本の政治経済情勢を安全保障も含めて根本的に再検討することである。今回の新思考をめぐる論争がそこまで発展することを願ってやまない。

 

4 日本の自衛権の範囲(国際法と憲法の枠)

 

国際法の許す自衛権の範囲

武力行使

個別的自衛権

(必要最小限)

集団的自衛権

集団的安全保障

中国はすでにPKFに参加。

非武力行使

外交活動

周辺事態法1999

テロ特法2001

イラク特措法2003

日本はPKO(1992)により、これにだけ参加。

 

[第1部注]

1矢吹晋「ブダペストで中国の未来を考える」 『大航海』新書館、1999年12月号、31号102〜109ページ

2ポロニ・ペェテル、矢吹晋訳「ハンガリーの中国学」(匈牙利漢学簡史)『月刊しにか』大修館書店2000年3月号、94〜99ページ

3『ハンガリー経済体制考察報告』一九八一年八月刊、中国社会科学出版社、限国内発行、経済研究参考資料叢書

4劉志明主編『中日伝播与輿論』神戸EPIC社、200111月、9-10頁。

5矢吹晋「ベトナムに根強い対中不信感、李鵬訪越時にみた中越関係」『外交フォーラム』1993年2月、28〜33ページ。

6 矢吹晋「東北・シベリア辺境の旅の印象」『三菱中国情報』1993年8月号

 

2部 中国における豊かな日本学の樹立のために

1.「何故中国語を学ぶか」、「なぜ日本を研究するのか」

高井潔司論文のいう「対日工作」のための日本研究から脱皮し、日本社会を理解するための日本研究、日中の相互理解のための研究の姿を考えてみたい。やはり、個人的な体験から始めよう。私は1958年に大学に入り、外国語として中国語を選択した。当時、わが老師が繰り返して強調したのは、「なぜ、何のために中国語を学ぶか」という問いかけであった。これは日中戦争期に中国語が「ヘイタイシナゴ」「ツウベンシナゴ」として用いられ、侵略戦争の道具であったことの反省から、戦後の中国語教育はその繰り返しであってはならないとする固い決意に発したものであった。日中相互理解のため、和解のため、日中交流のためにこそ中国語学習は意義があるとする問題意識を老師は徹底的に教えようとした。この強烈な洗礼を受けた若者はいささか問題意識過剰に陥り、あるいは問題意識が先行して、ほとんど「デモ暮らし」に明け暮れた。60年安保闘争の時代であったから、これは時代の趨勢でもあった。以後私は、「デモ暮らし」をやめて、中国語の学習を再開したが、学生時代の原体験を忘れたことはなく、そのような姿勢で中国語を学び中国研究を続けてきたつもりである。

 

2.政策から自由な研究が望ましい----政治と研究の距離のとり方について

特定の政策を解説し、弁護し、合理化するだけの研究は、一見社会的に有用であるかに見えて、実はほとんど役だたないのが学問の世界の常識である。むしろ、マルクスがその著作を『経済学批判』と名付けたように、批判的な研究こそが対象をより深くとらえ、その本質的な問題点を剔抉するのに役だつ。日本研究者、あるいは関係者諸氏にとっては、ぶしつけな言い方を敢えてお許しいただきたいが、今回の「新思考の問題提起」が日本問題研究者ではなく、非専門家側からまず提起されたのは、象徴的である。日本研究者の間でそのような試みがなかったわけではないことを私は仄聞しているが、実際に活字のとして初めて登場したのは、馬立誠論文であり、時殷弘論文なのである。彼らの非専門家の論文に事実誤認や不適切な表現は多々あるにしても、彼らが率先して問題を提起した勇気と見識は評価すべきである。そして、このような問題意識を継承しつつ、馮昭奎以下の日本研究者たちが足らざるを補い、行き過ぎを修正する形で、問題を発展させた功績は、やはりゆがんだ日中関係の軌道修正の試みのヒトコマとして記録するに値するであろう。

物量作戦を特異とする宣伝と研究とは峻別されなければならない。真理はそもそも少数派の手中から生まれ、時間を経て大方の受け入れるところとなり、多数派から真理として認められるようになるのが通例だ。いま常識として多数派によって認知されているものは、次の時代においては俗説として放棄されるものが多いはずだ。それゆえ、真理の正しさを多数決で決定するわけにはいかないし、研究者としてはその論理を検証することなしに多数派に追随することは、自殺行為にほかならない。

さて中国の人々が抗日戦争期にあって、日本軍国主義と闘争するために日本語を学び、日本を研究したのは当然であった。第2次大戦後の冷戦体制のもとで、やはり日中両国は対立する両陣営に引き裂かれていたのであるから、やはり「敵性国家の研究」が中心であったのは、理解できることだ。しかし、1972年の国交正常化を通じて両国は過去の敵対関係を乗り越えて平和な関係を築くことを互いに約束した。加えて1978年以後は、平和友好条約に基づいて新たな両国関係を築くことを約束したのであるから、日本研究も当然そのような課題の変化に即応して、変化してしかるべきであった。にもかかわらず、中国の日本研究の主流は、私の見るところ、依然として敵性国家の研究、敵側に対する工作の必要性という従来からの慣習に緊縛されていたようである。これが誤解であれば、幸いだ。

その結果、高度成長以後の日本社会の変貌、21世紀にはいってますます大きく変化しつつある日本社会を「対象に即して研究すること」を怠る結果に陥ったように思われる。むしろ、「日本軍国主義の本質は不変」、「軍国主義日本の本質」なる固定観念に当てはめて、日本の一切を断罪する傾向が続いてきたのではないか。これはまことに遺憾なことだ。一人の日本人としては、誤解され続けることが不愉快であるし、そのような誤解に基づいて中国の友人たちが間違った日本観をいだき、自然な交流が妨げられているのを見ると、看過できないと思う。あらかじめ敵国である、あるいは敵国である可能性が強いという想定のもとに日本を研究するのと、日本社会そのものを虚心に調査し、分析し、推論を導く態度とでは、結論が大きく異なる可能性が強い。戦前の軍国主義を引証基準として、これにあてはまるもののみを恣意的に選択し、引用するような日本研究によっては戦後の日本社会の全体像をとらえることができず、日本は軍国主義という面では何も変わっていないとするがごとき荒唐無稽な日本論が導かれるおそれが強い。

中国の日本研究、特に政治や経済の研究が対日工作のための情報収集のレベルにとどまっているように見受けられるのは、はなはだ残念であると感じてきたが、今回の新思考論争を通じて私はますますその感を深くした。もとより「仁者見仁、智者見智」であるから、日本社会についてもさまざまの見方があって当然だ。しかしその基本的な対日スタンスが敵性国家の研究であるならば、やはりこれと戦うための情報収集が中心にならざるをえない。もし、調査し分析した結果、日本はやはり敵性国家であるという結論が導かれたのならば、その判断根拠を一つ一つ示してほしい。事実に基づいた判断ならば、私も一つ一つを検討して、その種の判断が事実と論理に合致したものかどうかを検証するつもりである。

 

3. 21世紀の課題に応える研究が欲しい

日本を予め敵と認識して、それに合致するかに見える材料のみを集めるような研究、あるいはそのような課題設定は、21世紀初頭の今日果たして有効であろうか。改めて指摘するまでもなく、いまや東アジアというリージョナル世界での経済協力を基盤としつつ、グローバルな交流が日々進展する世界の一員としてわれわれは生きている。これは20世紀、特に前半までの世界像と大きく異なるものだ。このような世界にあって、良き地球市民、良き東アジア世界の住人となることが求められている。中国の日本研究はそのような大きな目的のために貢献するものでなければならないと思われる。新思考外交をめぐる論戦を仄聞して痛感するのは、未来に向かう日本研究と過去に拘泥する日本研究の対立、相剋である。歴史を鑑とすることは重要な教訓だが、古い革袋に新しいワインをいれることによって、ワインをまずくするような愚行は避けるのが賢明であろう。

今回の新思考論争を契機として、中国の日本研究が敵性国家の研究というしがらみを乗り越えて、真に未来に向かう日中関係の構築のための研究に飛躍し脱皮してほしいと私は願っている。20世紀の後半において世界各国で日本学研究は大きく発展しつつある。中国は共通の漢字文化をもつ隣国として、日本研究においては、他の文化圏よりもはるかに有利な位置にあるにもかかわらず、戦後いまだに欧米のジャパノロジー研究に匹敵し、あるいはこれを超えるような優れた研究を生み出したという例を見ないのは、不可解なことだ。これはやはり旧来の「対日工作」の足枷手枷によって自由な思考が束縛されているからではないか。

 

4. 方法論を意識した研究が必要

中国の日本研究者のなかには、外国語大学で日本語を学ぶことからスタートした者が少なくない。日本語をマスターすることは、不可欠の条件ではあるが、日本語だけしか学ばない者に、日本の政治や経済を分析することは、難しい。日本語のほかに、政治学や経済学、社会学など社会科学の分野の研究方法を身につけることが望ましい。社会科学の分野の方法を欠いたまま、いきなり日本の政治や経済を論ずる機会が少なくない。これは教育制度の欠陥によるところが大きい。日本語主専攻で政治学副専攻、日本語主専攻で経済学副専攻、といった組み合わせや、政治学主専攻で日本語副専攻、経済学主専攻で日本語副専攻といった組み合わせがあっておかしくはない。このような柔軟な教育制度こそが望ましい。

 

5.日本語資料の翻訳について

中国で訳される日本語資料に接して、なぜこんなものを訳すのか、と疑問に感ずることが少なくない。日本ではほとんど相手にされないような情報屋の本がしばしば翻訳される。こんどはそこに味をしめ、中国で翻訳されることを期待して件の情報屋が中国の日本研究者だけが興味をもちそうな本を出す。こうして当該人物の中国語訳本は数冊にのぼり、中国でのみ有名な「日本学者」が生まれる。これが「良心的学者」「友好人士」としてもてはやされる。なんのことはない。ただの情報屋あるいは総会屋まがいの人物だ。情報屋の本でも使い方が皆無というのではないが、週刊誌のゴシップ程度の内容しか含まないものを麗々しく中国語に訳すのは、ほとんど滑稽を通り越す。その類を有り難がるケースにぶつかると、一方で資源のミスアロケーションを思い、他方でこの研究者はいったい何をこの本から学ぼうとしているのか、その品性を疑いたくなるのが常だ。さしさわりがあるので、具体例を挙げることは控えるが、まともな研究書と情報屋もどきの情報との区別がつかないようでは、研究の水準が疑われることになる。下品な週刊誌レベルの記事にも、役だつものが皆無とはいわないが、外国の日本研究者として、時間も資料も限られる場合には、まず日本社会で広く受け入れられている評価の定まったものに接近して日本研究に取り組むのがよい。みずからの歪んだ鏡に心地よく映ったものにこだわるのは、客観的研究から遠ざかる道だ。かつては、日本は資本主義という階級社会であるとして、左翼文献のみを重視する「左翼小児病」的症状がみられたが、近年は一転して右翼文献のみを重視する「右翼片肺」的偏向がみられる。面白半分に娯楽として書き立てているような台湾情報、中国情報を真に受けて、これこそが日本の中国関係ジャーナリスムと錯覚するのは、怠慢そのものであり、いうべきことばを知らない。私はかねて日本人たる私が驚き入るような鮮やかな、論理明晰な日本研究を期待しているが、まだお目にかからない。近年日本では、ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて2』、ハーバート・ビックス著『昭和天皇3』などが外国人による優れた日本研究書として話題になった。いずれもアメリカ本国でピュリッツァー賞を得たものだ。奇しくも二人は1938年生まれ、私と同年である。私はこの二人とは面識がないが、二人と同年のマーク・セルデン教授からウワサは聞いたことがあるし、ある時は、日本を短期訪問したマークはニューヨーク州立大学ビンガムトン校の同僚として一橋の客員教授を務めたハーバートの宿舎に泊めてもらった往時を想起する。2冊の本はいずれも優れた現代日本研究書である。このような高いレベルの書物が中国人研究者の手によって書かれることを私は期待している。わが夢が私の生きている間に実現することを切に望む。

[第2部注]

. 高井潔司「対日新思考論議の批判的検討――新たな対話の枠組みを求めて」

2.Embracing Defeat; Japan in the Wake of World War II, by John W. Dower, W. W. Norton and Company, 1999. 日本語訳、岩波書店、2001年。

3.Hirohito and the Making of Modern Japan, by Herbert P. Bix, Harper Collins, 2000. 日本語訳、講談社、2002年。

 

3部 いくつかの個別の論点について

1.いわゆる謝罪問題について

  日中戦争に対する謝罪問題について馬立誠論文が日本は「二十一回謝罪した」などと述べたことは、内外の大きな反響を巻き起こした。ここでその見解の当否を論証する紙幅はないが、実は日中国交正常化時点における日中首脳の交渉経過とその到達点もいまだ歴史の闇に隠されているように思われる。この問題については、「中日誤解従”迷惑”開始---日中国交正常化三十周年前夕的小考1」で論じ、その後、中国側原史料を得て書き改めた2

この論文は国交正常化以後30年の過程で、田中首相の謝罪の真意が日本側正式記録から削除されたと推定されること、中国側もあえてこの部分には触れずに、「日本は謝罪していない」繰り返してきたことを論証したものである。中国側が田中の謝罪の真意を理解し、これを了としたことは以下の中国側史料から明らかである。すなわち田中の謝罪は、以下の史料のなかに次のように明記されている。

史料1:田中与周恩来第2次会谈的中方记录

2003924日,我和村田忠禧教授拜访了位于北京毛家湾的中共中央文献研究室陈晋研究员。陈晋是研究毛泽东的专家,正在编辑《毛泽东传下卷》。他给我们介绍了有关中方纪录的部分内容,即:

田中说:可能是日语和汉语的表达不一样。周恩来说:可能是译文不好, 这句话译成英文就是 make trouble田中又说:“添麻烦”一词是诚心诚意地表示谢罪。至于这样表达,从汉语来看是否合适,我没有把握,但这样的语言起源于中国。

史料2:姬鹏飞回忆录《饮水不忘挖井人》里面有如下的证言:周总理直率地说,田中首相表示对过去的不幸感到遗憾,并表示要深深的反省,这是我们能接受的。但是,田中所说的“添了很大的麻烦”这一句话,则引起了中国人民强烈的反感。因为普通的事情也可以说“添了麻烦”。这可能是日语和汉语的含义不一样。田中解释说: 从日文来说“添了麻烦”是诚心诚意地表示谢罪之意, 而且包含着保证以后不重犯,和请求原谅的意思。如果你们有更适当的词汇,可以按你们习惯改。道歉的问题就解决了3

史料3:吴学文在他所著的《风雨阴晴》一书中,也从外交部挡案中引用了“添麻烦”一词,并说这是诚心诚意表示谢罪的表达方式4

これらの中国側記録に明記されているように、田中は「迷惑」という日本語を通じて「誠心誠意の謝罪」を表明したのである。にもかかわらず、当時これが「添麻煩」と誤訳されたこともあって、その後「添麻煩」だけが一面的に誇張された。この傾向は90年代の後半において特に極端になった。その結果、田中訪中を契機として発展させるべき日中関係は、大きな挫折に直面した。一つの具体例を挙げたい。毛沢東は、田中の迷惑発言について、次のように述べて、『楚辞集註』を田中への土産とした。毛沢東は田中との対話を通じて、日中両国が同じ漢字を用いながら、その使用方法が似て非なるところがあることに気づき、その事実を確認するために、『楚辞集註』をとりだしたとみてよい。すなわちその経過は以下のごとくである。

田中与毛泽东会谈的中方记录里有如下一段:毛泽东说:你们那个麻烦/迷惑问题是怎么解决的?田中说:我们准备按中国的习惯修改。毛泽东说:一些女同志不满意啊,特别是这个美国人(指唐闻生) 她是代表尼克松说话的5

毛最后的一句肯定是幽默。依毛的看法,抓“添麻烦”这个辫子反对中日邦交正常化的人都是美国的走狗。请大家注意,毛问田中“是怎么解决的?”。意思就是说, 对毛来说问题已经解决了。他问的只不过是解决问题的过程而已。田中的回答是“我们准备按中国的习惯修改6”。

请大家注意,田中用了“准备”两个字。意思就是说,对田中而言,问题还没有解决好。他回答的是解决问题的基本方针。就这样,日中邦交正常化的谈判基本上结束了。留下来的只有日中共同宣言的文字上的修改工作。

关于田中告别毛泽东时候的情况,中方的纪录是这样描写的:毛泽东说:我是中了书毒了, 离不了书,你看(指周围书架及桌上的书)这是《稼轩》, 那是《楚辞集注》。(田中大平、二阶堂都站起来,看毛的各种书)没有什么礼物,把这个(《楚辞集注》6)送给你(出来后, 阶堂问周恩来, 是否可以对记者说送《楚辞集注》事,周答可以,并告诉他该书的标题是中国近代书法家沈尹默写的字)7

毛泽东为什么选赠《楚辞集注》而不选赠其他的书藉呢?其原因恐怕是这部书上载有“迷惑”的典型用法。这一点,请看一看《楚辞九辫8》,就明白了。

 

田中角栄・周恩来会談、田中・毛沢東会談においては、まず田中の「迷惑」発言が誤解を受けたが、これは田中の弁明を通じて誤解が解けた。しかし、これに触発された毛沢東の贈物の含意、すなわち毛沢東がなぜ田中に『楚辞集註』を贈呈したのか、その意味も見失われた。

日中和解の核心はなぜ消えたのであろうか。田中・毛沢東会談を頂点とする一連の日中会談において、日中戦争に対する日本側の謝罪の意図は田中によって明瞭に述べられ、中国側は田中の真意を正確に理解した。こうして「メイワク」「迷惑mihuo」問題および日本の謝罪の問題について日中双方は共通認識に到達したのであった。すなわち「メイワク」と「反省」から出発した田中の謝罪が、「メイワク」は「添麻煩」と訳されるべきものではなく、「誠心誠意的謝罪」と翻訳し直されたことが一つである。その趣旨を体して日中共同声明においては、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのであった。

しかしながら、国交正常化以後30年の歴史のなかで、田中の真意、すなわち「万感の思いを込めておわびをするときにも使うのです」(中国語訳「在百感交集道歉時也可以使用」)と強調した事実は歴史の闇に消された。田中がその後ロッキードスキャンダルによって失脚したことが一つの要素である。さらに大平正芳の急逝も生き証人を失うことを意味した。もう一つの要素は日本外交当局の作為であろう。この側面は第2回会談記録が中国側記録と異なる事実に典型的に現れているが、これにとどまらない。玉虫色の決着部分について、積極的な説明を加えることを一貫して怠ってきたことの行政責任はきわめて重い。

他方、中国側にもそれなりの事情が生まれた。ポスト毛沢東・周恩来時代になると、毛沢東や周恩来が日本に対して譲歩しすぎたのではないかとする見方が台頭した。特に80年代を通じてケ小平の改革開放路線が定着する過程で、日本の経済力が過大に中国の経済力が過少に評価される潮流のなかで、賠償放棄について毛沢東や周恩来の考え方とは異なる見方が生まれた。ここで教科書問題や歴史認識問題が新たに登場し、中国側の不満を助長した。彼らの不満は、日中交渉の過程で乗り越えられたはずの「添麻煩」に回帰し、恰好の口実を発見した。そこで「添麻煩」という謝罪にならぬ謝罪こそ国交正常化の原点であるかのごとき虚像をつくり出し、これをひたすら非難し、狭隘な愛国主義の感情に溺れた。毛沢東や周恩来の「戦略的対日政策の精神」は忘れられた。

中国側の誤解・曲解に対して日本の外交当局がどのように誤解を解く努力を行ったのか疑わしいところがある。和解の精神を以心伝心で伝える『楚辞集註』の意味は一顧だにされなかったことがその一例である。こうして国交正常化以後の歴史過程で消されたのは田中の謝罪だけではない。田中の熱意に応えた毛沢東、周恩来の思惑も闇に消えたわけだ。『楚辞集註』の意味は、中国側からも忘れられたことになる。狭い愛国主義や民族主義にに身をゆだねるには、「添麻煩」のほうが都合がよかったわけだ。

日本側は謝罪の事実をあいまいに扱い、他方中国側は、日本側は謝罪をしていない、あるいは軽微な謝罪しかしていないとして、日本非難をくりかえした。中国側のこの偏向スタンスは、国交正常化20年がすぎた90年代から一段と激しくなった。しかし「窮則思変」という。いまこそ日中30年にわたる誤解を解きほぐし、新たな日中関係を構築する努力が日中双方に求められている。

 

2. 林治波氏の時代錯誤(アナクロニズム)

林氏の幻想する日本友人は、いずこにありや。誤謬に満ちた日本認識から理解は生まれず、誤解のみが増幅される。林治波氏の日本認識は、あまりにも時代遅れで、ほとんどアナクロニズムである。林治波氏は、いわゆる「新思考」論文がもたらした帰結として、次のように書いている。「日本の左翼の勢力と中日友好を主張する人々をいっそう孤立無援にした」と。林治波氏の想定した「左翼」あるいは「友好的な人々」は、以下のような人々である。

(1)東史郎(南京事件の「証言」者)、内山完造(故人、内山書店社主)、小川武満(平和遺族会全国連絡会代表、元軍医)、本多勝一(元朝日新聞記者)、家永三郎(故人、歴史家)、宇都コ馬(故人)、尾村太一郎(不詳)、大江健三郎(ノーベル文学賞)、小野寺利孝(中国人戦争被害者賠償請求訴訟弁護団幹事長)氏など。これら9人の日本人は、「いったいどんな人物か」を日本の普通の中学生に聞いてみたら、どんな答えが返るだろうか。大江はノーベル文学賞受賞者として比較的有名だが、他の8人は、ほとんど誰も答えられないと思われる。私はこれらの人々の貢献を否定するつもりは毛頭ないが、過去において、あるいは現在もそれぞれに日中の交流活動に参加された方々は、もっともっと数多いはずである。それらの中から何を基準として、これらの人物だけを例示したのであろうか。その選択眼に疑問を感じるのは、私だけではあるまい。「井戸を掘った人々」の貢献を忘れないことは、大事なことだが、林治波氏のあまりにも偏った挙例は、氏の日本理解が著しくゆがんだものであることを示す一つの鏡になっているように思われる。

実は馬立誠氏の日本認識にも疑問を感じる箇所が少なくないが、林治波氏の文章を読むと、まるで「化石との対話」を感じさせられる。21世紀初頭のいま真に問われているのは、20世紀後半の友好運動を継承しつつ、21世紀の日中交流関係をどのように構築するかであろう。林治波氏はひたすら古い時代を懐かしむ回顧趣味に陥っているように見受けられる。これでは21世紀に求められる広範な交流関係にほとんど役だたないのではないか。過去の亡霊をとらわれるのではなく、21世紀の未来と向き合うことが必要ではないのか。林治波氏がこのような人々を「孤立無援」にしたという言い方に、私は驚愕を禁じ得ない。氏の日本認識はあまりにも時代錯誤がはなはだしいのだ。

  (2)林治波氏の挙げた組織は中帰連、日本婦連、総評、炭労、日本反戦運動などである。中帰連(中国帰還者連絡会)は、同会のホームページによると、日中15年戦争の間に、「日本軍国主義の積極的な手先となって罪を犯し、敗戦後、中国の撫順戦犯管理所(969名)と太原戦犯管理所(140名)に戦犯として拘留され、その後中国人民に謝罪する認罪運動に参加した人々」の組織である。彼らは帰国後、「中国帰還者連絡会」を創立し、「認罪(過去の戦争の非を認めること)の立場に立ちながら、二度と日本に侵略戦争への道を許さず、同時に日中友好、ひいては世界の平和に、いささかでも貢献することを願って活動してきた」由である。日中戦争において戦争犯罪に問われた人々の組織であるから、当然高齢化しており、日々メンバー数は減少しつつあるはずだ。日本婦連。これは対象が不明なので、コメントは控えよう。私が最も驚いたのは、「昔陸軍、今総評」と評された「総評」の名を列挙したことだ。かつて総評調査部に勤めていた私の大学同級生(山田陽一)が書いた総括論文の冒頭部分を引用しよう。「総評。正称は日本労働組合総評議会。加盟組合員数,労働組合数ともに日本最大の労働組合全国中央組織 (ナショナル・センター) であったが, 1989 年 11 月,総評は 39 年の歴史を閉じて解散した。傘下の組合の大部分は連合(日本労働組合総連合会) に加入した」。

この記述から明らかなように、総評は1989年11月に解散し、その大部分は現在の「連合」に移ってすでに10余年になる。10数年前に解散した労組を「困惑させた」とは、一体どういうことであろうか。林治波氏の日本認識がいかに時代遅れかを端的に示す例というべきであろう。氏は日本の労働運動の現実について恐ろしいほど無知なのだ。もう一つ。林治波氏は「炭労」を挙げている。炭労の正式名称は日本炭鉱労働組合である。1950 年 4 月に単一組織に改組し現名称に改称した。 「1952 年 11 月,賃金闘争で単産規模としては例のない 63 日間にわたる長期ストを行い,労働運動界のリーダー的地位を確立するとともに,みずから結成に力を尽くした総評(初代議長には当時の炭労委員長が就任) の中核単産として 1950 年代から 60 年代初頭にかけて,日本の労働運動の牽引車的役割を果たした」「しかし,エネルギー革命のもとで展開された三池争議の終結とともに逐次後退を余儀なくされ,現在に至っている」「国際的には国際自由労連および国際鉱山労連に加盟している。組織人員は最盛時 の1950年に 42 万人,96 年 6 月現在 1400 人である」----これは1996年6月現在の記述である。その後日本の石炭産業はどうなったか。

2001年11月29日をもって九州最後の炭坑である池島炭坑が閉山した。こうして国内唯一となった北海道の太平洋炭坑も、同年12月7日に経営側から労働組合に対する閉山提案がなされ、ついに日本国内からすべての炭坑が消えたのは3年前のことだ。実は改めて指摘するまでもなく、炭坑労働者の労働運動が最も盛んであったのは1960年の三井三池争議当時であり、これ以後、日本のエネルギー需要は石炭から石油に大転換し、労働運動の牽引力を失った。つまりいまから40年以上前に(これは私の学生時代のことだ)、炭労は労働運動の花形の地位を下りている。産業構造の転換と対応したエネルギー需給構造の転換のなかで、石炭産業が淘汰され、炭労も消えたわけだ。林治波氏が炭労との連帯を夢想しているかに見えるのは、私には到底理解できない事柄である。消えてしまった組織といかなる連帯が可能なのか。

林治波氏には、どうやら三井三池争議以後の日本経済の発展、それ以後40年の日本現代史、すなわち高度成長期の日本社会とその後の変貌はまるで視野に入らないかのごとくである。林治波氏が「これらの正直な日本人こそが真の愛国者であり、日本の良心」だというとき、私はただただ林治波氏のような貧弱な知識しかもたずに、乱暴な議論を展開する勇気に唖然とするばかりである。しかもこれが中国で権威を誇る『人民日報』の評論員であるという説明を聞いて、ますます驚愕せざるをえない。今年は毛沢東生誕110周年であり、毛沢東語録が脳裏に浮かぶ----「調査なくして発言権なし」「虚心は人を進歩させ、奢りは人を落伍させる」。

[第3部注]

1『中日相互意識与伝媒的作用』高井潔司、劉志明編著、NICCS、2002年11月、3-11頁。

2矢吹晋日中互相误解的滥觞-----田中角荣与毛泽东谈判的真相(中文、200310月、未定稿)

3姬鹏飞《饮水不忘挖井人》,《周恩来的决断》中国青年出版社,1994年,附录,167页。

4田中首相解释说,从日语来讲《添了麻烦》是诚心诚意地表示谢罪之意,而且包含着以后不重犯,请求原谅的意思。这个表达如果从汉语上不合适,可按中国的习惯改。吴学文《风雨阴晴---我所经历的中日关系》世界知识出版社,2002年,第90页。

5陈晋研究员的笔记。

6张香山《中日关系管见与见证》16原载《瞭望》杂志199240期。

7陈晋研究员的笔记。

8《楚辞集注》上的《迷惑》资料:《毛泽东藏书》全24(张玉凤主编1998山西人民出版社)9「楚辞・九辯」6282