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元内閣安全保障室長 佐々淳行 | |
危機管理支える基本法必要 二十年にわたり警察の仕事に携わった佐々さんは、東大安田講堂事件や連合赤軍あさま山荘事件など数々の大事件を指揮してきた。「キャリアのやることではない」と言われながら、ギリギリの攻防を制してきた経験の積み重ねが「危機管理」という言葉を生み、その重要性を社会に認識させた。その佐々さんに、阪神・淡路大震災への国の対応はどう映ったか ちょうど震災一年前の米ノースリッジ地震(午前四時三十一分発生)と比較せざるを得ない。ほぼ同条件の災害なのに、大統領制と議院内閣制との違いが鮮やかに対比を見せた。権限が集中する米大統領には、非常事態情報が三分以内に報告され、大統領は十五分以内に決断、命令を下す。例えば、ロシアが核ミサイルのボタンを押したとすると、十五分以内に決断しないと、ミサイルは約三十分で米国に届くからだ。これが米国の危機管理だ。 日本では、内閣総理大臣は国の最高意思決定者ではない。二十一人で構成する閣議の全会一致の決定が国の最高方針となる。 その結果、どういう違いが現れたクリントンは、十五分後には災害の発生を知った。直ちにFEMA(連邦危機管理庁)に連絡し、記者会見で全米に支援を呼びかけた。一時間後には州兵一万人に動員命令がかかり、消火は七分後に始まって、午後四時に鎮火した。 一方で、緊急治療の優先順位を決める「トリアージ(選別)ドクター」がヘリで現場に向かい、けが人の症状を判別して回る。ヘリや救急車は皆、重傷者を拾う。おかげで死者は六十四人で済んだ。 それに対して日本は日本の場合、第一報が午前七時半、閣議が十時すぎだが、決めたのは国土庁長官を非常災害対策本部長に指定することだけ。自衛隊の出動も決められず、トリアージ制度もない。だから死者は六千人超と、戦後最悪の惨事となった。 制度の問題とは別に、著書などで「村山総理の“不作為の罪”は重い」と書いている。あの時、村山首相はどう行動すべきだったのか村山さんには「緊急災害宣言をして、首相が指揮を執れ」と震災の数日後に進言した。緊急災害宣言をすると、非常災害対策本部より格が上の緊急災害対策本部が設置できる。戦後、一度も発動されたことはないが、本部長は内閣総理大臣が務め、経済戒厳令などが出せる。それから、自分で被災地を見てください、と言った。自衛隊投入もやりなさい、と。 その翌日、村山さんはヘリで被災地に入った。帰って来るなり「報告をはるかに上回る惨状だ。私が指揮をしなければ」と緊急災害対策本部の設置を決めた。私は進言してよかった、と喜んだ。ところが、夕方になって村山さんは「時期尚早だった」と取り消した。警察が緊急事態の布告もしていないのにおかしい、といわれた、という。あれが実現していれば、行政は首相の指揮下に入り、予算も出しやすく、活動も広がっていた。 震災から五年を経て、それらの教訓は国の危機管理に生かされたのか内閣危機管理監ができ、大規模災害の時は官房長官が危機管理監を使って対応できるようになった。自衛隊は震度5以上で自主的待機や偵察隊を出せるようになった。また、非常事態には官房副長官の下に危機管理委員会が招集されるなど、内閣機能が強化された。情報も新設の危機管理センターに一元化された。前進はしている。 しかし、まだまだ取り残された課題も多い震災から五年で総点検をしてみたが、ほとんどできていない。トリアージドクターについても、厚生省が動く気配はない。広域消防を阻んでいる消防組織法もそのままで、消防装備の互換性も進まない。ヘリコプターの運用も改善されていない。災害対策も、自然災害対策は前進したが、化学や人為災害を想定しておらず、東海村臨界事故ではまた大騒ぎになった。 最近では小渕前首相の入院に伴う空白時間や、首相代理の正当性などが問題になった二十二時間もの首相不在は、サミット国のやることではない。世界に対して無責任だ。安全保障は米国に依存しているが、経済では大国。何が起こるか分からない。首相代行は決めておくべきだ。また、新内閣でも、青木官房長官が臨時代理の継承順位第一位となっている。万が一、森さんが倒れたとき、参院議員の青木さんに衆院の解散ができるのか。だれも指摘していないが、憲法問題になる。 震災やその後の災害を越えて提言することはこれだけ死んでも、分からないのか、と思う。死者が出て初めて、少し前進する法律ができる。震災、臨界事故、バスジャック…。いくつ特別法をつくったら気が済むのか。「内閣危機管理基本法」のような、危機管理をフォローする基本法が必要だ。官房長官が指揮をすればよい。危機管理監は第一歩だがまだ弱い。それに、東京が壊滅したときに臨時政府をつくれるような、第二指揮署を近くに確保しておくことだ。 さっさ・あつゆき 1930年、東京生まれ。54年、東大法学部を卒業後、警察庁入庁。65年、在香港日本総領事館領事。帰国後の69年、警視庁警備課長時代に東大安田講堂事件、72年に警察庁警務局監察官として連合赤軍あさま山荘事件を指揮した。 77年、防衛庁に出向し、防衛施設庁長官などを歴任。86年、内閣安全保障室の初代室長就任。三原山噴火や大喪の礼などの治安警備を担当。「危機管理」の言葉を生む。96年から新官邸危機管理懇談会に参加。著書に「危機管理のノウハウ」『連合赤軍「あさま山荘」事件』など。
「こう見えても、茶髪や厚底靴の高校生からファンレターが来るんですよ」。佐々さんといえば、警察経験が長く、怖いおじさんというイメージ。それなのになぜ。「たぶん、父親が弱くなったから、強いものにあこがれるのでしょう」 佐々さんが初めて阪神・淡路大震災の被災地に入ったのは一月二十三日。まだ火がくすぶり、死臭もした。頭をよぎったのが消火飛行艇。あれさえあれば、こんなに延焼しなかったのに、と消防庁に聞いたら、すでに廃棄処分に。ふつふつと怒りが込み上げてきた。 佐々さんのエネルギーの源泉は「怒り」にある。震災時には、村山元首相、そして融通の利かない官僚や制度に怒りをぶつけた。 今、最も怒りを感じるのは警察だろう。「ハイジャックもテロもない平和な時代で、だれでもリーダーが務まった。今、警察がメタメタにやられてもだれも弁護する人がいない」。師と仰ぐ後藤田正晴氏とともに警察刷新に力を注ぐ。 「サミット国として恥ずかしい」と何度も繰り返した。震災や数々の災害を越えてもなお、危機管理の分野ではまだよちよち歩きの日本へのもどかしさ。厳しく、温かいおやじの視線で、今後も見守ってほしい。 (記事・小西 博美)次回6/13付「復興明日へ」面は、震災復興関連の情報をお届けします。 |