現在位置:
  1. asahi.com
  2. ライフ
  3. 医療・健康
  4. リレーエッセー〜あたたかい医療
  5. 記事

患者さんの話を聴くこと

井沢知子・京都大学医学部付属病院看護師

2008年10月13日

印刷

ソーシャルブックマーク このエントリをはてなブックマークに追加 このエントリをYahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

写真

 ちょうど看護師になって4年目に入ったところだった。看護ってどういうことだろう? 看護師の役目って何だろう? と問い直す出来事があったのは。

 そのころは、いま勤務している病院とは別の大学病院に勤務していた。そこにムラカミさんが入院していた。乳がんで、すでに肺や骨に転移し、呼吸が困難なうえに痛みもひどく、昼夜かまわず、頻繁にナースコールがあった。

 ずっと抗がん剤治療を続けていたので、脱毛し、容貌(ようぼう)も、これまでのムラカミさんらしさがなくなっていた。当時はまだ緩和医療という概念は充分に浸透しているわけではなかった。

 高度先進医療の推進という目標を掲げる大学病院の「使命」からみると、ムラカミさんのような患者はもう診る対象ではなくなっていたのか、間もなく転院することになっていた。

 私は、そのムラカミさんの担当看護師をしていた。ムラカミさんは何度も何度も私に尋ねてきた。

 「なんで、こんなにしんどいの? なんとかしてほしい」

「もう手立てがないのですか?」

「私はもうここから追い出されるの?」

 どうすれば症状が緩和するのか、当時の私はその技術も知識も十分には持ち合わせていなかった。

 すがるように質問を繰り返すムラカミさんと正面から向き合うことができなかった。正直なところ、ムラカミさんの苦悩を聴き続ける力が当時の私にはなかった。彼女の苦痛をどうすることも出来ない自分の無力さ、そのような看護をこれ以上続けていても看護師として成長しないのではないか。

 私は決意しその病院を退職して大学の文学部に入った。かっこうよく言えば人間について勉強しようと大学に入学したのだが、素直なところは医療現場から離れたかっただけなのかも知れない。

●退職して考えた人間の欲望、世の中の無常

 大学では、医療現場とは違う空気の中、戯曲や詩などを学んだ。そこには人間の根底にある欲望や世の中の無常、言葉の意味や重みなどを、これまで考えてもみなかった視点で感じることができた。

 相通じるものが……。目の前に、医療現場のことが私に意味あるものとしてあざやかに思い出された。

 そうだもう一度、看護について考えたい。大学を卒業すると迷わず看護大学大学院の専門看護師コースに進んだ。

 それから2年して、臨床現場それもがん専門病院に戻った私は、とにかく患者さんと向き合うこと、患者さんの病気体験を聴くことに努めた。

 ある日、不安そうな顔をした方が外来を訪れてきた。アオキさんだった。

 左の乳房に潰瘍(かいよう)ができ、そのあたりから出血して、もう入浴も出来ない状態になっていた。左乳房の痛みと不快感はずっと感じていた、という。半ば「がんかも」と思いながらも、病院に行くことができずにいた。「どうしてこんな状態で放っておいたのか」。その初診外来で医師はやや厳しい口調で尋ねた。

 アオキさんは何も答えられなかった。診察室から出てきたアオキさんを個室に誘って面接をした。これまで大変だったでしょう、不安だったでしょう。口をついて出そうな言葉を飲み込みながら。

 アオキさんはポツリと漏らした。

 「家にはずっと介護をしている母がいて、胸の異変はわかっていたけど、どうしても足が遠のいて……」

 自分を責め、アオキさんはポロポロと涙を流した。胸の異変が気になるだけでなく、潰瘍(かいよう)ができた場所の出血と臭(にお)いが気になって仕方がないとも打ち明けてくれた。

 その話を聴いて初めて、今困っておられることは何なのか、どうして受診されなかったのか、日々の生活で最も重要なことは何なのか。そうした状況がうかがえた。

 そこで初めて自宅でどんな手当てをすればいいのかを私にも把握でき、その方法を説明する一方で、薬剤師に相談し、がんの皮膚転移による病巣の臭いに効く薬を調合してもらった。

 アオキさんはこれをきっかけに、胸の潰瘍の手当てと臭いの処置を自分で行いながら、休まずに通院して抗がん剤治療を受けるようになった。

 通院するアオキさんの表情は徐々によくなり、明るくなっていったようだった。

●人生の一部を共有

 マツバラさんは大腸がんだった。骨盤内のリンパ節に転移があり、足が腫れていて歩くことが困難となっていた。腰から足にかけて鈍痛がするという。

 今回の入院は、疼痛(とうつう)や足のだるさと浮腫の症状をコントロールするのが目的だった。

 マツバラさんに、これまでの症状と経緯を聴くと、1時間ほど気持ちを吐露された。病気が疑われた時は仕事がとても忙しく、なかなか精密検査を受けるような状況になかったこと、さらに以前の病院での診断が遅れたこと、セカンドオピニオンで今の病院に来てやっと信頼できる医師に出会えたこと、板前をしていたがもう店を閉めるしかないと思っていること。

 マツバラさんの人生のほんの一部分を、共有する時間が持てた。最も困っていたのが、痛みと足の腫れだった。その対処方法について自分で行える方法を提案した。

 医療用麻薬の作用や副作用をきちんと理解したマツバラさんは、決められた時間どおりに飲んで、きちんと病棟看護師に自分の症状を説明していた。

 足のマッサージ方法についても、自分で出来る範囲で対処法を覚えて前向きにセルフケアを行っていた。

 ムラカミさん、アオキさん、マツバラさん、患者さんたちはそれぞれに様々な人生を歩んでおられる。

 病気によって抱えることになったいろいろな体験を聴くことで、仕事のこと、家庭のこと、人生観、そしてどのような気持ちでこれまで闘病してこられたのかがうかがえる。

 病院を一歩出た患者さんにはそれぞれの日常が待っている。私たち医療者が、その日常をどこまで理解できるかは、患者さんの話をどこまで聴くことができるかに左右される。

 療養生活上のノウハウを、患者さんの状況に応じて適切に提供しないと、患者さんの生活の質が落ち、普段の日常生活が送れなくなってしまう。

 個々人のこれまでの体験を医療者が聴くことで、患者さんは落ち着き、様々な症状にも自分なりに対処するセルフマネジメント力が高められることがある。

 そのためには医療者が患者さんに命じるのではなく、患者さんに元々備わっている力を引き出せるようにサポートすることが大切だし、何より、患者さんが、医療者を「うまく利用」できるようにすることがポイントだ。セルフマネジメント力がついてくると、次第にうまく医療者を利用できるようになる、という好循環が生まれる。

 けれども、現在の医療現場では、なかなか思いを切り出せない患者さんと、話を聴く時間を十分に取らない医療者が依然として存在し、患者・医療者のコミュニケーションに大きな溝が生じていることも事実である。

●相談員の利用を

 大きな病院には多くの患者さんが通院されているが、専門分化しすぎている医療者は、その多くの患者さんの背景や価値観を理解する時間さえ持ち合わせていないのが現状だ。

 現在、全国でがん診療連携拠点病院が指定され、その拠点病院にはがん相談支援センターの設置が義務づけられており、患者の病気体験を聴く専門家が配置されている。

 患者さんは、その支援センターの相談員をもっと利用してほしい。主治医に聞いてもらいたいのに忙しそうなのでなかなか話せず、疑問も聞けないまま不安な気持ちで日々を送っていたり、友人や職場の同僚には到底話せない気持ちの落ち込みや、家族には申し訳なくて言えない治療の辛(つら)さで思い悩んでいたりする人のために、相談員は配置されている。

 この相談員を利用されて、医療者に不安な気持ちや体験をぶつけてほしいと思う。

 同時に医療者は、もっと患者さんの体験を聴く訓練が必要だとつくづく痛感している。

 患者さんの体験を聴くこと、それは患者さんの力を高める「始めの一歩」だと、私は信じている。

 井沢 知子(いざわ・ともこ)京都大学医学部付属病院看護部に在籍するがん看護専門看護師。京都府立医大付属看護専門学校を卒業して看護師に。その後、同志社大文学部英文科に学び、兵庫県立看護大大学院看護学研究科修了(専門看護師コース)、米国リンパ浮腫セラピストインテンシブコース修了。がん医療におけるチーム医療を掲げるMDアンダーソンがんセンターにも短期留学した。

ご意見・ご感想を

 病気になったり、けがをしたりした時、誰もが安心して納得のいく医療を受けたいと願います。多くの医師や看護師、様々な職種の人たちが、患者の命と健康を守るために懸命に働いています。でも、医師たちが次々と病院を去り、救急や産科、小児科などの医療がたちゆかなる地域も相次いでいます。日本の医療はどうなっていくのでしょうか。
 このコーナーでは、「あたたかい医療」を実現するためにはどうしたらいいのか、医療者と患者側の人たちがリレー形式のエッセーに思いをつづります。原則として毎週月曜に新しいエッセーを掲載します。最初のテーマは「コミュニケーション」。医療者と患者側が心を通わせる道を、体験を通して考えます。ご意見、ご感想をお待ちしています。
 いただいたご意見やご感想、体験談は、10月30日に東京で開くシンポジウム「あたたかい医療と言葉の力」で紹介させていただく場合があります。
 朝日新聞朝刊生活面「患者を生きる」欄でも、「信頼」をテーマにした連載を掲載しています。

検索フォーム
キーワード:


朝日新聞購読のご案内

病院検索

症状チェック

powered by cocokarada

全身的な症状 耳・鼻・のど 皮膚 こころ・意識 首と肩・背中や腰 排便・肛門 排尿 頭と顔 目 口内や舌・歯 胸部 腹部 女性性器 男性性器 手足

総合医療月刊誌「メディカル朝日」