科学と信仰(追記あり)

2008年07月18日 11:43

先日、クライアント絡みで話をした精神科医が、ユニークなことを言っていた。

なんでも彼によると「ヘルペスウィルスが脳に回って、うつ病や人格障害を引き起こす」らしい。

もちろん、すべてのうつ病や人格障害がヘルペスウイルスによるものではない、と前置きした上での話だけれども、ヘルペスの症状を持っている患者には積極的に、抗ヘルペス薬としても使える三環系の抗うつ薬を処方して、めざましい実績を上げているのだとか。「アメリカの学会では知られていることなんだけど、日本で知っている医者はあまりいないんだよね」と彼は得意げに語った。

なんでも彼によると、引きこもりや不登校もヘルペスが原因のことも多く、ヘルペスは感染症なので同居家族にも感染して、家族がうつ病を発症したりするのだとか。

「へえ〜、そうなんですか〜」と聞き流しつつ、そうだったら楽だよね、と、こころの中で「胡散臭い医者」と、警戒ランプを回してしまった。

抗ヘルペス薬としても使える抗うつ薬が、ヘルペス持ちのうつ病患者に効くのは、抗うつ薬としての薬効が、うつ病に効いているのではないだろうかと思うのだが・・・。

さっそく感染症医である夫に聞いてみたら「知らない」とのこと。でも、うつ病の原因が感染症にあるという「仮説」は、これまでいくつも学会発表され、消えていったのだとか。

こちらのエントリーのコメント欄で私は「からだとこころは連動しているので、からだを先に治す方がずっと楽」と書いている。「からだを先に治す」というのは、うつ病の場合は「十分な休息と栄養、そして抗うつ薬」という意味で、精神科や心療内科の敷居が高く、見るからにうつ病なのに受診を渋っているクライアントに、よく話すことでもある。

しかし、ヘルペスウイルスかぁ、と、つい遠い目をしてしまった。

うつ病は長く「なまけ病」とされてきた。精神性を重んじる日本では「こころが弱い」ということは、人間性にも関わる問題。だから「あなたのこころが傷ついて、うつ病になったんですよ」ではなく「あなたのうつ病は、ウイルスが原因です」と言われただけで、救われる人もいるのだろうな、と感じてしまった。自分のこころや生き方ではなく、自分では防ぎきれないウイルス(外界)に原因があるとすると、自分は変わらなくていいからね。

また、薬が効きにくく治療が難しいとされる人格障害の原因をヘルペスだと仮定することは、多くの「精神科医」の気持ちを楽にするのだろう。

・・・私、ナナメから見過ぎですか?(笑)


「医学」は「科学」だと思われていることが多いと思うけれど、医学から科学を考えると、科学の見方は変わってくるかもしれない。医者には科学的であってほしいと思うけれど、人体という膨大な「未知」を相手にするわけなので、医学=科学とは、なかなか簡単にいかないのだろう。

学会発表するということは、科学的な裏付けが必要なわけだけれど、オーリングなんかを真剣に治療に取り入れている医者もいるわけで・・・。でも、そこへのエクスキューズは、「精神医学って科学なの?」という素朴な疑問にも繋がるものではないかと思う。

物理とか数学とかの世界にはちっとも縁がないので、その辺りで語られる「科学」のことはわからないけれど、少なくとも私に関わりのある精神医学の世界では、仮定に対する「信仰」があり、それが実績を作って「科学」になっていく、というものは多いように感じる。


「うつ病ヘルペス原因説」も、医者により学会発表されると「科学」として、そうじゃなければ「疑似科学」として受け取られるんじゃないのだろうか。「科学」と「疑似科学」の境界が明確に線引きできないことは、意外と多いんじゃないのかな。

疑似科学批判で有名な菊池誠さんの受け売りでしかないように感じられる批判を熱心に展開している疑似科学批判者などを見ると、それは「疑似科学批判」という一種の「信仰」ではないかと思ったりする。


科学的かそうでないかということで、物事に白黒をつけようとするのは、科学的な姿勢ではないと私は思っている。科学というのは「現時点では」という限界付きのものだからね。

気功なんかもそうだろうけど、科学的には証明されていないけれど、なんだかわからないけど「効く」というものは多い。私がやっているアロマテラピーやリフレクソロジーなどの代替医療も科学的な裏付けは十分ではない。でも、効きゃあいい、と思っている。

ただ、フラワーエッセンスやホメオパシー、レイキや波動水なんかに手を出そうとは思わないので、私なりの「科学的線引き」があるのだろう。強いて言うと、歴史と実績、か?

そういう意味で、風水は環境心理学として興味深いし、四柱推命、占星術といったものも、信じはしないが、なぜかつては政治に利用され、かつ現代まで継承されてきたのかという点において、社会心理学的な興味をそそる。

話題になった「水からの伝言」はいささかお粗末だが、なぜそれを信じたがる人がいるのか、それを読み解くことが「現代の日本人心理」を知ることにつながるのではないかと思う。かつて「一杯のかけそば」がブームになったことを振り返るように。


「科学的に白黒をつけずにいられない」というのは、一種の「科学教」なのだと思う。
繰り返すが、「科学的」と言われていることは「現時点の科学で正しく証明されていると思われているもの」でしかない。

「うつ病ヘルペス原因説」にしても、何十年か経って、本当にヘルペスが原因だったとわかれば、「胡散臭い医者」は、「日本でいち早く治療に取り入れた、優秀なドクター」になるわけだ。その時は、彼を怪しいと感じた私の方が笑いものになる。

だから、私はそのドクターに「胡散臭いですよね」とは言わない。不信を態度にも表さない。「そうですか。あなたはそう信じていらっしゃるんですね」と、肯定も否定もしない。そういう「礼儀」は、科学的云々以前の問題だからだ。


幼い頃、世の中は「フシギ」だらけだった。

サンタクロースは、どうやってトナカイで空を飛ぶのだろう、とか、煙突がないのに、どこから入ってくるのだろう、とか、サンタクロースは外国人みたいだけど日本語が読めるのかな、とか、真剣に心配していたものだ。

ひみつのアッコちゃんのコンパクトをサンタクロースにもらって、呪文を唱えても変身できなかった時、私は大人の階段をひとつ登ったのだと思うけれど、ひとつだけ言えるのは「変身できるかも」と思っていた頃の方がワクワクして楽しかったということだ。

それの大人バージョンが「宝くじ」なんだろう。
陰謀論が好きな人は「自分だけしか知らない、秘密基地」の感覚なのかもしれないね。「自分だけが特別」という恍惚感。でも、彼らを批判する「科学教」の人たちも、同じにおいがする。

そういうものには、少し距離を置いておきたいとは思うけれど、他人が楽しんでいるのにとやかく言うのはナンセンスだろう。政治家やマスコミならともかく、影響力がそれほどあるとは思えない個人を槍玉にあげるのは、単なる嫌がらせでしかない。



「わかんないけど、まあいいや」

そうやって、わからないことをわからないまま自分のものにしていく子どものエネルギーはスゴイと思う。白と黒の間の無限の「灰色」を「灰色」のまま持ち続ける、保留にし続けるということは、それこそ「子ども並みの」パワーが要るのかもしれないね。でもきっと、その「灰色」の中にこそ、面白さがあるのだと私は思う。

そうした、子どものような「寛容さ」や「タフネス」を、持ち続けていたいと思う。現実と折り合いをつけながら。


(追記)2008.7.20

現時点で科学的には証明されていなけれど、いずれ証明されるだろうと科学的に研究がなされているものを「未科学(プロトサイエンス)」というそうだ。

プロトサイエンスに携わる研究者は自身の仮説が未実証であることを自覚しているため、「未実証の事項が実証されているかの如き発言をすること」は慎む。それに対して、疑似科学に携わる研究者の場合は、自身の仮説を十分な検証がないにもかかわらずそのままそれが科学的真理であるかのように発言することがある。

しかし、ある分野が疑似科学かプロトサイエンスかの区分けは、時々、一般に限らず、専門家にすら曖昧であることがあり、疑似科学やプロトサイエンスと(真の)科学とを明確に区別することは難しい場合もある。特に、新理論が非常に目新しく、現在の実験結果や事実がその新理論に矛盾もしていないが、主に技術的理由でさらなる評価が困難である、といった場合には、疑似科学とプロトサイエンスとの区別はさらに困難になる。あらゆる学問分野の中でも、物理学や医学の先端分野ではこのような傾向が特に著明に見られる。同時代の人々をどの程度納得させられるか、という信仰の問題であると考える人もいる。



おー!( ;゜Д゜)

「医学」と「信仰」ということばが出てきてびっくりした。
そして、やっぱり「科学」には「謙虚さ」が必要なのね、と思った。