カウンセラーという仕事

2008年07月17日 11:13

「肉体労働」と「頭脳労働」に分ければ、知識も要るので「頭脳労働」なんだと思う。

でも、カウンセラーの仕事は「感情労働」だ。

カウンセリングというのは「感情」を「論理」に置き換えていく作業ということは前に書いたが、時に自分が「ダストシュート」や「廃棄物処理場」にされている気分になる時がある。

「殺したい」だの「死んでほしい」だの「みんな不幸になればいいのに」といったことばは、カウンセリングの場ではよく聞くものなのだが、「この人はカウンセラーだから、ドロドロした感情を全部ぶちまけてもいい。それを聞くのが仕事だからね」という感じで、何の葛藤もなく吐き出されると、オイオイ、、、と思ってしまう。

論理(建前)だけで淡々と出来事を語ってきた人や、自分を責め続けてきた人から、涙と一緒に絞り出すように同じことばが出ると、やったー!回復の一歩を踏み出したぞ!と内心ガッツポーズをするのだけれど。


阪神淡路大震災以来、大学の臨床心理学科は大人気らしい。
「悩んでいる人を救ってあげたいんです!」なんて目をキラキラさせた発言を聞くと、いやいや、救えやしないから、なんて思ってしまう。「救ってあげる」ということばに、背中がザワザワする。

その延長なのか、同じように、同業者の屈託のなさに驚くことがある。

得てして「救ってあげたい」「役に立ちたい」を動機にしている人は、共依存の関係に陥りやすく、自分の動機の達成のためにクライアントを利用することがままあるのだが、そこらへんの自覚も危機感もなく「いいことをしてあげている」と、あっけらかんとしているのだ。


私はカウンセラーというのは、胡散臭い職業だと思っている。

前述のような呪いのことばを聞かされたり、誰にも言えずに何十年も抱えてきた秘密を打ち明けられたり、「普通、人には言えないこと」を日常的に聞いている。つまりは人生の裏側とつきあっていく職業。「ハレの日」に立ち会う、結婚式の司会なんかをしていたからか、余計に、カウンセラーという響きの裏の暗さや重さに目がいって、時々しんどくなることがある。

「職業はカウンセラーです」とカムアウトするとき、後ろめたさや恥ずかしさの入り交じったなんともいえない感覚になるのはなぜだろう。中途半端な権威だからか・・・。

そう、権威なんだよね。「平場」の対等な関係性を、どれだけ意識して心掛けても、カウンセラーとクライアントの関係性の中では、力関係が発生してしまう。

日本はカウンセラーの国家資格がないので、自称するだけでカウンセラーになれる。
私も訓練は受けているけれど、公的な資格は持っていないしね。

なのに、行政の職員や、ずいぶん年上のクライアントから「先生」と呼ばれてしまったりする。恥ずかしいから勘弁してほしいと思うのだけれど、私が「先生」であることが必要な時は、その呼ばれ方に耐えている。

嗚呼、実に胡散臭い!!


こういう私の「カウンセラー観」と、カウンセラーという職業に付随していると思われる知的でスマートなイメージ(や、それを体現しているカウンセラー)とのギャップは、ずっと私の中でしこりのようになっていた。

なので、この間、スーパーバイザー(カウンセラーのカウンセラー)に思い切ってその話をしてみた。カウンセラーの大先輩に向かって「カウンセラーって胡散臭い職業だと思うんです」と言うのは勇気が要った。(笑)

でも、アメリカで修行してきた私のスーパーバイザーは「そうよね、私もそう思ってる」と答えてくれて、とても気持ちが楽になった。聞けば彼女も「自分がカウンセラーになるなんて思ってもみなかった。なってしまったのは、なりゆき」だと聞いて、あまりに私と同じで笑ってしまった。


カウンセリングの基本は「共感と受容」。簡単そうだが、実に奥が深い。そして、エネルギーを要する。毒を垂れ流しにするクライアントにつきあっていると、ゴミ収集車のおじさんにシンパシーを感じてしまう。「金をもらわなきゃ、やってらんない」ヨゴレ仕事だとつくづく思う。

でも、この「感情労働」は、女性が当たり前に、家族や社会から要求されていることなのだ。料理に「愛情」をこめることを求められ、家事も「夫が機嫌よく生活するため」のものだったりする。常に家族の感情に気を配り、バランスを取る。「金をもらわなきゃ、やってらんない」感情労働を、当然のように提供させられている。

なぜそんな割に合わない仕事をしなければならないのか。

やはり、経済格差だろう。

弱者は強者の顔色を見て、感情労働せざるを得ない。
妻は夫の、子どもは親の。

生きていくための、感情労働だ。


「ママは、おしごとがんばりすぎて、つかれてるんだよね」

言われてドキッとした。
私も娘に感情労働させている。