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城を攻めるにはいくつかの方法があるが、中でも「兵糧攻め」と言う方法は直接武器を交える戦法ではないが、考えると最も残酷で恐ろしい方法である。 |
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この兵糧攻めにかかり落城したものの中に鳥取城があるが、歴史上、見るも凄惨なこの世の生き地獄を現出した。 |
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天正8年(1581)6月、秀吉は鳥取城攻略のために約2万の大軍を率いて姫路をたった。大釈山(たいしゃくざん)に本陣を構えた秀吉はたちまち鳥取城を大軍で包囲した。それに先立ち、秀吉は相場の数倍という値で米を買いあさっておくことを忘れなかった。
この時、鳥取城では毛利氏の援軍をあてにして20日分ばかりの兵糧しか用意していなかったのである。 |
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包囲されてたちまち2か月が過ぎた。それまでに何度か毛利からの援軍はあったが、陸路も海路もことごとく秀吉の大軍に阻まれて失敗した。すでに城内では兵糧はとっくに尽き餓えが始まっていた。食べられると思われる木の葉は食べ尽くされ、はては乗馬は殺されて、その肉は城兵に少しづつ分け与えられたが長続きしなかった。餓えた者の中には家宝などを持ち出してはなけなしの馬肉と交換してくれと哀願する者もあったが、こうなってくるとどんな高価なものを見せられても誰も見向きもしなかった。 |
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「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」・・・信長公記にはこう記されている。
秀吉の大軍が包囲して4か月がたち10月になった。城内の兵、百姓、婦女子約4千には餓死する者が出始めていた。やがて、三の丸の者たちが死人の肉を食べているという噂が流れはじめた。 |
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戦どころではなく寒さと餓えに疲労困ぱいした城兵は、雑草をも食べ尽くしたあげく、埋められた死者を掘り起こし死人の肉を食べはじめたのである。城の回りには柵が設けられており、城外に逃れることは出来なかったが、あえて城内で餓死を待つよりはと柵をよじのぼり、逃れようとするが、それを待っていたかのように鉄砲が撃ちかけられる。
撃たれた者が柵より転げ落ちるとまだ息のある負傷者に近くにいた者がナタや小刀を振りかざして、われ先に群がり、関節を砕き、まるで牛や馬をさばくかのように、たちまちバラバラにして食べるのであった。 |
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特に頭の部分が栄養があって一番うまく、生首を両手に抱えて逃げていく者など、生に執着するばかりのおぞましい餓鬼道ぶりであった。また死人の首の奪い合いで命を落とす者が出ると、今度はその死者の頭や肉を食らわんがために蟻のように群がっていくという、身の毛のよだつこの世の地獄絵図を現出したのである。 |
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「糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども、それも程なく尽きぬれば餓死し、人の宍を食合へり・・・・子は親を食し、弟は兄を食し杯しける」・・・豊鏡(とよかがみ)では地獄の惨状をこうしるしている。 |
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この城内の凄惨さに見るに見かねた吉川経家は、もはやこれまでと自決の条件で開城することにして、城兵の命を助けることにした。 |
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秀吉はこれを許し餓えた城兵のために道のほとりに大がまを並べて粥を煮た。 |
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鳥取城内にかつてあった城門(後に復元されたもの) |
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やがて開城されて餓えのためにふらふらになって出てきた城兵たちは、目の前の粥を見て押さえきれるはずもなく、ガツガツとむさぼり食った。 |
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そのために、急に食べすぎたためにせっかく生き長らえた者たちも、ほとんど死んでしまった。 |
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鳥取城の石垣の跡 |
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のち、鳥取城の廃虚には食人鬼の怨念と亡霊が長く現われたために、人々は恐れて夜は決して近づくことはなかったという。 |
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画像引用サイト お城廻りの旅様 |
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