下京(しもぎょう)研究ノオト
 

 ここでは、京都の一部を構成する地域「下京」に視点をあてた研究について、今考えていることを記しております。今は、高島穣氏との共同研究である曇華院の事について、2003年12月6日に行われた文化史学会にむけての予察をのせてあります。そのうち、形になった論文形式の文章を掲載する予定です。下京に興味のある方、尼寺に興味のある方、乞うご期待!

第1回 下京の比丘尼御所〜曇華院指図を中心に〜(予察) 2003年11月5日



 
下京の比丘尼御所〜曇華院指図を中心に〜(予察)

  はじめに

 曇華院(どんげいん)は、下京を代表する比丘尼御所(びくにごしょ)である。室町時代、臨済宗瑞雲山通玄寺曇華院として、足利義満の祖母・智泉尼が開いた寺院とされる。その後この曇華院は、中・近世を通じて下京の三条東洞院に位置し、明治5年に嵯峨野へと移転するまで、下京のランドマークとしてその寺域を保持していた。上杉本洛中洛外図に描かれた「どんけいとの」は、まさにこの曇華院であるとされる。
この中・近世曇華院跡とされる、現在の中京区東片町・菱屋町・曇華院前町周辺では、数回の発掘調査がおこなわれており、絵図や文献史料の検討とあわせ、曇華院に関わる様々な研究がなされている。曇華院は、上記のように中世後半期から近世を通じて当地に存在し、また比丘尼御所という性格も持ち合わせる大寺院である。これらの資料によって、総合的にその生活の実態を明示することができれば、今後の寺院研究に寄与する部分は大きいはずである。
 ところがその時代ごとの寺域の変遷や、寺域内での建物のあり方、寺院にかかわる出土資料の検討などは、資料不足もあいまって未だに定説がなく、今後の課題として残されているのが現状といえる。とくに江戸時代以降は、寺院にともなう出土資料を探す場合、曇華院とその周辺に展開していたとされる町屋との関係性を考慮する必要があるため、どの時代、どの位置に寺域の境界ラインを見いだすかという判断は、非常に困難を極めることになる。このように複雑に入り組んだ近世の寺域を認識するにあたり、そのさしあたっての指標となる寺院の絵図・指図の存在は貴重である。
 今回検討をおこなう曇華院蔵の指図(以下、曇華院指図とする)は、作成された背景や年代など不明な部分も多いが、おおむね近世後期の曇華院を描いたものと考えられる。これは、近世の曇華院の寺域と建物配置を考えるうえで重要であるとともに、発掘調査で得られた膨大な出土資料の中から、曇華院にともなうものを抽出するために必要な境界ラインを設定する上でも、また、寺域内での生活空間をビジュアル的に描き出すうえでも、参考になる歴史情報である。
 本論では、この曇華院指図の分析を通じ、曇華院に関わった様々な人々の生活の一端を明らかにしたいと思う。
 
 
1 曇華院について
 曇華院指図の分析に入る前に、中・近世の曇華院の寺域について、絵図から得られる情
報を整理しておきたい。

まず、応仁文明の乱前後の文献史料として、蔭涼軒日録の記録がある。

寛正6年(1465)4月28日条
「奉報通玄寺入院御点心御成之事也、御成、自南門於山門東辺小立、住持焼香了、歴佛殿
前路自佛殿南向東脇入於東辺、焼香了、自後門於方丈御点心」
これによって、曇華院の寺域内の空間構造がある程度推定できる。

 16世紀前半の大永年間成立とされる『歴博甲本洛中洛外図』には、曇華院とみられる
西側を正門とした寺院が描かれている。築地を巡らすが、堀はない。北側に三条八幡とみ
られる社がある。東洞院通をはさんで六角堂と対面することになる。絵の表現の誤差か、
あるいは一町四方よりおおきな寺域を有していた可能性も考えられよう。
 天分年間に描かれたとされる『上杉本洛中洛外図』には、「どんけいとの」として築地
をめぐらした寺院が表現されている。築地には3本の線が表現され、東洞院通に面して小
さな門が、三条通に面して大きな門を描く。この門から北へはいった瓦葺きの建物が、敷
せんを表現した寺院の本堂であろうか。「三条の八まん」が奥(東北側)に描かれ、その
北に道を挟んで築地塀をもつ「等侍寺」が描かれる。西北側は陶器・笠・帯等の雑貨を扱
う町屋が近接している。この絵図で見る限り、16世紀中頃の曇華院は堀をもっていなか
った、といえそうである。

 17世紀中頃成立の『寛永後万治前洛中絵図』によると、一町四方区画内に「曇華院」
があり、西側(東洞院通側)に門が表現され、北側(姉小路通側)と東側(高倉通側)に「堀」とみられる表現がある。南側(三条通側)と、西北隅の一角には「町屋」と書かれている。
すなわち、この頃の曇華院は、すでに一町四方全体を占めておらず、町屋にその一角を譲
っていたことになる。注目されるのは、西からきた姉小路通が曇華院西北隅の町屋につ
きあたって、消えてしまっていることである。先に見たように、近世以前の地割りを反映している可能性もある。
 
元禄4年(1691)成立とされる『京大絵図』には、「どんけいん 御知行 五百石」
とあり、西半側は姉小路通を北に越え、「お池通」までがその寺域として表現されている。ただし、先の洛中絵図で見たように、町屋の表現を省略している可能性が高い。

 寛保から延享年間ごろ成立とされる増補再板の『京大絵図』では、「曇花院宮 五百
石」とあり、北側には姉小路通が東西に抜け、通りにそって堀のような表現がある。西隣の「金座」とともに、やや南北に大きく描かれている。
これもおそらく、町屋の表現を省略しているのであろうが、18世紀中頃には、完全に一
町四方の区画内に寺域が限定されたことになる。これは、大火が生じた天明8年(17
88)の『京都洛中洛外大絵図』でも同じである。

天保2年(1831)に出版された『改正 京町絵図細見大成』には、「曇華院宮 五百石」と表現され、町屋の表現も詳細に描かれている。南の三条通に門をもうけ、路地を北にあがって、寺域にはいるという表現である。その両側は町屋が立ち並んでいたとみられる。また北側にも町屋とみられる空間が、東北隅には三角形の空間が、それぞれ表現される。この三角形の空間は、絵図中でも特異な表現である。なお、先にみた堀は表現されていない。
 
以上のように、中世以降、寺域は町屋とのかかわりで縮小する傾向にあったことがわか
る。とはいえ、門の位置を変える、堀を掘削する、といった事業がおこなわれたこともわ
かる。おそらく、中・近世に生じた火災を契機に、寺域と伽藍、および築地等の再建をお
こない、そのたびごとに周辺の町屋と利用地の交渉を繰り返したのではないかとも想像
されるのである。もちろん、その場合でも、曇華院の所有した土地を借りたのかどうか、
検討する必要がある。
 このような情報をふまえ、改めて発掘調査の成果による、寺域の変遷を検討してみたい。
まずは、火災記事をもとに、曇華院の変遷を
以下のように時代区分する。火災の痕跡は発
掘調査のうえでも目視しやすく、生活を再開
するための整地をおこなう理由ともなるか
らである。

1 慶長8年(1603)の火災以前 近世以前の曇華院
  これはさらに、創建以前
創建以降、大永7年の火災(1527)以前
  大永7年以降、慶長8年の火災以前
   と細分できる。
2 慶長8年以降 宝永の大火(1708)以前 近世前期の曇華院
3 宝永の大火後 天明の大火以前(1788) 近世中期の曇華院
4 天明の大火後 元治の大火以前(1864) 近世後期の曇華院
5 元治の大火以後 明治6年以前 近世・近代移行期の曇華院

2、曇華院跡の考古学的検討
まず、過去6回行われた発掘調査の成果と、それをもとにした調査研究の現状を振り返ることにする。

 中京区東片町・菱屋町・曇華院前町に所在する曇華院跡での発掘調査は、1975年か
ら2001年までの間に数回実施されている。
 東洞院通に面した地点では、東洞院大路の東側溝と、その東側に中世末頃に埋没した溝
群が検出されている。これは東洞院大路に面した寺院の痕跡とみられる。江戸時代にはこの溝は埋没し、その後町屋が形成されはじめたことが、発掘調査で明らかとなっている。
 
 三条通に面した地点では、三条通りから25m北側で、16世紀後半頃に埋没した東西
方向の溝が検出されている。これは曇華院の南限を示す築地塀にともなう側溝ではないかと
報告されている。また、三条通の北側に接して、鍵の手状にまがる築地の基礎が検出されており、通玄寺の南門(総門)の西側部分かとの報告がなされている。
 
 
 高倉通に面した地点では、高倉小路の側溝が検出されており、江戸時代後期から明治にかけての曇華院の東築地塀がその西側で検出されている。また、南北方向の溝群が検出されており、高倉通の付け替えがあったとの可能性も指摘されている。
 
 このように、一町四方の寺域が想定される通玄寺・曇華院にかかわる遺構としては、その敷地を区画する溝が顕著な遺構として認識されているが、その成立年代、時代ごとの寺域の変遷や、寺域内での建物のあり方、寺院にかかわる遺物の検討などは、今後の課題として残されているのが現状である。
 
注目されるのは、2001年に行われた発掘調査地点(E)のレポートで、慶長8年(1603)の火災の痕跡と、被熱をうけた敷專の出土が報告されていることである。また、東洞院通に面した調査区では、室町時代に位置づけられる古瀬戸様式の仏花瓶とみられる陶器が出土している。これらの遺物は、寺院に関わる可能性が高い。 また、高倉通に面した調査区では、金箔を施した桐紋軒平瓦が出土している。これも、曇華院とのかかわりで考えることもできよう。また、各報告でもふれられているように、遺跡内に散見される多量の土器だまりは、公家・武家屋敷あるいは寺院境内でしばしば検出される、儀礼でもちいた土師器皿の一括廃棄と同様のものととらえることができる。これらの考古学的情報から導き出された当遺跡の様相が、他の中世寺院の実態を知るうえでも、あるいは比丘尼御所に実態を考えるうえでも、そのモデルケースとなるだろう。
 
以上の問題点をふまえ、遺構の分析にはいる事にしたい。
  図●は、曇華院跡の発掘調査で見つかった遺構を、500分の1の縮尺地図に落としたものである。集合したドット状に記されているいくつかの点は、調査区の位置関係を把握するための標式点である。
これらは、遺構の中から出土した遺物などにより、ある程度の埋没年代が判断できるものをピックアップしている。遺構の年代については、大土坑や溝といった長い時間にまたがって存在した可能性のある遺構など、使用の年代と埋没年代を別々に考えるべきものも含まれており、分析にあたっては研究者の経験による判断がある程度反映せざるをえない部分がある。
以下、これらの遺構群を年代別に階層化してゆくに際し、このような注意点が必要となるが、大まかな遺構の変遷については把握できると考える。
 図●は曇華院創建以前とみられる平安・鎌倉時代と判断した遺構群である。三条通りと高倉通りにそって、築地塀および溝状遺構があり、井戸を中心とした深度の深い遺構と土坑・溝群が区画の内部に点在する。
図●は、曇華院創建時から室町時代をへて安土・桃山時代にいたる期間に位置づけられる遺構群である。高倉通りと東洞院通りに沿って、塀の基礎とみられる柱坑と根石、溝状遺構がみつかっている。注目されるのは、調査報告でもふれられているように、三条通りに面してはしる築地塀が、一丁区画のほぼ中央部で、南北方向の溝状遺構と連結し、入り口状の体裁を整えている部分である。洛中洛外図に描かれる南の総門から推測すると、伽藍の中枢部に向かって、通路状の配置が存在した可能性を指摘できよう。

以上が1 慶長8年(1603)の火災以前 近世以前の曇華院についての分析である。

図●は、17世紀代を中心とする江戸時代前期と判断した遺構群である。まず目に付くのは、高倉通り面した、突出部をもつ石垣である。西門に相当する遺構であろうか。
 高倉通りがわには、大きな溝状の土坑が形成されている。寛永年間の古図に描かれた堀との関連性も考えられるが、調査区内でその北端が判明しており、絵図の堀とは異なる部分がある。
寺域の内部には、蔵とみられる建物の下部構造が4カ所でみつかっているが、広い面積のわりに、ほりこまれた遺構の少ない点が注目される。逆に、南側の中央部分は遺構の密集度がたかく、井戸と石組みが近接して切り合っている。おそらくこの間に、町屋と曇華院の境が存在した可能性もあろう。

以上が慶長8年以降 宝永の大火(1708)以前 近世前期の曇華院である。

図●は、18世紀代を中心とする、江戸時代中期と判断した遺構群である。いくつかの遺構が切り合っており、100年の間にかなり複雑な遺構変遷を経ているのであろう。
東北隅の地点に注目したい。高倉通りにそって築地塀が存在し、やや西側に桟瓦を再利用した基礎をもつ建物が存在する。その南側は遺構が多く、前期にあった南北方向の溝が痕跡として残るが、石垣をはじめ石を使った顕著な遺構がいくつか形成されている。
中央南部には石垣による区画が形成されている。特に、東西方向に並ぶ石垣は、前期に想定した町屋と曇華院の境に形成されている。曇華院内とみられる中央北部の石垣と落ち込みも、注目される。

以上が宝永の大火後 天明の大火以前(1788) 近世中期の曇華院である。

図●は、19世紀前半代を中心とする江戸時代後期と判断した遺構群である。年代の判断できたものが少ないためか、あるいは遺構自体が18世紀とくらべて少ないのか、いずれとも判断しがたい。
 先に注目した東北隅は不自然に西北西方向にのびる石垣と、石組みの基礎をもつ建物が見られる。
その南側には、中期から継続する東西南北の溝が存在し、大土坑が形成されている。大土坑の西側溝状遺構が存在する。
また、東洞院通り側中央部には、大規模な瓦溜まりが形成されている。

以上が天明の大火後 元治の大火以前(1864) 近世後期の曇華院である。

これまでの分析で、古代から明治以前における当地での遺構変遷をもとに、曇華院の寺域と建物の空間位置についてのデータを見てきた。

次に問題となっている曇華院の指図の検討に入るが、もし上記のなかで曇華院の寺域と建物の空間位置について合致するデータがあれば、指図の信憑性を考える材料となるし、指図に描かれた図像に一定の年代記順を与えることもできるのではないかと考える。

 図●は、今回の検討対象となる曇華院指図の画像である。ここでは先ほどの遺構図をこの指図にかぶせてみることにしよう。

図●は、近世全期にわたる遺構図を、縮尺・位置関係を検討しながら、指図にかぶせてみたものである。この作業では、東西南北に図像を引き延ばすということは行っていない。縮尺は500分の1をさらに5分の4に縮小しているが、この位置関係でかぶせたとき、様々な遺構と建物、築地などがもっとも重なる。これは、この指図が正確なほぼ縮尺のもとで描かれていることを示している。

以下。遺構が合致・類似した部分を順に見て行こう。

1、東北隅地点

18世紀後半代の桟瓦を再利用した基礎をもつ建物と「稲荷社」が合致

19世紀前半代の石組みの基礎をもつ建物と「鎮守」が合致

19世紀前半代西北西にのびる石垣と「築地塀」が類似


2、東半地点

19世紀前半代の南北方向の溝と築地塀の基礎が合致


3、南半地点

17・18世紀代の建物の基礎と「蔵」2つの位置関係が合致

18世紀代の石垣と「三条御物見」の東壁、曇華院南の境界ラインがほぼ合致


4、西半地点

18世紀後半代の瓦溜まりと「西門」がほぼ合致

17・18世紀代の根石をもつ溝状遺構と「築地塀」がほぼ合致


以上の点を整理すると、

主に19世紀後半代と判断した遺構群と、指図に描かれた建物、築地塀の位置関係がいくつか合致するということがわかった。これらのなかには、17・18世紀代と判断した遺構とも合致するものがいくつかある。
おそらく、長期間使用されるか、位置関係が変化していない建物が、19世紀頃まで残存していたことを示すものと考えられる。

この指図には、上記に述べたように、曇華院跡の調査地点でみつかった17・18世紀代の構造物が、19世紀頃まで残存していたものと、19世紀代になって新たに作られた構造物とともに、正確な縮尺のもとで描かれていると判断することができよう。すなわち、この指図は、19世紀前半代に、正確な縮尺に基づいてそれ以前の建物配置をふまえて描かれた曇華院の指図であると判断することができる。
 また、上記のように考えてよいならば、東半部で見つかっている江戸時代の遺構群は、「御借家地面」に対応することになる。また、現在の姉小路通りの北側に「御家中宅地」「御家司屋敷地」とされる空間がのびていたことを示唆することになる。

小結 
今回の検討では、曇華院指図について、これまで明らかとなっている情報を整理し、指図
が描かれた背景とその成立年代の検討を行なうこととした。そしてそこに描かれた空間
情報を抽出し、寺域内での生活空間の復原を試みた。検討の結果、19世紀の半ば頃に指
図が描かれたこと、寺院としての性格を保ちながら、その生活空間が近世公家屋敷の建物
配置に類似していること、また文献史料の記述と関連する可能性のある建物も描かれて
いることなどがわかった。
 次に、これまでに得られた出土資料の分析をおこない、古代から明治以前における当地
での遺構変遷をもとに、曇華院の寺域と建物の空間位置についてのデータを整理し、それ
と指図との照合を試みた。検討の結果、主に19世紀前半代と判断した建物・溝などの遺
構群と、指図に描かれた建物、築地塀の位置関係がいくつか符合し、正確な縮尺で指図が
描かれているということがわかった。

 すなわちこの指図は、19世紀前半代に、正確な縮尺に基づいて描かれた近世後期曇
華院の指図であると判断することができる。
また、曇華院指図の建物・築地塀と発掘調査でみつかった建物・築地塀の空間位置が符合
する点は、指図の信憑性を考える材料ともなり、指図に描かれた建物や、曇華院と町屋の
境界ラインについて、一定の年代基準を与えることができるものと考える。

3、19世紀前半期曇華院の実態について
(次回 更新予定)
 
まとめ
今回とりあげた指図は、以上の考古学的な検討で、19世紀前半代に、正確な縮尺に基づ
き、それ以前の建物配置をふまえて描かれた指図であると判断することができた。いうま
でもなく、それはこの地に存在した曇華院を描いたものである。
 また、今回の検討で、今後この指図を定点とし、中世を経て近世・近代へと移り変わる
曇華院の様子が描きうるのではないかという可能性も出てきた。なぜならば、この指図
は19世紀の曇華院を描くのみでなく、それ以前の建物配置や、寺域を反映していること
も窺えたからである。
 また、これまで明らかでなかった曇華院周辺の町屋についても、発掘調査の成果から解
明できる可能性が出てきた。さらに、指図に描かれている建物配置が、今後の周辺の発掘
調査を行ううえで、非常に重要な参考資料となる事も、明らかとなった。
 (続く)
 

2003年11月5日

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